ドラゴンは滅びない




禁忌の子



 それから半年後。ナタリア・アンドリューズが逮捕されたとの噂が街を駆け巡った。
 ヴィンセントの思惑通りにアンドリューズ家には連合軍の憲兵が入り、屋敷の地下室から大量の死体を発見した。 獣の骨や子供の骨に混じり、成人の骨もあった。ナタリアの狂った欲望は、留まるところを知らなかったようだ。 アンドリューズ家に仕えていた者達も解雇されたが、この街で暮らすことが出来るはずもなく、散り散りになった。 ブラッドは仕事仲間や街の者達から、アンドリューズ家にまつわる猟奇的な噂をいくつも聞かされることになった。 そのどれもが真相からは掛け離れており、中にはナタリアは吸血鬼の末裔だったという根拠のない噂もあった。 確かに、ナタリアの所業は吸血鬼にも近しいものがあるが、大抵の吸血鬼は血だけを吸って殺しはしないものだ。 遠い過去には人肉を好む者も希にいたそうだが、極端な例だ。吸血鬼からすれば、人間は血を生み出す物体だ。 最も重要なのは血であって肉ではない。殺してしまったりしたら、これから獲れる新鮮な血の量が減ってしまうからだ。
 ブラッドは複雑な心境でそれらの噂を聞き流した。血を好むというだけで同列に扱われては不快にもなる。 だが、顔には出さなかった。この街では吸血鬼だということは隠して暮らしているので、徹底しなければならない。 怪しまれないために噂に同調して笑ったりもするが、内心では自己嫌悪が起き、演技と言えど自分が嫌になった。
 アンドリューズ家を訪れたことは一度もなかった。余所者が街の有力者と接する機会など、あるわけがない。 ヴィンセントから聞かされたナタリアの狂気の片鱗だけでうんざりしてしまい、目を向けることすら嫌になっていた。 けれど、その日に限って興味が湧いた。一度ぐらいは屋敷を見てみよう、と思い、アンドリューズ家へ足を向けた。
 年季の入った重厚な屋敷は街外れに建っていた。高い塀に囲まれ、塀の上には先の尖った鉄柵が並んでいる。 背の高い鉄門には施錠されているが、中の様子は窺えた。広い庭には手入れが行き届いているが、人気はない。 当然だ。ナタリアが逮捕されてしまったために、アンドリューズ家に仕えていた者達は、全員解雇されたのだから。 屋敷の大きさも古さも、ブラッドの実家であるブラドール家の屋敷と大差はない。中世時代からの遺物なのだろう。 屋敷から流れてくる空気には、死臭と血臭が混じっている。死者達の残留思念が、屋敷中に染み着いていた。 感覚を高めなくても感じられるのだから、余程のものだった。ブラッドは強い不快感に苛まれ、屋敷に背を向けた。

「取り憑かれたら敵わねぇや」

 ブラッドの背に、生温い風が吹き付けた。屋敷から漂う死臭と血臭に入り混じり、覚えのある匂いが鼻を掠めた。 生臭い獣の匂いだった。それも、愛すべき息子と似通った匂いだ。ブラッドは素早く振り返り、匂いの主を辿った。 先程までは何もいなかったはずなのに、屋敷の高い屋根の上に四つ足の獣が立ち、鋭い眼差しを注いでいた。

「あれが人狼の子の父親でさぁ」

 唐突に耳元で声がしたので、ブラッドは心臓が縮み上がるほど驚いた。

「うおっ!」

 飛び退くと、肩の上から白ネコが落ちた。二本の尾の白ネコ、ヴィンセントはしなやかに着地する。

「久方振りでごせぇやす、半吸血鬼の兄貴」

「いつのまに来たんだ、お前」

 ブラッドは屋根の上に立つ獣と白ネコをちらちらと見比べながら、問うた。ヴィンセントは、からからと笑う。

「そいつぁ野暮な質問ですぜ、兄貴。あっしはネコでごぜぇやすから、神出鬼没なのが常識ってもんでさぁ」

 四つ足の獣は大きく首を反らし、吼えた。ブラッドは感覚を揺さぶってくる強い魔力に、思わず目を見張っていた。 尖った二つの耳、豊かな毛並みを蓄えた長い尾、筋肉質の肢体、大きく開かれた口にはずらりと牙が並んでいる。 通常のオオカミの倍近い体格があり、立ち上がれば大人の男ぐらいはありそうだ。オオカミとしては、巨大だった。 咆哮を終えた獣は荒々しい気迫を湛えた瞳でブラッドを貫き、低く唸る。ブラッドは口元を歪め、牙を見せ付ける。

「たかがイヌの分際で、吸血鬼に挑もうってのか?」

 ヴィンセントはブラッドの足元に寄ると、獣を見上げた。

「分が悪ぃのは確かですぜ、獣の旦那。命が惜しくば、ここは素直に退きやせぇな」

 獣はヴィンセントを一瞥すると、とん、と軽く跳ねた。ブラッドは荷物を放り出して服の背中を捲って、翼を出した。 足元を蹴り上げて大きく羽ばたき、一気に屋根の上まで上昇する。だが、飛び降りたはずの獣の姿は失せていた。 魔法の気配が残留し、魔力の残滓が感覚をざわめかせていった。ブラッドは地面に戻り、翼を収めて服を直した。 魔法も使えるとなれば、本当に魔物だというのだろうか。ヴィンセントから話を聞いた時は、正直半信半疑だった。 だが、実物を見てしまえば信じる他はない。ブラッドは澄まし顔のヴィンセントを見下ろしていたが、口を開いた。

「さっきの様子からすると、お前はあいつにも通じているのか?」

「お察しの通りで。あっしはこの通り四つ足の獣でごぜぇやすから、警戒心も抱かれづらいんでやんすよ」

 得意げに、ヴィンセントは二本の尾を振る。

「ここで一つ、面白いお話をいたしやしょう。獣でありながら人にも近しい知性を持つ魔性の存在である 獣の旦那がこの地に現れたのは三年前のことでごぜぇやすが、それからというもの、この近辺では死産が 相次いでおりやす。ですが、それはあくまでも世間に対して公表された事実でしかありやせん。その理由は、 御父上に似て頭の良い半吸血鬼の兄貴のこと、もうお解りでしょうや」

 ブラッドは嫌な想像が脳裏に浮かんだが、頬を引きつらせた。

「まさか…耳と尾が生えていたから、死産ってことにして殺したってわけじゃ…」

「御明察でごぜぇやす」

 ヴィンセントは、にやりと目を細める。

「獣の旦那は己がこの世で最も優れた存在であると信じて疑いやせん。故に、高い知性を得た獣が自分一人で あるという現実に我慢ならず、手近な場所に大量に生息しているメス、つまりは人間の女性を孕ませて、子孫を 増やして繁栄するつもりなんでやんすよ。もちろん、普通の人間と獣ではまぐわっても何も出来るわけがごぜぇやせんが、 獣の旦那はその身に宿る魔力を用いて精を変質させて受胎出来るようにしておるんでごぜぇやすよ。なんとも 背筋の凍る話じゃありやせんか」

「そんなのって、ありかよ」

 ブラッドが血の気を失っても、ヴィンセントは平然としている。

「今更何をおっしゃるんで。あっし達のようなモノが現世に生き長らえている事実を踏まえれば、この程度の出来事、 驚くに値しねぇでやんす。これに比べれば、ブリガドーンの方が余程非常識でごぜぇやすよ」

「程度の問題じゃねぇだろうが」

 ブラッドは声を張ろうとしたが、喉の奥が乾き切ってしまった。愛する息子が生を受けた境遇が、おぞましすぎた。

「ああ、そうそう。ナタリア御嬢様が色情狂だったのは本当でごぜぇやすが、獣姦まではしておりやせんでした。 この屋敷から逃げ出した使用人から聞き出した話によりやすと、ある日、いつものように寝室で間男との情交に耽っていた ナタリア御嬢様のお部屋に、そりゃあもうとんでもない大きさの獣が飛び込んできたんだそうですぜ。その獣は間男の頭を 食い千切って殺してから、ナタリア御嬢様の体から引き剥がし、突然の凶事に怯えるナタリア御嬢様を組み伏せたかと思うと」

「…もういい、これ以上話すな」

 ブラッドはあまりの気分の悪さに、ヴィンセントを遮った。ヴィンセントは、拍子抜けする。

「なんでぇ、意気地のない。これからが面白いんでやんすよ」

「これのどこが面白いってんだよ。どこもかしこも、気持ち悪いだけじゃねぇか」

「これから、面白くなるんでごぜぇやすよ」

 ヴィンセントは、ちろりと口の周りを舐めた。

「天下の連合軍は人間の罪は取り締まれやすが、獣の罪を取り締まれねぇんでさぁ。その上、獣の旦那は 大層足がお速い御方で、人の足じゃ到底追い付けやせん。あの巨体でありながら気配を殺すのもお上手なもんで、 獣の旦那を銃殺しようとした兵士達は何人も喰い殺されちまってるんでごぜぇやすよ。こうなっちまうと、普通の 人間にゃ手も足も出せねぇんでやんすが、魔法や異能力を徹底的に排除した手前、今更魔導師に化け物退治を 頼むっちゅうわけにもいきやせん。てなわけですから、兄貴」

「オレに、あれを殺せってのか?」

「半吸血鬼の兄貴になら、安心してお任せ出来やしょう」

「そりゃ…やって出来ないことはねぇけど…」

 ブラッドは言葉を濁した。半年前、ヴィンセントがブラッドらに気色悪いほど協力的だった理由が解った。 ローガンを盾にして、ブラッドを揺さぶるためだ。ローガンのためと言われれば、ブラッドは断るわけにはいかない。 増して、相手は人を簡単に殺し、人間の女性に人ならざる子を孕ませてしまうような恐るべき魔力を持つ魔物だ。 このまま野放しにしておけば、連合軍の兵士のみならず望まぬ姿を持って生まれた子供達が殺されるだろう。 だが、躊躇いもあった。戦うことになれば力を振り翳すことになり、下手をすれば妻子に危険が及ぶかもしれない。

「まあ、あっしも無理強いはしやせんよ? どうしても無理だっちゅうんなら、あっしは去りやしょう」

 ヴィンセントはブラッドに背を向けたが、ちらりと振り返った。

「甲冑の旦那なら、迷うことなどありやせんでしょうがねぇ」

 その言葉に、ブラッドは躊躇いを吹き飛ばされた。危険なのは、いつものことだ。

「解った。オレにしか出来ないってんなら、オレがやる。但し、ルージュとローガンには何も言わないでくれ」

「へえ、解りやした」

 ヴィンセントは頭を下げると、音もなく歩き出した。

「そいでは、またいずれ」

 ヴィンセントの姿は藪に消え、気配も消えた。ブラッドはいつのまにか詰めていた息を緩め、肩を落とした。 戦わなければならないというのなら、戦うしかない。同族にも等しい魔物であろうと、危険な存在なら排除しなくては。 先程感じた限りでは、あの獣は人間の尺度で考えれば強力だが、吸血鬼族の尺度で考えれば低い部類に入る。 突然変異で生まれた不安定な生き物なら、尚更だ。未だに魔力の成長を続けているブラッドなら、簡単に殺せる。 吸血鬼族は寿命が長い分、成長期も人よりも遥かに長い。肉体の成長は止まっているが、魔力中枢は別だった。 だから、魔力出力だけでも十年前の倍近くある。勝機はこちらにある。恐れることもなければ、躊躇うこともない。
 全ては、家族のためだ。




 何も知らない息子は、無邪気に遊んでいる。
 ブラッドは草原を駆ける息子を見つめ、笑みを浮かべた。その身に宿る魂は、穢れた境遇で生まれ落ちた。 ローガンが何も知らないまま、生きていければいい。そのためにも、身を挺して息子を守らなくてはならないのだ。 もしも、ローガンが獣姦の末に生まれた子だと知ってしまったら、どんなにその運命を呪い、心を痛ませるだろう。 両親の境遇はともかく、人格が比較的まともだったブラッドでさえも、吸血鬼である身の上を疎んだことはあった。 ローガンは、まだ他の子供を知らない。だからこそ自分が普通の子供だと信じており、のびのびと育ちつつある。 ルージュもそれを解っていて、ローガンを街に連れ出したことはない。いつも森で遊ばせ、出掛ける時も森の中だ。
 ローガンが分別が付くようになるまではそうやって生活するつもりだ。だが、息子が成長すれば外界に連れ出す。 閉鎖的な環境に閉じ込めてしまえば何かが歪む。これまでの出来事で、歪み切った末に壊れた事例は知っている。 だから、ローガンを本当の意味で普通の子供として育てるためにも、いつかは世間に出さなければならないのだ。 学校にも通わせてやりたい。ブラッドもルージュも学校に行ったことがないので、どんな世界かは想像も付かない。 沢山の子供がいて、机を並べて、毎日勉強をして、友人を作り、共に遊ぶ。話を聞くだけで面白そうな日々だった。 だが、そのために崩さなくてはならない壁は分厚く、高い。ローガンを生かすことは出来ても、育てるのは難しい。 かといって、今更ゼレイブの皆に頼るのもどうかと思う。ゼレイブから出ていったのは、ブラッドらの方なのだから。 ヴィンセントを利用するにしても、その主に頼るにしても、提示される交換条件は今回以上に厳しいものになる。 ヴィンセントは魔物かもしれないが、その主は人間だ。増して、国際政府連盟の議員という上層も上層の存在だ。 そういった人間は、簡単なことでは動かせない。だが、最終的にはヴィンセントの主に頼らざるを得ないだろう。 ヴィンセントは魔導兵器三人衆時代の妻を謀ったということもあり、決して好きにはなれないが、仕方ないことだ。

「とおちゃーん!」

 息子の歓声に、ブラッドははっと意識を戻した。

「おう、どうした?」

 ブラッドは駆け寄ってきた息子に近寄り、目線を合わせた。ローガンはズボンから出た尾を、ぱたぱたと揺らす。

「これ捕まえた、喰えるか? なんか旨そうなんだ!」

 ローガンの小さな手に引き摺られているものは、薄汚れた白ネコだった。

「…えーと」

 二本の尾をだらりと垂らした白ネコは、上目にブラッドを見上げた。

「何してやがんだよ、お前は」

 ブラッドはローガンの手からヴィンセントを奪うと、首の後ろをつまんで高く持ち上げた。

「そりゃあ解り切ったことでさぁ。あっしは、半吸血鬼の兄貴を見張っちょるだけでごぜぇやす。信用して ねぇっちゅうことはありやせんが、半吸血鬼の兄貴はまだまだ青二才でごぜぇやすから、万が一ってこともありやしょう。 御主人もそれをお望みでやしたから、あれからずうっと兄貴方の後ろにびたあっと張り付いちょったんでやんすが」

 ヴィンセントの語気は、徐々に萎んでいく。それに合わせて、尖った耳も下がっていった。

「ローガンに見つかったんだな? で、追い回されたんだな?」

 ブラッドは呆れながら、土と雑草にまみれた白ネコを見回した。ヴィンセントは、前足で顔を隠す。

「へぇ」

「お前って凄ぇんだか凄くねぇんだかよく解らねぇな」

 スモウじゃ父ちゃんに負けるし、とブラッドが呟くと、ヴィンセントは狼狽えた。

「あっ、ありゃあ吸血鬼の旦那がいけねぇんでやんすよ! あのしっとりと色気のある低い声でどすこいなんて 連呼されちまったら、あっしじゃなくても腰が抜けまさぁ! いきなり古い話を掘り起こさねぇで下せぇな!」

「ま、気持ちは解るけどよ」

 ブラッドは目を輝かせている息子と、魔性の密偵を見比べた。

「なあ父ちゃん、それ喰えるんだろ!? な、父ちゃん、早く血抜きして母ちゃんに捌いてもらおうよ!」

 ローガンは空腹なのか、獣じみた牙を剥いている。ブラッドは口元を広げ、牙を露わにする。

「そうだなぁ、ネコの血も旨そうだもんな」

「待っておくんなせぇなお二方! あっしはネコはネコでもネコマタでして、そりゃあもう珍しいネコでごぜぇやして!」

「とおちゃーん、オレ、腹減ったぁー」

「そうだなぁ、オレもなんか喉が渇いた」

「あにゃあああああ」

 食欲満々の二人に、さすがにヴィンセントも困り果てた。ブラッドはローガンを見下ろし、尖った耳を撫でる。

「じゃ、ローガンは先に家に帰って、母ちゃんにネコの料理が出来るか聞いてくるんだ。オレはその後から帰る」

「うん! 父ちゃんも早く帰ってきてね!」

 ネコだーネコ料理ー、と浮かれながら、ローガンは敏捷に跳ねて草むらに身を投じ、森の中を駆けていった。 ブラッドはぶら下げたままのヴィンセントと目を合わせ、にんまりした。ヴィンセントは、ぶるりと身震いする。

「兄貴ぃ…。本気じゃ…ありやせんよねぇ?」

「答えによっちゃ本気で喰うぜ?」

 ブラッドは牙を剥き、ヴィンセントに迫る。ヴィンセントは、じたばたと暴れる。

「あっしに何を言わせたいんでやんすかぁ」

「オレがあの獣を殺したら、ローガンはどうなるんだ?」

 ブラッドは表情を強張らせた。ヴィンセントは抵抗を止め、冷ややかな視線を上げてきた。

「そりゃあ決まっちょりやす。人狼の子はブリガドーン破壊の余波で生まれた突然変異種として、実験台として 生きていくだけでやんす。竜の姉御との取り決めであっしらは手を出しやせんが、その代わり何もさせねぇんでやんすよ。 考えてもみなせぇな。耳と尾の生えた子は、兄貴方と同じく、成長すれば人ならざる力を得ちまうでしょうや。そんな物騒な 輩が世間に出ちまったら、それこそ十年前の二の舞になるかもしれやせん。それを防ぐためにも、人狼の子は、ゼレイブの 面々と同じく格子のない檻に閉じ込めておくしかねぇんでやんすよ。所詮、人と魔は水と油、同じ世界を生きることなんて 出来ねぇんでやんす。それに、兄貴方もそれをお望みでしたでしょうや。誰にも知られることもなく、この森の中で、人狼の子と ずうっと生きていけるんでやんすから、それ以上のことはありやせんよ」

「そうだな」

 ブラッドは声を下げ、ヴィンセントを地面に下ろした。ヴィンセントは後ろ足で、耳を引っ掻いた。

「それ以上聞くことがねぇんでごぜぇやしたら、あっしは退散させて頂きやしょう」

「待て、まだある」

「でしたら、手短にお願いしやすぜ。あっしも忙しいんでねぇ」

「ローガンを外に世界に出すためには、オレ達は何を犠牲にすればいい?」

「それはご自分でお考えなせぇな」

「答えろ!」

 ブラッドは、強く叫ぶ。ヴィンセントは動じることもなく、尾を振っている。

「あるとすれば、まあ、生きた兵器になることぐらいでしょうねぇ。それ以外に、兄貴方が世間で生きられる道 なんてありやせんぜ。人ならざる者達が最も優れた特徴であると同時に、最も畏怖すべき部分は、もちろん膨大な 魔力でやんす。精神力だけであらゆる物理的法則を覆しちまうんですから、恐れずにいられやしょうか。ですが、 上手く使えば、魔力に勝る兵器はありやせん。そうなれば、連合軍も国際政府連盟もちったぁお目こぼししてくれる かもしれやせんしねぇ」

 それでは、とヴィンセントはくるりと身を翻し、草むらの中に消えた。ブラッドは肩を落とし、大きくため息を吐いた。 兵器になりたいなどとは思わない。家族を守るために戦うことは尊いが、この力は人を殺すためのものではない。 父親のラミアンや妻のルージュが、大量に人を殺したことでどれほど苦しんでいるかは目の当たりにしている。 それに、連合軍に下って生体兵器となったとして、連合軍がブラッドの要求を素直に受け入れるとは思えなかった。 連合軍は未だに人外の敵だ。フィフィリアンヌが掛け合ったおかげで若干態度は軟化したが、本質は変わらない。 ブラッドを前線で使うだけ使っておいて、要求は呑まない可能性が高い。むしろ、そうだと思った方がいいだろう。
 活路は見えない。皆が皆、ごく普通に、そして平穏に暮らしたいだけなのに次から次へと障害が生まれてくる。 ブラッドは頭を痛めながら、家路を辿った。家に到着する直前、ヴィンセントを逃がしてしまったことを思い出した。 小さな家からは、ネコ料理を楽しみにする息子の声と若干悪意の垣間見える口調の妻の声が漏れ聞こえている。 ブラッドは慌てて引き返すと、感覚を研ぎ澄ませ、今晩の夕食にするための小動物を探さなければならなかった。 手ぶらで家に帰ったら、息子だけでなく妻からも責められる。家庭を守るためには、まずは食卓を守らなければ。
 明日もまた、当たり前の一日を迎えるためにも。




 十年前。世界の異物は、人ならざる者達の運命を狂わせた。
 そして今も尚、魔性の力に歪んだ命が狂気に荒ぶり、人と魔性の溝を深める。
 両者の間に横たわる、天より高き隔たりと地より深き悲しみを打ち破る日を望みながら。

 半吸血鬼の男は、立ち上がるのである。






08 5/20