ドラゴンは滅びない




麗しの君へ




 ロイズは、大いに後悔していた。


 我ながら、自分の考えの浅さと稚拙さが腹立たしい。それは、まともに異性を誘った経験がないのが原因だ。 全寮制の学校に通っていた十年間、黒人であるために友人が少ないこともあって女子生徒との交流はなかった。 同じく共和国から移住してきたリリとヴィクトリアとは接していたぐらいで、他の女子生徒を誘ったことは一度もなかった。 他の男子生徒が女子生徒を誘っている様は見たことはあったが、彼らと共に連んで遊びに出たことはなかった。 だから、どこへ行って何をしているのかは全く把握していない上、自己鍛錬にばかり時間を割くので流行に疎い。 十九歳の男にしては枯れていると思わないでもないが、何分稼ぎが少ないので、遊べる余裕がないのも現実だ。
 だが、だからといってこれはないだろう。ロイズは両手の釣り道具を見下ろしながら、自己嫌悪と戦っていた。 リリだったら良い考えを寄越してくれるとは思うが、肝心のリリは大学に進学して遠くの街へ引っ越してしまった。 思念で連絡を取ろうにも距離が開きすぎているし、かといって湾曲空間を短縮させて移動するわけにもいかない。 連合軍と国際政府連盟の監視の目は未だに緩むことがなく、少しでも気を抜いて力を使えば見つかってしまう。 そうなってしまえば、即座に拘束されてしまうことが目に見えているので、自分の足でなんとかするしかなかった。 しかし、リリの元へ行こうにも汽車賃が捻出出来ない上に、何よりそこまでしている時間は残されていなかった。
 今、ロイズが立っているのは、ヴィクトリアの家の裏口だった。朝っぱらに、正面の店から入るわけにもいかない。 それ以前に、正面の扉は閉まっているからだ。扉も窓も全て鍵を掛けられ、分厚い黒のカーテンも引かれている。 それに、今日が休みであると言うことはヴィクトリア本人から聞いているし、今日の日付も新聞で何度も確かめた。 誘うなら今日しかない、とは思うが、いざ誘いに来たら勇気が出なかった。子供の頃は、簡単に誘えたというのに。 しばらく悶々としていると、階段を下りる足音がした。去るべきか否か、とロイズが身動いだ直後に扉が開いた。

「おはよう!」

 こういう時は先に攻めるに限る、と腹を括ったロイズは畳み掛けた。

「天気も良いしどうせ暇だろうから釣りにでも行かないか!」

 扉を半分ほど開けたヴィクトリアは寝起きらしく、寝間着姿で長い黒髪は乱れ、表情も力がなかった。 新聞受けから新聞を取ったヴィクトリアは、ロイズを上から下まで眺め回していたが、可笑しげに笑みを零した。

「ええ、そうね。暇なのは違いなくってよ」

 新聞を脇に抱えたヴィクトリアは、家の中を示した。

「とりあえず、私の支度が終わるまで待っていなさい」

「ああ、うん」

 ヴィクトリアの反応がまともだったことに内心で驚きつつ、ロイズはヴィクトリアに従って裏口から家に入った。 二本の釣り竿とカゴを扉の脇に立てかけてから、扉を閉めて鍵も掛けた。階段を上るヴィクトリアの背を追った。 二階の居間に戻ったヴィクトリアはやっと目が覚めたらしく、ロイズに投げかけた視線は氷の如く冷え込んでいた。

「けれど、年頃の女性を誘うのに釣りはないんじゃなくって。子供ではないのだわ」

「僕もそうは思ったんだけどさ」

「まあ、あなたなのだから贅沢は言えないのだわ。私の稼ぎの半分も稼いでいないのだから」

「ボロいもんなぁ、占術師ってのは」

 皮肉とやっかみを混ぜてロイズが漏らすと、ヴィクトリアは新聞をテーブルに放った。

「元手がないのだから、儲かって当然なのだわ。まだ食べていないのなら、あなたの分も作ってあげてよくってよ」

「喰えっていうなら喰ってやるけど」

「だったら作らないのだわ」

 ヴィクトリアは不満げに眉を吊り上げ、着替えるために寝室に戻った。ロイズは、またもや後悔に襲われた。 なんでそういうことを言うんだ、と自分に苛立ったが、一度言ってしまったことは取り消せないので手遅れだった。 しばらくして、着替えを終えたヴィクトリアが戻ってきた。彼女にしては地味な色合いのエプロンドレス姿だった。 仕事の際は豪奢な髪飾りを付けて複雑に結い上げている黒髪も、鮮やかな赤いリボンで一括りにしているだけだ。 化粧も一切施していないので唇の色も柔らかく、目の縁にも色を差していないので眼差しの鋭さも鈍っている。 それだけ、商売用の格好がきついということだ。この方がいいと思うのだが、商売柄仕方ないのかもしれない。
 台所に立ったヴィクトリアは、自分の分のパンを切り分け、フライパンを出して卵とベーコンを一つずつ焼いた。 湯も沸かして紅茶を淹れていたが、気のない眼差しをロイズに向けてから、マグカップをもう一つ取り出した。

「作らないんじゃなかったのか?」

 ロイズが茶化すと、ヴィクトリアは紅茶を注ぎ終えたマグカップをロイズの目の前に突き出した。

「淹れないとは言っていないのだわ」

 ロイズは勝手に顔に浮かんでくる笑みを押し殺しながら、紅茶に口を付けた。途端に、強い甘さが広がった。

「甘っ」

「それでも甘くない方なのだわ」

 ヴィクトリアは砂糖壺を開けてスプーンを取り、紅茶に何杯も砂糖を入れ、朝食の皿と共に食卓に運んできた。

「喉乾かないか、それ」

 ロイズは呆れつつも、甘ったるい紅茶を啜った。ヴィクトリアは、パンを千切ってから囓る。

「別にどうということはなくってよ」

 ヴィクトリアが相当な甘党なのは、今に始まったことではない。大人になってからは度が過ぎている気もする。 働くようになって自分の思うがままに金が使えるので、手当たり次第に菓子を買って食べるようになったからだ。 だが、不思議なことに太らない。ヴィクトリアは、その分頭を使っているから肉に回らないのだ、と言い張っている。 真偽の程は定かではないが、太らないならそれに越したことはない。あまり体格が大きすぎると魅力が半減する。 ロイズはヴィクトリアを眺めていたが、ふと気付いた。ヴィクトリアの細く長い指に、大きな宝石の指輪が填っていた。 途端にロイズの心臓は縮み上がったが努めて平静を保ち、甘ったるい紅茶を飲み干してから、それとなく尋ねた。

「ヴィクトリア。それ、初めて見る指輪だな」

 ロイズが指輪を差すと、ヴィクトリアは左手を掲げてみせた。

「ああ、これ? 客からもらったのだわ」

「男…からか?」

「女から貢がれる方が気色悪いのだわ」

 ヴィクトリアはフォークでベーコンを突き刺し、囓った。

「私の占いに入れ上げている実業家の息子がいて、大した用事もないのに尋ねてきて金を落としてくれるのだわ。 贈り物だと言って押し付けてきた宝飾品は、これだけではなくってよ。寝室の金庫には、首飾りや耳飾りや髪飾りやらが じゃらじゃらあってよ。けれど、それも趣味が悪いのだわ」

「じゃ、なんでそれ付けてんだよ」

「一昨日、夜会に誘われたのだわ。その帰り際に頂いたのだわ」

「初めてじゃないよな」

「あら、察しが良いわね。上流階級の夜会は、顧客の確保と資金集めにもってこいなのだわ」

「安売りしないんじゃなかったのかよ」

「それは下の話なのだわ。あれは最終手段なのだもの、そう易々と使うわけにはいかなくってよ」

 平然と言い放ったヴィクトリアに、ロイズは腹が立った。体を売らなくとも、充分自分を安売りしているではないか。 実業家の息子がどれほど金持ちかは知らないが、ヴィクトリアに次から次へと貢いでいる事実からして苛つく。 ヴィクトリアなのだから有り得ない話ではない、とは思っていたが、いざ本人の口から聞くと癪に障って仕方ない。 夜会と釣りでは比べる以前の問題だ。その程度しか思い付かなかった自分が、誰よりも何よりも腹立たしかった。 だが、口を開けば文句の応酬になりそうなので黙っていた。ヴィクトリアも、ロイズが黙るとすっかり黙ってしまった。
 おかげで、朝食の席は険悪だった。




 釣りに行っても、雰囲気は悪いままだった。
 ロイズは湖面に垂らした釣り糸と離れた位置に座るヴィクトリアを交互に見つつ、居心地の悪さに辟易していた。 ヴィクトリアは手慣れた様子で釣り糸を垂らし、ぼんやりしていた。ゼレイブ時代は、彼女もよく釣りをしていた。 目の前で両親が殺された苦しみで声も魔力も失ったヴィクトリアの気晴らしにと、ギルディオスが連れ出していた。 月日が過ぎてヴィクトリアの精神状態も回復してきたので、リリとロイズと共に湖に行って釣りをすることもあった。 釣りの腕は三人とも似たようなものなので、成果は少なかった。それでも、やけに楽しかった記憶は残っている。 学生時代にもリリとフリューゲルを連れて遠くの湖に出掛けたが、その時は幼い頃とはまた違った楽しさがあった。 だが、今は違う。ヴィクトリアからひしひしと感じる威圧感すらある機嫌の悪さに、ロイズは負けてしまいそうだった。
 無論、朝食の席であんな話をしたのが原因だ。根本的な原因はヴィクトリアだが、引き金を引いたのはロイズだ。 だが、なぜヴィクトリアが不機嫌になるのか解らない。普通に考えれば、機嫌を損ねるのはロイズではなかろうか。 そう思ったら、無性に理不尽な気がしてきた。自分まで不機嫌になることはない、とは思うが段々気が立ってきた。 気を紛らわすために釣り糸を引き上げるも、餌だけが食い逃げされており、釣り針は空しく揺れているだけだった。 仕方ないので、再度餌を付けて湖面に放り込んだ。重なり合った波紋が円形に広がり、程なくして消え失せた。
 今日、ロイズがヴィクトリアを連れてきたのは、市街地から少し離れた場所にある、こぢんまりとした湖だった。 釣り場というよりは子供の遊び場で、釣れる魚も大したことはないが、他に思い付かなかったのだから仕方ない。 ゼレイブの水源兼蛋白源であった湖の三分の一もないのだが、池と呼ぶには広すぎるので、湖と呼称されている。
 釣り糸が微動だにしないので、ロイズはヴィクトリアを窺った。気怠げに頬杖を付いて、釣り糸を見つめている。 肩に垂らされた太い三つ編みから零れた後れ毛が首筋と額に落ち、日焼けしていない肌がいやに眩しかった。 緩く閉じた唇と伏せがちの薄い瞼に得も言われぬ色気を感じてしまい、ロイズは身震いしてしまいそうになった。 目を逸らして堪えるも、一度感じたものはなかなか振り払えない。やはり彼女が好きだ、と改めて実感した。 だから、その指に光る指輪が一層憎たらしくなった。自分では到底贈ることが出来ないものだから、尚更だった。 艶やかな金の台座には赤い宝石が填め込まれており、細工の細かさと加工の美しさでかなりの高級品だと解る。

「そんなに気になる?」

 ロイズの視線に気付いたヴィクトリアが呟いたので、ロイズは一瞬詰まったが言い返した。

「…悪いかよ」

「これ、高いだけで何の意味もなくってよ。ただの鉱石とただの金属で、何の力も持っていないのだわ」

「そりゃ、この土地の人間は魔導鉱石なんか使わないからな」

「だから、私にとっては現金と同等のものなのだわ。金庫にあるものも、全てそうなのだわ」

「貯金代わり、ってことか」

「そうよ。銀行にもある程度は貯蓄してあるけど、あまり信用ならないのだわ」

「それもそうだな。銀行なんて、所詮は企業だもんな」

「私に色々と貢いでくれる客は、それはそれはご立派な家柄の生まれなのだわ。元々は資産家だった のだけれど、経済成長に伴って始めた事業が成功して、国内でも指折りの大企業を経営している一族の 次男なのだわ。幼い頃から英才教育を施されて、とてもいい学校に進んで、もちろん大学も卒業したのだわ。 彼には兄弟がいるのだけれど、彼の父親は彼を跡取りにすると決めているのだわ。けれど、彼はそれに大いに 不満を抱いているのだわ」

「それ、占いにかこつけて聞き出したんだろ?」

「いいえ。私がお客様の秘密は誰にも口外しないと言った途端に、勝手にべらべらと喋ってくれたのだわ。 おかげで、それほど頭を使わなくても占えて、とても楽だったのだわ」

「そこから先は、僕でも想像が付く」

「だったら言ってみなさい」

「解った」

 ロイズはぴくりとも動かない釣り竿の先端を見据え、想像を巡らせた。

「その御曹司氏は、自分は親の言うなりに生きてきたと思っているんだ。そんなにいい家柄なら、 十中八九婚約者ってのがいる。もちろんその御曹司氏にも未来の妻となる御婦人が存在していて、 両家の間には会社の相続と同時に結婚する約束が成されている。だが、御曹司氏はそれが無性に気に食わない。 このまま行けば親の言う通りの人生で終わってしまうと思った彼は、他の金持ち連中から聞いた良く当たるが 物凄く怪しい占術師を尋ねて、自分の人生はこのままでいいのかということを相談することにした。すると、 そこにいたのは高級娼婦顔負けの格好をした妙齢の美女で、御曹司氏が今まで出会ったことのない種類の 人間だった。占術師の女は御曹司氏の相談を親身に受け止めて的確な助言を下してくれるので、御曹司氏は 舞い上がってしまった。店に通い詰めるうちに占術師の女に対する感情はいつしか異性に対するものへと変わり、 占術師の女に婚約者とは違った魅力を感じていた御曹司氏は、何を血迷ったか結婚の意思を抱いてしまった。 そこで占術師の女を口説き落とすべく、有り余る金に物を言わせて貴金属を貢ぎ始めた。ってところだろ」

「そうね。大筋ではそんなところだわ」

 ヴィクトリアは釣り竿を振って糸を引き上げるも、こちらも餌が食い逃げされていた。

「私は彼に目を覚ますように何度も言ったのだわ。どう考えても、彼には私のような存在は荷が重すぎるのよ。 それに、彼は経営者としての才覚はあるのだわ。こちら側に引きずり込んだところで、利益は欠片も生まれないのだわ。 彼の婚約者の御令嬢も何度か来店しているのだけれど、それほど世間知らずではないし、頭の回る女性で、 経営者の妻としては相応しいのだわ。最初は私との関係を邪推していたようだけれど、私が彼の贅沢な不満と 逃避願望をそれとなく伝えたら、彼の目を覚まさせることに努力すると仰ったのだわ。一番有効なのは、私が彼を 手酷く振ることだけれど、そうしてしまったら収入が悪くなるからやろうにも出来ないのだわ。私にも暮らしがあるんですもの」

「そんなに満たされた人生で、何が不満なんだよ」

 ロイズは釣り竿を少し動かして、餌を揺らしてみた。だが、魚は食い付いてこない。

「満たされすぎているから、刺激がなくて物足りないのだわ」

 ヴィクトリアは千切ったミミズを刺した釣り針を、水面に放り込んだ。

「金持ちってのは、どうしてこう苛々させるんだろうな」

「けれど、金がないならないで苛立つのだわ」

「そりゃそうだけどさ」

「彼の婚約者の御令嬢は、彼を幼い頃から見てきたのだわ。両家の親同士が友人同士だったこともあって、 婚約に至る前から引き合わされて遊んでいたのだそうよ。だから、彼がどういう人間なのか、彼女はとてもよく 把握しているのだわ。彼が辛いことから逃避をするのは、これが初めてではないのだそうよ。もっとも、他の女に 入れ上げたのは初めてなのだけれど。もちろん、彼女は私に嫉妬しているのだわ。彼の真意を知った今でも、 来店するたびに多少なりとも敵意を向けられるのだわ。けれど、そんなものは痛くも痒くもなくってよ。むしろ、 微笑ましいくらいだわ。どちらもいい歳をした大人なのに、子供みたいなのだもの」

「何が言いたいんだよ」

 既視感のある言葉の数々に、ロイズは顔をしかめた。それが、自分への当て付けのように聞こえたからだ。

「あら、他意はなくってよ。あるように聞こえるのなら、それはあなたが負い目を感じているからなのだわ」

「負い目ってなんだよ」

「私に話があるんじゃなくて? そうでなければ、釣りになんて誘い出したりしないのだわ」

 ヴィクトリアの的を射た言葉に、ロイズはすぐには言い返せなかった。確かに、釣りに誘ったのには理由がある。 去年の夏期休暇中に僅かに変化はしたものの、未だに続いている膠着状態をどうにかするためだった。 このままでは埒が明かないし、お互いに煮え切らない態度を取り続けるのは限度がある、と思ったからだった。 だが、いざ二人きりになってみると言いたいことが思い付かない。言うべきことは、いくらでもあったはずなのに。 負い目もないわけではない。ヴィクトリアに、恋人と呼べ、と言ったくせにその後はまた友人に戻ってしまった。 それ以前の十年間は兄弟も同然の関係だったので、男女の関係になろうにも、最後の一線を越えられなかった。 年頃の男としての真っ当な性欲は持ち合わせているし、瑞々しく美しいヴィクトリアに魅力を感じていないはずがない。 しかし、踏み出せない。中途半端な意地を張るくせに踏ん張りが利かず、何度会っても平行関係のまま終わった。 リリから発破を掛けられたことは一度や二度ではなかったが、どうしても素直になれなくて一向に進展しなかった。 ヴィクトリアを釣りに誘ったのも、それをどうにかするためだ。だが、いざ二人きりになると、何も出来なくなった。

「私のことが嫌いなら嫌いで、それでいいのだわ。それだけのことなのだもの」

 ヴィクトリアは釣り竿を地面に突き刺し、石を支えにして立てた。

「私は、他人に好かれるような人間ではないことは自分でもよく解っていてよ。だから、好かれようと 努力をしたことはないのだわ。上辺だけの関係なんて、つまらないだけだもの。だから、ずっと待っていたのだわ。 何度となくあなたの心の中を覗きたくなったけど、秘めた言葉を引き出す呪いを掛けてやりたくなったけど、 どうしても出来なかったのだわ。情けない話だけれど」

 ヴィクトリアは、自虐的に頬を歪めた。

「どうしてかしら。あんな話をするつもりなんてなかったのに。こんなものを付けるつもりもなかったのに」

 指を伸ばして指輪を引き抜き、湖面へと差し出した。

「私も、所詮は馬鹿な女ということね」

 小さな水音を立て、指輪は湖水に吸い込まれた。

「嫌いなら嫌いだと言って。妙な気を持たせないで。中途半端な期待をさせないで。今のままでは辛いだけだもの」

 目元を押さえたヴィクトリアは、薄い唇を噛み締めた。肩を震わせながら涙を堪える彼女の姿は、弱々しかった。 ロイズの嫉妬心を煽り立てて、真意を確かめたかったのか。なんとも回りくどくて嫌みったらしい方法だ。 だが、ヴィクトリアらしいと言えばらしい。その効果は実に覿面で、ロイズの心中には鈍い痛みが広がっていた。 最後に吐露した弱音も含めて、完璧だ。嫌いではない、と否定したかったが、喉の奥で言葉がつっかえてしまう。 これまでの思いや様々な気持ちが次から次へと溢れてきて、どれを優先すればいいのか自分でも解らなくなった。 しかし、これ以上押し止めておくことは出来なかった。ロイズは釣り竿を放り出して立ち上がると、彼女に向いた。 振り向いたヴィクトリアの両肩を掴み、真正面から向き合った。涙が滲んで赤らんだ目元すらも、美しいと思った。

「悪い」

 一番最初に出た言葉は、謝罪だった。

「嫌いなんかじゃない」

 ロイズはヴィクトリアの灰色の瞳を見据え、迫り上がる思いを言葉にした。

「むしろ、好きだ。好きなんだ。だから、どうしていいか解らなくなるんだ」

 灰色の瞳が徐々に見開かれ、苦しげに引き締められていた口元が綻び、次第に緩んでいく。

「困った人ね」

 ヴィクトリアは皮肉を零したが、その顔は歓喜に満ちていた。

「けれど、それは私もよ」

 膝を付いて目線を合わせて、引き寄せた。腕に収まった彼女は思っていたよりもずっと細く、そして温かかった。 髪の間から零れる甘い匂いと全身に伝わる温もりで、愛しさが込み上げる。迷わず、彼女の唇を己の唇で塞いだ。 抵抗する気配は欠片もなく、待ち構えていたように細い腕が背中に回され、体と体の間の距離も詰められた。 耳元で柔らかな吐息と共に名を呼ばれると、心中で何かが崩れた。滑らかで柔らかな肌を夢中で探り、求めた。
 高ぶった情欲を、止められなかった。







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