ドラゴンは滅びない




戦端



 風に混じる潮の匂いが、過去を思い出させた。
 レオナルドは、幼い子供であった頃に首都へ連れてこられ、異能部隊へ捨てられたことを思い出してしまった。
いい歳になっても、あの時のことを思い出すと恐ろしさと空しさに苛まれる。心の傷というものは、とても治りにくい。
体の傷は時間さえ経てばどうにでもなるが、心は違う。ブリガドーンへ連れ去れたリリも、傷を負っているだろう。
少なくとも、普通ではないはずだ。助け出したら目一杯可愛がって安心させよう、とレオナルドは内心で誓った。
向かい側に座るブラッドは、ダニエルが今日の夕食として作ったあり合わせのスープを食べたが、顔をしかめた。

「塩辛ぁ」

「水で薄めろ。オレが暖めてやる」

 レオナルドが言うと、ブラッドはスープの器に水筒を傾けて水を注いだ。

「ていうかこれ、海水なんじゃね? それくらい辛ぇんだけど」

「どいつもこいつも料理が下手なんだよなー、異能部隊ってのは。オレのせいかもしれねぇが」

 二人の傍に座るギルディオスが、楽しげに笑った。ブラッドはスープの器を、レオナルドに渡した。

「でも、いくらなんでもこれは有り得なくね?」

「男ばっかりだと、味なんかどうでもよくなっちまうからなぁ。喰えりゃいいって感じだから」

 レオナルドはブラッドから受け取った食べかけのスープに視線を注ぎ、湯気が上ってきたところで止めた。

「加減はしたが、沸騰する直前ぐらいの温度だから気を付けろ」

 レオナルドは、器をブラッドに返した。その通りの熱さだったので、ブラッドは器を取り落としそうになった。

「うわっちゃ!」

「悪かったな、下手で。だが、私は料理に海水を使うほど馬鹿じゃない」

 と、ダニエルは呟いて、ブラッドの手から落ちそうになっている器を念動力で止めた。ブラッドは、器を持ち直す。

「ありがと、ダニーさん」

「君らって本当に便利だよねぇ、こういう時は」

 ブラッドと同じようにスープを大分薄めてから食べていたリチャードは、器を傾けて残りのスープを啜った。

「逆を言えば、こういう時じゃなかったら全然役に立たないんだけどね。あー、もうちょっと薄めるべきだったかなぁ。これじゃ喉が乾いちゃってどうしようもないよ」

 確かに疲れてはいるけどさ、と言いながらもリチャードは最後の一滴までスプーンで刮げ取り、食べた。

「海かぁ。なんか、すっげー懐かしいかもしんね」

 ブラッドはかなり熱せられたスープを掬い取り、飲み下した。尻の下に感じる土の感触は軽く、ざらついている。
絶え間なく聞こえる波の音は、昼ならば心安らぐかもしれないが、夜となるとどことなく不気味な雰囲気があった。
といっても、海の間近にいるわけではない。海岸線沿いにある、かつては港町であった廃墟に身を潜めていた。
 ブリガドーンを目指して進んだヴァトラス小隊は、北西に進んだ。ブリガドーンが、海峡に浮かんでいたからだ。
首都のある島と大陸の間にある海峡で、それなりに幅が広く、蒸気船を用いても一日半は掛かってしまう距離だ。
ブリガドーンは、丁度その中間に浮かんでいる。ゼレイブを出発した当初は小さく見えたが、今では巨大だった。
近付くに連れて、ブリガドーンから感じられる魔力量が尋常ではないことを、ヴァトラス小隊の全員が悟っていた。
この町へ来てからというもの、皆、少しも気が休まらなかった。魔力が濃すぎるため、気が立って仕方ないのだ。
過剰な魔力は、魔力中枢を揺さぶるので感覚が大いに刺激する。そのため、誰一人も眠気を感じていなかった。
ブリガドーンで待ち受ける魔導兵器三人衆や、海の向こうにいるであろう連合軍との戦いのためには休むべきだ。
そうは思うが、大きな戦いの前の緊張感と興奮も手伝って落ち着かなかった。いつ、敵が来るとも解らないのだ。
 彼らが留まっている廃屋から離れた、倉庫街の屋根にはラミアンが立ち、じっと暗黒の海に目を凝らしている。
この中では、ラミアンが最も夜目が利く上に視力が良い。ブラッドも良いが、魔導兵器にはさすがに負けてしまう。
魔導兵器は、ものを見る時には眼球を使わずに感覚そのもので感知しているから、どれだけ遠くても見えるのだ。
ラミアンは倉庫から軽く跳ね上がると、近くにある建物の屋根を二三回跳ね、あっという間にこちらに戻ってきた。

「お帰り、父ちゃん。で、どうだった?」

 ブラッドが尋ねると、廃屋の中に入ってきたラミアンは凝りを取るように首を曲げながら答えた。

「あまり、芳しいとは言えない。首都近辺の海岸線沿いに軍艦が停泊しているのは見えたが、どうも静かすぎる」

「具体的には?」

 ギルディオスが問うと、ラミアンは頷いた。

「連合軍基地の明かりが少ないのが気に掛かります。このご時世ですから燃料を浪費したくないのは解りますが、あれほどの軍艦を停泊させている基地です、明かりが多くなければ逆に不自然でなりません。そして、波です。今日は風が少ないので波も大分低いはずなのですが、本島の東側に見える波が乱れているように思えました。考えうるに、その方向に艦隊を隠しているのではないでしょうか」

「何のための軍艦だと思う?」

「恐らく、ブリガドーンと交戦するためではないでしょうか。私達を敵とするならば、軍艦など必要ないはずです。それならば、ダニエルがラオフーと出会った際に遭遇し、ギルディオスどのが匿おうとした脱走兵を殺害したという、二体の生体魔導兵器を向かわせるのが筋ではありませんか。私達の存在はその方面では知られているのでしょうが、グレイスどのほど危険視されているとは思えません」

 ラミアンの言葉に、レオナルドが変な顔をした。

「オレ達はともかく、ラミアンさんは充分危険視されているでしょう。旧王都の殺人鬼、アルゼンタムなんですから」

「失礼」

 ラミアンは苦笑してから、言葉を続けた。

「連合軍の異様な静けさと、島の影に隠れている軍艦から察するに、連合軍は対ブリガドーン撃墜作戦を展開する直前なのではないでしょうか。だとすれば、私達は、極めて危険な状況の中に飛び込んだということになります。この状況で魔導兵器三人衆との戦闘を開始すれば、私達も魔導兵器三人衆と同様に攻撃目標になるのは間違いないでしょう」

「そりゃ、そうかもしれねぇな」

 ギルディオスの答えに、彼の足元に転がされていたフラスコの中でスライムが波打った。

「随分と楽観視しておるようだな、ギルディオスよ」

「別に楽観視はしてねぇよ。オレはそんなに剛胆な人間じゃねぇ。予想通りだって思っただけだ。本土で連合軍の姿をまるで見かけねぇと思ったら、案の定本島に来てやがった。その目的も、まあ予想通りだな。ダニーがラオフーと初めて会った時に生体魔導兵器共が、連合軍はブリガドーン攻略に必要な人員を探しているって言っていたみてぇだし、脱走兵のジム・マクファーレンも近々大きな作戦を展開するってことを言っていたしな。無政府状態でぐだぐだな共和国内で、でかいと言えるような攻撃目標があるとしたらそりゃ、ブリガドーンしか考えられねぇだろうが。革命軍の真似事をしている連中もいないわけじゃないらしいが、どれもこれも小せぇしな。ついでに、グレイスの野郎が見当たらないのも気になるが、たぶんあいつはあっちにいるんだろうぜ」

 ギルディオスは、対岸を顎で示した。ブラッドは空になった器を置き、その視線の先を見やった。

「連合軍ってこと? でも、それってなんかおかしくね?」

「いや、これといって不思議なことなど何もないのである。あのおかしな呪術師は大きな組織に取り入ることを得意としておる上に好きなのである。それ故、過去に奴は王国の王家のみならず帝国の皇族にも取り入り、挙げ句の果てには両国の上級貴族にも手を出していた始末なのである。まあ、その趣味は我が輩にも理解出来ぬことはないのであるが」

 はっはっはっはっはっはっはっは、と表面をぶるぶると揺らす伯爵を、ギルディオスはつま先で蹴った。

「あの変態野郎は、どういう形であれ、人がどっさり死ぬのが大好きなんだよ。だから、ブリガドーンよりも連合軍に興味が惹かれてもおかしくねぇのさ。それに、生体魔導兵器なんつーのはもろにあいつの趣味だからな。どうしても解っちまうんだよ、付き合いが長いから」

「本当にそうであれば、どうするおつもりで?」

 ラミアンに問われ、ギルディオスは両手を上向けた。

「今度もまた、いつものことだって思うだけさ」

「いつもと言いますと、そんなに頻繁にあの呪術師と交戦していたのですか」

 渋い顔をしたダニエルが呟くとギルディオスは、まぁな、と肩を竦めた。

「但し、今までと決定的に違うのは敵の規模だな。魔導兵器三人衆もそうだが、連合軍そのものも、火力が桁外れに大きい。オレ達は力こそ普通じゃねぇが、砲撃に耐えられるとは思えねぇ。オレとラミアン、ヴェイパーも例外じゃない。軍艦の砲撃を至近距離で受けたら、一発でヴァルハラの女神さんにお会い出来る。そこでだ、リチャード」

「はい、なんでしょう?」

 名を呼ばれ、リチャードはギルディオスに向いた。ギルディオスは、海岸を指す。

「リチャード、お前はレオと海側を固めろ。オレ達が魔導兵器三人衆と戦っている間は、連合軍を食い止めてくれ。邪魔が入るとやりづれぇし、流れ弾なんかで死んだらメアリーに腹の底から笑われちまう」

「妥当な判断ですね」

 リチャードは同意し、頷いた。

「そういうことなら、僕とレオは最初から戦列から離れて別行動を取った方がいいですね」

「ああ、それがいい。現場の指揮はリチャードに任せる」

 ギルディオスはリチャードに頷いてやってから、で、と仲間達を見渡した。

「ラミアンはフリューゲルを、ラッドはルージュを、オレとヴェイパーはラオフーを叩く。フリューゲルの並外れた速度に付いていけるのは、身が軽いラミアンだけだ。で、ラッドは、まだちょっと納得してねぇがあの女を任せてやらぁ。一番手強いのは、間違いなくラオフーだ。だから、オレとヴェイパーの二人で叩き潰してやる。あのキンキラキンの鉄槌もそうだが、奴本体の頑丈さも恐ろしいからな。正攻法で勝てるとは思えねぇから、ちょいと不本意だが二人掛かりで行こう。で、最後にダニー」

 ギルディオスはダニエルに、砂埃で少々輝きの鈍ったヘルムを向けた。

「お前はブリガドーンへ突入し、子供らを救出しろ」

「私ですか」

 少々戸惑ったように、ダニエルはギルディオスを見返した。

「ですが、そうした役割ならば魔法に長けたリチャードの方が」

「あのねえ、ダニーさん。魔導師ってのは、最前線に立つような職業じゃないんですよ。そりゃ、呪文詠唱を省略した実戦型の魔法もあるにはあるけど、僕の得意分野じゃないんですよ。それに僕は、いちいち魔法陣を組み上げないといけないし、戦争犯罪人で元共和国軍少尉といっても本当は魔法大学の一講師だったわけで、書類が積み重ねられた載った机と古くさい魔導書に向かい合っているのが相応しいんですよ。そんなのが、あんな魔力の化け物に突っ込んでも良い結果は出ませんってば。だったら、戦歴三十何年の軍人さんにお任せした方が何十倍も確実じゃないですか。僕でもそういう判断はしますよ。レオもそう思うでしょ?」

 リチャードに話を振られたレオナルドは、ダニエルを見やる。

「オレもそう思う。オレの力はせいぜい辺りを燃やし尽くすしか能がないが、ダニーの力は違う。応用が利くし、経験も充分すぎるほど充分だ。これ以上ないくらいの人選だ。お前ほどの男だったら、躊躇うこともあるまい。自分の子を助けに行くんだ、やる気が出ないはずがないだろう、ダニー」

 レオナルドの眼差しは、有無を言わさぬ迫力が込められていた。捨てる前にまず救ってやれ、とも言いたげだ。
ダニエルはレオナルドを見返し、唇を締めた。ギルディオスに向き直ると、素早く右手を挙げて伸ばし、敬礼した。

「了解」

「なら、これで決まりだ。んで、リチャード。ちょいと頼みがあるんだが」

 ギルディオスは、胸の辺りに拳を当てる。

「一時的でいいんだが、オレの魔力中枢をいじって魔力最大値を引き上げられるか」

「要するに、魔法能力を強化したいわけですね。まぁ、出来ないこともないですけど、それをやるんだったら全員の方がいいですね。戦力の釣り合いも取れるし、理論上は相互作用で安定率が高まるはずだし、となればー…」

 ぶつぶつ言いながら自分の荷物を探ったリチャードは、白墨を取り出すと石畳にしゃがみ込んだ。

「ほら、魔法陣を描くからそこ退いて。こういうことは早い方が良いから」

 リチャードはブラッドとレオナルドを追い払ってから、石畳の床に膝を付き、がりがりと白墨を動かした。

「魔力最大値の引き上げ、というより、無意識の抑制を解除した方がいいかな。その方が、肉体的にも精神的にも負担が少ないかもしれない。とすると、ここはエズヴァでここはオルス、対角線上にシューラ、ロロイ、同時に固定の魔法も掛けなきゃならないわけだから、魔法文字の数は増やしてやってー…」

「となれば、ここはウェゼラではないかね?」

 と、ラミアンは魔法陣の前に膝を付き、爪先で示した。ああ、とリチャードは顔を上げる。

「そっちの方が効率がいいかもしれませんね」

 魔導を研究していた者同士、話が合うのだろう。二人は魔法文字の単語を言い合いながら、仕上げていった。
たまに意見の相違があるようだったが、言い合っている暇がないと判断し、すぐにどちらかの意見を採用した。
魔法陣が大掛かりなので、時間が掛かっていた。大人二人を並べたほどの直径があり、魔法文字も多かった。
時折、納得が行かない部分を修正しながら進めているので、二人がかりで描いてもなかなか手間取っていた。
そうこうしている間に、見回りに出ていたヴェイパーが戻ってきた。床の魔法陣の大きさには、彼も驚いていた。
 食事を作る際に灯した焚き火が大分小さくなった頃、魔法陣は完成し、リチャードは腰を押さえながら起きた。
ラミアンもずっと屈んでいたのが辛かったのか、首を回して関節を鳴らした。リチャードは、ヴェイパーを手招く。

「ヴェイパー、ちょっと来てくれる?」

「あ、はい」

 ヴェイパーはリチャードに誘われるがままに、魔法陣の中に入った。リチャードは、次にブラッドを手招く。

「で、ブラッドも。真ん中に立ってくれる?」

「一度に二人、ってことはねぇよなぁ」

 訝しみながらも魔法陣に入ったブラッドは、その中心にある六芒星の中に立った。

「ヴェイパー、しばらくブラッドを取り押さえていて」

 リチャードに言われ、ヴェイパーはちょっと考え込んでからブラッドの両肩を押さえた。

「こう?」

「そうそう」

 リチャードは頷きながら、ブラッドに近付いていった。ブラッドは嫌な予感がして、後退ったが下がれなかった。

「だから、これから何すんだよ、リチャードさん」

「僕だって、本当はこんなことをやりたいわけじゃないんだけど、なにせ時間がないから我慢してね。僕も我慢する」

 リチャードは杖の先を、魔法陣に叩き付けた。その途端に、魔法陣の内側の空気がかすかに熱を帯びた。

「彼の者に漲りし魔性の力よ、彼の者の御魂を守りし理性の枷よ、彼の者を成せし肉の器よ、我が声を聞け。原初の海より与えられ、無限の星より見守られ、父なる大地より抱かれしそなたの御魂を戒めしものに、神に代わりて我が命ずる。血の海と骨の檻より解き放たれることを、天上の神と万物の父より許されることを乞う。彼の者の御魂に、自由という名の悦楽を与えたまわん!」

 もう一度杖を振り下ろし、かっ、と石畳が叩かれる。リチャードは詠唱を終えると一息吐き、ブラッドに向いた。

「場の設定はこれで良し。じゃ、本題ね」

「え、終わりじゃねぇの?」

 ブラッドが身動ぐと、リチャードはにんまりしながら近付き、ブラッドの顎を手に取った。

「これからが本番に決まっているじゃないか。しかし、君って可愛い顔してるよねぇ。子供の頃も女の子みたいな顔をしていたけど、大人になったら本当に綺麗になっちゃってまぁ。これで態度さえ可愛かったら完璧なんだけど」

「なに」

 言ってんだよ、と言おうとしたが押さえ込まれてブラッドは仰け反った。リチャードの顔が、すぐ目の前にあった。
唇に慣れない感触があり、口にぬるついたものが差し込まれる。何をされているのか理解し、血の気が引いた。
慌てて押し退けようとしてもヴェイパーの両手を押さえられ、足を上げようとしてもリチャードの体に阻まれた。
他人の舌が自分の舌に絡む感触は温かく、リチャードの仕草がいやに優しいのが、余計に嫌悪感を増させた。
ブラッドは、力の限り抵抗を続けた。なんとか膝を曲げてリチャードと自分の間に差し込むと、ぐいっと伸ばした。

「なにしやがんだあー!」

 やっとの思いでリチャードを引き離したブラッドが絶叫すると、リチャードは後退り、口元を拭った。

「何、その初々しい反応。もしかして、やったことなかった?」

「あるもなにも、あるわけねぇだろうがこんちきしょー! オレの、オレの、オレの初体験奪いやがってー!」

 血ぃ啜ってやろうじゃねぇか、と暴れながら喚き散らすブラッドに、リチャードは目を丸くした。

「あらま。それは悪いことをしたねぇ」

「あれだけ好きだと言っておきながら、ルージュを押し倒しもしていなかったのか。てっきり、一発やらかした後かと」

 レオナルドが意外そうにすると、ダニエルも同調した。

「私もだ。お前は血の気が多いから、とっくに一線を越えたのかと思っていたのだが、そうではなかったのか」

「あったりまえだあー! ていうかするわけねぇだろうがー! 吸血鬼をなんだと思ってやがるー!」

 力一杯反論したブラッドは、息を荒らげて肩を上下させた。リチャードは、ブラッドに手を翳して制する。

「ああ、あんまり興奮しない方がいいよ。さっきので魔力最大値を解放したから、ちょっとでも頑張ると」

「あ」

 すると、ヴェイパーがブラッドの肩を離した。めりめりと二本の骨が迫り出して、彼の服の背中から突き出た。
ブラッドが振り向くと、マントの下から一対の翼が生えていた。出すつもりはなかったのに、出てしまっている。

「出ちまった」

「うん、だからそれ以上興奮すると、銀色の獣とやらになっちゃうから気を付けてねって言いたかったんだけど」

 リチャードの遅れた忠告に、ブラッドはむっとした。

「早く言ってくんね、そういうこと」

「言う前に君が暴れたんじゃないか。そうかぁ、初めてだったのか。微笑ましいなぁーもう」

 リチャードがにやけると、レオナルドが笑った。

「だから早く女を喰っておけと言ったんだ。もう遅いが」

「とりあえず、口を洗ってこい。少しは気が楽になるだろう」

 ダニエルが海を指すと、ブラッドはその方向に歩き出した。

「うん、そうする。ていうか、そうでもしねぇとやってらんねぇよ」

 マジ最悪、とぼやきながら海へ向かうブラッドの翼の生えた後ろ姿が、暗闇の中に消えた。

「さて」

 ブラッドを見送ったリチャードが他の者達に向くと、レオナルドは迷わずにダニエルの背を押した。

「さあ喰え兄貴、次の生け贄だ!」

「待て、生け贄とは何だ! そもそもなぜ私なんだ、レオ!」

 ダニエルがレオナルドに言い返していると、リチャードはダニエルに近付き、ぽんぽんと肩を叩いた。

「諦めようよ、ダニーさん。僕だって諦めている。好きでこんなことしているわけがないじゃない」

「しっ、仕方、ないですよ、この場合は。だって、ほら、非常時ですし、ね?」

 照れているのか妙に声を上擦らせながら、両手を広げたヴェイパーがにじり寄ってくる。

「待て、待ってくれヴェイパー、というかお前はそっちだったのか、いや、いや、これ以外の方法もあるはずでは!」

 珍しく動揺しながらダニエルは手を挙げ、念動力を放とうとしたが、その手を鋭い銀色の爪に挟まれてしまった。
それはラミアンだった。ラミアンはゆっくりと爪に力を込め、ダニエルの手のひらに痛みを与えながら首を振った。

「魔力中枢に直接作用を与えるためには、あの方法が最も効率的かつ最も有効なのだ。他の方法もないわけではないのだが、その方法ではどう見積もっても二三日は時間が掛かってしまうのだよ。一刻を争う事態なのだ、手間取るわけにはいかないのでね。紳士たるもの、妥協しなければならぬ時があるのだよ、ダニエル」

「止めて下さい、少佐! いやむしろ、リチャードを斬ってくれませんか!」

 たまらずにダニエルはギルディオスに救いを求めたが、ギルディオスはぐっと親指を立てて励ましてきた。

「頑張れよ、ダニー! これも戦いだぜ!」

「じゃ、そういうことで」

 リチャードの言葉が合図であったかのように、ヴェイパーはダニエルをひょいっと持ち上げて魔法陣まで運んだ。
ダニエルが念動力を放つよりも先に両手を押さえたリチャードは、彼との身長差を埋めるため、かかとを上げた。
ダニエルの声にならない悲鳴と必死に抵抗する様を横目に見つつ、レオナルドはこれから訪れる悪夢に戦慄した。
誰が好き好んで実の兄と、しかも四十歳の中年と口付けするというのだ。帰ったら、目一杯妻に甘えてしまおう。
消毒、というわけではないが、兄との口付けを忘れるにはそれしかない。そういえば昔、グレイスにもやられた。
あの直後もフィリオラで消毒したなあ、と、どうでもいいことを思い出して、レオナルドは全力で現実逃避をした。
だが、無情にも番は回ってきた。憔悴しきったダニエルを放ったヴェイパーは、レオナルドに掴み掛かってきた。
その仕草がいやに嬉しそうで、なんだか怪しかった。そして、レオナルドは三十六歳にして実兄の唇を味わった。
その後、ギルディオス、ラミアン、ヴェイパーと次々にリチャードに口付けられたが、伯爵だけは除外されていた。
当然である。伯爵は非戦闘員なので、魔力最大値を引き上げる必要がないのだ。よって、伯爵は大いに喜んだ。
 海水で口を徹底的に濯いだブラッドが帰ってくると、そこには屍のようにぐったりしている男達が並んでいた。
特にひどいのがダニエルで、死体を見ても顔色を変えないはずの彼が、真っ青になって口元を押さえていた。
レオナルドも顔色を失っており、ギルディオスはがっくりと項垂れ、ラミアンはひたすらジョセフィーヌに謝っていた。
事の発端であるリチャードも乗り物酔いのような顔をしており、魔法を使った疲労とは別の疲労に襲われていた。
だが、ヴェイパーだけは違っていた。少女のような可愛らしい座り方をして口元に太い指を添え、恥じらっている。
その様子を見たブラッドは、なんともいえない不可解さと戸惑いを感じたが、やり過ごしてしまうことに決めた。
 程なくして戦いが始まるのだから、これぐらいのことで動揺していてはきりがない。とは思うが、まだ無理だ。
無意識の魔力制御を魔法で解除されたために、体内の魔力が高ぶっている影響で神経もかなり立っている。
ブラッドよりも遥かに経験豊富な皆がここまで落ち込んでしまうのも、魔力と共に神経が高ぶっているからだろう。
そうでもなければ、レオナルドやギルディオスはともかくとして、ラミアンやダニエルが青ざめるわけがないのだ。
 と、無理矢理に結論付けたブラッドは、マントを上げ、翼が飛び出してしまったせいで破れた背中を見下ろした。
せっかくの一張羅が、ひどいことになってしまった。だが、これから戦うのだから、翼は出したままで良いだろう。
少しでも、心身を高ぶった状態に慣らしておいた方が良い。ブラッドは目を上げ、暗闇に浮かぶ山を仰ぎ見た。
 もうすぐ、戦いが始まる。





 


07 6/19