横濱怪獣哀歌




地球ノ緑ノ丘



 照和五十五年、八月。
 夏休みの真っ只中、狭間真琴は横須賀の猿島を訪れていた。戦争が終結して久しい今も尚軍事施設は健在で、 原則的に一般人は立ち入り禁止であり、訓練や演習や海上警備を行う帝国海軍軍人でなければ近寄ることすらも 許されない場所だ。それ故に、夏の盛りであろうとも海水浴客は一人もおらず、砂浜で存分に遊べる。
 波打ち際ではしゃいでいるのは、水着姿の綾繁枢だった。長い黒髪は三つ編みにした上で後頭部で丸めていて、 紺色のスクール水着が少女らしい平べったい体を包んでいる。ビーチサンダルを脱いで片手に携え、ヒツギと共 に海水と戯れている。爽やかな情景だが、その背景である横須賀港では発電怪獣ガニガニが脱皮に勤しんでいた。 ヤシガニに似た外見の怪獣で、外見通りに甲殻類に準じる性質を持っているので、定期的に脱皮する必要がある からである。枢が横須賀に呼び付けられたのもそのためで、何らかの異変が起きてガニガニが混乱して暴走したら 止めてくれ、と帝国海軍から頼まれている。綾繁悲が祝詞でガニガニを暴走させた一件以来、帝国海軍はガニガニ の電力を重んじる一方で恐れてもいるからだ。怪獣との接し方としては、それでいいのだろう。

「なんで俺も海水浴に付き合わされているんだろう」

 見張り小屋の屋根の下、真琴はぼやいた。枢に強要され、仕方なく水着姿になっているが、泳ぐ気は更々ない ので上着を羽織っている。潮風は気持ちいいが日差しが暑く、砂浜の照り返しもきついので、日陰から外に出ると 途端に汗が噴き出してくる。その傍らで、夏らしい麻のシャツを着た海老塚甲治が微笑む。

「よろしいではありませんか」

「悪い気はしませんけど、なんか後ろめたいというか」

「真琴君は真面目ですねぇ」

「公務にかこつけて遊ぼうとする枢さんが不良なんですよ」

「帝国海軍からのお達しは有事が起きるまでは無期限待機とのことですので、問題はありませんよ」

「ですけどねぇ」

 真琴は元魔法使いを見やり、少し躊躇ったが訊ねた。

「あの、マスター。当局にしょっ引かれたりしないんですか? 魔法使いだった頃の話を田室中佐からちょっと 聞いたんですけど、あれだけのことをしておいて無罪放免ってのはさすがにおかしいんじゃないかと」

「ええ、私もそう思いまして。帝国陸軍と帝国海軍と真日奔政府を訊ねて回り、なぜ私は裁かれないのかと疑問を ぶつけてみたのですが、皆様は口を揃えて宮様のご指示だと仰るのです。なので、私は宮様に謁見して真偽の程を 確かめたのですが、宮様御自身が仰ったのです。魔法使いを封じる牢はない、と」

「つまり逮捕する気はなく、泳がせておきたいと? 何かしらの思惑がありそうですね」

「それはもう。政府の施設で身柄を拘束してもらえた方が長生き出来そうなのですが、せっかくなので宮様の 御意思に従うことにしました。ついでに言えば、店を潰すのが惜しいですから」

「重要なのはそこなんですか」

 納得出来るような、出来ないような。真琴は釈然としなかったが、海老塚が淹れたアイスコーヒーを飲んだ。近頃、 ブラックで飲めるようになったが、それでもまだコーヒーのおいしさを理解しきれたわけではなかった。こればかり は、経験を積まなければ身に付かないからだ。海老塚は自前の調理器具と昼食の材料を広げ、店で仕込んできた 具材を厚切りのパンに挟んでいる。クーラーボックスには良く冷えたスイカとメロンも入っているし、猿島では 真水が出ないので水を入れたボトルも持参しているし、アイスクリームさえある。用意周到にも程がある。

「要するに帝国海軍は、怪獣使いを暗殺されない自信があると示しているのです。その自信を内外に知らしめるため には、猿島は打って付けなのです」

 そう言ったのは、見張り小屋の一角で折り畳み式の椅子に腰掛けている九頭竜麻里子だった。その下腹部は丸く 膨らんでいて、ゆったりとしたワンピースを着て薄手のストールを肩に掛けている。妊娠した影響で体重が増えて しまったので顔付きはふっくらしたが、目付きの鋭さは変わらない。

「俺はともかくとして、なんで麻里子さんまでここに来たんですか」

 真琴が訝ると、麻里子は暖かな紅茶を傾ける。髪束の隙間からは、いつものように赤い目が覗いている。

「枢さんからお誘いがあったのです。それと、近々派手な抗争が起きるとのことで、ジンフーに追いやられて しまいました。腹の子に良くないからと、あの男らしくもないことを言われてしまいました」

「本気で残念そうですね」

 麻里子の悔しがりように、真琴は半笑いになる。こればかりはジンフーの意見が正しい。

「カチコミがお好きだもんなぁ、御嬢様」

 援護に回る方は大変なんだけどよ、と愚痴を零したのは寺崎善行だった。須藤邦彦と一条御名斗が去ってからは、 寺崎が麻里子の直属の部下として立ち回るようになった。麻里子が妊娠してからは小間使いも同然の扱いに なっていて、ジンフーと九頭竜総司郎の板挟みに遭っている。麻里子の負担を減らすためとはいえ、楽な仕事 ではないだろう。そのせいで近頃は暴走族ともつるめなくなってしまい、愛車のサバンナが退屈している、と 言ったのは佐々本モータースの整備士である小暮小次郎である。

「なんでうちまで付き合わされてんねやろ。あの親父の言いつけでさえなかったら、トンズラするんやけど」

 真琴と全く同じ感想を述べたのは、リーマオだった。彼女も水着姿であるが、両足の怪獣義肢カーレンが厳つい ので、色気よりも禍々しさが先に立つ。先程まで泳いでいたので、髪はしっとりと濡れている。

「そりゃ、母親と未来の弟か妹を守らせるためだろ」

 寺崎が指摘すると、リーマオは苦々しげに麻里子を見やる。

「どんだけきっついヤクを決めても、この腐れアマが母親だなんて思えるわけないやろ」

「では、なぜ猿島にいらしたのですか?」

 麻里子が問い返すと、リーマオは派手に舌打ちする。

「カーレンが泳ぎたがってどうしようもないねん! 放っておくと、うちが寝とる間に勝手に動き出して海に 飛び込みかねないんや! そないなことになったら、うちは溺死するやろ!」

「だったら、カーレンが満足するまで付き合ってやりゃいいだろ」

 寺崎がリーマオの足を小突くと、くるぶしの位置で赤い目が見開き、瞬いた。

「うちも最初はそう考えとったんやけど、怪獣と人間じゃ満足の尺度が違うんや。一度、カーレンに任せてみたん やけど、張り切りすぎてとんでもない場所まで遠泳したんや。浦賀水道を出る前に海岸に戻ってこなかったら、今頃、 うちはドザエモンやで。ほんで、やあっと気付いたんや。カーレンは元を正せば海の怪獣で、外骨格から撃ち出す棘 は針やなくてウロコみたいなもんで、その間にヒレも張れるんやって。カサゴみたいなもんやって」

 カーレンを睨み付けながらぼやいたリーマオに、寺崎は笑う。 

「それはそれで便利なんじゃねぇの?」

「かもしれへんけど、利益と被害の差が大きすぎるんや! せやけど、今更カーレンを切り離すことなんて無理 やし、うちに合う怪獣義肢はカーレンしかおらんのは確かなんやけど、許せることと許せへんことがあるんや!」

 声を荒げて足を振り回すリーマオに、真琴は提案する。

「お互いの妥協点を探るために話し合ってみたらどうです?」

「それが出来たら苦労せんわ。……バベルの塔の騒ぎん時、そうしとくべきやったな」

 今頃気付いてもどうにもならんけど、とリーマオは足を下ろし、タバコを銜えた。

「で、話は変わるが、まこちゃんは枢様をどうお思いで?」

 寺崎に問われ、真琴はきょとんとする。

「どうって、何が」

「やんごとない御方に好かれるのは悪い気はしねぇよなー? 俺だったら、今のうちから色々と仕込んでおいて 大人になったらそりゃあもうおいしく頂いちまうんだけどなぁ」

「不敬罪で首が飛びますよ」

 真琴が呆れるよりも早く、ヒツギがすっ飛んできて寺崎に掴み掛かった。派手なアロハシャツの襟が怪獣の爪で ぐいっと持ち上げられると、寺崎はへらへらしながら両手を上げる。ヒツギは唸りを零しながら寺崎を睨んでいたが、 麻里子が窘めると寺崎を解放した。かなりぞんざいに床に放り投げたので、鈍い音がした。

「友達でしょう。でなきゃ、親戚みたいなもんでしょう」

 真琴がそっけなく言うと、麻里子は目を細める。

「私でしたら、枢さんが世間から隔絶されているのをいいことに丸め込み、あの手この手で依存させ、財産を一滴 残らず絞り出してしまうのですが。そのどちらもお考えにならないですから、真琴さんは退屈な男ですね」

「あなた方が異常なんです」

「よくもまあ、そんな人生で満足出来ますね」

「俺は普通でいいんです、刺激もスリルも求めちゃいません」

「狭間さんは過激でしたが」

「兄貴は兄貴で俺は俺です」

「月並みな答えですね」

「いい加減にして下さい、麻里子さんが退屈だからって俺に当たらないで下さい」

「良くお解りで」

「誰でも解りますよ、そんなこと」

 真琴は麻里子に辟易し、砂浜に目線を投げた。真夏の日差しにぎらつく波と、浅瀬を泳ぐ枢と、彼女を取り囲んで いる怪獣達を眺めていたが、海面から細い腕が上がって振り回してきた。笑顔を向けてくる枢に、真琴は無性に 気恥ずかしくなったが、手を振り返してやった。遠目からでも解るほど、枢の笑顔が輝きを増す。堅苦しい表情で 公務に勤しんでいる姿や、怪獣達の世話をしている姿や、所構わず吐き戻している姿しか記憶にないから、子供 らしい表情がいやに新鮮だった。そして、今一度思い知った。綾繁家の娘は、人並み外れた美貌の持ち主であると。
 気付かなければよかった。




 夏休みの終わり頃、真琴は帝国海軍の輸送機に載せられた。
 行き先は印部島であり、ここは現在も帝国海軍の基地として利用されている。だが、以前、兄が無茶苦茶なことを やらかしたせいで、未だに伊四〇八型潜水艦が基地に突き刺さっている。海中に戻そうという計画は何度も立案され、 解体しようという案も何度となく出てきたのだが、その度にどちらも頓挫している。なぜならば、無線を傍受した 伊号が暴れて喚いて抵抗するからだ。あの日以来、怪獣の意思を尊重しようという風潮になりつつあるので、ここで 無理強いすれば帝国海軍の評判はガタ落ちになり、現役の戦艦の怪獣達からもそっぽを向かれてしまう。伊号が それを計算ずくで行動したのかは定かではないが、動力怪獣の整備点検が丁重になったのは確かである。
 真琴を出迎えてくれたのは、玉璽近衛隊特務小隊隊長の田室正大中佐であった。左腕の怪獣義肢、タヂカラオと、 その腰に帯びている斬撃怪獣ライキリも彼らなりに真琴を歓迎してくれた。導かれた先の部屋には、赤い布切れが 干されていた。よくよく見ると、赤い目が付いていて瞬きしている。ということは、これはもしや。

「グルム!?」

 真琴が驚くと、赤い布はしゅるりと面積を広げて色を変え、鳳凰仮面と化した。そればかりか飛び掛かってこよう としたので、それは田室とタヂカラオが止めてくれた。鳳凰仮面に扮したグルムは残念がりながらも身を引き、辺りを 見回してから、造り付けの黒板に向かって白墨を握った。ぎぎぎ、と白墨が軋み、歪んだ字が出来ていく。

『まこと』

「字が書けるのか!?」

 真琴が再度驚くと、グルムは頷く。

『ひとのこ おれにいった まこととなかよくしてやれ じをおぼえてはなしてやれ だから』

「もしかして、これを俺に教えたいがために印部島まで連れてきたんですか?」

 真琴が田室に問うと、田室は口角を上げる。

「そうだ。当獣が真琴君でないとダメだと言い張るんでな。かといって、本土に輸送するとなるとまた手続きやら 何やらで大変だからな」

「はあ……」

 今の今まで、怪獣と意思の疎通が出来るのはごく限られた人間だけだった。それも当事者同士の頭の中だけで 完結していたので、それ以外の人間は内容を知る由もなかった。だが、字が書けるとなると訳が違う。当人以外も 意味が理解出来るだけでなく、情報を保存し、記録出来る。ともすれば、怪獣しか覚えていない歴史の真実や、 怪獣の中でだけ知られていた理論や情報も明らかになるかもしれない。それに気付くと、真琴は次第に興奮すら してきた。今、自分は歴史が変わる瞬間に立ち会っているのかもしれない。

「良くも悪くも狭間君とは似ていないな、真琴君は」

 田室に笑われ、真琴は肩を竦める。

「自覚はしていますよ。似ているのは顔形だけで」

「政府の上の連中や、玉璽近衛隊の中でも政府寄りの部隊の連中は、どうにかして真琴君を次なる人の子にしよう と画策している。あれだけのことを成し遂げた狭間君がいなくなっちまったから、狭間君を利用しようとして整えた 手筈が無駄になると焦っているんだよ。捕らぬ怪獣の皮算用もいいところだ。だから、俺達が見張っていると釘を 差す意味でも印部島に連れてきたわけだが――――枢様にちょっかい出されたら困るってのもある」

「はあ!?」

 真琴が声を裏返すと、田室は眉根を寄せる。

「俺もそう思うし、枢様も困惑していたが、変なことが起きたら取り返しが付かないからな。無論、それ以外の理由 もある。グルムと意思の疎通が出来るなら、グルムを通じて海中の怪獣と話し合ってもらえないだろうか。でない と、地球に戻ってくる大陸怪獣の受け入れようがない。羽生さんとその他の科学者の意見はこうだ。大陸怪獣の体積 は、かつて大陸怪獣がいた座標の海底にある窪みの深さと広さ、と神話時代と現代の海面の水位の差分である程度は 把握出来たそうだが、どう見積もってもべらぼうに巨大なんだ。そんなものが地球に着陸してみろ、それだけで天変地異が 起きちまう。だから、大陸怪獣が地球に影響を及ぼさないように衛星軌道上に留まってもらい、宇宙怪獣戦艦か怪獣 列車で人間をピストン輸送するべきだ、ってことになった。だが、それでもやはり問題がある。衛星軌道上まで単機 で出られる宇宙怪獣戦艦がいないんだよ。真日奔にも他の国にも」

「だから、俺とグルムで宇宙怪獣戦艦を見つけ出せと?」

「無論、帝国陸軍も海軍も全面的に協力する。枢様もそう仰っている。なあに、高校の単位は心配するな。出先でも 勉強が出来るようにしてやる。なんだったら、大学受験の時に有利になるように一筆添えてやってもいいんだ」

「それは……」

 さすがに無茶苦茶です、土台無理です、と真琴は言いかけたが、窓から海を見渡した。グルムはしゅるりと姿を 変えて真琴の首筋に絡まり、洒落た赤いスカーフになった。赤い目はぎょろつくが、肌触りは抜群にいい。彼なりに、 人間と接する方法を研究した成果なのだろう。

「急に決めろと言われても決めかねるのは仕方ないさ。君はまだ学生だからな」

 田室は軍帽を外し、海を臨んだ。

「この夏が終わるまで、猶予を与える。俺も夏は忙しいからな。……硫黄島で墓参りとお骨探しをせんとな。枢様も 哀様と悲様の初盆の支度で慌ただしそうだし、何より暑い。怪獣義肢を付けていると、暑さが堪えるんだ。怪獣は 輝水鉛鉱と水を摂取させると高熱を発するが、それは怪獣義肢になった怪獣でも変わりはないからだ。俺は今でこそ 慣れたが、それでも消耗することに変わりはない」

「カナさんと哀さんのお墓、出来たんですか」

「ああ。横浜を見下ろす高台にある。カナさんは御骨はないが、御髪が少しあったんだ。出征する前に切り落とした 髪を、宮様が取っておいてくれたんだそうだ。枢様によく似た、カラスの濡れ羽色の真っ直ぐな髪だった。あの人も 普通の人間だったんだ。どこにでもいる、多感な女性だったんだ。それだけだったんだ」

「その御髪は」

「哀様のお骨と一緒に墓に入れることになっているんだが、それをするのは盆だ。だから、悲様の御髪は枢様の邸宅にある。お目に掛かるか」

「お願いします」

 真琴は深々と一礼すると、その頭に軍帽を被せられた。汗と潮風と怪獣の匂いがした。

「そしたら、帰りにラーメンでも喰いに行こう。狭間君と喰いに行く約束したんだが、ついに果たされずじまいでなぁ」

 屋台のラーメンが旨いと聞いたんだ、と田室はどこか楽しげだった。それから、真琴はグルム共々、田室から兄の 思い出話を聞かされた。直接会ったのは麻里子の結婚式が初めてだが、それ以前から狭間の存在を知っていて、 情報だけだと狭間は怪獣との接触で精神に異常を来した人間なのかと思っていた。だが、実際に対面してみると、 狭間真人という男は怪獣と人間に真摯に向き合っているからそう見えてしまうだけなのだと知り、更に彼の体質が 本物だとも解った。それからは、狭間を手助けしてやれないかと考え、枢を救い出す切っ掛けを作ってもらえない かと手を回していったのだそうだ。その甲斐あって、今、兄は火星にいる。
 だとすれば、真琴はどこに向かうべきなのか。





 


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