機動駐在コジロウ




郷に入ればグッドに従え



 これはお見合いではない。身売りだ。
 峰岸ひばりは身を強張らせながら、座布団の上で正座していた。目の前に置かれている湯飲みには、香りの良い 玉露が注がれていたが、当の昔に湯気は途絶えていた。御茶請けとして添えられている菊の形をした和三盆にも 手を伸ばせず、膝の上で両手をきつく握り締めて緊張と戦っていた。
 とにかく愛想良くして、相手に気に入られるようにしよう。嫌われさえしなければ、生きていけるはずだ。乾き切った 喉に粘り気の強い唾を嚥下し、詰まりがちな呼吸を整えようとした。見るからに値の張るブランドものの淡いピンク のワンピースの可愛らしさも、生まれて初めて美容院でセットしてもらった髪型も、化粧も、気にしていられる余裕が なかった。怖い、逃げ出したい、けれどどこに逃げればいい。もう、帰る当てもないのだから。
 ひばりは、高校からの下校途中に父親に車に押し込められ、そのまま美容院に連れ込まれて制服を脱がされて 着飾らされ、都内の高級料亭に連れてこられた。訳も解らずに目を丸めているひばりに、父親はいつになく嬉しそうに 言った。お前が佐々木さんの息子さんにもらわれれば、うちの会社の借金がチャラになるんだ。要するに、ひばりは 借金のカタに売り飛ばされるということだ。佐々木長光という人間が、父親の経営する会社と関わりを持っていると は知っていたが、会社の借金を肩代わりできるほどの大富豪だとは思ってもみなかった。そして、資金提供の代償 として息子の嫁を要求するような、常軌を逸した感覚の持ち主だとは想像もしていなかった。
 ひばりはリップグロスを塗られた唇を噛み締めていると、重苦しい時間が過ぎ去り、約束の時間が訪れた。程なく して、ひばりのいる個室に二人分の足音が近付いてきた。一人は料亭の仲居で、個室の前で膝を付くと、失礼いた しますと断ってからふすまを開けた。丁寧に頭を垂れている仲居の背後には、スーツ姿の男が立っていた。年頃は 二十代後半から三十代といったところか。表情が乏しく、顔の作りは均等で良くも悪くも特徴がなかった。それでは 御料理をお持ちいたします、と仲居が去っていくと、男は個室に入ってきて後ろ手にふすまを閉めた。

「峰岸ひばりさんか」

 男の水気の薄い唇から発せられたのは、平坦で抑揚のない声だった。ひばりは躊躇いながらも答える。

「はい、そうです」

 愛想良くしろ、笑え、気に入られるんだ。ひばりは懸命に笑顔を作ろうとするが、肉体がそれを拒否しているのか、 まるで表情筋が動かなかった。唇すらも持ち上げられず、怒らせている肩も下げられない。

「俺は佐々木長孝だ」

 向かい側の座布団に腰を下ろした男は、義務的に名乗った。

「あ、う」

 何か喋らなければ。気を惹かなければ。好いてもらわなければ。そうでなければ、路頭に迷う。しかし、この男が 信用出来るのだろうか。実質的な人身売買を平気で行えるような男の息子だ。信用してはいけない。逃げなければ ならない。だが、どこで何をどうする。逃げたところで、逃げる前と何も変わらないのではないのか。
 峰岸ひばりは、いわゆる妾の子である。手当たり次第に女性に手を出しては子供を産ませている父親の何人目 かも解らない愛人の子であり、御義理で峰岸家に引き取られて育てられていた。異母兄妹が溢れ返っている家で 使用人も同然に扱われ、子供らしい経験をせずに生きてきた。高校は自力で学費を稼いで通っていたが、見合いを セッティングされた時点で中退させられているだろう。制服だって既に処分されているに違いない。自宅と呼ぶのは 未だに抵抗がある峰岸家には、元々ひばりの居場所がない。父親のお気に入りの愛人の子ではないから、自室も 与えられなかったほどだからだ。だから、逃げたとしても、行く当てがない。ならば。

「どうかお嫁さんにして下さい!」

 ひばりは思い切り頭を下げ、座卓の木目を凝視しながら捲し立てた。

「してくれなければ困るんです! ここに来たからには、私が何のためにいるのかも御存知のはずです! だから、 お願いします! でないと、困るんです!」

「顔を上げてくれ」

「困るんです、困るんです、困るんです! 本当に! お願いします、お嫁さんにして下さい!」

「顔を、上げてくれ」

 男はやや語気を強め、命じてきた。ひばりは唇を引き締めてから、おずおずと顔を上げた。

「……はい」

「まずは食べてから話そう。料理が冷めてしまう」

 男が廊下に面したふすまに向くと、丁度、仲居が戻ってきた頃合いだった。朱塗りの盆に載せられた懐石料理が 次々と二人の前に並べられていき、汁物、鉢物、焼き物、煮物、と皿で座卓が埋め尽くされた。お酒を御用意いたし ますか、と仲居に尋ねられたが、男はそれを丁重に断った。酒飲みではないらしい。
 それから、二人は懐石料理に箸を付けた。緊張のあまりに忘れかけていたが空腹だったので、ひばりは料理を 平らげて腹が膨れてくると、少しずつ気分が落ち着いてきた。そのうち、上品な味付けや見栄えのいい盛り付け 方にも気を向けられるようになった。まろやかな茶碗蒸しを味わっていると、男が話し掛けてきた。

「落ち着いたか」

「はい」

 ひばりは粗方食べ終えた茶碗蒸しに蓋を被せ、冷め切った玉露に口を付けた。男も箸を置き、話を切り出す。

「俺がどういった経緯でこの場に来たのかは、ひばりさんがよく解っているはずだ。それでなくとも、俺達は初対面だ。 俺がどういう輩かも知らないのだから、すぐに結婚してくれと懇願するのは……」

「私、愛人の子なんですよ」

 ひばりは湯飲みを座卓に置いてから、膝に目を落とす。どうせ後はない、と洗いざらい薄情する。

「だから、家に身の置き場なんてないんです。どうでもいい存在だから、こういうことに使われるんです。佐々木さん にまで追い返されたら、路頭に迷っちゃうんです。高校だって、きっと中退させられたはずです。さっきまで着ていた 制服も、この服に着替えさせられた後に捨てられたと思います。手持ちの服なんて少なかったから、大事に大事に 着ていたんですけどね。お金だってありません。学費を払った後は生活費にされちゃいますから、どれだけバイトを しても自分のものにならないんです。家政婦みたいなものでしたから、家事は一通り出来ます。御料理はちょっとだけ 自信があります。だからお願いします、お嫁さんにして下さい。でないと」

「顔を」

 男は平坦ながらも穏やかな声色で、ひばりを促してきた。だが、ひばりはそれに抗う。

「お嫁さんにして下さい」

「だが、俺は」

「お嫁さんにして下さい」

「しかし」

「お嫁さんにして下さい」

 同じ言葉を繰り返しながら、ひばりはワンピースの裾を破らんばかりに握り締めていた。手のひらから滲んだ脂汗 が染み込んでいくのが解ったが、手の力を緩められなかった。空気が鉛のように重たく、苦い。鼻の奥が涙でつんと 痛み、食べたばかりのものが喉まで迫り上がってきそうだった。嫌で嫌でたまらないが、それ以外の選択肢がない からだ。借金のカタが突き返されてしまったら、ひばりは価値を失ってしまう。他の愛人の子供ばかりを可愛がって いた父親から生まれて初めて関心を向けてもらえたから、報いてやりたいという気持ちも僅かにあった。
 長い長い間を置いて、解った、と男は了承してくれた。ひばりはぎこちなく顔を上げると、男と目が合った。作り物 のように生気のない目ではあったが、真っ直ぐだった。その視線を見返しながら、ひばりは決意を据えた。
 佐々木長孝と結婚するのは、それから三日後だった。




 佐々木長孝の住まうアパートへの引っ越しは、呆気なかった。
 それもそのはず、ひばりの荷物が少なかったからだ。峰岸家に置いてあった着替えと私物を詰め込んだ段ボール 箱は三箱足らずで、引っ越し業者を呼ぶまでのこともなかった。案の定、高校の制服と通学カバンに入れておいた 教科書や勉強道具は捨てられていたので、余計に軽かった。それとは相反して、ひばりの心中は重たかった。
 勢いに任せて言い切ったはいいが、やはり不安は拭えない。結婚とは、そんなに呆気ないものでいいのだろうか。 生まれ育った環境が環境なだけに、結婚や恋愛に関する甘ったるい幻想は抱いていなかったが、それでも多少は 理想を持っていた。ひばりの出自を気にせずに向き合ってくれる異性と出会い、互いを解り合うために恋愛を経た 後に家庭を作れたらいい、と心の片隅でひっそりと願っていた。だが、現実はそうもいかなかった。ひばりに好意を 抱いてくれる異性と出会う自由すらも奪われ、金と引き替えに差し出された。
 それでいい、そうしなければ生き延びられない、と腹を括ったはずなのに、不安が押し寄せてきた。しかし、最早 引き返せない。そうこうしているうちに、峰岸家の前で段ボール箱と共に突っ立っていたひばりの前に、佐々木長孝 が運転する車がやってきた。どこぞのホームセンターで借りてきたらしい軽トラックで、色気など欠片もなかったが、 移動するための交通費を省けるのならば良しとすべきだ。長孝の手を借りて段ボール箱を後部に積み込んでから、 ひばりは助手席に乗った。それから小一時間のドライブを行ったが、道中で会話は弾まなかった。
 そして、長孝のアパートに無事到着した。年代物の二階建てのアパートで、今時珍しいトタン屋根だった。家賃も 見るからに安そうで、長孝さんらしい住まいだなぁ、とひばりは内心で納得していた。長孝の部屋は二階の角部屋 で、ひばりが段ボール箱を抱えて入ると、中は雑然としていた。家具も少なければ私物も少なかったが、使った物を 元の場所に戻すという習慣がないのか、ゴミは落ちていないが散らかっている。掃除も行き届いておらず、空気は 埃っぽかった。間取りは、四畳半の和室と六畳間の和室、風呂、トイレ、台所、玄関、それだけだ。必要最低限、 という言葉がひたすらに似合う空間だった。

「これを」

 ひばりの荷物を部屋の隅に置いてから、長孝は使い込まれた座卓の上に紙を広げた。婚姻届だった。

「ひばりさんの親御さんから、同意の署名に記入済みのものを渡されていた。だから、後は俺達が書くだけでいい」

「はい」

 ひばりは長孝が渡してくれたボールペンを用い、項目に記入していった。以前住んでいた住所の住民票は事前に もらっておいたので、後で段ボール箱から出してくるだけでいい。捺印欄に実印を押してから、長孝にボールペンと 共に婚姻届を渡すと、長孝は躊躇いなく記入していき、捺印した。後は、これを役所に提出するだけで済む。
 義務的、事務的、合理的。そんな単語がひばりの頭の中で過ぎったが、口には出さなかった。それから、二人で 役所に向かい、窓口に提出した。結婚式を挙げることもなければ誰かに祝われることもない、単純な契約だった。 見知らぬ町の商店街を通って帰路を辿りながら、ひばりは長孝との距離を測っていた。手を繋いだこともなければ 触れ合ったこともない男と、結婚してしまったのだ。峰岸ひばりから佐々木ひばりになったのに、実感はなかった。 長孝も似たようなものなのか、冷淡に思えるほど平然としていた。

「ひばりさん」

 不意に長孝に呼び止められたので、ひばりは足を止めた。長孝が指し示したのは、商店街の一角にある宝石店 だった。それはつまり、どういうことなのだ。ひばりが呆気に取られていると、長孝はひばりを促したので、ひばりは 戸惑いつつも宝石店に足を踏み入れた。煌びやかなアクセサリー類がショーケースに陳列されている空間はとても 華やかで、眩しすぎた。気後れしたひばりが身を縮めていると、長孝は一つのショーケースを指した。
 そこには、結婚指輪が飾られていた。高価なプラチナから安価な純銀製のものまで、デザインも値段も様々では あったが、紛れもない結婚指輪だった。ひばりがそっと長孝を窺うと、長孝はひばりを見下ろしてきた。

「どれがいい」

「どれ、って」

「結婚指輪だが」

「それは見れば解るけど、でも、そんなの、全然」

「形式的なものではあるが、婚姻関係を明確にするには必要だと判断した」

「な、でも、なんで」

 ひばりが身動ぐと、年の差がありすぎるからだ、と長孝は素っ気なく付け加えた。確かに、それはそうだ。婚姻届に 記載された生年月日を見て、ひばりは初めて長孝の年齢を知ったのだが、ひばりよりも十歳も年上だった。長孝も やはり婚姻届を見てひばりの年齢を初めて知ったらしく、十八歳だったのか、と若干衝撃を受けていたようだった。 だから、傍目に見れば兄妹、ともすれば親子のように見えてしまう。ひばりはそんなことを気にする余裕もなかった のだが、長孝は気が咎めるらしく、結婚指輪を選んでくれ、と再度乞うてきた。

「やっぱり、安い方がいいですよね?」

「なるべくは」

「ん、じゃあ……」

 ひばりは結婚指輪の入っているショーケースを眺め、吟味した。プラチナ製では二人分の合計金額が十万を軽く 越えてしまうので論外、二十四金製も同様、十八金製もまだ高い。だから、最も安価な純銀製にすべきだ。デザイン が一番気に入ったのは十八金製で、メビウスリングのように捻れているのが素敵だと思ったのだが、我が侭を言う べきではない。買ってもらう立場なのだから。

「これでいいです」

 ひばりが純銀製の指輪を指すと、長孝は問い返してきた。

「本当にか」

「だって、これが一番安いじゃないですか」

「気に入ったのはどれだ」

「いいですよ、そんなの」

「長く使うものなんだ、気に入ったものの方がいい。それで、どれだ」

「強いて挙げるなら、こっちの方です」

 ひばりが十八金製の指輪を指すと、長孝は値札を眺めた後に店員を呼んだ。程なくして、長孝は十八金製の結婚 指輪を購入した。二人の左手の薬指のサイズを測ってもらってから、サイズ直しと結婚記念日の日付を入れるため に一週間ほど掛かりますので、またお越し下さい、と店員に丁重に送り出された。結婚指輪の代金は長孝がその場 で全て支払ってくれたのだが、指輪本体と諸々で合計八万円弱の出資になった。ひばりは居たたまれなくなったが、 長孝は何も言わなかった。冷淡に思えるほど、無感情だった。
 結婚指輪、自分の指輪、自分のもの。ひばりは戸惑いを上回る嬉しさで、足元が落ち着かなかった。宝飾品など 一生無縁だと思っていたし、結婚指輪となると尚更だった。その嬉しさが引き金となったのか次第に結婚した実感が 沸き上がり、不安もいくらか薄らいでいた。長孝がひばりの意思を酌んでくれる人間だと知ったからだ。

「ありがとうございます、えっと、その……長孝さん」

 ひばりは少し口籠もりながら礼を述べると、長孝は口角を曲げた。

「ああ」

「お嫁さんになれるよう、頑張ります」

 ひばりは長孝に一礼してから、歩調を速めた。そうでもしないと、長孝とは並んで歩けないからだ。長孝は複雑な 面持ちで眉間を寄せたが、咎めてこなかった。だから、了承したと判断していいだろう。結婚指輪が填る日を心待ち にしながら、ひばりは長孝と歩調を合わせるために駆けた。この人となら、家族になれるかもしれない。
 自分の人生は真っ暗闇で、生臭くて、ゴミ溜めのようなものだとずっと思っていた。血縁関係だけでなく人間関係も ぐちゃぐちゃの峰岸家から逃れられず、縛られ続け、外の世界へ羽ばたけないのだと諦観していた。だから、長孝 との結婚は好機だと見るべきだ。今は形式上の夫婦でしかないが、互いを解り合えるようになれば、どこにでもいる ような当たり前の夫婦になれるかもしれない。そう考えれば、まだ気が楽になる。
 一欠片であろうとも、希望を抱くだけ無駄ではないはずだ。



 その日から、新婚生活が始まった。
 長孝と同居したひばりは、妻として働き始めた。子供が増えた分だけ増改築を繰り返したために、部屋数が多い 峰岸家とは打って変わって、長孝の部屋は空間が限られているので、掃除するのは簡単だった。埃が溜まっている 部分は多かったが、タバコのヤニや油汚れはほとんどなかったので水拭きだけで済んだ。カーテンも洗い、布団も 干し、使用頻度が低いのでそれほど汚れていない台所を隅々まで綺麗にしていくのは単純に楽しかった。押し入れ だけは手を付けないでくれ、と強く言われたので、ふすまも開けなかった。
 ひばりさんの私物を買い揃えるべきだ、と長孝が金を渡してくれたので、それを元手に布団やタオルや下着類を 買い込んでいった。それはどれもこれも暖色系のファンシーなものだったので、機械工学の技術書や設計図が散乱 している長孝の部屋では浮いてしまったが、長孝はそれもまた咎めなかった。諦観していたのかもしれない。
 空っぽだった冷蔵庫には、ひばりが近所の店で買い込んでくる食材が詰まるようになった。毎日のように新聞の 折り込み広告をチェックしては安売りをしているスーパーマーケットをハシゴし、二人分の食費に収まるように計算 しながら、買い物行脚した。毎朝の弁当を作るのも、買い出しに行くのも、それなりに面白かった。
 辛くはなかった。家事をするのは慣れ切っているし、住民が自分と長孝しかいないのだから、峰岸家に比べれば 遙かに量も少ないので楽だった。どんな料理を作っても文句を言われないし、好きな時間に好きなように掃除する ことが出来るし、夜には風呂にゆっくりと浸かれるのだから。長孝は、辛くはないか、と案じてくれたがひばりは辛い と感じたことは一切なかった。高校に通えなくなったのは寂しいが、友達もいなかったのだから惜しむほどのことでは ないのだと開き直れるようになった。それなのに、昼間に一人でいると切なくなった。

「なんか、なぁ……」

 掃除機を掛け終えて水拭きも終えた畳に寝転がり、ひばりは古びた天井を見つめた。ここのところ、長孝の帰りが 遅いから、そんなふうに思ってしまうのだろうか。機械部品を製造する会社に勤めている長孝は、部品を納品する 時期によって勤務時間が伸び縮みすることがある、と言っていた。今は伸びてしまう時期らしく、残業ばかりで夕食 を一緒に食べられない日も何度もあった。長孝を好きになったのかどうかは解らないが、傍にいてほしいと思う瞬間 は多々ある。その瞬間が積み重なっていくと、喉が締め付けられる。

「結婚してから、もう一ヶ月かぁ」

 左手を天井に翳し、薬指で光る結婚指輪を見上げた。長いようで短かったが、その間、長孝とひばりは夫婦らしい ことを一度もしていない。手を繋いだこともないのだから、抱き合ったこともなければキスをしたこともない。だから、 夜を共にすることは有り得なかった。十歳も年下だから、子供扱いされているのかもしれない。けれど、ひばりから 率先して触れ合いたいとは言えなかった。長孝のあの性格では、甘えても突っぱねられてしまうだろう。
 あの人はそういう人なんだ。そう思った瞬間、喉の締め付けが強くなった。ひばりは息が詰まり、呼吸を取り戻そうと するも、思うように喉が開かなかった。起き上がって喉元を押さえて、慎重に深呼吸を繰り返していると、なんとか 喉の異物感が抜けてくれた。それでも、まだ苦しい。峰岸家で暮らしていた時は頻繁に見舞われていた症状だが、 長孝と結婚してからは出なくなっていたので油断していた。口に手を当てて吐き気を堪えながら、ひばりは汚しても いい場所である風呂場を選んだ。外が明るいと余計に苦しくなるので、明かりも付けずに、洗い終えてある浴槽に 入り込んだ。長孝が帰ってくるまでには、まだ時間がある。だから、気分が落ち着くまでこうしていよう。
 それからしばらくして、鍵が開けられる音が耳に届いた、暗がりの中、目を閉じて膝を抱えていたひばりは眠り込み かけていたので反応が遅れた。ドアが開く音がしても、隣の部屋の住人だろう、と思っていた。蝶番の潤滑油が 切れかけているからか、悲鳴のような摩擦音が響いた後、一人分の足音が入ってきた。そこでようやく、ひばりは 長孝が帰ってきたのだと悟った。程なくして浴室のカーテンが開けられ、逆光が差し込んできた。

「……ぁ」

 そこには、人間にあるまじき影絵が立っていた。頭部と胴体は人間に近しいのだが、両手足が変だった。細長い ものが生えていて、無数に枝分かれしている。そればかりか、一本一本波打っている。背中からは内側にカーブを 描いた突起物が一対生えていて、青い光を淡く放っていた。これは一体誰だ、いや、何だ。
 息苦しさと薄暗さの中、ひばりは徐々に理解した。これが佐々木長孝なのだと。事情は解らないが、彼は人間では なかった。どういう生き物であるのかも察しは付かなかったが、現代社会で生き延びるために人間に紛れて暮らして いたのだ。そんな異形の生き物が、何の価値もない人間と結婚したのは世間体のためか。それとも、父親である 佐々木長光のためか。或いは、より人間らしい箔を付けるためか。これまでの長孝の平坦な態度が脳裏を過ぎり、 ひばりは落ち着いたはずの空しさが蘇ってきた。この人にとって、自分とは一体何なのだ。

「私と暮らしていて、楽しいですか」

 ひばりは長孝と思しき影を正視して、心中を吐露した。楽しいのは自分だけなのか、嬉しいのは自分だけなのか。 そんな結婚生活でいいのか。幸せになれる、だなんて思い上がったことは考えたことはない。それでも、ひばりなりに 新しい生活を満たそうとしてきた。空元気でも、楽しいと思い込んでいれば楽しくなるのだと信じていた。
 けれど、そんなものは全て嘘だと自分が一番よく解っている。ひばりは笑顔も作れず、長孝と思しき影を見つめる だけで精一杯だった。ねちり、と小さく異音を立てて細長いものが動く。青い光を薄く放つ突起物の光を受けながら、 ひばりは息を詰めた。脱衣所に脱ぎ捨てられた長孝の作業着から、機械油と金属粉の混じり合った匂いがした。
 空しすぎて、苦しかった。







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