目の前の光景が、信じられなかった。 責めるとすぐに泣く少女が、少し褒めただけで本気で喜んだ彼女が、切なげな表情を浮かべていたフィリオラが。 銀色の骸骨と、対等に戦っていた。劇場の中を縦横無尽に飛び回り、アルゼンタムと組み合っては突き飛ばす。 壁の至るところが両者の攻撃で崩れ、座席が破壊されていく。豪奢な柱の装飾も無惨に壊れ、床に転がった。 舞台にいた俳優達も袖に逃げたので、今や歌劇場は、狂気の人形と竜の少女の歌劇が繰り広げられていた。 演奏の代わりに破壊音が、歌声の代わりに打撃が、感情の籠もったセリフの代わりに狂った高笑いが放たれる。 レオナルドは、呆然とその場に立ち尽くしていた。戦うことなど、出来るはずもない。援護など、する間もない。 リチャードは、怯え切ったキャロルを腕の中に納めていた。大丈夫大丈夫、と言いながら肩を叩いてやっている。 震えているキャロルは、血生臭さと状況の凄まじさで青ざめていた。何もかもが恐ろしくて、おぞましかった。 レオナルドは呆気に取られていたが、意識を戻した。二階席の柵までやってくると、一階席を見下ろした。 アルゼンタムの蹴りをまともに受けたフィリオラは、吹き飛ばされると見せかけて身を捻り、急上昇した。 彼女は、レオナルドの目の前を過ぎっていった。ほんの一瞬だけ合った目は、恐ろしいほど赤く、笑っていた。 直後、上空で体を反転させたフィリオラは、アルゼンタムの真上に急降下した。かかとを突き出し、叩き込む。 「はっ!」 頭の頂点にかかとを落とされたアルゼンタムは、俯せに倒れた。衝撃で床が砕け、細かな破片が飛び散った。 がしゃがしゃっ、と砕けた座席が更に砕け、床が抉られた。倒れたアルゼンタムの頭を、彼女は踏み付ける。 「立ちなさい。まだまだこれからですよ?」 「おい、いい加減にしろ!」 レオナルドは身を乗り出し、溜まらずに叫んだ。こんな姿のフィリオラを、いつまでも見ていたくなかった。 アルゼンタムの後頭部にぐりっとかかとを押し込んだフィリオラは、レオナルドを見上げ、唇を歪める。 「ろくに戦えもしない人が、何を偉そうに。ここから出ろとでも? 出たら被害は間違いなく拡大しますけど、それでも良いというのなら外に出て戦いますよ? ですけど、仮にも警察の方が死人を増やせみたいなことを言うはずがありませんよねぇレオさん?」 赤い瞳が、こちらを見ていた。レオナルドは、生き物の本能を逆立てる恐怖と戦いながら、声を荒げた。 「だが、そこまでやることはないだろう! もっと、他のやり方があるんじゃないのか!」 「この人には魔法が一切通じないんですから、格闘戦以外に何かありますか? 有効な手立てがあるとしたらば、今すぐにでも教えて欲しいところですが」 「魔導拳銃、貸してやる! だから」 「魔力の吸引は何度か試しましたよ。あなたがぼけっと突っ立っている間にね」 フィリオラはアルゼンタムの頭を再度踏み付け、がしゃっ、と揺さぶった。 「ですが、何も吸い出せませんでした。きっと、グレイスさんが改造でもしたのでしょう。忌々しいったらないですよ」 「…う」 言い返すことも出来ず、レオナルドは苦々しげにした。信じたくはないが、これは間違いなくフィリオラだ。 濃緑のしなやかな長い髪には結っていたクセが残っているし、唇には紅が乗っているし、声も同じなのだから。 だが、中身が違うようにしか思えない。いや、違ってはいないのだが、そう思いたくなるほどの豹変だった。 レオナルドを可愛いと言った唇が、笑みで綻んでいた目元が、別人のように凶悪な表情を作り、言葉を発する。 キャロルでなくとも、怯えるというものだ。すると、フィリオラの足の下から、銀色の骸骨が起き上がった。 ぎちぎちと関節を軋ませながら、上半身を起こした。フィリオラは踏み付けていた足を外し、ふわりと浮かぶ。 座席の破片やクッションの綿が血の付いた仮面にへばり付いていたが、アルゼンタムは手の甲でぐいっと拭った。 「うけけけけけけけけ」 アルゼンタムはがくがくと肩を震わせながら、がしゃりと踏み出した。 「ソウヨソウダヨソォナノサァー! オイラってバァ、もう弱点なんざどこにもネェンダァヨォオオオオ!」 「その方が、やりがいがあるというものです。弱点ばかり攻めていても、楽しくはないですからね!」 フィリオラは姿勢を前に傾けると手を突き出し、アルゼンタムの仮面を掴んだ。が、すぐに離して膝を曲げる。 「ふっ!」 一瞬浮いたアルゼンタムは、腹部に強烈な膝蹴りを叩き込まれ、後方に飛んだ。破片を散らしながら、遠ざかる。 舞台のすぐ傍に飛んだアルゼンタムは、カーテンを引き千切りながら転げた。赤い布の固まりが、床に落ちた。 フィリオラはアルゼンタムの仮面を掴んだ手を振り、穢らわしげに眉を歪めた。すると、布の固まりが破れる。 直後、布は細かな破片となって散らばった。両手の刃物で出来た指によって、カーテンは一気に切り裂かれた。 はらはらと紙吹雪のように降り注いでくる布の破片の中、アルゼンタムは立ち上がり、仮面の顔を上向けた。 竜の少女は、あまり負傷していないようだった。傷もすぐに回復してしまうし、決定的な攻撃は出来なかった。 隙を見て腹を割こうとしてもその前に避けられるし、俊敏さは彼女の方が上だ。空中では、勝ち目は一切ない。 だからといって、地上戦をするには足場が悪すぎる。まともに空を飛べないので、状況は不利に変わりない。 その間にも、飢えは全身を襲ってくる。魂をも侵食する飢餓感が湧き、食べたばかりなのに腹が減っている。 喰いたい喰いたい喰いたい喰わなければ死んでしまう。アルゼンタムは思考を支配する本能を堪え、考えた。 もう、彼女でなくてもいい。竜でなくとも、魔力の充ち満ちた者を喰ってしまえば、この凄絶な飢えは満たされる。 アルゼンタムはぜいぜいと息を荒げながら、二階席に視線を向けた。力が漲った人間が、他にいるではないか。 「うかかかかかかかか」 喰うんだ喰うんだ食べる食べる食べられるんだ食べなくては。満たしたい満たしたい満たさなければならない。 アルゼンタムは膝を曲げると、床を蹴った。強靱なバネで軽々と身を跳ね、天井近くまで高く飛び上がった。 フィリオラは、すぐ下にいる。何をするのかと思ったらしく、少し不思議そうにしていたが、目を見開いた。 彼女が表情を変えたのを見て、アルゼンタムは笑った。そうだ。お前でなくてもいい。喰えれば、それでいい。 マントを硬化させて翼に変化させ、姿勢を傾けた。滑るように、一直線に、アルゼンタムは彼を捉えていた。 その先に立つレオナルドは、力を高めようとした。だがそれよりも早く、アルゼンタムは二階席へ降下してくる。 銀色の大きな手が伸ばされ、血の筋が付いた指先が目の前に突き出された。それが、目を抉るかと思った瞬間。 「あぐっ」 若草色の皮が裂け、生温い血が飛んできた。その滴の一つがレオナルドの頬を掠めていき、肩口に流れ落ちた。 皮は、竜の翼を成していたものだった。その翼が繋がっている先の背では、しなやかな長い緑髪が乱れていた。 ウロコに覆われた足が、だらりと下がった。辛うじて空中に留まっているフィリオラは、翼を貫かれていた。 赤い流れが若草色を伝い、ぱたぱたと手すりに落ちていた。フィリオラは震える手で、アルゼンタムの腕を掴む。 翼を突き破っている銀色の大きな手を引き抜くと、飛び散る血の量が増えた。フィリオラは、歯を食い縛る。 「…あなたも馬鹿な人ですね、レオさん。あなたがさっさと逃げていたら、こうならずに済んだのに」 フィリオラは、手足を振り回してくるアルゼンタムを高々と掲げて遠ざけた。 「ですが、あなたのおかげで良い方法を思い付きました。それだけは、感謝しますよ」 何をするつもりだ、とレオナルドが問う前に、フィリオラはアルゼンタムの頭を両手で挟み、引き寄せた。 「あなたは力が欲しいんでしょう。でしたら、いくらでもあげてやりますよ」 フィリオラは、笑みを浮かべる仮面の口元に唇を寄せた。 「壊れるくらいにね」 赤い唇が、赤い口元に触れた。暴れていたアルゼンタムは動きを止めて、骨のような両手両足を力なく垂らした。 銀色の胸装甲に埋め込まれた緑色の魔導鉱石が光を帯び、仮面の奧に隠された同じく緑色の瞳が輝いた。 力が、魔力が、満ちていく。外れてしまいそうな程に痛め付けられた各部の関節が動きを取り戻し、理性も戻る。 腹が満ちる。心が潤う。過剰なまでに漲っていた本能が沈静し、理性が戻ると、落ち着いた言葉が口から出た。 「あの子は」 機械人形は、理性の光を宿した魔導鉱石の瞳に、竜の少女を映した。 「ジョーは」 どこにいる、と繋げようとしたが、出来なかった。温かく注がれていた魔力の量が、一気に数倍に跳ね上がった。 激流にも似た力の奔流で飢えは癒されるが、それ以上の満腹感がやってきた。腹の中の歯車が、回転を始める。 受けた魔力と同等の働きを始めようとするが、量が多すぎて回転が恐ろしいほど速まり、摩耗してしまいそうだ。 腹が満ちるどころか吹き飛びそうなほどに魔力が溜まり、アルゼンタムはフィリオラを押し退け、落下した。 がしゃっ、と背中から砕けた床に叩き付けられると、起き上がって背を曲げた。口元を押さえたが、逆流した。 「ウゲェエエエエエエッ!」 喰ったばかりの血と肉が、だばだばと流れ出てくる。だが、いくら吐き出しても力は失せず、腹が苦しい。 口を押さえる指の隙間から、鉄臭く粘り気のある液体が溢れていた。腹の中身を全部出しても、まだ苦しかった。 げぼっ、と水気の混じった咳をしてから、アルゼンタムはよろけてしまった。血の海に、ばしゃりと倒れた。 動こうとしても、過多な魔力が体を過熱させる。機械仕掛けの内臓に限度を超えた動きをもたらし、逆に動けない。 そのうち、ばきん、と嫌な音が腹の中から響いた。大方、歯車のどれかが外れた拍子に砕けでもしたのだろう。 凄絶な飢えは失せたが、逆に苦しみが訪れていた。歯車と一緒に軸も折れたようで、空回りしているのが解る。 からからと空虚な金属音を腹から出しながら、アルゼンタムは意識が虚ろになった。痛みと苦しさが、凄まじい。 それでも、僅かに取り戻した理性の欠片は残留していた。激痛の最中にある思考を巡らせ、言葉を出そうとした。 ジョーは。彼女は。あの子は。それを竜の少女に問い掛けたかったが、もう無理だった。意識が、薄らいだ。 光を宿していた瞳から輝きが消え、仮面の底はまた暗くなった。ばちゃり、と銀色の仮面を赤い吐瀉物に埋めた。 アルゼンタムが気を失ったのを確かめてから、フィリオラは唇を拭った。人間の血の味に、吐き気がしていた。 それでも辛うじて堪えていたが、痛みだけは無理だった。浮遊しているだけの魔力を保てなくなり、揺らいだ。 後方に倒れ、二階席の床に転げ落ちた。破られた翼を引き摺りながらなんとか上半身を起こし、彼を見上げた。 「あなたが、私にしたのと」 フィリオラは、レオナルドを見上げた。彼の唇の感触が、蘇っていた。 「同じことを、したんですよ」 声は、震えていた。大きな翼が縮んで背中に貼り付き、骨が吸い込まれて皮が失せ、ウロコが消えていった。 濃緑だった髪の色も黒に近くなり、深紅の瞳も青に戻った。強固だった手足も、華奢で頼りないものに変わった。 冷たい床に倒れ伏した裸身のフィリオラは、体を縮めた。彼らにしてしまった言動が思い出されて、苦しくなる。 言うつもりのないことばかり、言ってしまう。理性が飛んでしまう。横目に柵の向こうを見た途端、息を飲んだ。 破壊され尽くした劇場の壁や客席は、もう原形を止めていなかった。戦っている時は、少しも気付かなかった。 それが、怖かった。自分が自分でなくなった。フィリオラは申し訳なさで胸が締め付けられ、涙が出てきた。 「…ごめんなさい」 レオナルドにも、リチャードにも、キャロルにも、観客の全てにも、劇団の人々にも、そして、アルゼンタムにも。 とてつもなく、悪いことをした。過剰な破壊と暴力が、悪でなくてなんであろうか。正義であるはずがない。 「ほんとうに、ごめんなさい」 他にも、言うべきことは山ほどあると思った。だが、これしか思い付かなかった。思い付けなかったのだ。 フィリオラは、両手で顔を覆った。血と埃に汚れた頬には化粧が残っていて、手首には香水の残り香がある。 無性に切なくなって、フィリオラは泣き出した。レオナルドは泣きじゃくる少女を見下ろしていたが、兄に向いた。 キャロルを宥めているリチャードは、普段となんら変わらない表情だった。平然としていて、落ち着いていた。 「これで、僕の手筈は成功したことになる」 レオナルドが拳を握り締めると、リチャードはキャロルを歩かせながら通路に向かっていった。 「アルゼンタムを回収さえ出来れば、物的証拠が出来て、グレイス・ルーの城の家宅捜索を行えるだろう?」 「それだけの、ために」 「ああ。それだけだ。それ以上の理由がどこにある」 リチャードは弟に横顔を向け、細い目を見開いた。薄茶の瞳が、苛立っている弟を映す。 「あの男は害悪どころか、諸悪の根源だ。やれるときに始末しておかないと、後々面倒になるじゃないか」 「兄貴」 レオナルドは、力一杯兄を睨んだ。 「一発殴らせろ」 「事が済んだらね」 警察呼んでくるから、と片手を振りながらリチャードは出ていった。レオナルドは、その背をずっと睨んでいた。 足音が遠ざかっても、しばらく目線を外すことが出来なかった。炎が迸りそうだったが、燻っているだけだった。 迷っていたからだ。兄の所業は許せないが、だが、間違っているわけではない。犠牲がなければ、結果はない。 だが、だからといって、何も自分の教え子を犠牲にすることはないだろう。レオナルドは肩を落とし、項垂れた。 力なく座り込もうとしたが、それよりも先に、彼女が目に入ってきた。フィリオラは、震えながら泣いていた。 レオナルドは上着を脱ぐと、彼女の体に被せてやった。フィリオラはその上着を握り締めて肩を縮め、呟いた。 「ごめんなさい」 弱々しく、フィリオラは涙を流している。 「いっぱい、いっぱい、ひどいこといって、いけないことして、ほんとうに」 「もういい。喋るな。今は、眠っておけ」 レオナルドはフィリオラの背後に屈み、膝を付いた。彼女の肩に手を伸ばそうとしたが、躊躇し、下げた。 「オレはここにいる。だから、今は寝ろ」 フィリオラは血の付いた手を伸ばし、彼の手を取った。縋るように握り締めると、涙に濡れた頬に押し当てた。 「だったら、こうしててください」 「ああ」 レオナルドは、フィリオラの背後に座った。しゃくり上げる彼女の頬は冷え切っていて、すっかり汚れていた。 そのうち、泣き声が納まってきた。荒かった呼吸も落ち着き、起伏の少ない胸元が上下し、瞼は閉じられた。 戦闘の疲弊と魔力の減少からか、あっけなく寝入っていた。あれほど激しく戦ったのだから、当然のことだろう。 レオナルドはフィリオラを慎重に抱き起こすと、腕の中に抱えた。床では冷たいだろうと、思ったからだった。 椅子に座らせようと思っていたが、立ち上がれなかった。フィリオラの体重は軽かったが、動けなくなった。 生々しい鮮血の匂いが、化粧の匂いに混じっていたからだ。改めて、兄の所業の過酷さを思い知ってしまった。 ここに来る前、共同住宅でのやり取りが思い出された。綺麗に着飾ってはしゃいでいた、彼女は愛らしかった。 それを、全て破壊したのは、破壊するように仕向けたのは、実の兄であり彼女の師であるリチャードなのだ。 レオナルドは、兄への怒りと苛立ちを強めていた。追いかけていって殴りたいが、フィリオラを放り出せない。 一人にしてしまっては、あまりにも哀れだと思った。レオナルドはフィリオラの手を握り締めたが、冷たかった。 無理もない。アルゼンタムの許容量を超えるほどの魔力を注ぎ込んだのだから、尽きてしまっているのだろう。 放っておけば、魂を繋ぎ止めておけなくなる可能性もある。レオナルドはそれを足してやろうと、己の力を高めた。 細い顎を持ち上げて薄い唇を開かせたが、躊躇した。先日のこともあるし、了承を得ずにしないと言ってある。 レオナルドはあの胸の痛みに苛まれつつも、上向けた彼女の顎から手を外せなかった。外したくなかったのだ。 この状況なら、仕方ない。レオナルドはそう自分に言い訳しながら、フィリオラの唇に己のそれを近寄せた。 出来るだけ優しく重ね合わせ、舌を滑り込ませ、魔力を流し込んでいった。彼女の口中からは、鉄の味がした。 苦みのある、悲しい味だった。 歌劇場の裏口に、甲冑が寄り掛かっていた。 時代錯誤のバスタードソードを背負い、腰には拳銃が提げていた。トサカに似た、赤い頭飾りを付けている。 腰までの長さしかない赤いマントが、夜風で軽く揺れていた。裏口の扉が開き、華やかな衣装の女が出てきた。 豊かな金髪を持った、青い瞳の美しい女だった。彼女は、先程まで舞台で歌っていた、主演女優だった。 「隊長」 女優、モニカ・ゼフォンは表情を硬くしていた。よ、とギルディオスは片手を挙げる。 「悪ぃな、モニカ。面倒、頼んじまってよ」 「いえ。それよりも、あの魔導兵器の件ですが」 モニカは、申し訳なさそうに目を伏せた。 「私が囮になるはずだったのに、なれなかった上に、あの子を傷付けてしまいました。申し訳ありません」 「フィオには、悪ぃことしたな」 リチャードの野郎め、とギルディオスは腹立たしげに毒づいた。ヘルムを、傍らの女優に向ける。 「それで。アルゼンタムの中身が誰か、解ったか?」 「いえ。歌であの魔導兵器の魂に語り掛けてみましたが、反応はありませんでした。魔力の波も色々と変えたんですけど、一度も。私の覚えている隊員の中には、いないようです。恐らく、私が従軍する以前の隊員ではないかと」 モニカの答えにギルディオスは、そうか、と小さく呟いた。 「参ったな」 ちぃ、と苦々しげに舌打ちした甲冑を、モニカは懐かしく思いながら見ていた。退役してから、会っていなかった。 竜の少女と共に旧王都にいるとは聞いていたが、まさか、こうして助力を求められるとは思ってもみなかった。 モニカの能力とも言える、破壊力を生じさせるほどの魔力を含んだ歌声は、使いどころがかなり難しいものだ。 魔力を押さえ込んで歌えば人々の魔力中枢に感情を行き渡らせることが出来、歌い手としての才能となる。 だが、一歩間違えば、その周囲の全てを打ち砕く歌声だ。だから、アルゼンタムの正体を探る際も気を遣った。 観客達に痛みを与えないように、そして、竜の少女を傷付けてしまわないように。だが、その影響は出てしまった。 魂を探るということは、魂を肉体に繋ぎ止めている魔力中枢を揺さぶるので、結果として感情を高ぶらせてしまう。 なので、ただでさえ変身して気が立っている竜の少女を揺さぶってしまい、彼女を破壊に駆り立ててしまった。 あの竜の少女は、まだ十八歳だという。きっと、破壊を楽しんでいた自分に深く傷付いているだろう、と思った。 強い罪悪感で、モニカは唇を噛み締めた。やはり、異能部隊にいてもいなくても、この力は他人を不幸にする。 悲痛な面持ちでモニカが俯くと、ギルディオスは彼女の頭に手を置いた。子供にするように、ぐしゃりと撫でる。 「悪いのはオレだ。お前を使ったのも、お前がやりたくねぇ仕事をさせたのも、お前の舞台をぶち壊したのも」 だからよモニカ、とギルディオスは明るい声を出す。 「歌は嫌いになるな。お前の歌が好きな連中がいてくれたから、お前はここまで立派になれたんじゃねぇか」 な、とギルディオスは笑った。モニカは頷くと、ギルディオスを見上げた。かつての上官は、変わっていない。 「…はい」 「さて、と。そろそろサツが来るだろうから、オレは帰るわ。フィオを迎えてやらなきゃならねぇしな」 モニカの頭から手を外したギルディオスは背を向けて数歩歩いたが、立ち止まり、モニカに横顔を向けた。 「モニカ。お前が隊を抜けてから大分経つが、異能部隊は相変わらずだぜ。何も、変わってねぇ」 ギルディオスの口調は、苦しさを含んでいた。歌劇場から離れた位置にそびえている時計塔を仰ぎ、漏らした。 「だがよ、オレはあいつらを見捨てられねぇんだ。どうしてもな」 ギルディオスの記憶から、かつての部下の少女が思い出された。年端も行かない、幼子の姿が浮かんでくる。 快活で、良く笑う小さな女の子。おかしな能力を持ったせいで親から見放され、共和国軍に拾われた彼女。 舌足らずな声で、歳の離れた隊員達と戯れていた。ギルディオスを父親のように慕い、いつも後ろに付いてきた。 たいちょーさん。たいしょーさん。しょーささん。そのどれで呼ばれるかは、その日の彼女の気分次第だった。 くるくると変わる表情は眩しいほどで、他の隊員達と同じように、娘のように思っていた。いや、本当に娘だった。 栗色の柔らかな髪をなびかせて、黒い瞳を輝かせて、大きさの合わない軍服を着て、基地の中を駆けていた。 たいちょーさん。 そうやって呼んできたときの声がとても嬉しそうだったのを思い出して、ギルディオスは内心で顔を歪めた。 だが、その彼女の平穏を、守れなかった。少女の姿と共に苦い記憶が溢れ出してきて、やるせなくなった。 肩を怒らせている甲冑の後ろ姿に、モニカは呟いた。アルゼンタムが言っていた言葉を、思い出していた。 「あの魔導兵器は、あの子のことを知っているのかもしれません。あの子の名を、言っていましたから」 「ジョーをか?」 「そのジョーがあの子である可能性は絶対ではありませんけど、それでも何か関係はあるかもしれません」 「そうか。ありがとな、モニカ! オレの仮説も、まんざら間違いじゃねぇかもしれねぇな!」 心底嬉しそうに声を弾ませたギルディオスは、じゃあな、と後ろ手にモニカへ手を振って駆け出していった。 モニカはその後ろ姿を見送っていたが、裏口に戻った。厚い扉が静かに閉められて、がしゃりと施錠された。 彼は、その様子を高みから見下ろしていた。春の温暖さを保った夜風を浴びながら、藍色の夜空を仰いだ。 全て、計算通り。このまま滞りなく進めば、望んだ結果が待っている。求めている未来が、手に入るはずだ。 笑い声を殺して笑いながら、アルゼンタムの行く末をちらりと想像したが、すぐにそれは思考から外れた。 犠牲となった者に、切り捨てた手駒に思い入れなどない。最初から切り捨てるつもりで、造り上げたのだから。 楽しい。楽しい。楽しすぎる。なんて素晴らしいことだろう。彼はメガネの下で目を細め、にたりと笑った。 彼にとっては、素晴らしく楽しい夜だった。 戦いは、敵ならずとも己も傷付けてしまう。 それがいかなる理由の戦いであろうとも、傷付くことには変わりはない。 竜の末裔は竜であるが、それ以前に、一人の少女である。 少女は、決して戦士ではないのである。 05 12/11 |