ドラゴンは滅びない




仲違いの夜



 分厚い闇の向こうから、金属的な虫の声が聞こえている。
 鉱石ランプに込められたヴィクトリアの魔力も、その力の主と同じく弱まってきたのか、時折、瞬くようになった。
青白い光が弱まるたびに、甲冑の姿が闇に馴染む。先程から身動き一つしていないので、気配が消えている。
夜風は、旧王都を出た頃に比べると随分と温くなっていた。湿気も増えており、初夏が近付いているようだった。
この国の短い夏が、また訪れるのだ。今年もあるであろう暑気を想像しただけで、伯爵はうんざりしてしまった。
気質の明るいギルディオスはもとい、半竜半人故に体温の低いフィフィリアンヌは好きらしいが、伯爵は嫌いだ。
 そもそも、スライムという生き物は水分で体を成している。非常に柔軟な体組織の全てに、水が行き渡っている。
それが少しでも乾けば動きが鈍くなり、枯渇すれば死ぬこともある。だから、気温の高い夏場など地獄も同然だ。
ひんやりとした日陰にいればまだまともだが、日向に置かれたりすれば、一時間もしないうちに乾いてきてしまう。
入れ物がワイングラスであってもフラスコであっても、乾燥する勢いはなんら変わらず、そのうちに熱してくる。
そうなると、ただでさえ繊細で傷みやすい体組織が熱で破壊され、煮えてしまった部分は壊死することも多い。
壊死した部分をそのままにしておけば腐敗が始まり、無傷の部分までも腐敗する可能性があるので切り離す。
氷結した際も同様だ。消耗した体組織は、自力で増殖させて再生させる。だが、再生には魔力を使ってしまう。
伯爵の有する魔力は通常のスライムと比較すれば数百倍にもなるが、普通の人間の魔力よりも遥かに少ない。
自発的に魔力を生じさせることは出来るものの、回復には相当の時間が掛かる上に体力もかなり消費してしまう。
ワインに含まれる酒精と体組織を化学反応させることでも魔力は発生出来るが、ワインがなければまず無理だ。
 元より、スライムとは高等な魔物ではない。ギルディオスの言うように、どちらかと言えば細菌に近い生命体だ。
地上のどこにでも存在している雑菌の一種が、何らかの切っ掛けで魔力を帯び、自発的行動を取るようになった。
といっても、せいぜい水分を求めて地べたを這いずり回ったり、同族同士で合体して増殖したりする程度だった。
魔力も、汚れた水溜まりにほんの僅かばかり混じった人間や魔物のものを、水分と共に摂取するだけだった。
 下等の中の下等。劣等の極みたる存在。動物であるはずがなく、植物であるわけもなく、ただの細菌でしかない。
伯爵は、幼き日のフィフィリアンヌの手によって産み出されたスライムなので、地べたを這いずった経験はない。
だが、記憶の中にはある。雨の滴る泥の中を、ずりゅり、にゅずり、べだり、と汚らしく動き回る己を知っている。
目の前に降り注ぐ冷え切った雨粒に打ち据えられながら、水だけでなく泥や小石も吸収しながら、這い回る。
思いがけず大粒の雨粒に表面を殴られると、その衝撃に身悶えしてしまい、数秒間動けなくなってしまうのだ。
泥の味は苦く屈辱的で、水の味は陶酔するほど甘美だった。そんな、ないはずの記憶が伯爵の内側にあった。
伯爵が伯爵となる以前の頃、いわば前世のようなものかもしれない。或いは、妄想狂であった友人の影響か。
 傷み、弱った部分は切り捨てる。そうしなければ傷んだ部分が腐り始め、やがて全てが腐り落ちてしまう。
なぜ、ギルディオスはそう思わないのだろうか。伯爵は彼の怒りの真意が読み取れず、ごぶり、と泡を吐いた。
ヴィクトリアは、歪みなのだ。最初から、この旅を始める以前から、彼女がいるべき場所はどこにもなかった。
竜の城に住まう三人は、均整が取れている。物理的にも精神的にも釣り合い、皆が上であり皆が下となる。
仲間ではなく、友でもなく、家族でもない。互いに背を向け合いつつも目線だけを向ける、程良く乾いた関係だ。
 けれど、ヴィクトリアはそうではない。背伸びをしていても所詮は幼子でしかなく、驕り高ぶり、甘え切っている。
その甘えはギルディオスの戦闘すら掻き乱し、勝てる戦いすらも敗北に導き、無用な慢心が危機をもたらす。
それを自覚していればまだいいものの、自覚しようとせずに目を逸らす始末だ。これが歪みでなくて、何なのだ。
最初は退屈凌ぎになるかと思ったが、次第に彼女の幼さが鼻に付いてきて、不愉快さすら覚えるようになった。
 だが、ギルディオスはそう思っていない。戦闘の邪魔をしたヴィクトリアを責める時はあるが、手加減している。
怒鳴ることもせず叩くこともせず、言葉で諫めるだけだ。だがその言葉も、慢心に満たされた彼女には届かない。
いつか、ヴィクトリアは傷み腐敗する。ギルディオスは馬鹿だが愚かではないから、それを理解しているはずだ。
現に今も、ヴィクトリアの不調によって足止めを食っている。そのせいで、伯爵らは多大なる迷惑を被っている。
だが、彼は受け入れない。受け入れない理由も怒る理由も解らない。伯爵はガラスの内から、甲冑を見据えた。
 すると、ギルディオスは首を動かした。ぎちり、と首を軋ませながら振り向いたが、またすぐに視線を外した。

「お前さ、ヴィクトリアが嫌いなのか?」

 独り言のように、ギルディオスが小さく呟いた。伯爵は、夜の静けさに合わせて声を落ち着ける。

「我が輩は我が輩しか愛しておらんのであるからして、その質問は愚劣極まりないものであり」

「解った解った、それ以上続けるな。鬱陶しいんだよ」

「貴君こそ、なぜそこまで子供に執着するのであるか」

「好きなんだよ、子供ってのが」

「たったそれだけの理由で、ヴィクトリアを保護するのであるか? あれは足手纏い以外の何者でもなく、我が輩達に迷惑しかもたらさないのである」

「他にも、色々とあるんだよ」

 ギルディオスは目の前に己の右手を掲げ、軽く握った。死に往く自分が出来ることは、世界の未来を守ることだ。
だが、それはあまり大層なことではない。自分が死んだ後も長らえる人々を、主に子供達を手助けしてやることだ。
死の気配を間近に感じてから、様々なことを考えた。ブリガドーンや連合軍のことを考える合間に、頭を巡らせた。
死への恐怖から言い表しようのない衝動が沸き起こる時があったかと思えば、逃げ出したい衝動に駆られもした。
 しかし、行き着く先はいつもと同じだった。必要とあらば戦い、守れる命は守り、救える者はやれる限り救いたい。
十年前は信念を固めすぎてしまい、思い違いをして判断を見誤り、守るはずだった異能者達を守り切れなかった。
それをやり直そう、というわけではないが、ヴィクトリアに執心するのは彼らに対する罪滅ぼしの真似事だった。
異能者とは違うが異能者と同然の境遇にあり、自身の力と狂気を持て余しているヴィクトリアを放っておけない。
邪心と悪意を心に満たした彼女を、人としてあるべき道に導けるほどの力はないが、何もしないよりはマシだろう。
これをギルディオスの驕りと言ってしまえばそれまでだが、ギルディオスの価値観を押し付けることはしていない。
ただ、傍にいてやるだけだ。それで彼女が変わるとは限らないが、変わることはあるだろう、と漠然と信じている。

「貴君の色々など、さぞ下らんことであろうな」

 伯爵の悪態に、ギルディオスは言い返した。

「うるせぇな。自己愛主義者には言われたくねぇよ」

「貴君が小難しい言葉を使うのは異様であるからして、明日には雪が降るに違いないのである」

「剣の一本も振るえねぇ奴に毒突かれたって、ちゃんちゃら可笑しいだけだぜ」

「語彙の少ない男に笑われたところで、退屈なだけである」

「やかましい。お前がヴィクトリアを嫌っているのはよく解ったが、それとこれとは別だ。ゼレイブに行くから飛ばせ」

「ニワトリ頭よ、貴君は大いに思い違いをしているのである。我が輩は小娘が嫌いだというわけではなく、不要であると判断した末に発言したのであって」

「尚悪いわい。嫌いなら嫌いでそれでいいが、邪険にするのは頂けねぇな。あいつはあいつで、必要なんだよ」

 ギルディオスは上体を起こすと、伯爵の入ったフラスコにずいっと顔を近付けた。

「んで、飛ばせるのか飛ばせないのかはっきりしやがれこんちくちょう」

「何やら言葉が汚くなってきたのである」

「汚くもならぁな。お前がぐちゃぐちゃ文句言ったせいで、しなくていいケンカなんてしちまったから疲れたんだよ」

 ギルディオスは人差し指で、ごつっ、とフラスコの上部に伸びる細長い円筒を小突いた。

「オレが聞きたいのは伯爵の講釈でも文句でもなくて、空間転移魔法が出来るか出来ないかってことだけなんだよこの野郎。いいか、答えは二つに一つだ。はいかいいえ、それだけだ。それ以外の言葉を一つでも言いやがったら逆さにして振り落として蒸気自動車で踏み潰した挙げ句に泥水とミミズを混ぜ込んだのを泥団子にしたら近くの川に流して海まで直行させるぞ腑抜けスライム!」

「…それは地味に嫌なのであるが」

「だったらつべこべ言わず答えやがれ、命令だ逆らうな!」

 ごきっ、とギルディオスの拳がフラスコを傾けた。伯爵はその中でにゅるりと身を捩り、細長い触手を伸ばした。

「貴君に命令される筋合いはないのである」

「よーし、それなら今すぐに地面掘り返してミミズと言わずムカデやゲジゲジ、ナメクジやらヒルやら芋虫を!」

 と、ギルディオスが運転席から飛び降りたので、伯爵は思わず触手を伸ばして彼を制した。

「ま、待て待て待て待ってくれぬか! そういった者達はさすがの我が輩とて厭うのであるからして!」

「何をだよ。口を割らねぇ奴には拷問するのは、基本中の基本だろ」

「貴君も大分腹黒くなってきたのであるな…」

「苛々してっからだよボケ。いちいち癪に障るんだよ、お前の態度も言い回しも!」

 また腹が立ってきた、とギルディオスは伯爵を睨め付ける。

「それともなんだ、オレじゃなくてフィルだったら一発で答えていたか?」

「まあ、それは違いないのである。あの女は、実に不本意で理不尽で不愉快ではあるが我が輩の主なのである」

「あーもう、余計に腹が立つな!」

「それは、なぜである」

「決まってんだろ」

 ギルディオスは運転席の傍から鉱石ランプを手に取ると、伯爵に背を向けた。

「面白くねぇからだよ」

 そのまま、ギルディオスは駆け出していった。木々の間の腐葉土を踏み締める重たい足音が、闇に消えていく。
何を子供じみたことを、と伯爵は呆れたが、なんとなく言い返さなかった。つまるところ、彼は皆が好きなのだろう。
フィフィリアンヌやフィリオラらだけでなく、ヴィクトリアも、そして伯爵すらも彼は好んでいる。全く、妙な男だと思う。
好きだから、貶められれば腹が立ち、邪険にされれば怒り、文句を言われれば苛立ち、守るために剣を振るう。
なんと、単純明快だ。恐らくギルディオスは、グレイス・ルーすらも完全には嫌っていないのではないだろうか。
 だとすれば、伯爵が相容れられなくて当然だ。伯爵の世界はフラスコの中だけで、好いているのは自分だけだ。
これをギルディオスに言えば頭ごなしに罵倒されそうだが、昔からそうであり、これからもそうなのだから仕方ない。
ギルディオスが伯爵を理解出来ないように、伯爵もまたギルディオスを理解出来ないからしようとしないのである。
 そんな調子だから、いつも仲違いをするのだ。




 翌朝。伯爵は、憔悴していた。
 助手席に座るヴィクトリアは表情こそなかったが、瞳に光は戻っていた。大事そうに、コップの水を飲んでいる。
それは、空っぽになった砂糖壺を洗ったもので、内側に貼り付いていた僅かばかりの砂糖が溶けた水だった。
砂糖が少ないので砂糖水と言うには味がかなり薄かったが、それでも、今のヴィクトリアにとっては貴重だった。
 朝露に濡れた運転席に座るギルディオスは、心なしか嬉しそうだった。ヴィクトリアが、活力を取り戻したからだ。
蒸気自動車は、平坦な野原に伸びる道を真っ直ぐ進んでいた。地図の通りであれば、この先にはゼレイブがある。
ギルディオスはハンドルを操りながら、ヴィクトリアの様子を窺った。顔色はまだ白かったが、昨日よりはまともだ。

「何にせよ、原因が解ってよかったぜ、ヴィクトリア。これからは気を付けろよ」

「説明しておこうかと思ったのだけれど、忘れていたのだわ。私、糖分が切れると頭がまるで動かなくなってしまうの。頭が動かなければ魔力も動かせないから、体も重たくなってしまうのだわ。途中の街で砂糖でも買い足すつもりでいたのだけれど、手に入らなかったのだわ。この私が甘いものを切らしてしまうなんて、一生の不覚だわ」

 ヴィクトリアは薄味の砂糖水を口に含み、飲み下した。

「考えてみりゃ、うちのランスもそういう気があったなぁ。魔法の仕事を終わらせて帰ってくると、メシよりも先に砂糖漬けとかケーキとか喰ってたのを覚えてるぜ。ひどい時には砂糖漬けを一人で全部喰い尽くしちまって、メアリーに怒られていたっけなぁ。買ったばかりなのになんてことをするんだい、ってさ」

 ギルディオスは、懐かしげだった。ヴィクトリアは、横目にギルディオスを見上げる。

「ねえ、ギルディオス。ゼレイブに行けば、甘いものはあるかしら? この砂糖水だけでは、到底足りないのだわ」

「ああ、間違いなくあるさ。フィオがいるからな。フィオも甘ーいのが好きだから、当てにしていいと思うぞ」

 ギルディオスは、頷いた。そして、後部座席に転がしてあるフラスコを横目に見やる。

「んで、伯爵。気分はどうだ?」

「…いいわけがないのである」

 後部座席に横倒しにされたフラスコの中で、伯爵はごぶりと泡を吹いた。粘液には、不純物が混ざっている。
それは泥であったり小石であったり、昆虫の折れた足であったり様々だったが、その全てが伯爵を苦しめていた。
これは、昨夜の争いに敗北した証だった。かなり低俗な罵り合いの果てに、ギルディオスは強硬手段を取った。
 それが、伯爵への拷問である。といっても方法は至って単純で、幼い子供がする悪戯と同等のものだった。
森の中から伯爵の元へ帰ってきたギルディオスは、両手に溢れるほどの泥の固まりを持ってにやついていた。
泥の中にはギルディオスが宣言した通りに、立派に肥えたミミズ、艶々したムカデ、妙な色の芋虫が入っていた。
更には、大振りなナメクジ、黒光りするヒル、触角の長い昆虫、赤と黄色の毒々しい色合いのクモなどもあった。
他にももっといたような気がするが、良く覚えていない。あの暗闇の中で、よくもそこまで探し出せたものだと思う。
だが、感心するよりも先に生理的嫌悪感に襲われた伯爵は、ごとごととフラスコを動かして精一杯逃げようとした。
しかし、所詮はスライムなので逃げ切れなかった。この時ほど、己がスライムであることを恨めしく思った時はない。
 すぐさまギルディオスに捕らえられた伯爵は、フラスコのコルク栓を押さえたが強引にこじ開けられてしまった。
まず最初に投げ込まれたのは、ミミズだった。土にまみれたぬめぬめした細長いものが、体内に滑り込んできた。
腐葉土とミミズ自身の生臭い匂いが全身にまとわりつき、ミミズが苦痛で蠢くたびに、伯爵は激しく悶え苦しんだ。
 陵辱されている、と感じた。スライムとミミズでは繁殖どころか何も起きないのだが、羞恥と屈辱がそう思わせた。
伯爵がその辺りのことを叫んでも、怒りを通り越して悪意の固まりとなったギルディオスには全く伝わらなかった。
そして、伯爵にはミミズだけでなく他のものも投げ込まれて何度となく陵辱され、天より高い自尊心が揺らいだ。
結果、伯爵は広範囲の空間転移魔法を使えないことをギルディオスに告白し、平謝りする羽目になったのだった。
 長い人生の中で、ここまで辱められたのは初めてだった。伯爵は助手席に座るヴィクトリアに、視点を向けた。
結局、ヴィクトリアは十二分に役に立った。彼女も消耗しているので、空間転移魔法を使えるほど魔力はなかった。
だが、蒸気自動車の駆動部分の魔力を使えば転移出来ると言い、蒸気自動車の車体に白墨で魔法陣を描いた。
そして、ゼレイブ付近まで蒸気自動車ごと空間転移魔法で飛び、現在はゼレイブに向かっているという次第だ。
 伯爵には、思い付かなかった。自分自身の力で、という尺度で考えていたので、そこまで考えを至れなかった。
これもまた、屈辱だった。散々馬鹿にして見下していた相手にやり込められるのは、とてつもなく面白くなかった。
ヴィクトリアは、糖分不足で倒れていた最中も意識はあったので伯爵の罵倒も聞いていたが、何も言わなかった。
その代わりに、哀れみの混じった目線で嘲笑してきた。下手に言い返されるよりも、こちらの方が余程きつかった。
 それらのことがあったせいで伯爵の不機嫌は最高潮に達していたが、体内の不純物が思考を掻き乱していた。
泥や小石や虫の体液が、身動きするたびにちくちくとした刺激を生む。それが、魔力どころか魂まで痛め付ける。
喋られるものなら喋りたいが、喋る際にも身動きするので痛みは増す。よって伯爵は、不本意ながら黙っていた。

「お、うん?」

 ギルディオスは身を乗り出しかけたが、首を捻った。ヴィクトリアは目を上げ、彼の視線の先を辿る。

「あら」

 爽やかな風が吹き抜ける草原を貫くように伸びている真っ直ぐな道が、進行方向でぷっつりと途切れていた。
草を刈って地面を均しただけの簡素な道は、人や馬車が通った痕跡が残っていたが、それすらも消えている。
しかし、その道から逸れるような道はなく、左右には青々とした草原だけがある。かなり、不自然な光景だった。
 ヴィクトリアはこくこくと喉を鳴らして薄味の砂糖水を飲み干し、一息吐いてから、途切れた道をじっと凝視した。

「空間…いえ、違うわ。ここだけ魔力の流れを変えて、目視する景色を変化させているのだわ」

「てーことは、つまり、あれか。蜃気楼みてぇなもんか?」

 ギルディオスが言うと、ヴィクトリアは頷いた。

「ええ、恐らく。魔法の心得のない人間であれば、何の疑問も持たずに引き返してしまうのだけれど、この私のように優れた才と魔力を持つ者であればすぐに解るわ。だけど、この蜃気楼は魔導結界の機能も持っているようだから、無理に入ろうとすれば弾き出されてしまうかもしれないのだわ。私の力が完全に回復していれば簡単に突破出来るのだけれど、今はまだ無理だわ」

「弱ったな」

 ギルディオスは、がりがりと頭を引っ掻いた。目の前で途切れている道をいくら睨んでも、道が伸びることはない。
大方、これはラミアンの仕業だろう。魔導兵器と化した吸血鬼、ラミアン・ブラドールは魔法に長けている男だ。
生前ほど威力の高い魔法は使えないと言っていたが、彼には魔法の才能と技術が有り余っているので補える。
だとすれば、尚のこと厄介だ。力任せに斬り掛かってどうにかなるほど、彼の造った魔法は単純ではないはずだ。
せっかくここまで来たのに、門前払いなのか。ギルディオスが腕を組んで悩んでいると、不意に声が聞こえてきた。
 舌足らずな声。ヴィクトリアのそれよりも拙く、幼子であることが解る。だが、辺りを見回しても子供の姿はない。
ヴィクトリアも気付いたようで、しきりに目を動かしている。ギルディオスは蒸気自動車の運転席から、降りてみた。
声は、真正面から接近しつつある。それと同じくして、体重が軽く頼りない足音もこちらに向かってきているようだ。
 ギルディオスの視線の先で、蜃気楼が揺らいだ。子供の身長ほどの揺らぎの奥に、同じ背格好の影がある。 
朝靄や濃い霧の中で目にする己の影と、似ていた。影が膨らみ、陰影が濃くなったかと思うと飛び出してきた。
 魔力の蜃気楼の内側から現れたのは、幼女だった。朱色のエプロンドレスを着て、ネッカチーフを被っている。
屈託のない青い瞳が、甲冑を興味深そうに見上げた。肩に掛かる長さの髪の薄茶色には、見覚えがあった。
エプロンドレスの胸元には、その瞳よりも深みのある色合いの、青い魔導鉱石のペンダントが下げられている。
幼女は、その足元に艶々とした毛並みの白ネコを連れていた。そのネコは少々面倒そうに、甲冑を見ている。

「小父さん、だあれ?」

「その、ネコは」

 ギルディオスは、幼女の足元にいるネコを指した。白ネコの尾は二股に割れていて、ゆらゆらと揺れている。
幼女の手から擦り抜けた白ネコは、青い瞳をにぃっと細めた。外見に似合わぬ中年男の声で、ネコは話した。

「しばらくぶりでごぜぇやすねぇ、旦那。スライムの旦那も、灰色の嬢ちゃんもお揃いのようで」

「なんでお前がここにいるんだ、ヴィンセント!」

 ギルディオスが食って掛かっても、ヴィンセントは平然としている。

「さあて、どうしてでやんすかねぇ」

「あの生体魔導兵器共でも連れてきやがったのか! 事と次第に寄っちゃ容赦しねぇぞ!」

 ギルディオスが運転席からバスタードソードを引き抜こうとすると、幼女がヴィンセントの前に立った。

「何するの! ヴィンちゃんは私のお友達なんだから、いじめちゃ嫌!」

「あ、ああ…」

 ギルディオスは仕方なく剣の柄から手を離し、幼女を見下ろした。幼女は頬を膨らまし、むっとしている。

「お前、もしかしてリリか?」

「そうだよ。でも、なんで小父さんは私の名前を知っているの?」

 きょとんと目を丸くした幼女の足元に、ヴィンセントが擦り寄った。うにゃあ、と甘えた声を漏らす。

「その辺のことはゼレイブの中でゆっくりお話しましょうや、重剣士の旦那。積もる話もありやしょう」

 そろそろ帰りやしょう、とヴィンセントが言うと、幼女は頷いた。

「うん、そうだねヴィンちゃん!」

 幼女はヴィンセントと連れだって、蜃気楼の中に消えていった。ギルディオスは、呆然としているしかなかった。
ヴィンセントは、連合軍の密偵だ。そして連合軍は人ならざる者達を目の敵にしており、見つけ次第殺してしまう。
この間の一件では、アレクセイとエカテリーナという二人の生体魔導兵器を従えているような様子すら見せた。
そんな者の侵入を、ラミアンが許したというのか。だが、考えてみれば、ラミアンはヴィンセントの正体を知らない。
ゼレイブから出ないのであれば、知る由もない。だが、このままにしておくのは危険だ。ラミアンと話さなければ。
 ギルディオスは立ち尽くしていたが、深く息を吐いてボンネットに腰掛けた。ここへ来て、また妙なことになった。
ゼレイブに到着したはいいが、まだ安心は出来ないようだ。今回も、いつのまにか厄介事に深入りしたようだ。
きっと、ろくなことにはならないだろう。だが、その厄介事が愛する者達に近付いた以上、覚悟する必要がある。
そうであれば、魂の衰えなど気にしていられない。いつもと同じように、愛すべき鋼の相棒と共に敵と戦おう。
敵が連合軍であれ魔導兵器三人衆であれ、戦うだけ戦うのだ。内心で決意を固め、顔を上げて空を仰ぐと。
 ブリガドーンが、浮かんでいた。




 普通でない三人の旅路は、重剣士とスライムの諍いで締められる。
 彼らが休息を求めて辿り着いた片田舎の街には、厄介事を招くネコが待っていた。
 先行きが見えぬ不安と、一時の安らぎを噛み締めている間にも。

 戦いの影は、忍び寄っているのである。







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