翌日。キャロルとブラッドは、竜の城にいた。 小さな波音と風音しかしない静かな湖畔には、テーブルと椅子が並べられていた。どちらも、大分年代物だった。 小さめのテーブルの上には、キャロルが淹れた紅茶と共にワイングラスがあった。だが、中身はワインではない。 艶々としたスライムが満ちていて、日差しの下でうねっていた。にゅるり、とグラスの中から触手を伸ばす。 視点を触手の先端に合わせた伯爵は、二人を見比べた。ブラッドは渋い顔をしているが、キャロルは違っていた。 期待するような眼差しで、スライムを見つめていた。これから何が始まるのか楽しみで仕方ない、といった様子だ。 授業を受ける態度としては悪くないが、昨日のことが引っかかっていることもあり、素直には受け取れなかった。 ならば、早々に鎌を掛けてやろう。伯爵は触手の先を縮めてワイングラスの縁に載せ、つるりと中に戻した。 「昨日は我が輩の指導による素晴らしくも麗しい精神修業を行ったわけであるが、今日もそれである」 「帰っていい? ていうか帰らせろ」 ブラッドが心底嫌そうに呟いたので、伯爵はごぼりと泡を吐き出した。 「まぁ待て、昨日と今日は違うのである。我が輩とて、そう何度も同じことを繰り返したくはないのである」 「じゃ、今日はなんなんですか?」 キャロルに問われ、伯爵は言った。ワイングラスが、その声で僅かに震えた。 「人とは、強いように思えるが、実に脆弱なものなのである。その弱さを直視することが、授業なのである」 「まぁ、そうだろうな」 ブラッドは、家出をした夜を思い起こした。あの時、フィフィリアンヌのおかげで嫌というほど自分の弱さを知った。 言い訳ばかりで父親の死を認めていなかったことや、復讐に逃げ道を見出して現実をまともに見なかったことを。 他にも、まだまだ精神的な未熟さがあるのは確かだ。我が侭な子供の部分が、勝手に顔を出してくる時がある。 だが、伯爵が指しているのはそういうことではなさそうだった。子供、ではなく、人、と言っているのだから。 ということは、キャロルに対して言っているのだろう。ブラッドはそれを不思議に思いながら、彼女に目を向けた。 キャロルはなぜか、困ったような表情になっていた。表情は保っているが、眉を曇らせて目線を泳がせている。 伯爵はその反応を楽しみながら、にゅるりと身を捩った。赤毛の少女に視点を据えて、声色を徐々に強めた。 「人の弱さ、それすなわち、力に溺れる弱さのことである。古来より、人間は力を手にしてしまうと万物を制したような錯覚を覚える生き物なのである。それは中世より変わらぬことであり、近代社会などその典型である。半端に発展した科学技術を振るい、山を崩して川を汚し、何万年という歳月によって積み重ねられてきた化石燃料を、大量に消費し続ける日々なのである。ほんの一時前まであれほど竜に怯えながら暮らしていた人間共は、竜が衰退したと知るや否や、世界の支配を大々的に始めてしまったのである。恐怖という制限がなくなってしまえば、好きなように出来るのであるからな。して、かつての帝国と王国を制した共和国は両国の資産だった鉱山を食い潰し、強大なる軍事国家と成りつつある。だがそれは、人の弱さの証である。力を得ねば、力がなければ、力を欲していなければ、不安で仕方ないからこそ共和国は軍を増強し兵士を増やすのである。領土を広げるのも、武力を示すのも、全ては己の弱みを見せてしまわないためなのである」 「共和国の、弱み?」 キャロルが呟くと、そうである、と伯爵は返した。 「この国は、土台が脆弱なのである。帝国が何千年もの時間を掛けて築いてきた脅威も、王国が同じ年数を掛けて保ってきた領土も取り込んだつもりではいるが、それは上辺だけである。確かに共和国は政府も手堅い上に軍事力は強力だが、それを支える者達は近隣諸国からの移民がほとんどである。貴君らからして見れば、今の官僚共は共和国人かもしれぬが、我が輩やあの女のような存在であれば、真相を知っているのである。今の官僚共の祖先は、帝国から逃げ出した皇族だけでは心許ないので、近隣諸国から引き抜かれてきた貴族や政治家の子孫なのである。すなわち、この国は寄せ木細工のようなものなのである。それも、水上に浮かぶ枯れ葉の如くなのである」 伯爵の喋りは、次第に滑らかになってくる。 「この国は、良くも悪くも軍によって成り立っているのである。あらゆる産業の消費を担い、更なる発展への足掛かりなのであるからな。だが、その軍は増強と拡大を続けたせいで、近頃では綻びが出来始めているのである。勢力を増していけば、端々にまで手が及ばなくなるのは当然のことであるからな。軍の腐敗は既に始まっているのである。その綻びがいかなるものか、我が輩が知り得ている部分は少ないのだが、それでもひどいものである。軍がこの国を支えていると言っても過言ではないのであるが、その軍が揺らぎ始めているのだから、話にならんのである。また近隣諸国に侵略戦争を吹っ掛けようと画策しているようだが、内側から腐敗の始まった組織が上手く動くはずなどないであるからして、我が輩は今度ばかりは失敗に終わると思うのである」 あまり大っぴらには言えんがな、と、伯爵は付け加えた。 「さて。貴君らは、この共和国の身の振り方に何か思うところはあるかね?」 「どうって…どうなんだろう」 面倒そうに、ブラッドは口元を曲げた。今まで、一度もそんなことを考えたことはなかった。 「共和国が軍隊ばっかり強くしてるってのは知ってたけど、そんなの関係なかったんだもん。魔物の世界じゃ」 「だが、今後は違うのである。軍は少年のような人外の存在を、兵器とすることを視野に入れているのである」 「うげ」 ブラッドは肩を縮め、舌を出した。キャロルは考えるように俯いていたが、顔を上げた。 「だけど、力がなきゃ、この国はダメになっちゃうんですよね?」 「まぁ、それもそうなのである。共和国は長い間、軍を柱にして経済を持ち上げてきたのであるからして、いきなり軍を縮小してしまえば経済が破綻し大不況になるのは目に見えているのである」 伯爵がキャロルを見上げると、赤毛の少女は躊躇いがちに言う。 「それじゃ、やっぱり、力はあった方がいいってことじゃないでしょうか」 「ありすぎちゃ困るけど、なくてもダメって気がするしなぁ」 うん、とブラッドは頷いた。キャロルはちらりと竜の城を見上げてから、伯爵を見下ろす。 「魔法と同じなんだと思います。魔法はなんでも出来るけど、魔力がなかったら呪文を唱えても何も出来ないし」 「つまり貴君は、魔法は何もかもを操れると思っているのかね?」 伯爵は触手を作り、すいっとキャロルに向けて伸ばした。キャロルは、こくりと頷いた。 「ええ。フィリオラさんも、そう言っていましたから。魔法はこの世にある物質を意のままに出来る、って」 「ふむ。あの子の言いそうなことであるな」 伯爵は腕を組むような気持ちで、触手をくいっと捩った。捻りが加えられた赤紫が、つやりと光る。 「確かに、ある程度の約束事の範囲であれば、魔法で物質を意のままにすることは可能である。が、それは物質に限ったことであり、物質以外のものを操ることは難儀にして厄介なのである」 「呪いだったら、ブッシツ以外も操れるってことか?」 ブラッドが言うと、伯爵は頷くように触手を上下に揺らす。 「うむ、察しの良いことである。呪いは、今や魔法と同列に扱われてしまっているが、あれは魔法ではない。魔法とは魔導、魔導とは魔を導き魔を操る法であり、操れるのは基本的に物質などの目に見えるものである。だが、呪いは違う。あれは魔力の流れそのものに手を加え、被術者を意のままにする方法である。構造も歴史も何もかも、魔法とは別の存在なのである」 「呪いって、どんなものなんですか?」 よく知らなくて、とキャロルは情けなさそうに笑った。伯爵は、捩っていた触手を元に戻す。 「呪いとは、魔法とは似て非なるものである。魔力の本質、すなわち、人の精神を犯し乱すものなのである」 グレイスの所業を思い出しながら、伯爵は続ける。 「魔力は、人のあらゆる部分に繋がっているのである。骨や神経や血管、血肉や筋と同じように人の体を成すものである。呪い、呪術とは、それに直接手を触れていじくり回す手法なのである。人の心を思うままにさせたり、その者が思ってもいないことをさせたり、人を人でなくさせてしまうのである。呪術を行う際には他人の精神を犯すのであるから、術者には才覚と魔力と心根の強さが求められるのであるからして、呪術はかなり高度なのである。それ故、呪術師たる者達は優れたる才覚を備えた者が多いのである。しかし、才覚と人格は別物であるからして、優れたる呪術師や魔導師が優れたる人間であるとは限らないのである」 あの女が良い例である、と伯爵はさも可笑しげに笑った。 「つまり、魔法は目に見えた力であり、呪術は目に見えない力であるということである」 「へー」 多少面白そうに、ブラッドは相槌を打った。伯爵はその切り返しが物足りなかったが、続ける。 「貴君らは、その力の世界に片足どころか頭から飛び込んだのである。今はまだ初歩の魔法しか扱ってはおらぬのであろうが、じきに具体的な攻撃魔法や転移魔法なども教えられるであろう。その際に、貴君らはその力をどう思うのかね?」 「すげぇけど、怖いな」 ブラッドは、苦笑いした。あの排水で出来たスライムの騒動を、思い出していた。 「だってさ、使い方をちょっと間違っただけでえらいことになっちゃうんだもん。ほいほい使えねぇよ」 「して、貴君はどうなのかね、キャロルよ」 伯爵に話を振られたキャロルは、固く締めていた唇を開いた。 「なんでも出来るのなら、怖くはないと思うわ。間違ったことにさえ使わなきゃ、いいと思うの」 そりゃそうだけどさ、とブラッドはいやに難しそうな顔をして呟いてから、すっかり温くなってしまった紅茶を傾けた。 キャロルは、己の心臓がどくどくと脈打つのを感じていた。やっぱり、思った通りだ。魔法は、なんでも出来るんだ。 だから、ずっと願っていたことが果たせるはずだ。浮かんでくる笑みを堪えきれず、唇の端を僅かに上向けた。 伯爵はワイングラスに触手を戻し、とぽん、と波紋を広げた。キャロルの表情を見上げ、言葉に含みを持たせた。 「この城には、その手の魔法の本が腐るほどあるのである。蔵書の大半は二階の広間にあるが、特に効力の強い魔法を示した魔導書は、四階のあの女の研究室に置いてあるのである。貴君らには読み解けないであろうし、大半の魔導書が物騒であるからして、あの女の研究室には近付かぬ方が良いのである」 キャロルが、小さく息を飲むのが解った。伯爵は内心でにたりと笑いながら、ごぼごぼと大きめの気泡を放った。 掛かった。口だけで他者を誘導するのは、やはり楽しい。久しくしていなかった遊びだが、弁舌は錆びていない。 この後、どうなることやら。その結果を想像しながら、伯爵はワイングラスの内側から二人をじっと見ていた。 少女は、心ここにあらずといった様子だった。 一歩一歩、階段を昇っていった。 足音が響くのを気にしながら、薄ら寒い階段を歩いていく。最後の段を上りきってから、指を折って階数を数えた。 これで、四つめの廊下になる。だからここは四階なのだ、と確かめた。階段の下を見下ろしてから、小さく頷いた。 手前の石壁にある縦長の窓から、弱い光が差し込んでいる。舞っている無数の埃が光を受け、宙を漂っていた。 冷ややかな空気を胸一杯に吸うと、カビ臭さがあった。気を落ち着けるためにゆっくりと吐き出し、廊下に向く。 幅広い廊下の奥は、特に薄暗かった。いくつも扉が並んでいて、ぱっと見ただけではどれが研究室かは解らない。 目を凝らして気を張り詰め、足音を殺して進んでいった。一番奥の扉の前までやってくると、そっと足を止めた。 両開きの大きな扉には、スイセンの家紋の浮き彫りがあった。それは、ヴァトラスのものと少しだけ違っていた。 だが、外枠以外は全く同じ家紋だった。この城とヴァトラス家の関係が見えないので、訳が解らず、首をかしげた。 一歩、その扉に近寄った。錆の浮いた取っ手に手を掛けて回すと、ぎち、と内側で金属が軋み、引くと開いた。 蝶番が唸るように擦れながら、扉を開き切った。その中は、本と薬瓶に埋め尽くされた、異様な空間だった。 天蓋付きのベッドが壁際にあったが、その上にも大量の本が並んでいる。薬瓶の詰まった棚も、大きかった。 幅のある机の隣には作業台があり、様々な実験器具が散らばっていた。部屋の中に入り、後ろ手に扉を閉めた。 考え得るに、ここが研究室なのだろう。フィフィリアンヌという女性は薬を扱う仕事だ、と以前に聞いている。 ここに、求めるものがある。沸き起こってくる好奇心と期待に胸を躍らせながら、彼女は踏み出そうとした。 「いやはや、いやはや」 唐突に聞こえた低い声に、キャロルはびくりとした。急いで辺りを窺うと、机の上にはワイングラスがあった。 「なんともなんとも、楽しいことである。ここまで見事に思い通り動いてくれるとは、快感の極みである」 なんで、とキャロルの唇が動いたが言葉は出なかった。伯爵のワイングラスは、外に置いてきたはずなのに。 ごとり、と前進したワイングラスは、中に充ち満ちていた赤紫を迫り上げた。伯爵は、にゅるりと蠢いた。 「はっはっはっはっはっはっは。我が輩とて、伊達に五百六十二年も生きているわけではないのである」 水っぽい光沢を持ったスライムが、驚きで硬直している少女を指す。 「空間転移魔法の一つくらい、使えるのであるぞ」 キャロルは目一杯目を見開いて、動揺と混乱の中、小さく呟いた。 「それじゃあ…」 「そうとも。我が輩は、貴君を乗せたのである」 伯爵は、愉悦の混じった声色になる。 「何やら貴君の表情が晴れやかではないので、これはどうしたことかと思い、呪いの話で煽ってみたのである」 その声を聞き流しながら、キャロルは泣き出しそうになっていた。これでは、あれが実現出来ないではないか。 「呪術の話題は、良からぬことを考えている者にとっては格好の餌なのである。それにどれだけ食い付いてくるかと話してみれば、面白いほど反応を示してくれる。そして、あの答えだ。間違っていないと言う者に限って、何かしらの間違いをやらかすものなのである。キャロルよ、貴君が魔法を得る目的は、リチャードと同じ世界を共有してみたいからというだけではないな?」 次第に、伯爵の語気が険しくなる。 「答えるが良い。貴君が魔法を、いや、呪術を得る目的を述べるのである」 キャロルが後退ると、伯爵は声を張り上げた。 「いいか! 呪術とは、魔法ではない! 呪いは呪われた者ならず、呪った者すらも犯すのだ!」 伯爵の意識に、ただ一人の友人が蘇ってくる。幽霊となっても呪いに縛られていた、彼の姿が何度も過ぎった。 「貴君が誰を呪おうとしているのか解らぬが、呪いは、決して何者も幸せになどしないのであるぞ!」 伯爵は、力を込めて叫んだ。 「深淵になど、踏み入るでない!」 キャロルは、溜まらずに耳を塞いだ。違う。違う。そんなはずはない。魔法さえあれば、幸せになれるんだ。 魔法さえ使えば、愛されるようになれる。魔法さえあれば、きっと、両親はこちらを見て愛してくれるんだ。 心を操って何が悪い。あんな父も母も、操られて当然だ。愛されていない苦しさに比べたら、大したことはない。 キャロルは、噛み締めていた唇を開いた。涙の滲んできた目でスライムを睨み、ぐっと拳を握り、叫んだ。 「何がいけないの!」 腹立たしさに震えた少女の声が、冷たい石壁に跳ね返る。 「いけないのは、お父さんとお母さんよ! いくら頑張っても、いくら働いても、私を見ないのが悪いのよ!」 押さえ込んでいた思いが、次々に言葉になる。 「いいじゃないの! 少しくらい、ちょっとぐらい、愛されたいって思って何が悪いのよ!」 「紛い物に、幸せなどないのである」 「嘘でも本当になるかもしれないじゃない! 本当に、ほんとうに、あいしてくれるかもしれないじゃない」 泣き声になったキャロルは、肩を震わせた。しゃくり上げて言いながら、次第に惨めな気持ちになっていった。 頭では、解っている。魔法を使って心を操ったところでそれは本心ではないのだから、歪んだ家族になる。 だが、それでもいいと思った。不自然でも良いから、作り物でも良いから、仲の良い幸せな家族が欲しかった。 若い男と消えた母。ほとんど帰ってこない父親。冷え切った部屋。愛情のない会話。その、どれもが嫌だった。 嫌で嫌で、逃げ出したかった。けれど、逃げ出せなかった。たった一人で生きていけるほど、強くはない。 ずるりと座り込んだキャロルは、ぼたぼたと落ちる涙を拭えなかった。情けなくて、悲しくて、苦しかった。 伯爵は項垂れている彼女を見ていたが、ふと、その背後に視点を向けた。廊下に、ブラッドが立っていた。 いつになく神妙な顔をして、キャロルの震える背を見つめていた。ブラッドは、キャロルに歩み寄ってきた。 「気が済むまで、そうしてなよ」 ブラッドの声に、キャロルは顔を上げた。ブラッドは、笑った。 「泣くだけ泣いたら、ちったぁ楽になるんだぜ?」 キャロルは言葉を返そうと思ったが、喉が詰まってしまった。あなたに何が解るのよ、何も知らないくせに。 そう言おうと思っても、喉は動かない。下に見ていたはずのブラッドに、情を寄せられるのは不愉快だった。 だが、それよりも遥かに、嬉しさの方が強かった。辛いことを認めたことで、弱みを見せたことで、楽になっていた。 無理をして笑うより、元気であるふりをするよりも、余程気分が良かった。いっそ、清々しさがあるほどだった。 キャロルは目を上げ、ブラッドを見上げた。少年はキャロルの前までやってくると、しゃがんで目線を合わせた。 「気が済んだら、帰ろうぜ」 「いや」 あんな部屋には、戻りたくない。帰っても誰もいない、何を言っても何も帰ってこない、あんな親のいる部屋には。 キャロルがゆっくりと首を横に振ると、ブラッドは困ったように髪を掻き毟った。少し考えてから、言った。 「んじゃ、フィオ姉ちゃんの部屋に帰ろうや。そっちなら、いいだろ?」 キャロルは、幾筋もの涙の跡が付いた頬を拭った。フィリオラの部屋。彼女がいて、彼女が待っている部屋だ。 温かな空気。優しくて柔らかなパンケーキの味。香り高い紅茶の湯気。良く笑って、良く泣く彼女がいる場所。 そこには、行きたくて仕方ないほどだった。いつのまにか、彼女との時間はなくてはならないものになっていた。 キャロルは、小さく頷いた。行きたい。帰りたい。そこに戻れば、冷たく凍えた心が、和らいでくれるからだ。 「…うん」 「手、出して」 ブラッドはキャロルに手を差し伸べ、彼女の手を取った。 「本当はさ、全部をぎゅーってやった方が良いんだけど、オレじゃ腕の長さが足りないから。だからさ」 キャロルの手を両手で握り締めながら、ブラッドは笑う。彼女を落ち着かせるために、笑っていた。 「だけどさ、他の誰かに触ってもらってると、それだけでちったぁ気分が良くなるだろ?」 それは、先日に経験したことだ。孤独の根源を見据えて、この城から帰って、フィリオラの部屋に戻った時だ。 力一杯フィリオラに抱き締められて、レオナルドに肩を支えられて、その後にギルディオスに乱暴に撫でられた。 それだけで、何もかもが埋まった。もう、寂しいなんて思わなくなった。だから、彼女にもそうするべきだと思った。 冷え切っていたキャロルの指先が、徐々に温まってくる。な、とブラッドが笑いかけると、キャロルは俯いた。 「どうして」 「ん?」 「どうして、こんなことするの」 ブラッドの手が温かく、心地良かった。キャロルは、また湧いてきた涙を拭った。 「どうして?」 「変なこと聞くなぁ」 ブラッドは、少し気恥ずかしげにする。 「友達だからじゃん。だってさ、オレとキャロルはフィオ姉ちゃんの弟子なんだから、友達じゃんか」 そこから先は、聞こえなかった。ブラッドの手を固く固く握り締めて、背を丸め、キャロルは声を上げて泣いていた。 訳も解らず、泣いていた。様々な感情を押し流すように溢れてくる涙が、うっすらと埃を被った床に散らばった。 キャロルは崩れ落ちるように。ブラッドに寄り掛かった。少年は、キャロルを宥めるように肩を叩いてくる。 泣きじゃくる少女と、それを支える少年。伯爵は二人の姿を眺めていたが、視点を上げ、後方の窓へと向けた。 彼女が覗き込んでいた深淵への入り口は、どうやら閉じたようだ。伯爵は達成感を覚えながら、意識を薄めた。 呪いは、誰も何も幸せになどしない。ただ一人の友人である幽霊、デイビットの寂しげな横顔が記憶に蘇った。 伯爵は、内心で幽霊の友人に呼び掛けていた。貴君らのような血族や存在は貴君らだけで充分であろう、と。 それに呼応するように、風もないのにカーテンが揺れていた。 三日後。帰ってきたフィフィリアンヌは、伯爵から事の顛末を聞いていた。 薄暗い研究室には、鉱石ランプの青みを帯びた光が広がり、ツノの生えた少女の影を壁まで長く伸ばしていた。 乱雑に本が散らばる机に足を投げ出して組み、ワイングラスを傾けていた。白い太股の傍に、フラスコがある。 滑らかな球体の内側で、ごぼりとスライムが泡立った。その泡が爆ぜてから、伯爵は彼女に視点を合わせた。 きっと、これで良かったのだろう。こうするべきが、正しかったのだろう。そう言おうと思ったが、言えなかった。 栓が抜かれているフラスコに、ワインボトルの口が当てられた。渋みのある液体が、どぼどぼと流れ込んでくる。 鋭い渋さと酒精を感じながら、伯爵はそのワインを吸い取っていった。彼女の手にあるボトルの、ラベルを見た。 リリアスウェルナン。製造年は、丁度百年前のものだった。フィフィリアンヌは、そのワインを自分のグラスに注ぐ。 「報酬だ。貴様と約束していたからな」 「…うむ」 味わい深い渋さを体に染み渡らせながら、伯爵は漏らした。 「少年を、あの子をここに引き寄せることは正しかったのであろうか」 「今更何を。ブラッドを手近に置いておいた方が安全で確実だ、と進言したのは貴様だろうが」 フィフィリアンヌは口に含んだワインを飲み下し、ぺろりと薄い唇を舐めた。 「だが、間違いではあるまい。ニワトリ頭とフィリオラのおかげで、あれも大分まともになってきたからな」 「しかし、フィフィリアンヌよ。貴君は、どうもあの親子に肩入れするのであるな」 伯爵は、フィフィリアンヌを見上げた。青白い光を浴びた少女の赤い瞳は、淡い色合いになっていた。 「魔力反応紙を使った便箋でブラッドを謀り、ここに誘き寄せた時点でそうである。おまけに、貴君の外出の用事はラミアンの墓参りだったのであろう。我が輩の分身がどこへ行ったかなど、いくら離れても感知出来るのであるぞ。てっきり、また首都にでも行くのかと思っていたのである」 「首都へは、どうせ近いうちに行くのだ。そう頻繁に顔を出すものでもないからな」 フィフィリアンヌが目を伏せると、赤い瞳が陰った。 「だが、奴の墓参りは無駄ではなかった。思った通りだった。ラミアンの灰の中に、魂が離脱した痕跡はなかった。死の間際に、強引に引き摺り出されたのは確かだな。国家警察共に大分現場を荒らされていたが、魔力の痕跡は無事だったからな。奴らが魔法に疎くて助かったぞ」 「フィフィリアンヌよ」 「なんだ」 「貴君は、我が輩らの判断が間違っているとは思わぬのかね?」 伯爵の言葉に、フィフィリアンヌは手の中のワイングラスを軽く揺らした。 「愚問だ。疑問を持てば迷いが生じ、迷いは躊躇いと油断を作る。何も、迷うことはない」 何もな、とフィフィリアンヌは付け加えてからワインを一気に呷って飲み干した。反らされた白い首の、喉が動く。 ワイングラスを机に置いてから、息を吐いた。椅子に背を埋めて天井を仰ぎ、フィフィリアンヌは目を閉じた。 そう。何も、迷ってはいけないのだ。一度そうすると決めたことを曲げてしまうのは、性に合っていないのだ。 たとえ、行動の結果がどうなろうとも。そうすることが正しいと思ったから、正しいのだと強く信じているから。 フィフィリアンヌは、意識の底から彼の姿を呼び起こしていた。遠い昔に死した、ただ一人愛した男の顔を。 カインがいれば、何か意見をしてきただろう。争いを好まぬ彼のこと、穏やかに事を進める方法を言うはずだ。 だが、まるで思い付かない。カインのような大きな優しさを持ち合わせていないから、思い付けないのだ。 フィフィリアンヌは目を開き、僅かに微笑んだ。もう、この表情を見せる相手はいない。死んでしまったのだから。 久しく感じていなかった寂しさが胸に広がり、締め付けられるようだった。それと同時に、申し訳なさもあった。 現在の所業をカインが知ったら、怒るだろうか。それとも、困ってしまうのだろうか。その、どちらもなのだろうか。 会いたくて、触れたくて、愛し合いたくなった。一度思い出してしまうと歯止めが利かず、彼との記憶が湧いてくる。 切なげな目をしているフィフィリアンヌを見、伯爵は大人しくなった。愛に満ちた追憶を、邪魔してはいけない。 ベランダに面した窓から外を見ると、弱い月明かりが差していた。広大な湖面には、風で波紋が生まれている。 この城は、随分と寂しくなった。かつては、金色の単眼の異形の歌い手や、妄想癖のある幽霊がいたというのに。 そして、単純ながらも一本気の、あの男も去っていった。ギルディオスがこの城を離れてから、大分経った。 ギルディオスが、再びこの城に戻ってくることはあるのだろうか。二度とないだろう、と伯爵は痛切に感じていた。 今は、ギルディオスと背を向け合った関係だ。その関係でなくならなければ、ギルディオスは城には帰って来ない。 だが、この関係はそう簡単に変わるものでもない。彼がそうであるように、こちらも変えるつもりなどないからだ。 遠い昔が、懐かしくなる。墓場から彼を掘り起こした日、竜王都で戦った彼の姿、そして、兄と戦った彼の絶叫。 そのどれもが大事だったが、今の状態で触れてしまえば、その記憶が失われてしまうような気すらしていた。 しかし、全ては信念を貫き通すためだ。フィフィリアンヌの、そして、伯爵自身の信ずるままに事を成すために。 これからも、失うものが増えるのは目に見えている。だが、引き返すつもりなどないし、今更引き返せはしない。 伯爵は、ごぼ、と泡を吐き出した。涙を堪えるように唇を噛み締めているフィフィリアンヌを、眺めていた。 「全てが終わったら、ニワトリ頭と話し込もうぞ」 「…そうだな」 フィフィリアンヌは、唇の端を引きつらせた。自虐的な笑みだった。 「終わらせることが、出来たらな」 その言葉を最後に、二人は押し黙った。何も言うことはない。何も言うべきではない、と互いに思っていた。 机の上に投げ出していた足を下ろしたフィフィリアンヌは、両方にスリットの入ったローブの裾を整えた。 足によってシワの寄った書類を直し、端を揃えた。その書類に書かれている署名に視点を留め、目を細めた。 ステファン・ヴォルグ。この名に対して感じる穏やかな感情で寂しさを紛らわしながら、彼女は立ち上がった。 一括りにしていた髪を解き、窓を開け放つ。ベルトを外してローブをたくし上げ、下着と共に脱ぎ捨てた。 白い裸身を鉱石ランプの明かりで浮かばせながら、ベランダに出た。ばん、と翼を羽ばたかせ、大きくさせた。 ベランダの手すりに手を掛けて身を乗り出し、そのまま、身を投じた。落下と共に、全身に力を漲らせる。 色素の薄い肌を若草色のウロコが覆い、翼が更に大きさを増し、手足が骨張り、尾が伸び、顎が太く強くなる。 再度羽ばたいて上昇した彼女は、竜に戻っていた。城を悠に越える大きさの緑竜は、夜空へと昇っていく。 月を覆い隠すようにしながら、竜は高く高く上昇していった。そして、力強く荒々しい咆哮が、大気を乱した。 竜の歌が、静かな城を揺さぶった。 魔法とは道具であり、道具を扱うのは人間である。 人は時として、道具であるはずの力に溺れ、力に飲まれてしまう。 だが、力に飲まれてしまう前に、温かな感情を手に入れることが出来れば。 深淵へは、堕ちずに済むのである。 05 12/9 |