キャロルは、フィリオラの寝室の扉を閉めた。 居間の食卓に座っているブラッドに向くと、静かにね、と呟いた。少年は心配げな顔をしていたが、頷いた。 フィリオラは、昨夜から寝込んでいた。覇気のない唸り声を漏らしながら、ベッドの中で丸まっているのだ。 そんな状態なので、授業どころではないとブラッドに言われたキャロルは、彼女の様子を寝室まで見に行った。 青ざめた顔をしたフィリオラに事情を説明されたキャロルは、すぐに納得した。彼女は、月経痛がひどいのだ。 なのでキャロルは、せめてこれくらいは、と思い、温めた牛乳をフィリオラの枕元に置いて帰ってきたのである。 キャロルは盆を抱えて台所に行き、食器棚の中に置いてから居間に戻ってきた。ブラッドは、寝室に目をやる。 「なぁ、キャロル。フィオ姉ちゃん、どうしちゃったんだよ」 ブラッドの問いに、キャロルは少し考えてから返した。直接的な言い方は、避けるべきだと思った。 「女の子の日よ」 「何それ」 訳が解らないのか、ブラッドは変な顔をする。キャロルは、もう少し補足する。 「んーと、つまり。月に一度の、大変な日ってこと。私はそんなでもないんだけど、フィリオラさんは別みたいね」 「女って、そんなに大変なのか?」 「そうよ。だから、もう二三日はフィリオラさんに優しくしてあげてね。痛いし苦しいし気が立っているから」 「あー、うん」 今一つ理解していないようだったが、ブラッドは頷いた。キャロルは、困り気味に眉を下げる。 「だけど、どうしよう。フィリオラさんがあんな状態じゃ、魔法の勉強が出来ないわね」 「ギルのおっちゃんは、アルゼンタムを捕まえるためにレオさんと張り込みに行っちゃったしなぁー」 つまらなさそうに、ブラッドはテーブルに伏せた。キャロルは、小さく唸る。 「でも、だからといってリチャードさんの手を煩わせるわけにもいかないし…。どうしよう」 「あ」 ふと、ブラッドはあることを思い付き、体を起こした。どうしたの、とキャロルに問われ、西側を指す。 「あの人がいるじゃん。フィフィリアンヌさんが」 「フィフィリ…?」 不思議そうなキャロルに、ブラッドはすぐに察した。 「あ、そっか。キャロルは会ったことないんだっけ。フィフィリアンヌ・ドラグーンって言ってさ、フィオ姉ちゃんのご先祖のドラゴンなんだよ。見た目はすっげぇ綺麗で可愛いんだけどさ、中身はすっげぇきついんだ。あの人も魔導師だと思うから、都合を話せばどうにかしてくれるんじゃね?」 「…なんか、想像が付かない」 ブラッドの説明が足りていないので、キャロルは不可解そうにした。ブラッドは椅子から下りると、玄関に向かう。 「会えば解るって。とにかく行ってみようぜ」 「あ、待って、ブラッド君」 玄関の扉に手を掛けたブラッドに、キャロルは声を掛けた。少年が振り向くと、両手を合わせる。 「行く前に、ちょっと用事があるんだけど。それを終わらせてからでいい?」 「いいけど、何?」 扉を開け切ったブラッドは、先に廊下に出た。キャロルは小走りに廊下に出ると、三○一号室の扉を閉めた。 少年が鍵を閉めたのを確かめてから、キャロルは階段を下りていった。途中で止まり、二○一号室の扉を指す。 「今朝、お父さんにお弁当を渡せなかったから」 ブラッドは、階段を下りていく彼女の背を見下ろした。波打つ赤毛が揺れていて、フィリオラよりも少し小さい。 自室の扉を開けた彼女は、その中に消えた。ブラッドは階段をゆっくりと下りて、二階の廊下で立ち止まった。 三階と同じ造りで、部屋の配置も同じだった。キャロルの住む二○一号室は、丁度三○一号室の真下にある。 ブラッドは、二○一号室の前で足を止めた。表札はフィリオラのそれよりも簡素で、名前が二つ連ねてあった。 ウィリアム・サンダース。キャロル・サンダース。だが、彼女の父親の姿は、一切思い浮かんでこなかった。 というより、一度も見たことがない。擦れ違ったこともないし、キャロルと一緒にいるところも見たことがなかった。 フィリオラもギルディオスも話に出さないので、二人とも面識はないのだろう。ブラッドは、次第に気になってきた。 キャロルの父親がどんな人物か、見ておくべきだと思った。すると、二○一号室の扉が開き、彼女が出てきた。 昼食が入っているであろうバスケットを手に提げ、行きましょ、とブラッドに言って先に階段を下りていった。 その後に続きながら、ブラッドは妙な気分になっていた。親子で住んでいるのに、親の姿が見えないのは異様だ。 そう感じると、尚のこと、彼女の父親が気になった。 二人は、旧王都内の外れにある、雑然とした街の中にいた。 キャロルが行き着いた先は、ひしめき合って並んでいる小さな建物の一つだった。扉には、看板が掲げてある。 何かの作業音が周囲から絶え間なく聞こえ、騒がしかった。目の前の平屋建ての建物からも、聞こえてくる。 薄汚れた扉に下げられた看板には、サンダース製作所、とあった。ブラッドは物珍しくて、辺りを見回していた。 鉄と埃の匂いが、汚れた空気に充満している。整然としている旧王都の高層建築街とは、懸け離れた光景だった。 キャロルは、サンダース作業所の扉を強めに叩いた。少し間を置いてから太い声で返事があり、扉が開いた。 「こんにちはぁ」 キャロルは、製作所の室内に声を上げた。内側から扉を開けた男は、油染みの付いた作業服を着ている。 「ああ、珍しいね、お嬢さん。そっちの子は友達かい?」 浅黒い肌をした男は、訛りのきつい喋り方だった。ブラッドは少し反応が遅れたが、頭を下げる。 「あ、はい。こんにちは」 「社長! お嬢さんですよ!」 浅黒い肌の男は、作業所の奧に声を荒げた。返事があり、しばらくしてから作業服を着た別の男がやってきた。 肩幅の広い、大きな男だった。目の色以外はキャロルとは似ても似つかず、髪の色も赤毛ではなく茶色だった。 男は、キャロルとその後ろに立つブラッドを睨むように見下ろした。ブラッドはちょっと臆したが、頭を下げた。 「こんにちは」 「お父さん。お昼、持ってきたの」 キャロルはバスケットを開け、包みを差し出した。男、ウィリアムはそれを受け取ると、面倒そうに言う。 「こんなもんを持ってくる暇があったら、仕事に行ったらどうなんだ」 「今日はお休みを頂いたから」 キャロルが答えるより先に、ウィリアムは扉に手を掛けていた。そのまま扉は閉められ、看板が左右に揺れた。 看板を吊り下げている紐が釘と擦れ、きいきいと鳴っていた。キャロルはその揺れを見ていたが、少年に向く。 「じゃ、行こっか」 「あれが、キャロルの父ちゃん?」 ブラッドは、腑に落ちない顔をした。あんな愛想も優しさもない男が、キャロルの父親だとは思えなかった。 そうよ、とキャロルは返し、製作所に背を向けた。ブラッドはその後ろに付いて歩きながら、唇をひん曲げる。 「なんか、態度悪くね?」 「そういう人だから」 キャロルは、建物の隙間を擦り抜けていく。ブラッドは彼女の後に続いて歩いていたが、製作所に振り返った。 「んで、母ちゃんはいないの?」 「小さい頃に、出て行っちゃったの」 努めて明るく、キャロルは笑った。そうしないと、押し潰されてしまいそうな苦しさに苛まれてしまう。 「私、お母さんから捨てられちゃったみたいなんだよね。お父さんと一緒に」 「…ごめん」 申し訳なさそうに目を伏せたブラッドに、いいのよ、とキャロルは首を横に振った。 「お母さんにも、色々とあったんだと思うの。それに、お父さんと一緒に旧王都に出てきたからヴァトラスのお屋敷で雇ってもらえたし、フィリオラさんに読み書きと魔法を教えてもらえているんだもの。物事は、良い方に考えなきゃ」 わざとらしく、キャロルは足取りを軽くした。波打った赤毛がふわふわとなびき、細い路地から通りに出ていく。 人通りが増えた通りを歩きながら、キャロルは後方を窺った。ブラッドは浮かない表情をして、付いてきている。 そういえば、フィリオラから聞いたことがある。ブラッドは母親を知らず、そして、父親を何者かに殺された。 自分よりも遥かに不幸な境遇だ。母親は若い男と共にいずこへと消えてしまったが、父親は健在なのだから。 だが、愛情は皆無だ。両親から愛された記憶なんてまるでないし、これからも愛されることなんてないだろう。 けれど、不幸ではないと思っている。いや、そう思おうとしている。今だって、自分とブラッドの境遇を比べている。 そうやって、ほんの少しの優越感を感じることで自分を誤魔化してきた。これからも、そうやっていくしかないのだ。 キャロルは作った笑顔を歪めないように気を張りながら、ブラッドに振り向いた。手を伸ばし、少年の手を取る。 「さ、行きましょ。フィフィリアンヌさんのお宅に案内してちょうだい」 「あ、ああ」 ブラッドは、頷いた。彼女の前に出ると、キャロルの手を引くような形で歩き出した。向かうは、西に繋がる通りだ。 右手に掴んでいるキャロルの手は、フィリオラのそれよりもずっと乾いていた。苦労が染み付いた、荒れた手だ。 ブラッドが後ろに目をやると、キャロルは屈託なく笑っている。だが、それが痛々しくて仕方ないように思えた。 胸を締め付けられるような思いに苛まれながら、ブラッドはキャロルの手を引き、フィフィリアンヌの城に向かった。 その間、交わした言葉は少なかった。 旧王都の西側にある森を抜けた先に、古びた城がそびえていた。 城の手前と湖の周囲だけがぽっかりと開けていて、そこだけ降り注いでくる日差しの量も多く、風も温かだった。 キャロルは、城に見入っていた。ヴァトラスの屋敷近くにある旧王宮も立派だが、こちらの方が好みに合っていた。 年月を感じさせる外壁の汚れ加減、石組みの壁を這い回っているツタ、城の手前に造られた怪しげな薬草園。 いかにも、それっぽかった。フィリオラの部屋にあった魔法道具の数々よりもずっと、魔法の気配を感じさせる。 中世の時代で時間が止まったかのような空間に、キャロルは感嘆の声を洩らした。とても、素敵だと思った。 「うわぁ…」 「あー、こんなんだったのかぁ」 ブラッドは、物珍しげに城を見上げていた。キャロルには、その言い方を不思議に思った。 「ブラッド君、このお城に来たことがあるんじゃないの?」 「うん。来たには来たんだけどさ、夜中だったから。どんなんだったか、よく見てなかったんだよ」 ブラッドは出来る限り上体を逸らし、城の先まで見上げた。城の四隅には、鋭く尖った屋根を持つ塔がある。 屋根には苔が生えていて、枯れ葉が堆積していた。窓ガラスも綺麗だとは言い難いし、玄関も掃除されていない。 サラの手入れが行き届いている共同住宅とは、懸け離れている。ブラッドは、フィフィリアンヌの性格を察した。 きっと、彼女は物臭なのだろう。家を手入れすることなど、まるで興味がないに違いない、と妙な確信をした。 キャロルは、慎重な足取りで城に向かっていった。朝露が残った草を踏み分け、窓が眩しく光っている城に近付く。 正面玄関の階段までやってくると、階段に足を掛けようとした。だが、踏み出す前に扉が開き、驚いて足を下げた。 大きな両開きの扉は、蝶番を鳴らしながら開いた。薄暗い室内に立っていた小柄な影が、日差しの下に出てくる。 「ん」 鍔の広い黒い帽子を被っていた少女は、訝しげに眉根を歪めた。瞳孔が縦長の赤い瞳が、キャロルを捉える。 「そうか、貴様か。フィリオラの二人目の弟子というのは」 「あ、はい」 キャロルは、反射的に答えた。そして、日差しの中に立つ少女を見上げた。幼さの残る、整った顔立ちだった。 人形のような雰囲気の、滑らかで白い肌。すっきりと通った鼻筋に薄い唇が愛らしいが、目は吊り上がっていた。 ただでさえ白い肌が、更に冴え冴えとしていた。まるで葬式に行くかのような、真っ黒な礼装を着ていたからだ。 手袋も帽子も闇の如く黒く、色が違うのは顔と瞳、そして髪だった。深緑の長く真っ直ぐな髪が、印象的だった。 少女は、面倒そうに口元を曲げた。肩から提げていたカバンを開き、赤紫の物体が入ったフラスコを取り出した。 「ああ、そうだったな。そういう時期だったか。私には月経が来ないから、忘れていたぞ」 「はっはっはっはっは。あの子は貴君と違って限りなく人に近い竜なのであるから、当然の生理現象なのであるぞ」 ごぼごぼと、フラスコの中身が泡立った。少女はフラスコを持ったまま腕を組み、軽くため息を吐いた。 「その分だと、フィリオラは動けないのだな? あの子は嗜み程度に魔法薬は作るが、あまり飲もうとはせんからな。大方、貴様らは魔法を教えてもらうに適当な相手が他に思い当たらなかったから、私の元へ来てみたのだろうな。近くにいる魔導師共も、あの兄弟ではなぁ。リチャードは魔法の腕は確かだが性根が大分腐っておるし、レオナルドは話にならん上にアルゼンタムの逮捕をするのに忙しいからな。だが、私の元へ来たのも間違いだったぞ。見ての通り、私はこれから出掛けねばならん。三四日は戻って来られん。だから、貴様らを教えるどころかこうして会話しているのも時間が惜しいほどなのだ」 だが、と少女は苦々しげにした。 「フィリオラがまともに動けるようになるにも、やはり三四日は掛かってしまうからな。その間、貴様らが放置されるのもあまりいい気はせん。あの子の教え子が堕落してしまっては、私としても気分が悪い」 「三日ぐらいで堕落はしないと思うけど」 ブラッドが心外そうに顔をしかめると、黒衣の少女は澄ましたように目を細める。 「する者はするのだ。貴様らがそうならないという確証は、どこにもないではないか」 「して、フィフィリアンヌよ。早々に行かねば、機関車が出てしまうのであるぞ。そうなれば、後が面倒である」 うにゅり、とフラスコの中で赤紫が身を捻った。黒衣の少女、フィフィリアンヌはフラスコを目の高さまで上げた。 「それもそうだな。ならば伯爵、この者共を頼まれてくれぬか。報酬は百年物のリリアスの赤でどうだ」 「うむ、それならば妥当なのである。リリアス産のワインは冴えた渋みが味わい深く、我が輩の好きな酒の一つでもあるのである。だがしかし、フィフィリアンヌよ」 フラスコの中から、伯爵という名のスライムはフィフィリアンヌを指した。赤紫の触手が、ガラスの内側を小突く。 「我が輩が貴君の手元から離れてしまえば、貴君はただでさえ弱い方向感覚を完全に失ってしまうのであるぞ」 「こうするまでだ」 フィフィリアンヌはフラスコのコルク栓を抜くと、手を翳した。ゆっくりと手を上げていくと、中身が出てくる。 にゅるにゅると滑りながら独りでに昇ってきたスライムは、伸ばしていた触手を縮め、歪んだ球体となっていた。 フィフィリアンヌはもう一方の手でカバンから瓶を取り出すと、蓋を開いた。そして、スライムの大半を千切った。 「うごぉう!」 千切られた瞬間、伯爵は鈍い悲鳴を上げた。脱力してフラスコの底に落ち、べちゃっと球体の内側に貼り付いた。 フィフィリアンヌはうねうねと身動きするスライムを瓶に放り込み、きゅっと蓋を閉めた。それを、振ってみせる。 「三分の一だ。これだけあれば貴様の感覚も残っているはずだ。意識は三分の二の方に残しておけ」 「い…言われなくとも…」 苦しげに、伯爵は声を絞り出していた。三分の一も肉体を失ったスライムは、力なく蠢いている。 「わ…我が輩の麗しき体よ。か、必ず、必ずや、また我が輩と一つになろうぞ…」 「案ずるな。帰りに道端に捨ててくる」 「そ、それだけはやらないでくれたまえ! 高貴で優秀で誇り高い我が輩の肉体を、そこらの野良スライムと同列に扱ったりしないで欲しいのであるぞフィフィリアンヌよ!」 じたばたと暴れながら喚く伯爵の入ったフラスコを、フィフィリアンヌはブラッドに向けて放り投げた。 「さあて。聞こえんな」 「ひでぇ…」 フラスコを受け取ったブラッドは、口元を引きつらせた。フィフィリアンヌは黒い帽子を下げ、目元を隠した。 「では、私は行く。後は任せたぞ」 片手を挙げたフィフィリアンヌは、指を弾いた。乾いた破裂音と共に風が起こり、抜けた後には黒い姿はなかった。 あっという間の出来事だった。呪文を唱えた様子もないし魔法陣を描いてもいないのに、彼女は空間を転移した。 キャロルは呆気に取られてしまい、何度か瞬きした。すると、ブラッドが両手に抱えているフラスコから声がした。 「あの女は、今や呪文は必要ないのである。呪文とは文字による呪い、言葉で魔力を戒める術であるのだが、あの女は言葉も文字も使わずとも己の力を戒めて操ることが出来るのである。まぁ、そこに至るまでは大分掛かったのであるがな」 「うへぇ」 ブラッドは、素直に感心した。あれだけ面倒な呪文を操るフィリオラも凄いと思っていたが、その上がいたとは。 年齢もさることながら、魔法の腕も桁違いだ。ブラッドは、フィフィリアンヌと戦わなくて良かった、と痛感した。 そこまで凄まじい相手と戦えば、一撃で死ぬのは確実だ。今更ながら、ぞくりとした恐怖と共に安堵感を覚えた。 少年の手に抱えられたフラスコの中、伯爵は千切られた痛みが残る体をうねらせ、魔力を高めて自己増殖した。 ワインがなくても、ある程度なら再生出来る。細胞が増えていくむず痒さを感じながら、伯爵は視点を動かした。 キャロルを見上げると、彼女は城を一心に見上げていた。湖面を走ってきた風が、波打った赤毛を揺らした。 少女は表情は明るかったが、その手は固く握られていた。伯爵はごぼごぼと泡立ちながら、思考に耽り始めた。 フィリオラの話に寄れば、キャロルは真面目に勉学に取り組む明るい性格の娘だそうだが、それは表だろう。 この時代にわざわざ魔法に関わろうというのは、酔狂だ。ただ、リチャードに近付きたいだけではないはずだ。 思考を巡らせながら、伯爵はぶるぶると震えていた。 キャロルは、身を固くして座っていた。 その隣では、ブラッドが怪訝そうにしている。二人の周囲には、びっちりと本の詰まった本棚がそびえていた。 二人は伯爵の案内で二階の広間に通され、暖炉の前に置かれた三人掛けのソファーに、並んで座っていた。 だだっ広い広間は緩く壁が曲がっていて、それに沿うように天井まで届く大きさの本棚が造り付けられていた。 空気は埃っぽく、カビ臭い上に湿っていた。本棚の向かいにある高い位置の窓からは、日差しが差し込んでいる。 白い光を受けて、舞っている埃が視認出来る。その日光が差し込む先、テーブルの上には、フラスコがあった。 ガラスがつやりと照り、中に納められた赤紫も輪郭が淡くなっていた。伯爵は触手を伸ばし、コルク栓を抜く。 ぽん、と気の抜けた音を立てて押し抜かれたコルク栓は、細長く伸ばされたスライムによってふらりと揺らされた。 「ふむ」 伯爵は二人を見比べるように、コルク栓を左右に動かす。 「貴君らを教えろと言われたが、具体的に何をどうすればいいのかは解らぬのである。我が輩は高貴なるスライムであるからして、人を教えたことなどないのである。だがこれは、あの女の命である。逆らってはいいことにはならぬであろうし、労働してこそ報酬は美味なのであるぞ」 伯爵はコルク栓で、ブラッドを指す。 「して、フルチン少年よ。貴君らはどこまでフィリオラに教えられたのかね?」 「いきなり何言うんだよ、ていうか、なんであんたがそんなこと知ってんだよ!」 気恥ずかしさで頬を紅潮させ、ブラッドは叫んだ。はっはっはっはっは、と伯爵は触手を振り回す。 「情報源はニワトリ頭である。恨むのであれば、あの馬鹿な男を恨むがいいのであるぞ、フルチン少年よ」 「二度も言うんじゃねぇ!」 真っ赤になったブラッドは、身を乗り出した。伯爵はするりと触手を下げ、ごとり、とフラスコを後退させる。 「はっはっはっはっはっはっはっは。何度でも言ってやるのであるぞ、このフルチン少年め!」 「…う」 ブラッドは居たたまれなくなったのか、座り直した。眉を情けなく下げ、額を押さえる。 「勘弁してよ…。あれ、もう忘れたいんだからさぁ…」 「貴君が忘れたところで、我が輩が忘れなければ意味がないのである。まぁ、忘れる気など毛頭ないのであるが」 「これ、殴っていい?」 ブラッドは苦々しげに、伯爵を指してキャロルに向いた。キャロルはしばらく迷っていたが、曖昧に笑った。 「いいんじゃ…ないの?」 「だっ!」 間髪入れず、ブラッドは拳を振りかざした。伯爵の触手を拳で押さえ、そのまま埃を被ったテーブルに叩き付けた。 べちゃっ、と赤紫の軟体が散らばり、飛沫した。切り離された触手の先端とコルク栓が、ぼとっ、と落下する。 少年の拳に叩かれた伯爵は、ぬるぬると埃を取りながら後退した。フラスコの外側を昇り、球体の中に体を戻す。 「はっはっはっはっはっは! 無駄骨無駄骨、貴君の拳如きに倒される我が輩ではないのであるぞ!」 「…蹴っていい? ていうか蹴らせろ」 スライムに濡れた拳をズボンで拭ったブラッドは、どん、とテーブルに足を載せた。球体の中、伯爵は蠢く。 「いやはや、いやはや。なんとも堪え性のないことである。そんなことでは、ろくな魔法は使えぬのであるぞ?」 「あ?」 目を据わらせたブラッドがフラスコを掴み取ると、伯爵はごぼごぼと泡を出した。 「魔法とは己に潜在する魔力を用い、物質に変化を与える術のことである。魔力とは精神力の一種であるからして、魔法陣や呪文で補うより以前に精神を鍛えねば、上手く操れないのである。すなわち、我が輩の罵倒や嘲笑、皮肉や雑言に耐え切れるほどの忍耐力がなければ魔導師にはなれぬということである」 一見すれば、もっともなことを言っているようだった。実際、魔法は術者の根性が大事、とフィリオラも言っていた。 魔力を引き出して魔法と成すときに、多少なりとも己自身に負担が掛かる。それに耐えうる精神が必要だ、とも。 だが、それとこれとは別な気がする。精神修業は大事だとは思うが、その相手が伯爵である必要はないと思う。 キャロルはそう言いたかったが、言えなかった。明らかに苛立っているブラッドに、伯爵が高笑いを浴びせている。 「はっはっはっはっはっはっは! 気付かなかったようであるな、フルチン少年よ! 我が輩の授業は既に始まっているのである!」 「つうかあんたが遊びたいだけだろ!」 伯爵のフラスコを揺さぶり、ブラッドは腹立たしげに喚いた。伯爵は、平然と笑っている。 「はっはっはっはっはっはっは! 察しが良いことであるぞフルチン少年! そうとも、そうだとも、我が輩は貴君らで暇を潰したいだけなのである!」 「開き直るなー! ていうか連呼すんじゃねぇ!」 「ほれほれそこで怒るでない。耐えるのが授業であり修業なのであるぞ」 「嘘吐けぇ!」 ブラッドは、伯爵のフラスコをテーブルに投げた。ごろりと転がったフラスコは、斜めの姿勢で止まる。 「我が輩も、これはこれで我慢しておるのである。貴君らはフィフィリアンヌに比べて切り返しが甘いゆえ、歯応えがなくて罵倒のし甲斐がないのである。これでも、手加減してやっているのであるぞ」 「オレもう帰りたい」 ブラッドはソファーに座り込み、うぁー、と泣きそうな声を洩らした。これ以上、フルチンを連呼されたくない。 思い出すだけで、あの出来事は恥ずかしい。頭を抱えて転げ回って、この場から逃げ出してしまいたいほどだ。 ブラッドが羞恥に苛まれて唸るのを横目に、キャロルは伯爵を見下ろした。赤紫の粘液が、自在に蠢いている。 不思議だが、興味が湧いていた。フィリオラから話には聞いていたが、ここまでのものとは思っていなかった。 やっぱり、魔法は凄い。下等な魔物のスライムを喋るように出来るし、意志を持たせることが出来るのだから。 これだったら、あれも出来るかもしれない。いや、出来るはずだ。キャロルは期待と嬉しさで、口元を上向けた。 伯爵は視点を上げ、ガラスの向こうから彼女の表情を眺めた。赤毛の少女は、笑みとは言い難い顔をしている。 口元は笑っているが、目元が今にも泣き出しそうだった。眉を下げて目を伏せて、どこか苦しげでもあった。 これはあまりよろしくない、と伯爵は感じた。きっと、キャロルは何か良からぬことを考えているに違いない。 それが彼女にとっては良いことであろうとも、常識的には良くないのであろう。だから、不安げなのだ。 恥ずかしさで身を縮めているブラッドは、それに気付いてないようだった。伯爵は、小さな気泡を吐き出した。 フィフィリアンヌから頼まれた仕事は、彼らの授業と堕落を阻止することだ。ならば、これも含まれているだろう。 少々面倒かもしれないが、やらなければならない。キャロルが堕ちてしまっては、上物のワインが飲めなくなる。 やれやれと思いながらも、伯爵は内心で笑った。長い間振るえていなかった弁舌を、思い切り振るえそうだ。 どうやって、彼女の本心を暴こうか。どんな言い草でどれだけ揺さぶってやろうか、想像するだけで楽しくなる。 笑い声を上げる代わりに泡立ちながら、伯爵はキャロルを見つめた。子供らしさのある、緑色の瞳が陰っている。 少女の眼差しは、何も見ていなかった。 05 12/6 |