ドラゴンは眠らない




決意の婚礼



リチャードは、言葉を失った。


広げた新聞の一面に、首都の惨状が書かれていた。首都は瓦礫の山と化し、機能の大半を失った、とあった。
共和国政府本部が破壊されてしまったため、報道規制すらなくなっているので、詳細に事が書き記されている。
国境を突破した隣国と周辺諸国の連合軍が首都に攻め入り、一週間と経たないうちに攻め崩されてしまった。
首都を守っていたはずの軍の部隊は、戦力の大半が他所へ派遣されていたので、首都は無防備な状態だった。
この情勢で、首都の守りを緩くするのは正気の沙汰とは思えなかった。事実、弱点として付け込まれてしまった。
何か、おかしい。一国の軍隊としてもそうだが、軍の判断を良しとした共和国政府も、どこかがずれている。
リチャードは荒い印刷の記事を読み続けていって、ふと、ある単語を目にした。特務部隊、と見慣れない名がある。
異能部隊とは違う、政府寄りの部隊だと記憶している。高官達は特務部隊の活躍によって生き延びた、とあった。
リチャードはあまり良くないものを感じて、その名から目を離せなかった。すると、おずおずと声が掛けられた。

「どうか、なさいましたか?」

隣に座っているキャロルが、不安げにリチャードを覗き込んできた。余程、怖い顔をしていたようだった。
リチャードは新聞を折り畳むと、食卓の脇に追いやった。首都壊滅の記事を下にしてから、キャロルに向く。

「ああ、うん。ごめんね」

「首都が、ダメになってしまったんですか?」

キャロルは俯き、目線を足元に落とした。新聞記事の端々を横から少し読んだだけでも、とても恐ろしかった。
リチャードは間を置いてから、うん、と小さく頷いた。キャロルの縮まっている肩に手を回し、優しく抱き寄せる。

「僕が思っていたよりも、ずっと戦況は悪い。軍が骨抜きになっているというか、動きがひどく鈍いんだ」

キャロルはリチャードの手が肩を包んでいることを意識するよりも、恐怖が先に立ち、エプロンを握り締めた。

「旧王都にも、戦争は来るんでしょうか」

リチャードは予想を答えようとしたが、言葉を飲み込んだ。唇をぎゅっと引き締めたキャロルが、体を預けてきた。
必死に不安を見せまいとしているようだったが、手の中の肩は強張っていて、緑色の瞳は僅かに潤み始めていた。
リチャードは何も言わずに、キャロルを抱き締めてやった。まだ肉の薄い少女の体は、すっぽりと腕の中に納まる。
波打った赤毛に指を入れ、梳いてやる。彼女は気恥ずかしげに小さく声を漏らしたが、されるままになっていた。
髪からは、花のような柔らかな匂いが漂ってくる。リチャードは背を曲げて、キャロルの髪に頬を軽く当てた。
グレイスに本心を暴き出され、彼女に対する恋心に気付いた日から、日に日に執着という名の愛情は強くなった。
触れていないと寂しくてたまらず、少しでも離れると不安に苛まれるようになり、いつになく情緒は不安定だった。
だが、悪いものではなかった。たかだか十四歳の少女に振り回されている自分が可笑しくもあり、楽しくもあった。
リチャードはキャロルの髪に口付けてから、体を傾けた。急に体重を掛けられ、キャロルはよろけてしまった。

「なっ、なんでございましょう」

「ん、別に」

リチャードは彼女の背後にある肘掛けに手を付き、体の下にいるキャロルを見下ろす。

「なんだっていいじゃない」

「お料理、冷めて、しまいます」

間近に迫ったリチャードに困惑しながらも、キャロルは身をずり下げた。だが、すぐに間を詰められてしまった。
キャロルは、リチャードに押し倒された恰好になっていた。後退しようにも、背後には彼の腕と肘掛けがある。
頬を染めながら、キャロルは目線を左右に動かした。中途半端に後ろに倒れた姿勢は辛かったが、堪えていた。
キャロルはなんとか目線を彼に戻すと、リチャードは微笑んでいた。作ったものではないので、表情は柔らかい。
空いている方の手が、キャロルの頬に触れる。顔を逸らそうとしたが引き戻され、そのまま、唇を重ねられた。
キャロルは身動きしようとしたが、リチャードの体が上にあるせいで動けず、ぎゅっと手を握って身を固めていた。
唇から伝わってくる彼の体温が心地良かったが、あまりの距離のなさに、心臓の高鳴りは一気に激しくなった。
先程感じた戦争への恐怖心など消えてしまいそうなほど、胸の内側がきつく締め付けられ、痛くなっている。
ずっと、このままでいたい。そうしたら、何も怖くない。キャロルは体から力を抜き、リチャードに身を委ねた。
リチャードの舌がキャロルの薄い唇に差し込まれ、唇を弱くなぞった。柔らかなそれを吸い上げてから、離れる。
顔を上げると、キャロルは真っ赤になって唇を押さえた。眼差しからは不安が消え、代わりに照れが窺えた。
リチャードは体を起こすと、新聞へと目をやった。その下には、新聞と共に届けられた封書が、二通あった。
片方は共和国政府、片方は共和国軍からだ。政府から来た方の中身を思い出し、リチャードは目元を歪めた。
起き上がったキャロルは、表情を硬くしたリチャードの横顔を見上げた。鼓動のうるさい胸に、手を添える。

「あの」

「そろそろ、レオが来ると思うから」

「はい?」

不思議そうに目を丸めるキャロルを横目に、リチャードは立ち上がった。すると、扉が乱暴に開く音が聞こえた。
激しい足音が真っ直ぐに居間へ向かってくると、ばん、と扉が開かれた。彼の言葉通り、レオナルドがいた。
息を荒げながら扉に手を付いたレオナルドは、体を折り曲げて肩を上下させた。その背後に、少女がやってくる。
小走りに駆け寄ってきたフィリオラは、リチャードとキャロルに小さく頭を下げてから、レオナルドの肩に触れる。
レオナルドは額に滲んだ汗を拭い、顔を上げた。リチャードを睨むように見据えていたが、掠れた声を出した。

「…兄貴」

「やっぱり、そっちにも来たんだね」

リチャードは、表情が強張っていた。レオナルドは唾を飲み下してから、言った。

「ああ、来た。じゃあ、本当なんだな。本当に」



「父さんと母さんが、死んだんだ」



出来るだけ平坦に、冷静な口調を作って、リチャードは言った。だが、その表情には、相当な動揺が現れていた。
レオナルドは扉に付いていた手を下げ、床に膝を付いた。フィリオラは泣き出しそうな顔で、彼の傍にしゃがむ。

「レオさん…」

「ああ、大丈夫だ」

そうは言いながらも、レオナルドは青ざめていた。苦々しげに顔を歪め、固く握り締めた手には封書があった。
リチャードは、俯いた。まさか、こんなに急に両親が死んでしまうとは、二人とも予想すらしていなかった。
侵略戦争の戦火は首都から遠く離れているし、大陸ではなく島にあるので、きっと大丈夫だろうと思っていた。
だが、隣国と周辺諸国の連合軍は、首都を叩く作戦に出た。国の機能を失わせてから、焼き尽くすつもりなのだ。
キャロルに目を向けると、キャロルは自分のことのように悲痛な面持ちをしていて、フィリオラも同様だった。
リチャードは、キャロルの肩に手を触れた。安心させるようにぽんぽんと軽く叩いてやり、なんとか笑ってみせた。

「キャロル。しばらく、フィオちゃんと一緒にいてくれないかな。僕はレオと話がしたい」

「承知いたしました」

キャロルは小さく頷くと、立ち上がった。名残惜しげにしていたが扉に向かい、フィリオラの傍にやってきた。
心配げなフィリオラは、レオナルドを覗き込んだ。レオナルドはリチャードを見やってから、フィリオラに向く。

「ああ、オレもそんな気分なんだ」

「落ち着いたら、呼んで下さいね。私、キャロルさんと一緒にお菓子でも作っていますから」

弱々しく笑ったフィリオラに、レオナルドは頷いた。

「解った」

「それじゃ、台所にいますので」

フィリオラは立ち上がると、リチャードに深々と頭を下げてから、キャロルと連れ立って廊下を歩いていった。
レオナルドは二人が遠ざかってから、立ち上がり、扉を閉めた。握り潰していた封書を、ポケットに押し込む。
あまり確かでない足取りでリチャードの向かい側にやってくると、どっかりと腰を下ろし、肩を落とした。
リチャードはソファーに腰掛けると、すっかり冷めてしまった紅茶を飲んだ。味が落ちていたが、飲み下した。
しばらく、どちらも押し黙っていた。向かい合っているとはいえ、二人の目線は合っておらず、伏せられていた。
屋敷の中庭で咲き誇っていた花々は、うっすらと肌寒くなってきた風を受けて揺れていた。夏は、もう終わりだ。
空の色も鮮やかさが失せ、ぼやけている。太陽も勢いを失い、あれほどの強烈だった日光も柔らかくなっていた。
リチャードがティーカップを置くと、レオナルドは顔を上げた。普段の強気な表情は、失われてしまっていた。

「信じられるか、兄貴。あの親父が死んだんだぞ」

「僕も信じられないさ」

リチャードの声からも、覇気が失せていた。

「親父が、世の中で一番怖かったからなぁ」

レオナルドは額を押さえ、口元を歪めた。笑おうとしたが、失敗したような表情だった。

「異能部隊から逃げてきた時だってそうだ。上官の処罰よりも、親父に、ここはお前の家じゃない、って言われた時の方が物凄く怖かった。オレに力が現れた後は、叱る時は手じゃなくて魔法で叩きやがって、触りもしてこなかった。そのくせストレインとかフィリオラにはべたべたに甘くて、なんでオレじゃないんだとか何度も思ったよ。後から考えてみれば、その理由は解らないでもないが、子供にとっちゃ理不尽に思えて仕方なかったな」

「全くだよ」

リチャードは、なるべく淡々とした口調にした。

「僕も、昔はあの人以上の魔導師は知らなかった。というより、あの人以上の魔導師を見せてもらえなかったんだ。ヴェヴェリスの魔法大学に行くまで、父さんよりも凄いのがいるなんて本当に知らなかったんだ。家にある魔導書も大したものじゃなかったし、少しでも難しい魔導書を使おうとすると、まだ無理だって頭ごなしに叱られたしさぁ。あの人は、没落しつつあるヴァトラスの中だけでも優勢を誇っていたかったんだなぁ。その相手が僕だけってのがしょうもないけど、その辺、結構物悲しいものがあるよ。まぁ、本人がいたら、こんなことは言えないけどね」

そしてまた、二人は黙った。あまり思い出さなくなっていた両親の記憶を呼び起こし、それぞれで過去に浸った。
二人の両親は、レオナルドが魔法大学を卒業して日が経たないうちに、旧王都を離れて首都に移住してしまった。
その頃、リチャードはヴェヴェリスに行っていたので同行しなかったが、レオナルドは移住を誘われたようだった。
だが、異能部隊の件を吹っ切れていなかったレオナルドが行くわけもなく、両親だけが首都で暮らし始めた。
魔導師協会でそれなりの地位を持っていた両親は、魔導師としての仕事だけでなく、政治家に関わっていった。
そして気付けば、両親はすっかり二人とは疎遠になっていた。政治家について回るうちに、子供の存在を忘れた。
最初の頃は来ていた手紙も届かなくなり、年に二三度は旧王都に戻ってきたが、いつしか戻ってこなくなった。
リチャードもレオナルドもその意味を何度なく考えたが、出てくる結論はいつも一つで、切り捨てられた、だった。
魔導に心酔する兄と、炎の力に悩まされている弟は、近代的な思想を好んだ二人には鬱陶しかったのだろう。
それでなくても、両親の愛情は希薄だった。どちらもヴァトラスという一族を好いておらず、嫌ってすらいた。
過去に縛られ、過去の栄華を失い、魔法の衰退と共に没落へ進む家には、絶望しか見出せなかったのだろう。
帝国寄りの貴族出身である母は特にそのような考えが強く、ギルディオスの存在も、疎ましく思っていた。
ヴァトラスの直系である父は、ヴァトラスと他の旧家を比べては、その資産と繁栄の落差を嘆いてばかりいた。
そんな両親だから、それほど愛していなかった。だから悲しくないだろうと思ったが、やはり、死は悲しかった。
ここ十数年はまともに会っていなくて、どんな顔をしていたか思い出せなくなる時もあるのに、苦しくなっていた。
やはり、親は親なのだ。愛していないと思っても、少しは愛していたようだ。リチャードは、レオナルドを窺った。
レオナルドは、複雑そうに口元を曲げていた。レオも同じようなものなんだ、とリチャードは妙な部分に感心した。
似ている部分は体格ぐらいしかない兄弟でも、長い間共に暮らしていたのだから、根底は似通ってくるようだ。
父親は、常に脅威だった。ごく狭い家庭の中だけでも力を振るわずにはいられないのか、事ある事に力を示した。
まだ世間を知らない兄弟にとっては、当然ながら父親が全てになった。世界の全てであり、価値観の全てだった。
だが父親は、外へ出れば力を失った。ストレイン家を始めとした実業家達には低姿勢で、その姿は情けなかった。
リチャードとレオナルドが成長し、父親が世界の全てでないと知った後も、父親はいつまでも力を示し続けていた。
息子達が離れると、今度は己の妻へと向いた。栄誉欲を押し込めながら生きている母親を煽り、旧王都を出た。
両親が旧王都を出る日、リチャードもレオナルドも見送りに行かなかった。二人とも、仕事を言い訳にした。
両親はそれに何も言わず、出ていった。絆などなかった家族には、思い入れすらもとっくの昔になくなっていた。
愛されていないのだから、愛さなくてもいい。そんな冷たい空気が屋敷全体に満ちていて、相当息苦しかった。
リチャードとレオナルドは、その息苦しさを分かち合っていたので、性格は合わなかったが仲は悪くなかった。
この上で嫌い合ったら、空気が更に冷えると知っていたからだ。兄弟の情とは違う連帯感が、二人を繋いでいた。
その間に、二人の性格も大分変わってしまった。リチャードから思い遣りが失せ、レオナルドから優しさが失せた。
両親に与えても返ってこない感情なのだから、と、思っているうちに、無意識に封じ込めてしまっていたのだった。
だがそれも、それぞれに恋をしたおかげで蘇っていた。フィリオラとキャロルには、感謝してもしきれない。
いつのまにか、菓子を焼く甘い香りが、台所から漂ってきていた。本当に、フィリオラは菓子を作っているようだ。
リチャードが顔を上げると、レオナルドも気付いたようだった。レオナルドは呆れてしまい、変な顔をした。

「あれ、席を外す言い訳じゃなかったのか」

「フィオちゃんだからねぇ」

リチャードはなんだか可笑しくなって、笑ってしまった。レオナルドはソファーにもたれ、足を組む。

「たぶん、ケーキだな」

「おや、レオには解るのかい? 僕にはさっぱりだ」

と、リチャードが肩を竦めると、レオナルドは紙巻き煙草を取り出して銜え、先端を睨んで火を灯した。

「解るようになっちまったんだよ。部屋に帰ってくると、夕飯と一緒にケーキが並んでいる時があってな、そういう時は部屋中に甘ったるい匂いがしているんだ。それが、これと同じ匂いなんだよ」

いるか、とレオナルドは兄に紙巻き煙草の入った箱を差し出したが、リチャードは首を横に振る。

「いや、僕はいいよ。僕は、レオみたいに不健康な生活はしたくないから」

「それほど吸っちゃいない。気が向いたら一本二本程度だ」

「それでも悪いものは悪いよ。相変わらず、酒もがばがば飲んでいるみたいだしねぇ」

リチャードが嫌そうにすると、レオナルドは口元から紙巻き煙草を外した。

「酒は兄貴も飲むだろうが」

「嗜む程度だよ。それに、近頃は酔うほど飲まないよ。前後不覚になったら、何をするか解らないから」

彼女に、と気恥ずかしげに付け加えたリチャードに、レオナルドはげんなりした。

「兄貴、いつから幼女趣味になったんだ? キャロルは、まだ十四の子供だろうが」

「そういうレオも、僕をどうこう言えないんじゃないの。フィオちゃんは十八歳かもしれないけど、見た目は子供だし」

リチャードはティーポットを傾け、紅茶をティーカップに注いだ。濃く煮出された紅茶が、並々と満ちる。

「で、レオはフィオちゃんとやることやっちゃったんだろ?」

「…まぁ、な」

レオナルドは、照れくさそうに目を逸らす。リチャードは、温くて渋い紅茶を少し飲んだ。

「子供、出来るといいねぇ。まぁ、その理由があってもなくても、レオなら問答無用で中で出すだろうけど」

「朝っぱらから下世話なことを言うな。そういう兄貴はどうなんだ」

レオナルドは、多少腹立たしげに思いながら兄を見据えた。リチャードは、ティーカップを軽く揺らす。

「ああ、うん。僕はまだ。キャロルの体がちゃんとしてからじゃないと、痛くてどうしようもないと思うし」

「あと三四年は生殺しか」

「大丈夫だよ。僕はレオほど盛ってないし、それぐらいどうってことないから」

「普通じゃないな」

信じられない、と言いたげなレオナルドに、リチャードは顔をしかめた。

「僕にとっちゃレオの方が普通じゃないなぁ。よくもまぁ、そんなにやって枯れないもんだよ」

「歯止めが効かないんだよ、あの女が相手だと」

言いづらそうに言ってから、レオナルドは煙を吐き出した。刺激のある煙草の匂いで、ケーキの匂いが薄れた。
乱暴に毒づかれた言葉だったが、彼女への愛情が滲んでいた。表情にも棘がなく、優しさすら垣間見えている。
リチャードはティーカップをソーサーに置くと、弟から目を外した。背後の窓からは、明るい庭が見えている。
台所からは、二人の少女達の高めの声が聞こえてきていた。料理を作っている様が、目に浮かぶようだった。
穏やかで、幸せな時間だ。だがこの時間も、いつ崩れてしまうか解らない。戦争は、着実に歩み寄ってくる。
最初は他人事でしかなかった戦争も、国境で燻っていた争いも首都に及び、そして、実感として感じられた。
リチャードは、唇を軽く噛んだ。キャロルの柔らかな唇の感触がまだ残っていたが、もう寂しくなっていた。
彼女を失ってしまう想像を僅かでもしただけで、戦争の実感は更に強まり、戦いが恐ろしく、憎くなってきた。
旧王都が襲撃されれば、この安らかな日々は失われる。彼女と共に目覚める朝が、訪れなくなるかもしれない。
それを考えただけで、とてつもない恐怖に襲われた。増して、死んでしまうことなど、想像することすら嫌だった。
リチャードは、新聞の下にある二通目の封筒に目をやった。軍から来た封書も、開けて中身は読み終えている。
その中身を思い出して腹立たしくなっていると、ある気配を感じた。だが、それはあまり気にしない事にした。

「なあ、レオ」

リチャードは新聞の下から封書を取り出し、弟の前に差し出す。

「特務部隊って知っているかい?」

「聞いたことはある。会ったことはないがな」

レオナルドは紙巻き煙草を口から外し、ざりっ、と手近な皿に押し当てて火を消した。

「この間、ダニー達が戦ったのがその部隊だそうだ。詳細は話してくれなかったが、概要だけでも戻しそうになった」

レオナルドは、リチャードの差し出してきた封書を手に取った。宛名の下に、共和国軍の署名がされていた。
その下に、差出人の名が書き加えてあった。特務部隊隊長、という署名に、レオナルドはぎょっとして叫んだ。

「どういうことだ!?」

「やんわりとした言い回しだったけど、その隊長とやらは僕を配下に入れたいらしい」

リチャードは、素っ気なく言った。

「隊長の大佐という人が、やけに僕を気に入っているみたいなんだよ。特務部隊に手を貸さなきゃ僕の回りに危害が及ぶかもしれないから気を付けておけ、みたいなのも書いてあって、はっきり言って脅迫だよ脅迫。正直言って、僕は手を貸したくない。新聞をちらっと読んだだけでも、特務部隊のいやらしさは解ったからね。民間や一般の軍を見捨てて、政府高官だけを助けていたようだから。それに、僕も魔導師協会で役員なんかやっていたから、その辺の噂も耳に入ってくるんだ。大した情報じゃないし根拠もないけど、特務部隊に関する評判は最悪なんだ。人を人と思わず、冷酷無慈悲な隊長に率いられた、機械じみた兵士達の部隊だってね。そうなんだろう、レオ?」

レオナルドはダニエルの話を思い出しながら、頷いた。

「ああ、そうらしいな。ダニー達が戦った特務部隊の兵士は、脳髄をいじくられて強制的に異能の力を引き出され、挙げ句に失言の呪いまで掛けられていたそうだ。フローレンスの奴が精神感応で思念を読んだら、その兵士共はかなり苦しんでいたんだそうだ。人間のやることじゃねぇな、これは」

「そんなことだろうと思ったよ」

やれやれ、とリチャードは首を横に振った。

「魔法ってものは、そういうことのためにあるものじゃないんだけどなぁ。学問と技術の集合体、精神と物質の調和、古代からの科学技術なんだけどねぇ。もちろん、こんな胸糞悪い話は蹴ってしまいたいよ。だけど、蹴ってしまえば、どうなるか解ったものじゃない。相手が軍となると、脅しの文句を本当に実行しかねないからね。ああいう人達は、僕らなんかよりもずっと力任せだから」

兄の言葉に、レオナルドは身を乗り出した。

「それじゃあ、兄貴」

「うん、行くよ。僕があちらに行くだけで、ある程度の危険が回避出来るなら、そうした方がいいと思うし」

それにね、とリチャードは申し訳なさそうに眉を下げた。

「僕は、散々君らを利用してきただろう? だから、せめてもの償いのつもりなんだよ。解ってくれるね、レオ」

「兄貴…」

レオナルドは身を引くと、ソファーに座り直した。リチャードは笑顔を作ったが、どことなく不安げな色を帯びていた。
特務部隊の言うことを聞いても、その後に素直に帰してくれるとは思えないし、そうでない可能性の方が高い。
リチャードを引き入れる理由も、兵士の改造ではなく、戦場の最前線で兵器として戦わせるためかもしれない。
兄の魔法の腕は相当なものだし、戦場で使えば、一般兵の武装などよりも、余程強烈で効果的な兵器となる。
事実、異能部隊でも魔法が使える者は重宝されたし、作戦によっては異能者の兵士よりも前に出されていた。
だが、それとこれとは別だ。リチャードはあくまでも一般の魔導師であって、戦場で戦う兵士などではないのだ。
戦場に放り出されたら、生きて帰ってこられる保証は皆無だ。レオナルドは不安を紛らわすため、兄を睨んだ。

「本気か」

「本気さぁ。冗談でこんなことを言うほど、僕は軽い男じゃない」

リチャードは廊下に繋がる扉に向くと、声を掛けた。

「そんなわけだからさ、フィオちゃん。キャロル、連れてきてもらえないかな」

廊下から、えっ、あっ、あう、と変な声がした。扉の取っ手が回り、蝶番を軽く軋ませながら、扉がゆっくりと開いた。
その隙間から、叱られた子供のような顔をしたフィリオラが覗き込んできた。居間に体を入れると、扉を閉める。

「…すいません」

フィリオラは情けなく眉を下げていたが、リチャードに顔を向けた。

「ですけど、先生。特務部隊って、それ、本当なんですか?」

「うん、本当。行くのも本当。だから、しばらくの間はお別れだね」

平然と答えたリチャードに、フィリオラは途端に泣き出しそうになった。

「いっ、いけませんよぉ、軍隊なんて! 先生には似合いませんし、それに、そんな、危なそうな部隊なんて!」

「このご時世で、安全な部隊なんてないよ」

リチャードは立ち上がると、立ち尽くしているフィリオラに近付き、真正面から竜の少女を見下ろした。

「だけど、戦場に行くのは、心残りをなくしてからにするつもりだよ」

「心残り、ですか?」

フィリオラが涙に潤んだ目を丸くすると、リチャードは頷く。

「うん。悪いけど、僕はフィオちゃんをお嫁にはもらえない。キャロルをお嫁さんにするから」

「あ、はい。解っています」

そう言いながら、フィリオラはちらりとレオナルドに目を向け、すぐにリチャードに戻した。彼は続ける。

「その時期を、ちょっと早めようと思って。うっかり戦場で死んじゃったら、結婚も何もないから。だからフィオちゃん、僕とキャロルが結婚するのを、手伝ってもらえないかな?」

「つまり、先生とキャロルさんの結婚式ですか?」

「そういうこと。手伝ってくれる?」

リチャードは身を屈め、フィリオラと目線を合わせた。フィリオラは涙を拭うと、明るい笑顔になった。

「はい、喜んで!」

白いドレスを作らなきゃ、お料理も仕込まなきゃ、と急に浮かれ出したフィリオラを、レオナルドは眺めていた。
リチャードの言うことはもっともだし、レオナルドも同じ状況に置かれれば、同じような考えに至ることだろう。
戦場に行くように言われたら、間違いなくフィリオラを妻にする。子供が出来るように、注ぐだけ精を注いでいく。
後者があるかないかが兄貴とオレの違いだな、とレオナルドは内心で自嘲した。我ながら、想像が下世話すぎる。
自分のことのように結婚式の話にはしゃいでいるフィリオラと、リチャードは話していたが、ん、と扉に向いた。
近付いてきた足音が止まり、扉が開いた。キャロルは、はしゃいでいるフィリオラを見、少し不思議そうにした。
リチャードはすぐさまキャロルに駆け寄ると、身を屈めて、いきなり抱き締めた。小柄な体を、胸に押し当てる。

「結婚しよう、キャロル!」

リチャードに抱き竦められたキャロルは、ぽかんとしていたが、頬を紅潮させた。

「え、ええっ!?」

「なんだい、嫌かい?」

リチャードはキャロルを離し、見下ろした。キャロルは勢い良く首を横に振り、リチャードを見上げる。

「いいえ! そうじゃありません、ただ、ちょっと、驚いちゃっただけです!」

「なら、結婚してくれるね?」

「はい…」

緊張と困惑の混じった顔で、キャロルは頷いた。リチャードは心底嬉しそうに笑み、少女をきつく抱き締めた。
抱き締められながら固まっているキャロルは、全く訳が解らなかったが、これが嬉しいことには違いない。
何度も髪を撫でられ、いつになく抱き締められる力が強かった。苦しかったが、抵抗する気は起きなかった。
その苦しささえも幸せで、胸が詰まって涙が出そうだった。この人と結婚出来る、この人の妻になれるんだ。
キャロルはリチャードの胸に顔を埋め、縋った。すぐ傍から、リチャードの速まっている鼓動が聞こえていた。
フィリオラは、固く抱き合う二人を見ていたが、レオナルドに向いた。やりにくいのか、顔を逸らしている。
彼は、未だに結婚の話をしてこない。初めて体を繋げた翌朝に、互いにその意志があると確かめたはずなのに。
フィリオラとしては、なるべく早くレオナルドと結婚したかった。旧王都に戦火が届かないうちに、と思っていた。
なのに、レオナルドは結婚しようとは言ってくれていない。聞いてみても、まだダメだ、と言うばかりだった。
何がどうダメなのか、さっぱり解らない。フィリオラは不安を通り越してしまい、最近では苛立ち始めていた。
理由を説明されればまだ納得出来るが、その理由も説明してくれないのでは、さすがに苛立ってきてしまう。
フィリオラはレオナルドへの苛立ちを押さえつつ、二人に向いた。リチャードとキャロルの、抱擁は続いていた。
リチャードは本当に幸せそうな顔をしていて、フィリオラが今まで見た中では、一番自然であり温かな表情だった。
愛情に、満ち溢れていた。







06 2/22