ドラゴンは滅びない




麗しの君へ



 上気した体は、すぐには冷めなかった。
 腕の中のヴィクトリアは力の抜けた腕をロイズの腕に回し、軽く汗ばんだ頬をロイズの胸元へと押し付けていた。 ほどけた黒髪が散らばっている首筋には乱暴に付けた赤い痕が残り、力任せに開いた襟元は乱れたままだった。 エプロンドレスの裾は直したが、他に気を向ける余裕はない。ロイズの背には、爪を立てられた痛みが残っている。 服越しだったので爪の痕は残っていないだろうが、それはヴィクトリアの感じていた痛みだと思うと申し訳なかった。 彼女は大丈夫だと言い張っているが、足腰は立っていない。それはロイズも同じだが、彼女は程度が違っている。 ヴィクトリアが純潔を守っていたことに驚くと同時に、嬉しかった。これまでずっと待っていてくれたのだ、と。 ロイズはヴィクトリアの額に軽く口付けを落とすと、ヴィクトリアは疲れ果てた顔に表情を戻して、微笑んでくれた。

「ごめん」

 反射的にロイズが謝ると、ヴィクトリアはロイズの胸に体重を預けてきた。

「この程度、大したことなくってよ」

「嘘吐け」

 ロイズはヴィクトリアを抱き締め、少し笑った。ヴィクトリアは、上目にロイズを見上げる。

「まあ、我慢出来なかったのは私も同じなのだわ。だから、今回だけは何も言わなくってよ」

「次からは、ちゃんとしたところでするよ。じゃないと、どっちもしんどいしな」

「そうね」

 ヴィクトリアは耳に零れた髪を掛けてから、呟いた。

「ねえ、今度はあなたが話をして」

「話せって、何を」

「なんでもいいわ。あなたの声を聞きたくってよ」

 ヴィクトリアの熱っぽい言葉に、ロイズはかなり照れながらも話題を探した。

「そうだなぁ…」

 だが、特に話すことが思い当たらなかった。こうして思いも遂げたのだから、本来の目的を果たしている。 付き合いが長いから、これまでにも話をしてきた。だから、大抵の話題は出尽くしてしまっており、思い付かない。 けれど、ヴィクトリアの願いを蔑ろにするわけにはいかないだろう。そう思い、ロイズは懸命に記憶を掘り起こした。 そして思い出したのが、異能部隊時代のことだった。ロイズはヴィクトリアの乱れた黒髪に指を通しつつ、話した。

「あれは僕が六歳の頃だったから、もう十三年も前のことだ。その頃は父さんも母さんもいて、最初の頃に 比べれば大分人数は減ったけど他の隊員もいたんだ。部隊というよりも、一つの家族みたいだった。ゼレイブとは また違った感じで、結構楽しかったよ。父さんは厳しかったけどたまに優しくて、母さんはいつも明るくて、ヴェイパーは 最高の友達で、他の皆とも上手くやっていた。その日も僕達は行軍していて、連合軍の目を上手く逃れて進むことが 出来ていた。廃墟だったけど新しい街にも到着して、連合軍からの強奪品の食料や物資も足りていたから、しばらく その街に止まろうってことになったんだ。知らない街に来て最初にすることは、遮蔽物や建物の中に隠れている 敵兵や危険物の排除なんだけど、それは母さんとヴェイパーがしてくれていたから、僕は他の隊員達と一緒に先に 休むことにしたんだ。何日も歩き通しで疲れていたから、すぐに眠っちゃって、目が覚めたら夕方になっていたんだ。 おかげで、夜は目が冴えて眠れなかったから、見張り役を交代してもらったんだ。僕が割り当てられていたのは 西側の山道で、ヴェイパーと一緒に持ち場に立っていた。そこに、一匹のネコが迷い込んできたんだ」

「ネコ?」

「そう、ネコ。でも、ヴィンセントみたいに綺麗じゃなくて、がりがりに痩せていてかなり汚れたネコだったんだ」

 ロイズは、ヴィクトリアの滑らかな髪に指を通した。

「僕はそのネコを何度も追い払ったんだけど、そのたびに戻ってきてさ。見張りの時間が終わって引き上げる時には 僕に付いてくるようになっちゃって、にゃあにゃあ鳴きながら追いかけてきたんだ。たぶん、元々は飼いネコだったんだと 思うけど、戦争で飼い主が死んだか逃げたかでネコだけが取り残されたんだと思う。骨が見えそうなくらいに痩せた首には 首輪も付いていたし、野良ネコにしては人懐っこかったからね。だけど、僕はネコが好きでもなんでもなかったし、 どちらかっていえば苦手だった。だから、追いかけられた時は正直言って怖かったんだ。それで、最後には走って逃げたんだけど、 それでもネコは追いかけてきたんだ。逃げた先には父さんがいたんだけど、父さんは僕を受け止めてからそのネコを抱き上げて、 なんて言ったと思う? こんなに可愛いのに何が怖いんだ、ってさ」

 ロイズは、思い出しながら笑ってしまった。父親の緩み切った顔を見たのは、後にも先にもその時だけだ。

「それがまた、真面目な顔をして言うんだよ。父さんは、鳴き喚いているネコを僕に近付けてきたんだ。怖くないから触れ、 むしろ喜べ、とかなんとか言ってさ。仕方ないからそのネコに触ったけど、毛なんかべったべたに汚れていて目やにも 溜まっていたから可愛くもなんともなかった。でも、喉を鳴らして喜んでいるのは解った。そうしたら、今度は母さんが言うんだよ。 ここには水場があるからその子を洗ってあげようか、ってさ。で、そのネコは父さんが洗って、少しだけど食糧も分けてやったんだ。 確かに、綺麗になると可愛いネコだった。尻尾も長くて、目もくりっとしていて、耳もぴんと大きく尖っていた。そのうち僕もネコに 慣れてきて、一緒に遊んだり眠るようにもなった。でも、ネコと一番遊んでいたのは父さんだった。僕達にはあんなに厳しいのに、 ネコと遊ぶ時だけは別人みたいだった。甘ったるい声を出して、だらしない顔をして、見ている方が恥ずかしくなるぐらいだったよ。 でも、僕達は連合軍に目を付けられているから、いつまでも同じ場所に止まっていられない。だから、その街を離れることに したんだけど、ネコは僕達に懐いていたから付いてきた」

 ヴィクトリアの髪に頬を寄せ、ロイズは目を伏せた。

「追い払っても追い払っても付いてきて、僕と目が合うと甘えた声を出してにゃあにゃあ鳴いた。父さんはあんなに 可愛がっていたのに、振り返るな、とだけ言って皆もそうしていた。だから僕も父さんに従って、振り返らないようにして 前だけを見て歩いたんだ。かなり歩いて別の街に到着すると、ようやく鳴き声がしなくなった。でも、ネコの鳴き声が 耳の奥にこびり付いていて、探しに行きたいと思ったくらいだ。だけど、探しに行くのも禁じられていたから、我慢していた。 そしてまた何日かして、その街を出ることになった。連合軍に見つからない道を選んで出た時、また鳴き声がした。でも、 その声は最初に追いかけてきた時よりも弱っていて今にも死にそうな声だったからとうとう我慢出来なくなって探しに行くと、 ネコはぼろぼろになっていた。野犬か何かに襲われたらしくて、長かった尻尾は千切れて足も折れていた。それでも、 僕らを追いかけてこようとした。父さんに引き戻されたから、その後のことは知らないけど、きっと死んだんだと思う」

「それで、どうなったの?」

「それっきりだよ。ネコ一匹のために引き返せるわけがないし、僕達は進まなければならなかったから」

「そうね。それが道理だわ」

「ああ。僕も曲がりなりにも戦闘部隊の一員だったから、それぐらいは解っていたよ。でも、やっぱり悔しかったよ。 父さんに見つからないように、隠れて泣いたよ。僕があのネコを死なせたようなものなんだから。僕がネコをきちんと 振り払えていれば、あのネコは辛い思いをして死ぬこともなかったんだ。中途半端に気を掛けて構ってやったから、 僕達に付いてきてしまった。だから、煮え切らない態度は悪にも等しい、って、僕も解っていたはずなんだけど」

 ロイズはヴィクトリアを抱く腕に力を込め、心の底から謝った。

「本当にごめん、ヴィクトリア」

「そう思うのなら、これから償えばよくってよ」

 ヴィクトリアは体を起こすと、ロイズの頬に手を添えてゆっくりと滑らせた。

「ねえ、どうしてあなたは私を選んだの?」

「ヴィクトリアこそ、どうして僕なんだよ」

「そんなこと、解り切っていてよ。あなただけは私の傍にいてくれるのだもの。愛するな、という方が難しいのだわ」

「それは僕にも解らないでもないな」

「私が愛しく思う人達は、皆、いなくなってしまうのだもの」

 ヴィクトリアはロイズの頬から手を離し、彼の骨張った指に己の指を絡ませる。

「お父様、お母様、レベッカ姉様、ギルディオス…。誰も彼も、私を置いて逝ってしまったのだわ。けれど、あなたは いつでも手の届く場所にいるのだわ。ただ、それだけのことよ」

「僕も似たようなものかもな」

「あら、だとしたら妙だわ。あなたの性格からすれば、私などではなくリリに惹かれるんじゃなくて?」

「リリにはフリューゲルがいるだろ。それに、僕とリリとじゃ釣り合わない」

「なぜそう思うの?」

「リリにはしっかりした夢があって、僕が思っているよりもずっと大人なんだ。子供っぽい性格だから幼く見えるけど、 中身はそうじゃない。卒業式の後の社交舞踏会の時に、色々言われたよ。変化を恐れるな、とか、夢はないのか、とか、 言い方こそ遠回しだったけど、もっと大人になれ、ってこともね」

「それは心外ね。私にも夢はあってよ」

 少し不満げに、ヴィクトリアは眉根を曲げた。ロイズは、苦笑いする。

「僕はまだ、何一つ思い付かないんだよ。目の前のことで手一杯だし、現に今だって、ヴィクトリアにしか気が向いていない。 先のことを考えられる余裕はないんだ。漠然としたものは浮かぶけど、形にはならない」

「私も、それほど遠くまで見通せているわけではないわ。将来的なことを考えていないわけではないけれど、あなたと 同じで目の前にあるものにしか気が向けられなくってよ」

「それって、どういう意味?」

 ロイズが軽い期待を込めて問うと、ヴィクトリアは徐々に頬を赤らめて顔を背けた。

「答える必要はなくってよ。いずれ、解ることだもの」

 ヴィクトリアは自制することを諦めて心のままに言葉を連ねたが、最後の最後までは言えなかった。 何年も膠着状態が続いていたロイズと思いを通じ合わせられたので、気分が開放的になっているのかもしれない。 自分で思っている以上に、舞い上がっているようだ。この分だと、更に余計なことを言ってしまう可能性が高い。 恥ずかしくてたまらず、ヴィクトリアはロイズの胸に拳を叩き込んだ。だが、怠さと照れで力が全く入らなかった。

「ヴィクトリア」

 ロイズはヴィクトリアの顔を上げさせ、真正面から見つめた。

「子供の頃は、君が本当に嫌いだったよ。言うこともやることも意地が悪いし、性格も相当捻くれているし、 斧を振り回していたもんだから怖くて仕方なかった。滅多に笑わないし、どんなことをして遊んでも楽しんでいるようには 見えないし、言葉遣いが小難しくて、正直やりづらかった。でも、綺麗だとは思っていた」

「私も、あなたが気に食わなかったのだわ」

 ヴィクトリアは灰色の瞳を潤ませ、ロイズを見つめる。

「年下のくせに気取っているし、誰よりも父親に愛されていたのに気付いていないし、私が持っていない 面白いおもちゃも持っているし、あなたの異能力はいくらでも応用が利くのにちっとも活用していなかったのだもの。 おまけに、私のものだったギルディオスも奪ってしまったわ。リリだって、あなたの方を好いていたわ。けれど、 いつだって目に付く場所にいたわ」

「これからは、もっと近くにいるよ」

「約束しなさい。私以外の誰も愛さないと」

「上等だ」

 ロイズは笑むと、ヴィクトリアを引き寄せて唇を重ねた。顎を押して歯を開かせ、その間に舌を滑り込ませていく。 互いに慣れていないので、ぎこちなかった。だが、愛しさがそれを補い、触れ合った部分から思いが伝わり合った。 思念を使うことすらも野暮に思えたので、二人は魔力も異能力も内側に引っ込めて、体だけで触れ合っていた。
 湖面を吹き抜けてきた爽やかな風が草を騒がせて水を波打たせ、視界の端にきらきらと輝く水が見えた。 長い長い口付けを終えて離れた二人は、体を寄せ合った。少しでも離れてしまうのが、惜しくてたまらなかった。
 ようやく、繋がり合えたのだから。




 見慣れぬ天井に、ロイズは少々戸惑った。
 だが、すぐに思い出した。傍らで寝息を立てているヴィクトリアに気付き、頬を緩ませながらベッドから降りた。 床に脱ぎ散らかした服を拾って身に付けながら、柱時計を見やる。これなら出勤時間には間に合いそうだった。 カーテンの隙間からは、朝日の切れ端が差し込んでいた。カーテンを全開にして窓を開け、新鮮な空気を入れる。 ベッドにまで日光が届くと、ヴィクトリアが小さく唸りながら身を捩ったが、目を覚ますのはもう少し先のようだ。 初夏とはいえ、早朝は少し肌寒い。ロイズはヴィクトリアの剥き出しの肩に掛布を掛け直してやってから、寝室を出た。
 結局、ヴィクトリアの家に戻ってきてからもう一度事に及んでしまった。我ながら、自分の体力に感心してしまった。 どちらも昨日が初めてだったので二度目も訳も解らないうちに終わってしまい、ヴィクトリアは疲れ果ててしまった。 ロイズも倦怠感を感じていたが、そこは男なので体力は回復している。居間兼食堂に入って、こちらの窓も開いた。 台所には、昨日の釣りの成果である淡水魚が塩漬けにされていた。昨夜にも、何匹か捌いて夕食にしてしまった。 釣れないとばかり思っていたが、思いの丈を遂げて邪念がなくなったおかげか、それなりに釣ることが出来た。 二人合わせて中くらいの大きさの魚を十五匹ほど釣り上げたので、しばらくは蛋白源に困らずに済みそうだった。
 すると、寝室から悩ましげな声がした。開け放った扉の中を見やると、気怠げなヴィクトリアが起き上がっていた。 薄い肌着一枚を身に付けているだけなので、体付きがはっきり解る。朝日の輪郭を纏った肌は、一際眩しかった。 ロイズは、慌てて目を逸らした。昨日、散々見ているのだから気が咎める理由はないのだが正視出来なかった。
 ヴィクトリアは虚ろな目で辺りを見回していたが、居間兼食堂にロイズの姿を見つけると、ベッドから降りた。 ロイズが挨拶をするよりも先に、ヴィクトリアはロイズの服の裾をぎゅっと掴み、子供のような表情でふて腐れた。

「行かないで」

「いや、僕にも仕事ってのがあるし」

 ロイズは裸同然のヴィクトリアを見るまいと必死に目を逸らしたが、ヴィクトリアは更に近寄る。

「一日ぐらい、どうとでもなるのだわ」

「ならないから行くんじゃないか。最近は労働者だってだぶついているし、気を抜いたら首が飛ぶんだよ。 自由業にも等しい自営業と一緒にしないでくれよ」

「一人で二度寝をするのはつまらないのだわ」

「一度起きたらそのまま起きろよ! ていうかいつまで寝る気だよ!」

「今日は店を閉じるつもりだから、丸一日平気なのだわ」

「ちゃんとした生活をしろよ、今年で二十三になるんだから」

 ロイズはぼやきながらも、ヴィクトリアの手を振り払った。

「じゃ、僕は行ってくるから」

「行くだけ?」

 ヴィクトリアはひどく寂しげに眉を下げると、ロイズの背に寄り掛かり、腕を回してきた。

「そりゃだって、僕にも住んでいる場所があるわけだし、ここには一晩泊まっただけだから」

「近くにいてくれるのではなかったの?」

「まあ…言ったけどさぁ」

 ロイズは言葉を濁したが、心中は大きく揺れていた。背中に当てられた柔らかな乳房の感触が凶悪なのだ。 絶対にこれは計算された行動だ、とは頭では考えているのだが、考えるだけでそれをどうすることも出来ない。

「解ったよ、一緒に住めばいいんだろ、一緒に住めば!」

 ロイズが半ば自棄になって言い返すと、ヴィクトリアはするりと離れた。

「だって、目を離したくないんだもの。あなた、とても危なっかしいのだわ」

「どっちがだよ。むしろ、僕が目を離しておきたくないよ。放っておくと、ろくでもないことをやらかすからな」

 今みたいに、と敗北感に苛まれたロイズが呟くと、ヴィクトリアは満足げに口元を曲げた。

「じゃ、いってらっしゃい」

「いってきます」

 ロイズはヴィクトリアに背を向けたが、振り返り、名残惜しげに歩み寄ってきたヴィクトリアに口付けた。 離れたくないのは、こちらも同じだ。本当ならこのまま連れ添っていたいが、現実があるのでそうもいかないのだ。 朝にしては濃厚な口付けを長く交わした二人は、仕方なく離れた。そして、今度こそロイズは家から出ていった。 すぐに仕事に向かおう、とは思ったが、またもや振り返ってしまった。仕事が引けたら、真っ直ぐに戻ってこよう。 二階の居間の窓には切なげな微笑みを浮かべたヴィクトリアが立っていて、裏口を出たロイズを見下ろしていた。 これもまた、凶悪だった。今までは気の強い表情や嫌みったらしい顔しか知らなかったので、落差がとても大きい。 ただでさえ彼女への恋心に支配されているというのに、そんな顔を見せられてしまっては、もう降伏するしかない。

「あのさ、ヴィクトリア」

 ロイズが声を掛けると、ヴィクトリアは窓を開けて顔を出した。さすがに下着姿ではなく、ワンピースを着ている。

「何?」

「いや…帰ってきたら、話すよ」

 ロイズが言い淀むと、ヴィクトリアは普段の冷淡な表情に戻った。

「そう。楽しみにしないで待っているのだわ」

 二階の窓は閉められ、カーテンも引かれた。ロイズは喉まで出かけた言葉を飲み込んだことを、悩んでしまった。 一度で言ってしまうべきだったか、とは思いつつ、昨日の今日でこんなことを言うのはおかしいのではとも思った。 だが、ヴィクトリアもそれに近い表現はしていた。ロイズの想像が間違っていなければ、彼女もそれを望んでいる。 ロイズからもヴィクトリアにああ言ってしまった手前、仕事から上がってきたら嫌でも言わなければならないだろう。 変に先延ばしするよりも、事は早いほうがいい。これまで焦らしに焦らした関係だったのだから、もういいだろう。
 だが、一つ問題がある。結婚を申し込むに当たっては、それなりの品物を贈呈しなければならないだろう。 けれど、これまでの稼ぎを集めても大した額にはならない。貴金属にしても、安物の首飾りにしか手が届かない。 資産家の息子がヴィクトリアに貢いだ指輪を思い出し、あまりの身分差にげんなりしそうになったが、振り払った。 変に背伸びをしても意味はない、身の丈に合った行動を取ればいい。戦闘も恋愛もそれが基本だ。
 気を抜けば緩みそうになる顔を引き締めながら、ロイズは早朝の街を駆けた。嬉しくて嬉しくて、力が有り余った。 大したことのないことこそが、本当の幸せだ。十年前の壮絶な経験が教えてくれたことを、今一度実感していた。
 麗しき恋人との時間は、始まったばかりだ。




 近いからこそ遠ざかっていた二人の心が、緩やかに重なり合う。
 大切だからこそ手を伸ばせず、愛しいからこそ邪険にし、嬉しいからこそ目を逸らす。
 意地の張り合いにも似た恋愛にも満たない関係が、終焉を迎えたその暁には。

 二人の新たな日常が、紡がれていくのである。







08 1/20