ドラゴンは滅びない




天空の住人達



 空が近い。
 ルージュは岩棚に腰掛けて、雲の散らばる空を見上げていた。今頃、あの男はどこで何をしているのだろうか。
あのまま、ゼレイブに留まっているわけがない。血の気の多い彼のことだ、ブリガドーンを目指しているだろう。
一人ではないだろう。彼の周囲には、人ならざる者達がいる。その中には、リリとロイズの父親達も含まれている。
彼は、その者達と共にブリガドーンへ向かっているのだろう。戦い慣れた者達ばかりだから、行動も早いはずだ。
 そこまで考えて、ルージュは顔を伏せた。これから殺す男のことを考えたところで、一体何になるというのだ。
殺すと決めた。切り捨てると決めた。思い出さないと決めた。そのはずだったのに、呆気なく決意は崩れ落ちた。
 ヴィクトリアを守っているブラッドの姿を見た途端に、敵意の漲る銀色の眼差しに射抜かれた瞬間に、砕けた。
彼の視線の方が、ルージュの光線よりも余程強力だ。外装も武装も決意も意地も、容易く貫いてしまうのだから。
 最初に会った時に殺してしまうべきだった。あの時に貫いてさえいれば、嫉妬など知らないままでいたはずだ。
下劣で矮小な自分など、知らずに済んだ。殺してしまいたいのも、彼の視線が他へ向くことが許せないからだ。
 このまま空へ飛び出して、真っ直ぐに彼の元へ迎えたらどれほど素晴らしく、どれほど情けないことだろうか。
向かったところで、出迎えてもらえるはずがない。迎撃されて撃墜されて、破壊されてしまうのが目に見えている。
魂があるとはいえ、所詮兵器は兵器だ。この両腕が生み出すものは瓦礫と死体だけであり、他のものはない。
 ルージュは主砲と副砲で、自らを抱き締めた。だが、右手がないので、左手で右の上腕を抱えただけだった。
その左手に伝わる感触も硬く、肌とは言い難かった。ルージュは膝を抱えると顔を埋め、僅かに肩を震わせた。
 物音がした。ルージュは反射的に立ち上がると主砲を構え、音源に向けて突き出し、魔力出力を高めていった。
岩棚の下方にある平らな部分に、少年が立っていた。風に飛ばされそうな帽子を押さえて、こちらを見ている。
あれは確か、ロイズ・ファイガーという異能者ではなかったか。ルージュは拍子抜けしてしまい、主砲を下げた。

「なんだ、お前か」

 いきなり主砲を向けられたせいで、ロイズは目を見開いて固まっていた。

「そっちこそ、何? 僕は、何もしていないんだけど」

「条件反射だ」

 ルージュは岩棚を軽く蹴ると、ロイズの真正面に降りた。

「用がないのであれば、さっさと退散しろ」

「ないってわけじゃないんだけど」

 ロイズは、ブリガドーンの斜面を見下ろした。その下には、雄大な海面が広がっている。

「海を見ようと思って」

「こんなもの、別にどうでもいいと思うが」

「僕には、どうでもよくないから」

 ロイズはゆっくりと呼吸し、有機的な潮の匂いを胸一杯に吸い込んだ。

「でも、不思議だ」

「何がだ」

「ここって、物凄く高い場所のはずでしょ? なのに、全然息が苦しくないんだ。前に、連合軍の通り道を避けるために高い山を昇って回り道をしたことがあったんだけど、その時は凄く辛かった。斜面は岩がごろごろしていて歩きづらいし、息を沢山しても苦しいし、そのうち倒れちゃいそうになった。なのに、ここは下にいた時と変わらない。それが不思議でたまらない。それも、魔法なのかな」

「そうなのか?」

 ルージュは、ロイズを見下ろした。今まで、少しも気付かなかった。息をしないのだから、当たり前かもしれない。
ロイズはルージュに問い掛けられたことが不可解なのか、きょとんとしてルージュを見たが、また海を見下ろした。

「他にも、不思議なことはあるよ。さっき、フィルさんからご飯をご馳走になったんだけど、あの材料は一体どこから持ってきているんだろう。そこら中が廃墟になっているから、材料を調達するだけでも大変なはずなのに」

「ここには畑があるんだ。フィフィリアンヌは実験の一環だとかなんとか言って、ブリガドーンの斜面の一部を魔法で柔らかくさせて土壌を作り、野菜や魔法植物を栽培しているんだ」

「じゃあ、魚は?」

「あれはラオフーの暇潰しだ。たまに海に降りては、山のようにカゴに入れて帰ってくるんだ。それをあの女が喰っているんだ。ずっと同じものばかりだから飽きないのかと聞いてみたことがあるのだが、お前は血を啜ることに飽きたことがあるかと逆に言い返された」

「他のものは。小麦とか、チーズとか、ワインとか、水とかは」

「それはあの女が持参したんだ。私達をブリガドーンに連れてきた際に、あの家ごと運んできたんだ。無論、魔法を使ってだが。水は、雨水を溜め込んだものを濾過しているらしい。ここには井戸はないからな」

 ふと、ルージュは視線に気付いて言葉を切った。ロイズが意外そうな顔をしているので、ルージュは見返した。

「なんだ、その顔は」

「案外、喋るんだなあって思って。話し掛けても、全然答えてくれないと思っていたから」

「お前がいちいち尋ねてくるからだ。尋ねられれば、答えないわけにいかないだろうが」

 ルージュが口調を強めると、少年は申し訳なさそうに首を縮めた。

「ごめんなさい」

「謝る必要はないと思うが」

 逆に、ルージュの方がばつが悪くなってしまった。ロイズのことは鬱陶しいとは思ったが、怒ったわけではない。
二人の間に、妙な沈黙が流れた。真正面から吹き付けてくる潮風が岩に当たるたび、びゅるびゅると鳴った。
ルージュの後頭部に伸びている髪によく似た装甲がなびき、擦れ合う。硬質な音色が、頭の後ろから聞こえた。

「ならば、私もお前に聞き返そう」

 やりづらい沈黙を破るため、ルージュは口を開いた。質問するべきことは、これからやってくる敵の情報だけだ。
ゼレイブに住んでいた男達の持つ異能力や戦力などを聞き出して、近いうちに起きるであろう戦闘に備えるのだ。
ロイズの怯え混じりの視線が、ルージュを見上げてくる。ルージュはその気弱な目を射抜くように、視線を強めた。

「ブラッド・ブラドールとは、どんな男だ」

 絶対に言うつもりのなかった名が、敢えて意識から外していたはずの名が、口から勝手に飛び出してしまった。
慌てて口を閉じたが、もう手遅れだった。自分自身の発した言葉は聴覚にこびり付き、後悔と共に反響している。
ロイズは嫌悪のような困惑のような照れのような、複雑な表情を作ってルージュを見ていたが、小さな声で返した。

「なんで、あなたはブラッド兄ちゃんを殺そうとしたの? そんなにブラッド兄ちゃんが憎いの?」

「憎いとも」

 ルージュは、強く言い切った。

「憎くなければ、殺意など抱くわけがない。あの男のことを思い出すだけで腹が立ってくる。いい加減忘れてしまいたいのに、忘れようと思った時に限って現れる。鬱陶しい。やかましい。下らない。苛立たしい。あれがこの世に存在している限り、私に平穏は訪れない。あれがいるから、私はどうでもいいことに悩む羽目になる。あれさえいなければ、こんなに」

 自分を惨めだと思うことはなかった。自分の弱みを知ることもなかった。死した魂に、火が入ることもなかった。
それらが、ルージュを内側から揺さぶってきていた。僅かに残っていた柔らかな部分に突き刺さり、抉ってくる。
魔導兵器と化した際に失ったはずの本能や、長年忘れていたはずの感情の揺らぎや、欲動が溢れ出してくる。
それが、耐えられない。純血の吸血鬼よりも遥かに劣る半吸血鬼の若者に、振り回されている事実が情けない。
だから、憎むしかなかった。自分自身の弱さから目を逸らして、やるせない衝動の矛先にするのが一番楽だ。

「じゃあ」

 再び、ロイズは口を開いた。

「僕達のことも、憎いの?」

「それを聞いてどうする」

 ルージュは、ロイズに目線を落とした。ロイズは、緊張で汗の滲んだ両手で、ズボンを握り締めた。

「あなたはどうかは解らないけど、僕はあなた達が憎い。だから、戦うだけだよ」

「お前と私では話にならない。戦うだけ無駄だ」

「無駄じゃない!」

 ロイズは急に大声を上げると、ルージュに向かって手を突き出した。

「僕は兵士だ、異能者だ、異能部隊少年兵ロイズ・ファイガーだ! 捕虜にされたまま、黙ってなんかいられるか! ヴェイパーがいなくたって、僕はちゃんと戦える! そのために、訓練されてきたんだからな!」

「ふん」

 ルージュはうっすらと唇を開き、端を上向けて歪めた。

「言葉は立派だが、実力が伴わなければ何の意味もない」

「そうかもしれないけど、でも、戦わなきゃ皆が死んじゃうんだ! 死んじゃったら、終わりなんだ!」

 ロイズは必死に声を張り上げて魔力を高め、ルージュの周囲の空間を歪めようとしたが、変化が起きなかった。

「なんで、どうして!」

 ロイズはもう一度力を高めて放ったが、いつもは自由自在に曲がるはずの空間がまるで動かず、固まっている。
ならば、何度でもやってやる。ロイズはやれるだけのものを放とうと力んだが、出てくるはずの力が全く出てこない。
フィフィリアンヌから飲まされた、魔力鎮静剤の効き目が抜けてないのだ。思った以上に、強い薬だったらしい。
 泣きそうになりながらも戦おうとしている少年の前に、ルージュは立ち塞がった。主砲を上げると、砲身で払った。
ロイズの小柄な体は紙のように軽く吹き飛び、地面に転がる。ルージュは、倒れたロイズの頭に砲口を向けた。

「なぜ死を恐れる」

「当たり前じゃないか!」

 ロイズはルージュの砲口を頭で押し上げ、力一杯睨み返した。

「死んじゃったら、何もかも終わるんだ! 母さんみたいに、いなくなってそれっきりになるだけなんだ! 顔なんか真っ白になって、硬くなって全然動かなくなって、目も開いたままで、びっくりするぐらい冷たくなって、返事もしてくれなくなるんだ!」

 途中から、ロイズは泣き叫んでいた。

「リリや皆がそうなるぐらいだったら、戦った方がマシだ!」

「正論だ。お前はあの馬鹿鳥に比べれば、大分まともな頭をしている」

 ルージュは砲身を下げ、ロイズに背を向けた。

「質問の答えを、まだ聞いていない。改めて問おう。ブラッド・ブラドールとは、どんな男だ」

「ブラッド兄ちゃんは、元気で明るくて優しい人だよ。吸血鬼だけど、ちっとも怖くないんだ。僕と一緒に遊んでくれるし、色んなことを教えてくれるし、ブラッド兄ちゃんが本当の兄ちゃんだったらいいなって思ったこともある。どうして、そんな人を殺そうとするのさ。訳解らないよ」

「そういう男だからだろう」

 ルージュは、声を落とした。腹が立つのは、ブラッドが向けてくる眼差しが至極真っ当であり躊躇いがないからだ。
蔑んでくれれば、疎んでくれれば、どんなに楽か。名を褒めるばかりか湖から助け出し、女として評価してくれた。
 綺麗だけど、いい女じゃねぇよ。その言葉に含まれていたのは嫌悪だけだったが、ルージュとしては嬉しかった。
女であるのは、最早外見だけだ。乳房も、尻も、太股も、顔も、その全ては金属で形作られた紛い物に過ぎない。
触れたところで、冷たいばかりで温もりはない。子を孕むことも出来なければ、男を受け入れることも出来ない。
それを、一人の女として見てくれていた。こんなにもありがたく、嬉しく、物悲しく、情けなく、空しいことはなかった。

「殺しちゃダメだよ」

 座り込んだまま、ロイズは帽子ごと頭を抱えた。

「それだけはいけない。そんなことしても、何も」

「始まる前に終わらせる。ただ、それだけのことだ」

 ロイズの声がまだ何か聞こえたが振り切って、ルージュは飛び出した。背部の推進翼から、青い炎を迸らせる。
海と空の狭間に躍り出たルージュは、炎を切り、重力に任せて身を落とした。顔の真横で風が切れ、海が近付く。
空よりも厚みがあり波が荒い海面が、視界一杯に広がる。だが、この海面に叩きつけられても、死ぬことはない。
多少外装が歪んで内部に損傷が起きるかもしれないが、魔導鉱石に込めた魂さえ壊れなければ無事なのだ。
 死にたいと思った。ブラッドを殺さなくても事を終わらせる方法があるとすれば、それはルージュが死ぬことだ。
それが一番なのかもしれなかった。ブラッドの周囲には、暖かく思い遣ってくれる子供達や家族や友人達がいる。
だが、ルージュには何もない。硬い肌に触れるものは銃弾と砲弾だけで、慈しんでくれるのはブリガドーンだけだ。
 死ぬべきはブラッドではない。死ぬべきはルージュだ。その結論に達したルージュは背部の炎を強め、加速した。
目の前に迫っていた海面に衝突する寸前に身を上げ、波を突き破って進んだ。海水が目の端に入り、流れた。
この体になって初めて、涙を流せた。久々に頬を伝う水の感触を味わいながら、ルージュは海上を飛び続けた。
 彼に、殺してもらおう。




 日当たりのいい場所に、手狭な畑が作られていた。
 遮蔽物が比較的少ないブリガドーンの上部を平らに均して造られた畑には、赤く色づいたトマトが並んでいた。
まだ小振りながら収穫時期が訪れているイモの葉は青々と茂っており、柔らかく耕された土には影が落ちている。
その影の中に、白いものが丸まっていた。ひんやりとした湿った地面とイモの葉の間で、白ネコが眠っていた。
 手製の釣り竿とカゴを提げたラオフーは、畑を踏み荒らさないように端を歩いていたが、ネコの姿に気付いた。
釣り竿の先で、ヴィンセントの耳を突っついた。するとヴィンセントは鬱陶しそうに耳を動かし、釣り竿を払った。
しかし、起きようとしない。ラオフーは遊び半分で何度かヴィンセントの耳を突いていたが、ネコの目が開いた。

「ああ、虎の御隠居でごぜぇやしたか」

「ヴィンセントよ、そこはそんなに涼しくてええのか?」

 ラオフーが釣り竿の先でイモの葉の下を指すと、ヴィンセントはにやりとした。

「ええ、そりゃあもう。ですが、虎の御隠居にはちぃと狭いでごぜぇやすなぁ」

「そうじゃのう。儂がもうちいと小さかったら、おぬしと涼めたんじゃがのう」

 ラオフーは膝を曲げて、ヴィンセントに顔を近寄せた。ヴィンセントは、巨体の魔導兵器を見上げる。

「そいで、虎の御隠居は釣りにでも行かれるんで?」

「おう。これから、でかいのをおっ始めようと思うとるんじゃ。おぬしも釣りは好きか?」

「へい」

 ヴィンセントが目を細めると、ラオフーは機嫌良く笑い声を上げた。

「おう、解っちょるのう、ヴィンセント。伊達に爪と牙を持ってはおらんっちゅうことじゃな」

 ふははははははは、と心底楽しげに哄笑しながら、ラオフーは重たい足音を響かせながら遠ざかっていった。
ヴィンセントは頭を下げて見送っていたが、顔を上げた。ラオフーの後ろ姿は、いつのまにか見えなくなっていた。
彼が吊り上げる獲物は、どれほどの大物になるのだろう。退屈凌ぎにはなりそうだ、とヴィンセントはほくそ笑んだ。
 ブリガドーンが、胎動している。地震よりもかすかだが、感じられないことはない。ず、と足の下が揺れている。
急に住人の数が増えたから、ブリガドーンも動揺しているのだろう。人が増えれば、魔力の絶対量も大分変わる。
どこからか流れてきた白い雲が辺り一面に広がり、畑を覆い尽くしていたが、潮風に追い立てられて通り過ぎた。
 この光景が、この世から消え去る時は近い。




 空に見下ろされ、海に見守られている天空の山。
 その山に抱かれし三体の兵器と、三人の子供と、一人の竜。
 彼らの思いを孕んだ山は、その身に漲る過剰な力に震え、密やかに胎動する。

 物言わぬ天空の山は、戦いを待ち受けているのである。







07 6/10