ドラゴンは滅びない




天空の住人達



「前提として状況を説明せねばならん」

 机の上から、フィフィリアンヌは三人の子供達を見渡した。

「私があの三体を得た経緯は、至って簡単だ。連合軍によって秘密裏に製作されていた三体の魔導兵器の情報を、得たことから話は始まる」

 赤い瞳は鋭く、その眼差しには人も魔物も超越した威圧感を含んでいた。

「私が得た情報では、女性に酷似した外見の砲撃主体型である一号機、戦車にも負けぬほどの高出力と腕力を備えた重装甲型の二号機、装甲は極めて薄いが並外れた速度の飛行が可能な高機動型の三号機の三体が連合軍基地の作業所で製造されたというものであった。三体の魔導兵器の設計者はアルゼンタム、すなわちラミアン・ブラドールの新たな肉体をグレイス・ルーに命じられて製造した魔導技師、ウィリアム・サンダースであった。キャロル・サンダースの父親だ。この男は魔導技師としての腕はすこぶる良かったのだが、少々金に弱い面があってな。十年前、グレイス・ルーの手に落ちた原因もそれなのだ。だが、グレイス・ルーのやり方に恐怖を覚えたウィリアム・サンダースは、キース・ドラグーンの手を借りてグレイス・ルーから逃れて旧王都から脱出したはいいものの、その後はそのキースに従わされることとなってしまったのだ。キースは私の種違いの弟で、奴は頭こそ良かったのだが神経がイカれていた男でな、人間に妙な執着を持っておった。キースがジョセフィーヌ・ブラドールの肉体に己の魂をねじ込んでわざわざ共和国軍の軍役に付いたのも、言ってしまえば人間を殺すためでしかなかったのだ。キースがウィリアム・サンダースに目を付けたのも、その辺りの理由からなのだ。キースはアルゼンタムの人殺しの性能を目の当たりにしたために、魔導兵器が一体だけでは物足りないと思うようになったらしい。そこで、ウィリアム・サンダースを甘言で誑かし、旧王都の外へ誘い出してからグレイス・ルーの呪いを解呪し、改めて自分の呪いを掛けて、ウィリアム・サンダースを我が物としてしまった。キースは自分自身で魔導兵器の設計図を書いてウィリアム・サンダースに与え、造るように命じていたのだが、魔導兵器の製作が始まる前にキースは死んだ。というより、消滅と表現した方が正しいやもしれん。その後、共和国戦争が激化したためにウィリアム・サンダースは消息不明となり、キースの書いた三体の設計図も不明となってしまった。それから数年間、ウィリアム・サンダースの消息もキースの設計図もどちらも音沙汰がなかったのだが、妙な方向から情報が入ってきたのだ」

 フィフィリアンヌは手を伸ばし、机に無造作に積み重ねてある本を取り、掲げた。

「禁書だ」

「それは私が手に入れたものだわ、返しなさい!」

 急に身を乗り出したヴィクトリアは、悔しげに眉を吊り上げる。フィフィリアンヌは、禁書を開いてめくる。

「貴様が禁書に対してどんな期待を抱いていたのかは粗方の予想が付くが、手を出さぬ方が良い。この中身は貴様が考えているような、強力な魔法が書き記されているだけではないのだ。確かに中には強力な魔法を書き記した本もあるが、いずれも古代竜族の魔法ばかりだ。それも、魔法として扱えるような調整も行っていなければ魔法文字の現代訳もされておらんようなものばかりだ。そんな荒々しいだけの魔法を使ったところで、何がどうなるというわけでもない。貴様の魔法の腕が上がるわけでもなければ、強くなるわけでもないのだ。あるとすれば、魔法が暴発して貴様もろとも吹き飛ぶだけでしかない。ヴィクトリア、二度は言わぬ」

 フィフィリアンヌの目が上がり、ヴィクトリアを強く睨み付けた。

「死にたくなければ、禁書に関わるな。三人衆に貴様を殺させなかったのは、貴様を殺せばグレイスが突っ掛かってくることが容易に想像出来たからであり、それがなければ貴様など早々に屠っておったわ。多少は魔法の才があるやもしれんが、思い上がるな。十二の子供にどうにか出来るほど、魔法も世間も甘くはない。その甘ったれた脳髄と慢心に膨れ上がった魂に、よく叩き込んでおけ」

 ヴィクトリアは悔しげに唇を曲げていたが、目を逸らした。フィフィリアンヌはまた目線を上げ、淡々と話した。

「話を戻そう。私は戦前まで魔導師協会の会長職に就いておったのだが、戦時中に国際政府連盟によって魔導師協会は解体され、私も事実上解任されている。魔導師協会本部は首都にあるのだが、首都は共和国戦争序盤に破壊されてしまった。魔導師協会本部の建物自体は、生半可な攻撃では壊れないように魔法を施してあったので、無事だったのだが、問題は内側にあったのだ。戦乱に乗じて魔導師協会本部に潜入した魔導師連中が禁書を運び出し、そこの愚かな小娘のような考えを持って禁書をばらまいてしまった。魔法の繁栄を望む者、中世時代のように魔法と生きる世界の再来を願う者、連合軍に擦り寄ろうとする者、新たな魔導師協会を作り上げようと画策する者、人造魔物を生み出そうとする者など、とにかく良からぬ考えを持った連中ばかりであった。まともな者など、ほとんどおらぬ。いたとしても、理想に凝り固まって現実を見ようとせん者であった。このまま放っておけば間違いなく事態が悪化するので、私は禁書を回収する作業を始めたのだが、そのうちの一冊が共和国政府直属の研究施設である魔導技術研究所に保管されていることが判明した。魔導技術研究所は、来たる新時代へ向けて魔法と科学を融合させて更なる発展を遂げるための研究を行う、というのが名目であったが、その内情は薄汚かった。最初から人造魔物の量産などのろくでもない研究ばかりを行っていたのだが、共和国軍の大佐であるキースが手を出したことで余計に悪くなってしまった。ロイズ、貴様は能力強化兵という名称を耳にしたことがあるだろう」

 急に話を向けられ、ロイズは戸惑いながらも頷いた。

「前に聞いたことがあります。異能力のない人に変な手術をして、無理矢理異能力者にしたんですよね」

「ふむ、いい答えだ。魔導技術研究所は、キースによってその能力強化兵を生み出す実験場と化してしまった。それまで行われていた人造魔物の研究も継続して行われていたのだが、キースが次々に連れてくる己の部下や連合軍の捕虜を手術し改造することがいつしか主要になっていた。能力強化兵の製産はキースの死後に一旦は収まるのだが、その禍々しい研究の成果は共和国軍に残されたままとなってしまったために、随分と劣化した能力強化兵が量産されていた事実も付け加えておこう。そういった背景があるため、魔導技術研究所に禁書があることになんら違和感はなかった。魔導技術研究所の研究員は、敗戦と同時に全員が逮捕されて処刑された。よって、誰もおらぬ魔導技術研究所に乗り込んだ私は、無造作に本棚に押し込まれていた禁書を回収し帰還しようとしたのだが、隠滅するべき事実の有無を確認すべきだと判断し、一昼夜留まってその場にある本や書類などを全て読み潰した。そこで見つけたのが、ウィリアム・サンダースの署名が書き込まれた、キースの魔導兵器の設計図であった」

 フィフィリアンヌは身を傾げて引き出しを開け、大判の紙を取り出して広げた。ひどく複雑な機械の設計図だった。

「これは写しだ。本物は私の城に保管してある。当初、これはウィリアム・サンダースが死したから放置されていたのだと思っていたのだが、研究員や連合軍がこんなものを放置していくはずがない。普通であれば、即刻に焼却処分を行うはずだ。だが、よく見るとこの設計図が書かれていた紙はただの紙ではなかった。魔法が施されていて、特定の人物でなければ設計図が見えないようにされている魔力反応紙であったのだ。その人物というのは、当然ながらウィリアム・サンダースとキース・ドラグーンだ。だが、術者であるキースが死んだので魔法が弱まっていたために、私でも内容が見えたのだ。ウィリアム・サンダースは、自分以外の誰にも見えないと思っていたために、様々な情報を残しておいてくれた。表こそ設計図だが、裏はウィリアム・サンダースの日記と化していた。その内容はと言えば、旧王都に見捨ててきた娘への心配というよりも見苦しい執着心や、キースが死した後の不安や自戒や懺悔などの読むに値しない文章ばかりであったが、最後の一文は違っていた。神はおられた。敵こそが味方であり、味方こそが敵であったのだ。私は生きる。そして彼らも生きている」

 フィフィリアンヌは設計図を折り畳むと、傍らに置いた禁書の上に載せた。

「彼ら、とは魔導兵器三人衆を指し、敵、というのは連合軍を指している。ウィリアム・サンダースは処刑されたわけではなく、連合軍に連行されただけであった。他の研究員も、使い道がありそうな者はそうされていたようだ。だが、それでは連合軍の面目が立たないので表向きは処刑したと公表していたのだ。だが、たったこれだけの情報では私は動く気は起きなかった。大した利益も望めないのに敢えて危険に身を投じるのは、ニワトリ頭の仕事であって私の仕事ではない。だが、そこへファイドが情報を持ち込んできた。奴は医者という仕事柄、連合軍の中にも出入りをしているようでな、たまに私も知らぬ情報を持ってくることがある。魔導兵器三人衆の情報もそれだ。最初こそ私も半信半疑ではあったのだが、ファイドの言っていた連合軍基地に出入りしている者達から情報を引き出してみると、ウィリアム・サンダースと思しき人物がいることが判明した。基地内にある作業所からは、魔力を多量に含んだ工業廃水が流れ出しており、魔導金属を加工していることは明白だった。更なる調査を続けた結果、製作されているのは三体の魔導兵器であり、いずれもキースの設計図に書かれていたものと酷似していた。さてどうするかと思案していたところ、ウィリアム・サンダースが何者かに暗殺された」

 頭痛を堪えるように、フィフィリアンヌは細い人差し指でこめかみを押さえた。

「その犯人はグレイス・ルーであり、あの男もまた連合軍に潜入しておったのだ。奴と関わり合いになりたくなかったが、三体の魔導兵器が連合軍の兵器として汎用されてしまえば厄介なことが起きるのは間違いない。そこで私は、三体の魔導兵器を奪取することにした。奪取作戦は呆気ないほど簡単に終わり、私は三体の魔導兵器を奪ったのはいいのだが、それをどこへ隠すかで少々迷ってしまった。当初は城にでも持ち帰ろうかと思っていたのだが、何分どいつもこいつも性格が悪くてならん。しかし、放り出すわけにもいかない。そこで、ブリガドーンに目を付けたのだ。ここならばそう簡単には見つけられんし、これは魔導鉱石の固まりも同然の物体だから魔導兵器の調整に必要な魔力には事欠かんからな。三体の魔導兵器はそれぞれに魂を有した魔導鉱石を填め込まれておったのだが、処理が甘かったために奴らの自我は希薄だった。そこで、私は奴らの魂を調整する傍ら、暇潰しにブリガドーンの研究と探索を始めた。それが、今から一年半と二ヶ月半程度前の出来事だ」

 ようやく、フィフィリアンヌの平坦な言葉が止んだ。ロイズはリリと顔を見合わせたが、リリはきょとんとしている。

「どこからどこまでがゼンテイなの?」

「さあ…」

 ロイズも解らなかったので、首を捻った。フィフィリアンヌは机の上からワインボトルを取ると、栓を抜いた。

「解らぬのであれば、それでも構わぬ」

「それで、その無駄に長いだけの前提と、私達を攫った理由にはどういう関連性があるのかしら?」

 不機嫌そうに、ヴィクトリアが呟いた。フィフィリアンヌは手近なワイングラスにワインを注ぎ、傾けた。

「貴様らがここへ来た理由などない。言ってしまえば、事故に近い。フリューゲルがリリを連れてきたのも、ラオフーがロイズとヴィクトリアを連れてきたのも、どちらも奴らの独断だ。私の命令ではない」

「だったら、早く帰してほしいわ。不愉快だわ」

「帰りたければ、自力で帰るがよい。もっとも、不可能だがな」

 ワインを半分ほど飲み干したフィフィリアンヌは、手の中でグラスを揺らして赤紫を波立たせた。

「ブリガドーンから地上に降りることは、翼を持ち得ない貴様らには物理的に不可能だ。それでなくとも、ブリガドーンの周囲の空間は、ブリガドーンから生じている多大なる魔力によって歪んでいる。だから、真下に向かったとしても地上に降りられることはない。空間転移魔法を使ったとしても、貴様ら程度の魔力と腕では発動もせんだろう」

 ロイズは、フィフィリアンヌのまくし立てた理屈っぽい言葉の数々がぐるぐると頭の中を巡り、かなり混乱していた。
リリの言うように、どこからどこまでがゼンテイなのかすらが解らない。個人の名前ぐらいしか、聞き分けられない。
フィフィリアンヌの口調自体は、金属音のように硬質で発音も恐ろしく明瞭なので、聞きづらいと言うことはない。
だが、早い。フィフィリアンヌはその内容を充分理解しているから、次から次へと滝のように言葉を吐き出してくる。
ロイズやリリが理解しようとした傍から、次の面倒な言葉が並べられるので、聞いているだけで精一杯であった。
ヴィクトリアも、顔だけは解ったふうにしているが、その実は解っていないのかもしれない。きっと解っていない。
その証拠に、先程からずっと機嫌を損ねていて、そっぽを向いている。世の中には、上には上がいるのである。

「さて、本題だ」

 フィフィリアンヌはワイングラスを空にすると、すぐに新しいワインを注いだ。

「私が禁書を集める目的とブリガドーンに留まる理由を話してやろう」

「え」

 リリが口を半開きにして、眉を下げた。明らかに嫌そうだ。フィフィリアンヌの赤い瞳が、リリに向く。

「なんだ、もう飽きたのか。貴様の母親はもう少し根性があったのだが」

「だって…フィル婆ちゃんのお話、長いし、それに、なんだか」

 つまんないもん、と拗ねてしまったリリは唇を尖らせた。ロイズはリリを見ていたが、フィフィリアンヌを見やった。
フィフィリアンヌは表情こそ変わっていなかったが、僅かに目を細めていた。見ようによっては、不機嫌そうだった。
 怒るのかな、とロイズは不安になった。フィフィリアンヌは顔立ちこそ美しい少女だが、その雰囲気は恐ろしい。
威圧感があるのだ。父親のダニエルから感じるものよりもずっと分厚い、押し潰されそうな雰囲気を漂わせている。
絶対に怒らせてはいけない相手だ、とロイズは本能的に悟った。竜族の恐ろしさは、両親からも教えられている。
フィフィリアンヌは退屈そうなリリと不機嫌極まりないヴィクトリアを見比べていたが、ロイズへと視線を向けてきた。

「ロイズ、貴様はどうだ」

「え?」

 急に話を振られ、ロイズは目を丸める。フィフィリアンヌは、たおやかな仕草で頬杖を付いた。

「どうなのだ、と聞いておるのだ。そこの小娘は私が気に食わないから私の話が不愉快なのであり、リリは私の長話に飽き飽きしているのだ。リリは四日前にブリガドーンへ連れてこられて、それからほとんどの時間を私かフリューゲルが相手をしておるのだが、どうも私は幼子の扱い方を忘れてしまったようでな。リリの気に入るような話が思い出せないのだ。フリューゲルはリリのことを気に入っているようなのだが、あれはリリよりも知性が幼いので会話が成立せんのだ。だから、リリは退屈しておるのだ。幼子なのだから、それは仕方なかろう。だが、貴様は違う。貴様は私と初対面だ、色々と聞きたいこともあるだろう。疑問があるのならば、問うてみよ。これ以上長話をすればリリがふて腐れてしまうだろうから、答えは簡潔にしてやろう」

「えー、と」

 ロイズは戸惑いながらも、問い掛けた。一番気になっていたのは、このことだった。

「本当に、リリの婆ちゃんなんですか? 見た感じだと、ヴィクトリアと同じぐらいにしか見えないんですけど」

「実年齢は、数え年で五百八十六だ。外見など、魔法を用いればどうとでもなる。リリは、れっきとした私の末裔だ。血縁者であるのだから、そう呼ばれても不自然ではない」

「どうして、魔導兵器三人衆を従えているんですか?」

「禁書の回収を終えたら解放するという条件で従わせているだけだ。呪いの類で拘束しているわけではない」

「なんで禁書を集めていたんですか?」

「先程説明した通り、危険だからだ。回収が完了次第、全て処分する」

「ブリガドーンを研究していたって、どんなことを研究していたんですか?」

「魔導鉱石の魔力濃度測定、大規模な魔力の発生原理、空間湾曲現象発生の原因究明、地上の魔導鉱石鉱脈とブリガドーンとの反発作用、他にも色々とあるが割愛する」

「じゃ、どうしてブリガドーンに留まっているんですか?」

「研究を進めるためでもあるが、計算の途中なのだ。その計算を行うためには、ここにいなくてはならぬのだ」

「何を計算しているんですか?」

「ブリガドーンのでたらめに強力で不安定な魔力を制するためには、必要な作業なのだ」

「ブリガドーンを制御して、どうするつもりなんですか?」

「ブリガドーンを禁書ごと沈めてしまうのだ。安定性に欠けるブリガドーンを放置しておいては、いずれ爆砕してしまう可能性が高いからだ」

「沈めるって、どこへ?」

「決まっておる。海だ」

「ここ、って」

「現在、ブリガドーンは首都と大陸の海峡の真上に浮遊している。外に出れば見えるぞ」

 フィフィリアンヌは、上下式の窓を顎で示した。ロイズは立ち上がると窓に近付き、身を乗り出して外を見てみた。
最初に目に入ったのは、岩石だ。遠目では一色にしか見えなかったが、よく見ると違う物同士が組み合っている。
白っぽいもの、黒ずんでいるもの、きらきらと輝く筋が走っているもの、赤茶けたもの、灰色のもの、などと様々だ。
だが、海は見えなかった。ロイズは半信半疑ながらも目を動かし、岩が途切れている先を見下ろし、息を飲んだ。
 地表が、煌めいている。空よりも深い青の表面が波打つたびに光は形を変え、巨大な影の形も変わっていく。
見ていると、次第に記憶が解けてくる。母親が思念で伝えてくれた海の情景と同じ、いや、それ以上の景色だった。
 たまらなくなって、ロイズは窓を開けた。途端に強烈な風が吹き込んできたが、その匂いは知らないものだった。
廃墟の埃っぽさでもなく、草の青臭さでもなく、夜の冷たさでもなく、朝の柔らかさでもない、初めて知る匂いだった。
強い風でばたばたとカーテンが揺らめき、背後では本がめくれ上がっている音がしたが、まるで気にならなかった。
 これが、本物の海だ。そして海の先にある海岸線の向こうにあるのが、かつて異能部隊がいた首都に違いない。
ロイズは、瞬きをすることを忘れていた。痛いほど乾いた目を潤すために涙が勝手に滲み出し、目元に溜まった。

「質問は、もう終わりか?」

 やや語気を強めたフィフィリアンヌがロイズの背に声を掛けると、ロイズははっとして振り返った。

「あ、えっと」

 ロイズは涙を隠すために急いで袖で拭ってから、フィフィリアンヌに向き直ったが、急に空腹感を覚えて俯いた。
どうやら、随分長く眠り込んでいたらしい。空っぽになっている胃が締め上がり、情けない音を小さく立てていた。
フィフィリアンヌはそれに気付くと、とん、と机の上から飛び降りた。ワイングラスを机に置いて、奥へと向かった。

「話の続きは、食事の後にでもするとしよう。準備は終えてあるのでな」

「私、お手伝いする!」

 リリはすぐさま立ち上がると、フィフィリアンヌの翼の生えた背を追いかけていき、奥の台所に向かっていった。
ロイズはなんだか恥ずかしくなってきて、俯いたままだった。横目にヴィクトリアを窺うが、こちらを見ていなかった。
ロイズには、興味も持っていないのだ。そのことに少し安心しながら、ロイズは再度海を見下ろすべく外へ向いた。
 だが突然、外から窓が遮られた。何かの影に覆い尽くされ、風が弱まっている。何事かと、ロイズは身動いだ。
よく見るとそれは、上下逆さにへばりついているフリューゲルだった。鋼鉄の鳥人は、家の中を覗き込んでくる。

「くけけけけけけけけけけけけ!」

「う、わっ」

 思わずロイズがぎょっとすると、フリューゲルは窓の隙間から首を突っ込んできた。

「おいこらてめぇこの野郎、リリはどこにいやがる!」

「…台所」

 ロイズが背後を指すと、フリューゲルは窓から離れるとひっくり返って上下を元に戻し、着地した。

「んだよー、メシの時間かよこの野郎ー。せっかくオレ様が遊びに来てやったっつーのによー」

 ぐげげげげ、とフリューゲルは不満げに低い鳴き声を漏らしている。本当に、これとリリが仲良しなのだろうか。
フィフィリアンヌの話を信じるならば、リリとフリューゲルは友人ということになるが、すぐに信じられるものではない。
フリューゲルの性格がヴェイパーのように温厚であればまだ解るが、フリューゲルは柄も悪ければ言葉も乱暴だ。
とても、リリが好くような者には見えなかった。ロイズが余程怪訝な目をしていたのか、フリューゲルは睨んできた。

「んだよこの野郎、オレ様になんか文句でもあるってぇのかよ!」

「窓を閉めなさい。風が煩わしいのだわ」

 ヴィクトリアが不平を漏らすと、フリューゲルは窓から頭を突っ込んできた。

「やーなこった! オレ様はな、てめぇらの指図なんか受けねぇんだよこの野郎!」

「あら、言ったわね」

 不愉快さが極まったのか、ヴィクトリアの目が据わっている。ヴィクトリアは立ち上がると、すっと右手を挙げた。
魔法を放つつもりだ。フリューゲルもそれを察したらしく、威嚇するように頭を突き出してヴィクトリアを見据えた。

「あ、ダメだよ!」

 台所から皿を載せた盆を持って戻ってきたリリが、窓から頭を突っ込んでいるフリューゲルを見咎めた。

「ちゃんと玄関から入らないとお行儀が悪いよ、フリューゲル」

「えーめんどくせー」

「めっ、なんだから」

 盆をテーブルに置いたリリは、怒っている時のフィリオラのような強い口調で言い、フリューゲルを指差した。
すると、フリューゲルはいやに素直になり、窓から頭を引っこ抜いた。若干仕方なさそうに、玄関側に歩いていく。
リリは満足げに頷きながら、四人分の器を並べている。深めの器には、魚の切り身が入ったスープが入っている。
トマトがたっぷりと入っているのでスープの色は真っ赤で、立ち上る湯気には酸味混じりの匂いが混じっている。
他にも野菜が入っているらしく、スープよりも具の方が多かった。リリはまた台所に戻ると、次の皿を運んできた。
 今度の皿には、綺麗な焼き色の丸パンとチーズを切り落としたものが載せられていて、こちらもいい匂いがする。
最後に運ばれてきたのは、皮付きのまま蒸かしたイモを山盛りにした皿だった。だが、蒸し立てではないようだ。
それでも、腹が減っている時には充分すぎる量がある。早く食べてしまいたい、とロイズは料理を見つめていた。

「こんちゃー!」

 扉が全開にされ、フリューゲルが入ってきた。人数分のスプーンを運んでいたリリは、足を止めて笑いかける。

「はい、いらっしゃい」

「なぁなぁなぁ、オレ様の分ってあるのかこの野郎!」

「だから、フリューゲルはご飯を食べられないんだってば。でも、一緒にご飯にしようね。その方が楽しいよ」

「わーいわーいわーい!」

 子供のように無邪気な歓声を上げ、フリューゲルは両手を上げた。ロイズは、妙な気持ちでそれを眺めていた。
フリューゲルは、恐ろしく速度の速い魔導兵器であり、その両腕に付いている翼の切れ味は剣のように凄まじい。
彼の翼が竜人と化したフィリオラの翼を切り落とす様を、この目で見ている。だから、この光景が信じられない。
穏やかで心優しいフィリオラがあれほどまでに激怒した理由は、もちろん、フリューゲルがリリを攫ったからだ。
理性を失って竜と化した末に、フリューゲルに襲い掛かっていた。だがフリューゲルは、躊躇いもなく応戦した。
そして、フィリオラの翼を切り落としてしまった。まさかリリは、その出来事があったことすら知らないのだろうか。

「ねえ、リリ」

 ロイズは、スプーンを並べているリリに近付いた。リリは手を止め、顔を上げる。

「もうちょっと待ってね、ロイ。今、フィル婆ちゃんがお茶の準備をしているから」

「どうして、フリューゲルなんかと仲良く出来るの? あれは、フィリオラ小母さんを攻撃した奴なんだよ」

 ロイズは顔を強張らせ、リリに詰め寄った。リリは、エプロンで両手を拭っている。

「知っているよ。この間のことは、フリューゲルからお話してもらったもん」

「じゃあ、なんで一緒にいるのさ! 怖くないの、リリ!」

「だって」

 リリは、笑った。

「私は、ヒトゴロシなんだもん。だから、もうおうちには帰らないの。お父さんとお母さんにも、会っちゃいけないんだ。怒られちゃうから。それにね、ロイ」

 リリはフリューゲルに振り返り、目を細めた。

「ヒトゴロシとお友達になってくれるのは、ヘイキだけなんだ」

 フリューゲルもリリを見下ろしていたが、その赤い瞳もにいっと細められた。フリューゲルもまた、笑っていた。
ロイズはリリの口から出た言葉だと信じたくなかったが、先程の言葉は間違いなく、リリの声で紡がれていた。
 なぜ笑う。なぜ帰りたがらない。ロイズはリリが見知らぬ者に変化したような錯覚に陥り、後退りそうになった。
これは、ロイズの知っているリリではなかった。ロイズの知っているリリは、明るく朗らかで素直な少女だった。
だが、ここにいるリリは違う。自分のことをヒトゴロシだと言い、母親を傷付けた相手と笑顔を交わし合っている。
リリの形をした、リリではないものだ。ロイズはにこにこしているリリを見据えていたが、唾を飲み下し、言った。

「それ、嘘だよね?」

「嘘じゃないよ」

 即答したリリは、フリューゲルの骨のような形状の長い足に擦り寄った。

「ね、フリューゲル」

「おう! リリはな、すっげぇんだぞ! リリの炎でな、二人も一気に焼いちまったんだからな!」

 くけけけけけけ、と上体を反らして笑うフリューゲルに、リリはしがみついた。

「ね?」

 ロイズはたまらなくなり、顔を背けた。これは現実なのか。自分はまだ眠っていて、夢を見ているのではないか。
だが、夢にしては空腹感は生々しく、喉の奥にはフィフィリアンヌの飲ませてくれた魔力鎮静剤の味が残っている。
 その後、ロイズは、フィフィリアンヌが作った白身魚とトマトのスープと蒸かしイモと丸パンとチーズを平らげた。
スープは辛味が強かったが味は良く、腹も膨れたが、食事を楽しめるような気分ではなかったので黙っていた。
ヴィクトリアは食事中も不機嫌なままだったので、目の前にある食べ物を黙々と口に詰め込んでばかりだった。
けれど、リリだけは違っていた。フリューゲルとフィフィリアンヌとのお喋りに興じ、声を転がして笑うことすらあった。
その姿は以前のリリと同じだったが、先程のことがあるため、ロイズには以前と全く同じだとは思えなくなっていた。
それどころか、おぞましさすらあった。そのせいか、食後にはカボチャのケーキが出されたが味が解らなかった。
 気落ちした表情で黙々とカボチャのケーキを食べるロイズと、妙にはしゃいでいるリリとフリューゲルが対照的だ。
ヴィクトリアはその様子を横目に見ながら、ケーキを口に押し込んでいた。思っていたよりも、結構美味しかった。
それがまたなぜか悔しくて、苛立ちは増してくる。普段は、甘いものを口にすればすぐに元通りになるというのに。
ブリガドーンにいたところで、面白いことは一つもない。これ以上、こんな場所にはいたくない。もう、城に帰りたい。

  すぐにおわりますから。ほんのすこしの、しんぼうです。

 声が、直接頭の中に響いた。ヴィクトリアは、誰の声かと振り返ってみたが、誰の声にも似ていない声であった。
リリのものとは根本的に質が違い、フィフィリアンヌであるわけがなく、増してロイズとフリューゲルのはずがない。
あれは、少女の声だった。とても懐かしく、また聞きたいと思ってしまうほど温かくて、苛立ちが静まってしまった。
しかし、音として聞いたのではない。精神感応のように思念に変換された意志を、どこからか流し込まれたのだ。
一体どこから。そして、誰が語り掛けてきたのだろう。ヴィクトリアは悩みながら、湯気が上るティーカップを取った。
 すぐに終わるのなら、少しぐらいは辛抱出来るかもしれない。





 


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