ドラゴンは眠らない




鮮血の歌劇場



アルゼンタムは、飢えていた。


喰っても喰っても、少しも満たされない。生き血を腹に注いでも、臓物を噛み砕いても、魔力を得られない。
散々食い散らかしたはずなのに。足元には、腹を引きちぎられた人間と思しき残骸が、無数に散らばっていた。
手足や頭が折り曲げられて砕かれ、骨の覗く肉が血の海に沈んでいた。辺りには、つんとした鉄錆の匂いがする。
袋小路の中は、赤黒く濡れていた。三方向を塞いでいる塀には、温度の残る血飛沫で乱雑な絵が描かれていた。
そこに、細身の影が重なっていた。魔導金属糸製のマントを羽織った、機械仕掛けの銀色の骸骨が立っていた。
仮面の口から下はべっとりと汚れ、胸元に粘ついた滴が落ちている。大きな手の甲で、笑った口元を拭った。
アルゼンタムは、刃物で出来た長い指を折り曲げた。かちん、かちん、と手のひらに指先を当て、数を数える。

「ゴー、ロォク、シィチ、ハァーチィー?」

ぎち、と指先が手のひらを強く擦る。アルゼンタムは不可解さを覚え、足元の屍達を見下ろした。

「オイラってェーバー、八人も喰ったのかヨォオオオオオ!」

なのに、満たされていない。以前であれば、それだけ喰えば三四日は持ってくれた。だが、今は少しも持たない。
喰いたい。喰いたい。もっと血を、力が欲しい。濡らしたばかりの喉が焼け付き、衝動が腹の底から迫り上がる。
息を荒げたアルゼンタムは、ぎちぎちと体を軋ませた。弾けてしまいそうなほどに、本能が膨れ上がってきた。
また、狩りに出るしかない。アルゼンタムが袋小路から踏み出そうとすると、血の海の先に、影が立っていた。
壁に背を預けて腕を組んだ人影が、こちらを見ていた。その者が掛けているメガネに、月光が反射している。
周囲は、ひっそりと静まっていた。アルゼンタムの荒い息遣いと、指先から落ちる滴が地面を叩く音だけがする。
路地の向こうから入り込んでいるうっすらとした街灯の明かりが、その者の影を弱め、横顔を照らし出した。

「あれだけ喰ってもまーだ喰い足りねぇとは。成長期の子供みてぇだな、アルっち」

丸メガネをちゃきりと直した男は、にぃっと笑った。アルゼンタムは、僅かに身構える。

「グーレイスゥー…」

「いやーなかなか。レベッカちゃんとはまた違った良さがあるよなぁ、お前の殺し方って」

グレイスは壁から背を外し、袋小路に入ってきた。その足元には、珍妙な髪型の幼女、レベッカが立っていた。

「ていうかー、アルゼンタムの場合ー、お腹一杯にならないのは自分のせいなんですよねー」

「ンーダトォー?」

アルゼンタムが血濡れた仮面をレベッカに向けると、レベッカはにこにこしている。

「旧王都にいる高魔力者なんてタカが知れてるのにー、それをぜぇーんぶ食べちゃったもんですからー、いい感じに魔力が高い人間が残ってないんですよねー。食べられずに生き残ってる高魔力者もー、御主人様が食べちゃダメーって言っちゃいましたしねー」

「ソウダソウダヨソウナンダヨォオオオオオオ!」

憎たらしげに、アルゼンタムは声を張り上げた。ずかずかとグレイスに歩み寄り、顔を突き出した。

「ナァーンデあの竜の小娘は喰っちゃイケネェンダァヨォオオオオ! 刑事の野郎もその兄貴も吸血鬼のジャリも、ナァーンデ喰わせてくれネェンダァヨォオオオオオ!」

「喰ったら、これから面白くなくなっちゃうからさ」

悪気なく、グレイスは笑っている。アルゼンタムはグレイスの襟元を掴むと、力任せに引き寄せた。

「喰ゥワセェロヤァアアアアアア! 超超超腹ァ減ってンダァヨォオオオオ!」

「あー、うるせー」

グレイスは、嫌そうに顔を背けた。突き抜けた甲高い声を耳元で喚かれると、溜まったものではない。

「ていうかぁー、オレの話聞いてくれなきゃ超困るぅー、みたいなぁー?」

「気色悪ィーンダァーヨォー」

アルゼンタムは、グレイスの襟元から手を放した。妙に語尾を上げた間延びした口調は、何度聞いても嫌だった。
グレイスは血が染み付いた襟元を直し、小さくため息を吐いた。数歩後退ったアルゼンタムを、見上げる。

「だから、ちったぁお前の腹が埋まる話を持ってきてやったんだよ。目標が定まっていた方が、やりやすいだろ?」

「アルゼンタムはー、手当たり次第にー、その辺にいた人間を喰ってるだけですもんねー」

レベッカは、邪気のない表情で笑う。アルゼンタムはそれを嫌味に感じ、ケッ、と吐き捨てる。

「仕方ネェーダァーロゥー、オイラはテメェらほど勘が良くネェーンダカラァーヨォオオオオオ!」

「その辺が機械式の難点だよなー。感覚が鈍る、っての。改善の余地があるなぁ」

不愉快げなアルゼンタムに、グレイスは親しげに笑う。

「だからさ、アルゼンタム。明日の夜、歌劇場でも襲いに行けよ」

「カァーゲキジョー?」

声を裏返して間延びさせたアルゼンタムに、レベッカはこくんと頷いた。

「はいー。明日ー、大衆演劇の劇団が来るんですがー、そこの歌い手の女がいい感じの高魔力者でしてー」

「マジカァーヨォー?」

疑わしげに、アルゼンタムは首を曲げながらレベッカに顔を突き出す。レベッカは、目の前の仮面を見上げる。

「あー。疑うんだったらー、その女がどんな女かー、教えてあげませんよー?」

んふ、とレベッカは丸っこく大きな目を細め、笑顔に邪心を滲ませた。アルゼンタムは、仕方なく体を下げた。
グレイスの言うことを真っ向から信用するのは良くないが、ここまで言うのならば、まんざら嘘でもなさそうだ。
それに、飢えがその疑念すらも打ち消してしまいそうなほどに強くなっていて、あまり我慢出来そうになかった。
明日の夜まで、持つかどうかすら怪しかった。だが、堪えて堪えて堪えた後に啜る魔力の旨さを想像し、堪えた。
ごきゅり、と口の中に残っていた血と肉片を飲み込んだアルゼンタムは、足元で笑うメイド姿の幼女を見下ろす。

「マジな話じゃナカッタァーラァー、承知シーネェカラナァーオゥイー?」

「填めるつもりだったらー、最初っからあなたのところになんて来ませんからー、ご心配なくー」

えへ、と首をかしげたレベッカは、アルゼンタムを手招きした。彼はしゃがんで身を屈め、幼女と高さを合わせる。
レベッカは、アルゼンタムの耳元と思しき突起に小さな口を寄せた。ほんの少しも聞こえない、言葉を発した。
それは、魔力を込めた思念だった。思考そのものを侵してくる舌足らずな幼女の声に、アルゼンタムは辟易した。
だが、無下には出来ないし、そもそも聞き漏らすことも出来なかった。感覚に、直に語り掛けているのだから。
レベッカは、標的となる歌い手の女の名を呟いた。モニカ・ゼフォン。それは、聞いたことのない名だった。
アルゼンタムは体を起こし、歌劇場の方向に向いた。時計塔の周囲に複数ある、大きな建物のうちの一つだ。
明日になれば、その女を喰えば、飢えが消える。満たされる。その時の快感を想像しただけでも、心地良かった。

「うけけけけけけけけけ」

グレイスは笑い始めたアルゼンタムを見ていたが、ふと、レベッカを見下ろした。レベッカは、主を見上げる。

「御主人様ー」

「うん?」

「ここんとこー、わたしの出番がありませんー。アルゼンタムばっかりでー。すっごくつまんないですー」

ぷうっと頬を膨らませたレベッカに、グレイスは幼女の頭に手を載せた。濃い桃色の髪を、ぽんぽんと叩いた。

「ああ、悪い悪い。だが、近いうちに、ド派手に暴れさせてやるからよ」

「本当ですかー?」

期待に目を輝かせるレベッカに、おうよ、とグレイスは笑う。

「だから、もうちょっと良い子にしていような」

「りょーかいしましたぁー」

嬉しそうに、レベッカはぴょんと飛び跳ねた。その動きに合わせ、頭の両脇でバネのように巻かれた髪が揺れた。
無邪気にはしゃぐ幼女を横目に、アルゼンタムは血の溜まった腹を押さえた。少しでも動くと、水音がする。
人間を喰うたびに、グレイスの城に空間転移魔法を用いて転送しているのだが、追い付かなかったようだった。
胸一杯に満ちた生臭さと鉄錆の匂いを感じながら、アルゼンタムは夜空を仰いだ。どこにも、彼の姿はない。
いつもそうだ。グレイスがいる時は彼がいて、彼がいない時はグレイスがいる。交代で、支配しているのだ。
その目から逃れられるのは、ほんの一時。荒っぽい食事に興じていると、誰かと戦っている時だけだった。
思考も、そうだ。僅かに取り戻した理性と同じく、欠片だけでも感じた疑念を膨らませられるのも、戦いの中だ。
戦っていれば、少しだけ本能と飢えが癒される。その相手が彼であるなら、ギルディオスなら尚更だった。
グレイスと彼以外で、初めてまともに話し掛けられた相手だからだろうか。不思議と、甲冑に親しみを感じていた。
会いたい。戦いたい。ギルディオスと言葉を交わしたい。食欲以外の欲望が湧き、アルゼンタムは悦に浸った。
激しさのない感情が、魂に心地良かった。




翌日の夜。共同住宅の玄関前の広間で、レオナルドは苛立っていた。
フィリオラとキャロルの身支度が終わるのを待っているのだが、どれほど待っても彼女達は下りてこなかった。
支度を始める前に、すぐに終わる、と言っていたのだが、支度を始めてから大分時間が経ってしまっていた。
廊下に置かれた柱時計を睨んでいたが、力が暴発しそうになるので目を逸らした。腕を組み、ぼやいた。

「…遅い」

「女の子ってのはそういうもんだよ。もうちょっと、余裕持たなきゃ」

火ぃ出ちゃうよ、と傍らに立つ兄、リチャードは笑う。夜会の礼装に身を包んでいるが、手には魔法の杖がある。
一見すれば不似合いのようだったが、普通の杖に比べて装飾が多いだけだと思えば、合っていないわけでもない。
レオナルドは、渋い顔をして自分の服装を見下ろした。兄と同じく礼装を着ているのだが、体にしっくり来ない。
動きづらいし、なにより似合っている気がしない。昔から何度もこんな服を着ているが、何度着ても慣れなかった。
ヴァトラス家も古くからの資産家なので、当然ながら資産家同士や実業家達との付き合いもあり、夜会もあった。
だが、レオナルドは極力それらを避けていたし、出たとしても最初だけですぐに帰ってしまうことの方が多かった。
元々そういった華やかな場が苦手だというのもあるし、社交辞令や愛想の笑顔を振りまくのが好きではなかった。
だから、今夜も逃げるつもりでいた。歌劇鑑賞などしたくなかったし、行くつもりなどなかったのに、押し切られた。
レオナルドは、兄を睨んだ。話していくうちに逃げ道を全て塞がれてしまい、結局は言いくるめられてしまうのだ。
それも、いつものことだった。自分も口が達者な方だとは思っているが、リチャードには勝てた試しがない。
内心で情けなくなりながらも、表情に出さないようにした。階段の上からは、少女達のはしゃいだ声が聞こえる。
もうしばらく、彼女達の準備には時間が掛かりそうだ。レオナルドはうんざりしてきてしまい、ため息を吐いた。

「女ってのは、どうしてこう…」

「可愛いもんじゃない。身支度に手間取るってことは、それだけ綺麗になろうとしてるんだから」

レオナルドとは対照的に、リチャードは上機嫌だった。レオナルドは、眉根を歪める。

「どこがだ。無駄に時間を浪費して、大して変わりもしない顔やら髪やらをいじくってるだけだろうが」

「解ってないなぁ。女の子はそれが楽しいんだよ」

「さっぱり理解出来ないが」

「僕もレオの感覚は解らないなぁ。フィオちゃんみたいな可愛い子をいじめ倒して、何が楽しいのさ」

リチャードは、にやりとした嫌味な表情になる。

「加虐趣味ってやつ?」

「人聞きの悪いことを言うな」

レオナルドは、呆れたような顔をした。リチャードは、にやにやしている。

「そうじゃないなら、なんだっていうのさ。もし違うんだったら、あれだよねぇ」

その続きは、レオナルドにも予想が付いた。レオナルドは、腹立たしげに語気を強める。

「オレはあの女が嫌いだ。好きなわけがないだろうが!」

ごっ、と階段の上から変な音がした。その音で階段を見上げたレオナルドは、手すりに掴まる少女を見つけた。
転び掛けたのを、なんとか堪えたようだった。上の段にいるキャロルは困っているのか、狼狽えた顔をしている。
手すりを支えにして上半身を起こしたフィリオラは、情けなさそうにレオナルドを見下ろした。そして、むくれた。

「私も、レオさんのそういうところが嫌いです!」

大きく広がったスカートを持ち上げたフィリオラは、つかつかと階段を下りてくると、レオナルドの前に立つ。

「いいじゃないですか、ちょっとくらい遅れたって! お化粧は楽しいんですから!」

「いくらいじったところで、何も変わっていないじゃないか。ガキ臭い顔のままだ」

レオナルドは、フィリオラを見下ろした。品の良い薄化粧をしているが、顔の作りが幼いのであまり変化はない。
目元に淡い色を載せて頬紅を叩き、色のきつくない紅を薄い唇に引いているが、その唇はひん曲がっていた。
短いツノは切り落とされていて、長い髪は後頭部でまとめられ、宝石の付いた銀の髪留めで留めてあった。
何かの花を模していて、花弁のような形をしていた。フィリオラは髪留めを付けた頭を揺らし、顔を逸らす。

「もういいです。レオさんに褒めてもらおうなんて、思っちゃいませんから!」

拗ねてしまったフィリオラは、レオナルドに背を向けた。キャロルは、頼りない足取りで、階段を下りていく。
一階の広間にやってくると、身を縮めた。着慣れない服と初めての化粧が、気恥ずかしくてたまらなかったのだ。
リチャードの目線があると思うだけで、照れくさくて頬が熱くなった。俯いたキャロルに、フィリオラは振り向いた。

「キャロルさん、足、大丈夫ですか? かかとの高い靴って、すぐに痛くなっちゃいますから」

「うん。可愛いねぇ、二人とも」

リチャードが褒めると、途端にキャロルは真っ赤になってしまった。慌てふためいて、フィリオラの背後に隠れた。
急に背中を掴まれ、フィリオラはつんのめった。困ったように縋り付いてくるキャロルを見下ろし、苦笑する。

「まぁ、気持ちは解りますよ」

フィリオラは、緊張で震え出してしまいそうなキャロルを放した。彼女を落ち着かせながら、リチャードに向く。
彼は、機嫌良さそうな笑顔だった。もう一度、可愛いよ、と言われたので、フィリオラも照れてしまった。

「え、あ、そうですかぁ?」

無性に気恥ずかしくなって、フィリオラはせっかく整えた前髪を乱してしまった。顔が緩んで、仕方なかった。
化粧を崩さない程度に頬を押さえると、自分の手首からほんのりと香水が漂ってきて、余計に照れが増してくる。
大人になれたような、そんな気分だった。姉からもらった衣装や化粧品を、売らずに取っておいて本当に良かった。
リチャードが褒めてくれた、それだけでもう充分だった。歌劇の内容も楽しみだったが、最早興味は薄れていた。
キャロルを窺うと、キャロルは桃色の口紅を乗せた唇を綻ばせていた。頬紅がいらないほど、頬が赤らんでいる。
嬉しさのあまり歓声を上げたくなったが、我慢した。この姿ではしゃいでは、さすがにみっともないと思った。
レオナルドは、妙に居づらくなっていた。訳の解らないやりづらさを覚えながら彼女らに背を向け、玄関を出た。
生温い夜風が吹く歩道に出ると、呼びつけておいた馬車が待っていた。一度、共同住宅に振り返ってみた。
何が、面白くないんだ。嫌いな女が、兄に褒められただけだ。ただそれだけなのに、やけに引っかかってくる。
広間から聞こえてくる少女達の高い声をやかましく思いながら、レオナルドは先に馬車に乗り込み、座った。
苛立ちが、起き始めていた。




歌劇場は、既に客が入っていた。
四人は二階席に予約を入れていたので、そこに向かっていた。物珍しさからか、キャロルの足取りは遅い。
豪奢な装飾を施された柱や天井、シャンデリアなどを見上げては感嘆の声を洩らし、ため息を吐いているからだ。
そんな彼女に合わせて、フィリオラものんびりと歩いていた。歌劇が始まるまで時間があるし、急ぐ必要もない。
幅広い階段を昇り切ると、区分けされたベランダのような二階席がある階に出た。その中程に、四人の席がある。
リチャードとレオナルドは先に入っていて、もう通路にはいなかった。フィリオラは、階段の先で待っていた。
歩きづらそうに昇ってきたキャロルは、階段を昇り切ると足を止めた。履き慣れない靴のせいで、足が痛かった。

「足、痛くなりますね」

「私だって痛いですよ。劇が始まったら脱いじゃいたいところですけど、先生がいますから」

彼女が追い付くのを待って、フィリオラは予約していた席に向かった。キャロルは、フィリオラに合わせて歩く。

「でも、フィリオラさんは慣れているんじゃないですか? ご実家がご実家だから」

ストレイン家が大層な実業家であるということは、キャロルも知っている。それに、昔は貴族だったという話だ。
フィリオラはキャロルに振り向くと、困ったように眉を下げた。普段はツノが生えている位置に、手を触れる。

「私は、ツノが生えてますから、夜会に出たことがないんですよ。お兄様とお姉様はちょくちょく出てたんですけどね、お母様が気にしてしまって、滅多に出させてもらえなかったんですよ」

「あ…ごめんなさい」

聞いてはいけなかったのかと思い、キャロルが謝ると、フィリオラは手を横に振る。

「ああ、いえ、そういうんじゃないんです。お母様は、私を気遣ってくれたんです。ツノが生えているせいで蔑まれたり恐れられたりしたら可哀想だから、って」

そう話すフィリオラの横顔は、寂しげだった。明るかった口調も、陰った。

「お母様の考えは解るし、優しさからのことだって解ってはいるんです。ですけどやっぱり、寂しいものは寂しかったです。屋敷にはメイドさん達はいたけど私以外の家族はいなくなっちゃうことが多かったから、除け者にされたような気分になっちゃってました。ですけど、小父様が来て下さってからは、そうじゃなくなりました。小父様がずっと一緒にいてくれて、私と一杯遊んでくれましたから」

だからもう平気です、と笑み、フィリオラは前に向き直った。キャロルは、彼女のほっそりした首筋を見上げた。
生まれと育ちが良くても、才があっても、やはり悩みはあるようだ。キャロルは、以前にも増して親近感を覚えた。
二階席から顔を出して二人がやってくるのを確かめたリチャードは、カーテンを下げて前の席に座り、足を組んだ。
後ろの席に座っているレオナルドは、不機嫌そのものだった。眉を吊り上げて口元を歪め、腕を組んでいる。
リチャードは、困ったもんだと言わんばかりに肩を落とした。薄暗くとも、弟の表情は手に取るように解る。

「そういつも苛々してたら、間違いなく胃に悪いぞ?」

「別に痛んじゃいない」

即座に言い返してきたレオナルドに、リチャードは自分の胸に手を当て、軽く叩いた。

「ちょっとは楽しんでくれなきゃ困るなぁ。今夜のことは僕の奢りなんだから、レオの懐は痛まないだろ?」

「だがな、今の状況で誘うことはないだろう!」

レオナルドは組んでいた腕を解き、兄に身を乗り出した。

「兄貴が捜査に手を出したせいで魔法捜査が始められたことには感謝するが、今はその真っ直中なんだぞ。捜査本部に、オレ以外にはろくに魔法が使える人間がいないことも知っているだろうが。そんな中でオレが一日でも抜けたら、捜査が進展するどころか後退する一方なのは目に見えているじゃないか!」

「解ってないなぁ。僕はね、無意味な行動と効率の悪いことはしない主義なんだよ」

「…まさか、とは思うが」

レオナルドは、劇場に目線を投げた。そうだよ、とリチャードは頷く。

「レオも知っているだろう、主演女優の噂。モニカ・ゼフォン嬢の歌声はセイレーンの如くであり、蠱惑的であり心身に染み入り、内側から揺さぶるようである、って評判」

「まぁ、な。間違いなく、そのゼフォン嬢は魔力を使っていると思うが」

「うん、そうだよ。前に、この劇団がヴェヴェリスに来た時に生徒達と一緒に観たんだけどさ、いやぁー凄かったね。魔法らしい魔法の言葉を使わなくても、充分に魔力を声に馴染ませていて、おまけに歌に合わせて感情まで込めてくるんだ。もちろん女優としての才能もあるし歌も凄く上手いんだけど、そういう力があるんだったら、すぐに売れて当たり前だよね」

リチャードは、悪気の欠片もなく笑っている。

「だから僕は、彼女を餌にしない手はないと思ったんだ。レオの愛しの機械人形、アルゼンタムのね」

「だがせめて、捜査本部に許可を得てから、だな」

レオナルドが困ったように呟いたが、リチャードは得意げですらあった。

「そんなことをしている間にも、アルゼンタムは人を殺すかもしれないじゃないか。だったら標的になるであろう人間を定めておいて、そこで待ち受けていた方が余程効率的だと思わないかい」

「そのモニカ・ゼフォンが、大衆の面前で切り裂かれたらどうするつもりなんだ。いくら兄貴がいると言っても、奴には魔法もオレの力も通用しないんだぞ」

「その時はその時だよ。どうにかなるんじゃない?」

しれっと答えたリチャードは、細めていた瞼を開き、後方に向けた。丁度、フィリオラとキャロルが入ってきた。
二人は立ち止まると、リチャードの隣にどちらが座るか、話し合い始めた。小さな声ながらも、高揚している。
リチャードの眼差しは、フィリオラを捉えていた。困ったようでありながらも嬉しそうな表情の、少女の横顔を。
レオナルドは、リチャードを見据えた。兄の魂胆は見えた。恐らくリチャードは、彼女を戦わせるつもりなのだ。
確かに、人外と戦う相手ならば人外である必要があるだろう。だが、だからといって、わざわざ彼女でなくとも。
そういうつもりならば、なぜギルディオスを連れてこない。彼もまた、アルゼンタムに執心しているのだから。
そうすれば、フィリオラがあの狂気の機械人形と戦う必要もないだろうし、率先してギルディオスが戦うだろう。
だが、彼女に頼りたいというのも事実だ。恐るべき運動能力を持つアルゼンタムと、人間は真っ向から戦えない。
しかし、竜であるフィリオラは別だ。魔法を使わずに飛ぶことも出来るし、人外故の強靱な体力と腕力もある。
打算的な思考と感情的な思考の間で、レオナルドは迷ってしまった。リチャードの考えを、すぐには飲み込めない。
フィリオラは人の良い性格だし、リチャードに頼まれれば嫌とは言えないはずだ。それも、見越しているのだろう。
レオナルドは、兄の腹の悪さを嫌悪した。効率的と言えば聞こえがいいが、他人を利用するだけではないか。
これもまた、昔からのことだった。こういった悪知恵に関しては、リチャードを凌いだことなど一度だってない。
レオナルドはそのことをフィリオラに言おうかと思ったが、やめた。言い方を間違えれば、ただの文句になる。
それに、今の状態の彼女では聞き入れないだろうし、着飾って浮かれている彼女に、戦いの話をするのは酷だ。
レオナルドがむっつりとしていると、隣の席にフィリオラが腰掛けた。スカートを直してから、椅子に身を沈める。
結局、リチャードの隣をキャロルに譲ったようだった。フィリオラは残念そうだったが、それでも楽しげだった。
レオナルドは彼女から顔を逸らし、足を組んだ。あの妙な引っかかりが消えることはなく、苛立ちも残っている。

「あの、レオさん」

フィリオラは手にしていた劇の粗筋を書いた小冊子を膝に載せ、レオナルドに向いた。

「先生と、何を話していたんですか? アルゼンタムって聞こえたんですけど」

「お前には関係のない話だ」

その続きを言おうと思ったが、言えなくなった。レオナルドはフィリオラに目線をやったが、すぐに外した。
本当に、この場にアルゼンタムが現れたならば、間違いなく戦わされるであろう彼女に、同情してしまった。
力があるというだけで、道具のように扱われるやるせなさと悔しさは、レオナルド自身も痛いほど知っている。
そのことまで思い出してしまい、レオナルドは奥歯を噛み締めた。苛立ちが、強まってしまいそうだった。
フィリオラは、そっとレオナルドの表情を覗いた。いつものように険しかったが、どこか違うようにも見えた。
だが、その感情が何であるかを窺い知ることは出来なかった。フィリオラは、釈然としないまま正面に向いた。
劇場の一階席からは、人々のざわめきが聞こえていた。舞台は、重たい赤色の幕によって閉ざされている。
それが、するすると上がり始めた。薄暗かった観客席には舞台照明の明かりが零れ、手前だけ明るくなった。
楽団の演奏が始まり、様々な楽器による豊かな旋律が劇場を満たすと、ざわついていた空気が一変した。
歌劇の上演が、始まった。







05 12/10