ドラゴンは滅びない




禁忌の子



 ブラッドは、幸せだった。


 目の前で駆け回る我が子は、とても嬉しそうだった。それを見守る妻も、優しい眼差しを幼い息子に注いでいる。 見渡す限りの平原には、誰の姿もない。聞こえるのは、高い空でさえずる鳥の声と、風に乗ってきた汽笛ぐらいだ。 青々とした草が生い茂り、柔らかな春の風に弄ばれている。その中で、獣の耳と尾を持つ少年ははしゃいでいた。 体が大きくなるにつれて耳と尾も伸び、本物のオオカミに引けを取らないほどで、目つきも獣じみて鋭い。 瞳孔も人間のそれよりも大きめで、嗅覚も聴覚も人間よりも遙かに優れており、人外としての能力も育っていた。 だが、耳と尾を隠してしまえばただの幼子なのだ。何かを見つけたのか、息子、ローガンは急に立ち止まった。

「父ちゃん母ちゃん、早く来てよ!」

「そう急ぐな、今日はまだ長いんだ」

 ブラッドは歩調を緩めながら、息子の背を追った。ローガンは落ち着きのない動作で、辺りを嗅ぎ回っている。

「そうだぞ、ローガン。最初からブラッドを酷使すると、後で力尽きてしまうかもしれないんだからな」

 昼食の入ったバスケットを抱え、鍔の広い帽子を被っているルージュは笑った。

「えー、そんなのやだ!」

 ローガンは不満げにむくれた。ブラッドは息子の元まで近寄ると、屈んでその頭を撫でた。

「馬鹿言え、オレは吸血鬼だぜ? たかだか三歳のローガンに負けるほど、弱っちゃいねぇよ」

「その割には、近頃は夜更かしをしなくなったようだが」

 ルージュは二人の背後に歩み寄り、大きなバスケットを下ろした。

「あれは仕事で朝が早いからだっつってんだろうが。そうじゃなかったら、夜明けまで平気だぜ?」

 不服そうに言い返したブラッドに、ルージュは小さく首を竦めた。

「お前がそう言うのなら、そういうことにしておいてやろう」

「嘘じゃねぇってのに」

 ブラッドは少々むっとしつつも、表情を戻してローガンと向き直った。

「なんでもいいから遊ぼうよ、父ちゃん! オレ、昨日からすっごく楽しみにしてたんだぞ!」

 目を輝かせているローガンに、ブラッドはにっと笑った。

「おう、オレもだ!」

「これだけ広いとなんでも出来るけど、何がいいかな、何がいいかな!」

 わくわくしながら、ローガンは辺りを見回している。ブラッドも感覚を研ぎ澄ませて、辺りを見渡した。

「森に三人、山の中腹に二人か。この分じゃ、空は飛べそうにないな」

「それはまた次のお楽しみだな」

 ルージュは敷物を広げながら、夫の視線の先を辿った。注視すると、物陰や草むらに人影が隠れていた。 それは、連合軍と国際政府連盟から送り込まれた監視役の諜報員だった。その視線は、三人をじっとりと舐めていた。 彼らの視線が途切れたことは一日もない。ゼレイブを出てからというもの、常に監視の目が付きまとっていた。 だが、気にしなければどうということはないし、あからさまな魔法や異能力を使わなければ特に何もされない。 三年前、森に捨てられていた乳児のローガンを拾った際にはローガンを殺されそうになったが、それぐらいだ。 それ以降は、彼らは接触しようともしない。フィフィリアンヌがルージュに話した提案が、通ったからなのだろう。
 ローガンを拾ってから二週間が過ぎた頃、フィフィリアンヌ・ドラグーンはブラッドとルージュの家を訪問した。 彼女はローガンを生かすために、連合軍と国際政府連盟に実験を提案した。それは、ある種の賭けでもあった。 フィフィリアンヌの提案は、軍と政府側の研究所に人外の生態と能力を観察させ、報告させるというものだった。 だがそれは、人外や異能者を危険視している連合軍と国際政府連盟が食い付くとは思えない危うい考えだった。 しかし、そこはフィフィリアンヌという女の恐ろしいところで、両者を見事に言いくるめて提案を通してしまった。 その結果、ブラドール一家を見つめる視線が増え、ローガンの生育状況は定期的に上層部に報告されるようになった。 ブラッドとルージュはその報告がどのように利用されているのかは知らないが、時折、ヴィンセントが伝えてくれる。 といっても、ヴィンセントが運んでくる情報は要点をぼかしている。彼にも彼なりの立場があるから、なのだろう。 けれど、それでも充分だった。少なくとも悪用はされていないようだし、これで人外への理解が深まれば万々歳だが、 物事は思うほど上手くいかないのが時の常だ。だから、ブラッドとルージュは隙を見せないよう気を配った。 ローガンも事の真相は知らないまでも、二人が気を張っているのを薄々感付いているのか言うことを良く聞いた。 たまに度が過ぎた悪戯や失敗を起こすが、人として最低限の礼儀と常識は守る躾の行き届いた子供になった。 ルージュは親に育てられた経験はなかったが、人の中で暮らした時間が長かったため、常識も知識も充分だった。 ブラッドも、紳士的だがそれ故に厳しい面のあるラミアンに育てられたので、躾の何たるかはちゃんと知っている。 たまに二人も失敗することはあるが、順調だった。取り巻く環境さえ気にしなければ、至って平和な家族だった。

「じゃ、オレらはちょっと行ってくるから」

 ブラッドは駆け出したローガンを見送りつつ、敷物に座っているルージュに振り返った。

「支度を終わらせたら、私も行こう」

「ああ、待ってるぜ」

 ブラッドはルージュに軽く手を振ってから、駆け出した。ルージュは、夫の背に手を振った。

「なるべく早く行く」

 おう、とのブラッドの返事に、ルージュは込み上がる気持ちが押さえきれなくなってしまい、頬を緩ませた。 なんて幸せなんだろう。こんなふうに家族で出掛けることは初めてではないが、そのたびに幸せだと思い知った。 ブラッドと巡り会って結婚出来ただけでも幸せなのに、息子を得て、こうして家族で遊びに行けるようになった。 生後間もないローガンを拾ったばかりの頃は、泣き喚いてばかりいる赤子を育てることだけで手一杯だった。 その赤子が日に日に成長して、言葉を覚え、自我を持つ様を見るのは、喩えようがないほど嬉しいことだった。 多少やんちゃな面もあるが、とてもいい子だ。あの日、ローガンに巡り会えたことを感謝しない日はなかった。 彼の産みの母親がどうしているのかは気にならないでもないが、ローガンは二人を本当の親だと思っている。 だから、産みの母親の行方を探すことはない。ローガンを取り上げられたりしたら、ルージュは絶望してしまう。 もう、ローガンのいない日など微塵も考えられなかった。それほどまでに、ローガンの存在は大きくなっていた。
 草原を駆け回っていた若い父親と幼い息子は本当に楽しそうだった。単なる追いかけっこだというのに。 体はほとんど人間だがワーウルフの血を僅かに引いているローガンは、駆け回ることで快感を感じるのだろう。 その証拠に、ローガンの表情はいつになく生き生きしていた。また、ブラッドの顔付きも少年そのものだった。 いつまでたっても、ブラッドの心根は少年なのだ。ルージュはなんとなく可笑しくなってきて、声を殺して笑った。
 すると、急にローガンが立ち止まった。ローガンを追っていたブラッドは、息子の背後で足を止めた。 声を掛けようとしたが、止めた。ローガンは獣の表情で目を見開き、茶色い毛の生えた耳をぴんと立てた。

「馬の匂いだ」

 ローガンは左右に目線を走らせ、機敏な動作で振り向いた。その先には、街道から外れた道がある。 細い上に石がごろごろ転がっているので、馬車が走るのには向いていない。馬の遠乗りか、とブラッドは思った。 そのうち、ブラッドの耳にも馬車の車輪の音が聞こえてきた。軽快な蹄の音も合わせて、次第に近付いてくる。 ローガンは低く喉を鳴らし、身構えた。ブラッドは上着を脱ぐと、ローガンの頭に被せて耳と尾を隠してやった。

「そう気を立てるな、なんでもない」

「うん」

 ローガンは渋々頷いたものの、顔は強張ったままだった。ブラッドはローガンを抱き締めながら、馬車を窺った。 細い道を通ってきた馬車は、予想外に立派だった。てっきり運び屋か農夫の馬車だとばかり思っていたからだ。 その馬車は大型で馬も毛並みが良く、派手に飾り付けられており、馬車の側面には家紋が大きく印されていた。 それは、この町で唯一にて最大の資産家、アンドリューズ家の家紋だった。なぜだ、とブラッドは疑問に思った。 あの馬車は前にも目にしたことがあるが、一人娘のナタリアの専用なのだ。故に、最も豪奢で最も大型な馬車だ。 この町に来たばかりの頃は時折目にしていたが、三年前から急に目にしなくなり、町には不穏な噂も流れていた。 ナタリアは病に冒されている、或いは自殺した、もしくは大国に亡命した、などと根拠のない憶測ばかりだった。 アンドリューズ家には三人の息子と末の妹のナタリアがいたが、息子達は揃って共和国戦争で戦死してしまった。 また、両親もその後を追うように病に冒されて亡くなり、アンドリューズ家に残されたのはナタリアだけとなった。 不幸が相次いでしまったのだから気が塞いで当然だ、とも思うのだが、三年も外に出ないのはさすがにおかしい。 だが、こうして彼女専用の馬車が出ていると言うことは、ナタリアは健在で遊びに出掛けるほど元気なのだろう。
 馬車の扉が開くと、そこから女が顔を覗かせた。青白く不健康そうな顔色だったが、顔立ちは整った女だった。 それこそ、件のナタリア・アンドリューズであった。ナタリアは従者の手を借りて、馬車から降りて草原に立った。 豪奢なドレスが風景に不釣り合いで、風に乗って香水の匂いが流れるが、化粧の匂いに他の匂いも混じっていた。 それは、獣と血の匂いだった。ブラッドでも解るほどなのだから、ローガンはもっと早くに感付いていたのだろう。
 従者は馬車に戻ると、何かを取り出してナタリアに渡した。ナタリアはとろりと弛緩しながら、それを手にした。 彼女の手元でちかりと光が撥ね、ローガンは眩しげに目を細めた。それは、艶やかに磨き上げられた剣だった。 新たな足音が近付いてきたかと思うと、馬車の陰から別の人間が現れた。四つ足を縛った獣を肩に担いでいる。 野犬か、或いはオオカミの類だろう。ナタリアの目の前に転がされた獣はまだ息があり、身を捩って暴れている。 ナタリアは剣を振り上げると、獣の腹に突き刺し、引き裂いた。粘ついた水音を立て、赤黒い血が噴き出した。 ぶちぶちと臓物が千切れ、胃袋から未消化の内容物が零れる。ナタリアは肩を震わせ、けたけたと笑っている。
 ブラッドはすかさずローガンの頭を上着で覆い隠し、抱えた。これ以上見せては、ローガンが気分を悪くする。 ブラッドは十三年前にこれよりも凄まじいものを見たので慣れているが、ローガンはまだ幼い子供なのだ。 ナタリアは獣を切り刻むでもなく、ただ突き刺してばかりいた。その間、従者達は彼女の動向を見守っていた。 獣はナタリアの手でずたずたに切り裂かれ、血溜まりが広がった。ナタリアは剣を放り出し、満足げに息を吐く。 従者達はナタリアの血に汚れた手を丁寧に拭い、靴も履き替えさせてやってから、再び馬車の中へと戻らせた。 そして、馬に鞭が入れられ、馬車は走り出した。後に残されたのはめった刺しにされた獣の死体と、剣だけだった。 あれは、後で片付けておこう。ブラッドは先程の光景に若干胸が悪くなっていたが、ローガンを立ち上がらせた。

「行こう、ローガン。今日は、他の場所で遊ぼうな」

 ローガンの頭から上着を外すと、ローガンは青い顔をして視線を彷徨わせていた。

「どうした?」

「父ちゃん…」

 ローガンはブラッドのズボンの裾を掴むと、鼻を擦った。

「あの人、どこの人なんだ?」

「何だ、急に」

 ブラッドは腰を下げ、ローガンと目を合わせた。

「あの人から、オレみたいな匂いがしたんだ。血の匂いと香水の匂いにほんのちょっと混じってただけだけど、 オレには解る。父ちゃん、あの人、どこの人なんだ? 会ったことないのに、なんでオレみたいな匂いがするんだ?」

「そんなもん、気のせいだ。ほら、母ちゃんが待ってるぞ」

 ブラッドはローガンを抱き上げ、肩車した。ローガンは不可解そうだったが、頷いた。

「うん」

 ローガンを担ぎながら、ブラッドは嫌な予感を感じていた。ローガンの言ったことは、十中八九本当のことだろう。 ブラッドもローガンほどではないが、並みの人間よりは感覚は鋭い。だから、ナタリアの匂いも感じ取っていた。 ローガンの言うように、化粧と血の匂いに紛れてはいたがローガンのそれに近しい匂いと気配は流れてきていた。 どんな生き物も、母胎がなければ産まれることは出来ない。だから、ローガンの産みの母親はいないわけがない。 それが、ナタリア・アンドリューズだというのか。だが、そうだとしても、彼女は魔力の気配が希薄なただの人間だ。 魔物族や人外であれば、おのずと気配を感じ取れる。しかし、そんなものはない。だとしたら、考えられることは。
 その考えに至ったブラッドの背筋に、冷たい塊が流れ落ちた。単なる想像じゃないか、と払拭しようとしたが、 それ以外の考えは浮かばない。ブラッドは頭上の息子を見上げると、息子もまた父親を見下ろしてきた。

「父ちゃん?」

「なんでもねぇよ」

 ブラッドはローガンに笑いかけると、ローガンは小さな尾をぱたぱたと振った。ブラッドの首筋に、毛先が触れる。 その柔らかくもくすぐったい感触に、ブラッドは口元を緩めた。先程の考えは極端すぎる、そうであるとは限らない。 むしろ、そうでないかもしれない。そうあってほしくない。ブラッドは内心でそんなことを願いながら、息子を支えた。 今、大事なのは息子の出生ではない。この世でただ一人の愛すべき息子、ローガンの幸せが何よりも大事だ。
 余計なことは、考えるべきではない。




 三人は目一杯遊び、家路を辿っていた。
 じっとりと重たい湿気を含んだ空気が広がる森を歩くブラッドの背中では、遊び疲れた息子が寝息を立てている。 その隣を、バスケットを抱えたルージュが歩いている。落ち葉と雑草を踏み締める足音だけが、森に広がった。 ブラッドはローガンの感じ取ったことと自分の考えを話すべきか迷っていたせいで、口数がすっかり減ってしまった。 ルージュはそれを訝っているようで、ブラッドを見つめてくる。背中で眠る息子は暖かく、以前よりも重くなっていた。

「ブラッド」

 ルージュが声を掛けてきたが、ブラッドは足を止めなかった。

「なんだ、ルージュ」

「私の目を馬鹿にしないでくれ。それと、感覚もな」

 ルージュはブラッドの前に立つと、威圧的な瞳で見上げてきた。

「お前達が見ていたものなど、私に見えないわけがないんだ。あの馬車の主はナタリア・アンドリューズだと いうことも、ナタリア嬢は罪もない獣を惨殺していたことも知っている。確かにあの光景は幼子にとっては衝撃的だが、 お前はあの程度のことを見たぐらいで押し黙るほど脆弱な精神は持ち合わせていないはずだ。何か、あったのか」

「なんでもねぇよ」

「嘘を吐くな。お前が嘘を吐けない男だということぐらい、承知している。何年付き合っていると思っているんだ」

「…悪ぃ」

 ブラッドは苦笑すると、ルージュは眼差しを緩めた。

「外では話しづらいようなことなのか?」

「まぁな。それに、ローガンには特に聞かせたくない話だ」

「ならば、ローガンが寝入った後に聞かせてもらおう」

 ルージュはブラッドの背後に回り、ローガンの乱れた髪を撫で付けた。

「ルージュ」

 ブラッドは振り返り、妻を見やった。ルージュは、顔を上げる。

「なんだ?」

「出来れば、お前にも聞かせたくない。でも、オレ達は夫婦だろ。だから、黙っているわけにいかねぇんだよ」

「あまり気を遣うな。私はもう、何が起きても辛いとは思わない」

 ルージュは微笑むと、ローガンを背負っているブラッドの腕に触れた。

「お前とローガンがいるだけで充分なんだ。蔑まれようと、恐れられようと、恨まれようと、憎まれようと、 襲われようと、心は痛まない。お前達がいてくれるから、どんなことも苦しくないんだ」

「だな」

 ブラッドは妻に笑みを返し、ローガンを背負い直した。

「じゃ、さっさと帰って夕飯にしようじゃねぇか。オレも腹が減っちまった」

 ブラッドは妻を隣り合い、歩き出した。ルージュはブラッドの肩に手を添えて身を乗り出し、頬に口付けてきた。 ブラッドはルージュと素早く唇を重ねると、にっと笑った。ルージュは照れくさそうではあったが、嬉しそうだった。 出来ることなら、この笑顔を陰らせたくない。だが、この時点で話さなければ、もっと辛い目に遭うかもしれない。 だったら、傷は浅い方が良い。妻の体は機械仕掛けで頑丈だが、その中に隠された魂は人並みに繊細なのだ。 本人はやたらと強がっている上に、本当に辛くなるまで誰にも何も言おうとしないが、弱いからこそ強がりがちだ。 それぐらい、夫婦だから知らないわけがない。だからこそ、ルージュもローガンも傷付けないように振る舞おう。
 家族を守るのが、父親の役目だ。







08 5/11