ドラゴンは眠らない




決意の婚礼



数日後。リチャードとキャロルの結婚式は、ささやかに行われた。
教会には行かず、ヴァトラスの屋敷の庭に知り合いだけを集めて行ったので、式というよりも会食に近かった。
仕事の合間を縫ってフィリオラとキャロルが作った白い花嫁衣装は、簡素ながらも可愛らしい出来映えだった。
白い布地があまり手に入らなかったので、屋敷の中の白い布を掻き集めて作ったのだが、なかなかだった。
スカートの裾や胸元にフリルが付いていて、袖も丸く膨らませてあり、キャロルの年相応のドレスになっていた。
柔らかく波打った赤毛をまとめ、白く薄いヴェールを載せていて、控えめながらもそれなりに化粧をしていた。
キャロルは気恥ずかしげに縮こまっていたが、嬉しそうだった。その首筋には、金の鎖に通された指輪があった。
今は大きさが合わないから、というのが理由だった。キャロルはその指輪に触れながら、リチャードを見上げた。
リチャードも正装していて、いつになく上機嫌だった。キャロルの目線に気付くと、彼女を見下ろして、苦笑した。

「ごめんね。指輪の大きさ、直している暇がなかったから」

「いえ、いいです。これでいいです」

キャロルは白い手袋を填めた手で、きゅっと指輪を握り締めた。リチャードは、キャロルの頬に手を触れる。

「そう。ありがとう」

キャロルは、幸せで胸がはち切れそうだった。リチャードに触れられている頬が、途端に熱くなってしまった。
本当にこんなに幸せで良いんだろうか、と戸惑いながら目線を横に向けた。庭では、招待客の皆が談笑している。
フィリオラとレオナルドとブラッドは、ダニエルとフローレンス、そしてなぜか、ヴェイパーまでもが招待されていた。
サラも招いたのだが、結婚式の前日にとても申し訳なさそうに断りにやってきた。外せない用事があるのだそうだ。
不思議なことに、グレイスとその妻子と傀儡もいた。キャロルはその理由を考えてみたのだが、全く掴めずにいた。
グレイスの妻だという長身の女性、ロザリアはきつめながら美しい顔立ちをしているが、あまり愛想は良くない。
来ては見たけど興味はない、と言いたげにそっぽを向いていて、フィリオラの作った料理にも手を付けていない。
レオナルドは、かなり複雑そうな顔でロザリアを見ていたが、ロザリアはレオナルドに向くことすらなく黙っていた。
二人はかつて、同僚だった。そして、グレイスの城の家宅捜索の際にレオナルドはロザリアに撃たれた、と聞いた。
そんな経緯があるならば険悪になって当然だが、せめて結婚式の時ぐらいは忘れて欲しい、とキャロルは思った。
グレイスはと言えば、レオナルドに絡みっぱなしだった。レオナルドがいくら罵倒しようとも、全く応えていない。
レオナルドはやっきになってグレイスを遠のけようとしたが、逃げてもすぐに距離を詰められ、追い回されていた。
ロザリアはそれに全く興味がないのか、面倒そうにしていた。恐らく彼女は、あまり嫉妬しない性分なのだろう。
フィリオラはグレイスと関わりたくないのか、ルー夫妻の娘のヴィクトリアを、メイド姿の幼女と共に構っていた。

「大きくなりましたねー、ヴィクトリアちゃん」

ベンチに座ったフィリオラは幼子を膝に載せ、髪を撫でた。その隣に座るメイド姿の幼女、レベッカは笑う。

「はいー。一歳半ぐらいになりましたからー」

ヴィクトリアは丸っこい灰色の瞳で、じっとフィリオラを見上げていた。フィリオラは、ふにゃりと表情を崩す。
柔らかな幼子が可愛くて可愛くて、たまらなかった。ますます、レオナルドとの子供が欲しくなってしまった。
最初の子は女の子が良いかな、男の子が良いかな、と考えながら、フィリオラはヴィクトリアを足の上に座らせた。
レベッカは姉のような表情で、幼子を眺めていた。首を傾げると、濃い桃色をしたバネ状に巻かれた髪が揺れる。
良い子ですねー、とヴィクトリアを撫でているレベッカ、というよりもその髪を、キャロルは見つめてしまった。
物凄い色である上に、あんな不自然な形状で髪がまとまるはずがない。まるで、針金で出来ているような髪型だ。
最初はレベッカは人間だと思っていたが、異様な部分を見つけた途端に、この子も人外なんだ、と認識した。
キャロルは、改めて結婚式の来客に人間が少ないと実感した。人であっても異能者だったり、呪術師であったり。
ふと、庭の片隅を見ると、ヴェイパーがこちらを見下ろしていた。無表情な仮面じみた顔が、ぎちり、と動く。
キャロルはちょっと反応に困って、笑い返した。ヴェイパーも笑ったらしく、鈍い声ながら笑い声が聞こえた。
ダニエルは、とにかくやりづらそうだった。結婚式もそうなのだが、集まっている面々の異様さに戸惑っていた。

「なぜ、ここにグレイス・ルーがいるんだ?」

不可解極まりない様子のダニエルに、フローレンスはニンジンが混ぜ込まれたケーキを食べる手を止めた。

「そりゃ、リチャードさんが招待したからでしょ」

「それはそうかもしれないが、あれを呼ぶ理由がまるで解らないんだが」

ダニエルはキャロルと並んで座るリチャードに向き、訝しんだ。フローレンスは、ケーキを頬張りながら言った。

「ああ、それね。なんか、グレイス・ルーが来たおかげで、リチャードさんとキャロルちゃんはくっついたんだってさー。これ以上説明すると二人に悪いし、力の乱用になっちゃうから言わないけどさ」

「何がどうなれば、そういうことになるんだ?」

フローレンスの説明で更に混乱してしまい、ダニエルは顔をしかめた。フローレンスは、二つめのケーキを取る。

「そうなっちゃったから、こうなってるんでしょうが。ホント、人生って解らないもんなのねー」

「なんでもいいけどさぁ、ダニーさん。レオさん、助けねぇの?」

皿の上に料理を山と載せたブラッドが、中庭を駆け回るレオナルドとそれを追うグレイスを、フォークで示した。

「助けたいのは山々だが、巻き込まれたくはないんだ」

至極真面目に答えたダニエルに、フローレンスは頷く。

「それにねぇブラッド君、結婚式で戦闘なんてしちゃダメよ。リチャードさんとキャロルちゃんのお祝いなんだし」

「そういうもんなのかなぁ」

ブラッドはあまり腑に落ちないまま、生け垣を跳び越えながら必死に逃げ回っているレオナルドを、眺めた。
近付くな焼き殺すぞこの野郎、と本気で怒っているらしいレオナルドは罵声を上げ、グレイスを強く睨んでいた。
本当に燃やしかねないように見えたが、炎は一向に出てこない。それどころかグレイスは、嬉しそうに追う。
レオナルドはまた何か文句を言っていたが、追い付かれる前に走っていった。もうしばらく、続きそうだった。
ブラッドは裏庭へと向かっていくレオナルドの背を見つつ、考えてみた。なぜ、彼の炎の力が使えないのだろう。
すると、内側から声が返ってきた。それはそのそれが、理由は訳は真相は、グレイスグリィグレイス・ルーが。
グレイスグリィグレイス・ルーの、持ち持つ持って持っている、魔法魔導魔力充填板に、彼が彼を彼の火は炎は。
内側からの声、ヴァトラの声は、ブラッドの中でしばらく続いた。炎が出ない理由は、グレイスにあるらしかった。
彼の話によれば、グレイスは魔力充填板なる魔力を吸収するものを持っていて、それに炎の力が吸われたらしい。
レオナルドの炎の力は魔力の固まりのようなものなので、魔力を吸われてしまえば、炎が放たれなくて当然だ。
ブラッドは、ありがとな、とヴァトラに返した。ヴァトラはまた言葉を繰り返しながら、こちらこそ、と言ってきた。
内側に響いてくる平坦な言葉には、珍しく感情が入っていた。ヴァトラの声には、どことなく嬉しさが滲んでいた。
久々に話し相手が出来たからなんだろうな、とブラッドは屋敷を見上げてみたが、ヴァトラの声はもう止んでいた。
リチャードは、傍らに座っているキャロルを見下ろした。キャロルはリチャードを見上げると、そっと寄り掛かる。
細い腕がリチャードの腕に絡められ、引き寄せられた。リチャードの腕に縋っている彼女は、微笑んでいる。
とても幸せそうなキャロルに、リチャードは申し訳なくなった。幸せの真っ直中の彼女を、突き落とすのだから。
戦場に行く前に結婚しておいた方が心残りが少なくなるだろう、と思っていたが、逆が心残りが増えてしまった。
余計に、死ぬのが恐ろしくなった。従者でも恋人でもなく、妻となった彼女を残して、死ねるはずなどない。
腕を掴んでいるキャロルの手を、リチャードは握り締めた。何が何でも、生きて帰ってこなければならない。
それが、夫としての努めだと思った。


結婚式が終わって皆が帰ると、ヴァトラスの屋敷は静まった。
居間のソファーでは、二人が寄り添っていた。白い花嫁衣装を着たまま、キャロルは眠りこけてしまっている。
緊張したのと嬉しすぎたのとで、疲れたらしかった。リチャードに縋り付いたまま、離れる気配はなかった。
リチャードはキャロルの寝顔を見下ろしながら、小さな肩の上で波打っている柔らかな赤毛を撫でてやった。
幼い新妻が愛おしくて、たまらなかった。だが、こうして彼女の傍にいられる時間も、そう長いわけではない。
特務部隊との合流時間は、確実に近付いている。昨日届いた二通目の手紙には、明日の早朝に駅で、とあった。
窓から差し込んでいた西日も失せ、空気も冷え始め、夜になっていた。薄暗い居間を、ランプが照らしていた。
リチャードはキャロルの頬に触れていたが、ふと、顔を上げた。足音を殺してはいるが、近付く気配がある。
居間の扉に向くと、音もなく開かれた。隙間から顔を出したのは、丸メガネを掛けている男、グレイスだった。

「よぉ」

片手を挙げて挨拶をしてから、グレイスは居間に滑り込み、また音をさせずに扉を閉めた。かなり手慣れている。
魔力も気配も大分殺してあり、威圧感も何も感じられなかった。グレイスは、リチャードの向かい側に座る。

「んで、あんたは、オレに頼みでもあるんだろ? そうじゃなきゃ、オレなんかを結婚式には呼ばねぇはずだ」

「解っているのであれば、話は早いです。こんなものが、僕の元に届いていましてね」

リチャードは特務部隊からの封書を取り出して、グレイスの目の前に差し出した。

「僕はしばらく、彼らの手助けをしなくてはなりません。つまり、従軍してくるんです。戦地に行ってしまうと、僕は大事な幼妻を、守りたくても守れません。だから、その間、彼女のことをお願いしてもいいでしょうか」

グレイスは封書の差出人の名を見ていたが、目線を上げ、リチャードを見据えた。

「言いたいことは、それだけじゃねぇだろう?」

「まぁ、そうですね」

リチャードは、封書を胸ポケットに差し入れた。

「この特務部隊とかいう連中を、あなたは知っているはずだ」

「なぜそう思う?」

「特務部隊の兵士は、頭の中身を改造されて異能力を引き出された者がいると聞きます。どう考えても普通の医学技術で出来るはずもないし、魔法を使ったとしても相当な技術が必要です。頭の中をいじくられた人間を死なせないこともそうですが、まともに使える兵士にするにしても、やはり魔法が必要なんです。場合によっては、呪術の方が効果的だということもあるでしょう。もちろん、それだけじゃありません。レオから聞いたところによると、特務部隊はダニエルさんとフローレンスさんに手を出してきた。無論、二人はそれをはねつけて返り討ちにしたみたいですが、それからあまり日が経たないうちに僕に接触してくるのは、どうにも妙なんです。こんな短期間のうちに、こんな狭い範囲の中で、二度も同じ部隊の名を聞くことがあるでしょうか。偶然にしては作為的です。すなわち、僕らの近辺の人間が、この特務部隊に通じているとしか思えないんです」

「へえ」

グレイスは、気のない声を漏らした。リチャードは、自信に満ちた笑みになる。

「僕が知っている限りでは、あなたがそういった方面への距離が一番短いと思いまして。あなたは、少なからず特務部隊に関わっているはずだ。魔導技術にせよ、何にせよ、手を貸していないはずがない」

グレイスは、リチャードの不確かな言い回しに肩を竦めた。

「なんでぇ、ハッタリか」

「あら、ばれましたか。さすがに多少強引すぎましたね」

リチャードは、残念そうに苦笑いした。グレイスはソファーに深く身を沈めると、足を組む。

「ま、度胸だけは買ってやるさ。大した根拠もねぇのに、オレに鎌を掛けようとしたんだからな」

グレイスは、リチャードの表情を窺った。嘘を見破られたことによる動揺は見えなかったが、落胆が浮かんでいた。
以前にヴァトラスの屋敷で対峙した時に比べて、明らかに雰囲気が違った。これも、キャロルを愛したからだろう。
結婚式では本当に幸せそうだったし、キャロルを守ってくれという頼みも、割と本気で言っていたように思えた。
リチャードは、なんとか特務部隊の情報を引き出したいのだろう。生きて帰ってくるために、彼も必死なのだ。
そうでなければ、すぐにばれてしまうようなハッタリは掛けない。リチャードのような、人間らしからぬ行動だ。
恐らく、特務部隊に接触する日が近いのだ。だから、無意識に焦りが生じてしまって、言い回しに隙が出来た。
柔らかなランプの明かりに浮かんだリチャードの表情は、陰っていた。作った笑みからも、余裕が見えなかった。
グレイスは、彼を無下に出来ない気分になった自分に呆れた。妻子が出来る前であれば、気にしなかったのに。
妻子を残して死んでしまう無念や、これから始まるであろう新婚生活が遠のいた悔しさが、手に取るように解る。
だから、つい、リチャードに同情してしまった。このまま帰るのは容易いが、それでは少々心残りが出来てしまう。
それに、とグレイスはメガネの奧で目を細めた。何もかも彼の思う通りに進んでしまうことが、癪になっていた。
彼の計略は次第に綻びを見せていたが、このままリチャードを彼に渡してしまっては、綻びが直る可能性がある。
それでは、あまり面白くないように思えた。近頃は彼のやり方も気に食わなくなってきたので、裏切り時でもある。
だが、簡単に裏切ったのでは面白くない。内側から崩壊させてやるには、まず、リチャードを利用するべきだ。
グレイスは、リチャードを手招く仕草をした。リチャードが少し不思議そうにすると、グレイスは身を乗り出す。

「なぁ、リチャード。ちょっとばかり、オレに利用されてみないか?」

リチャードは眉根をひそめ、グレイスのにやついた笑みを見ていたが、その言葉に含まれた意味を察した。

「ということは、やっぱりあなたは特務部隊に通じているんですね」

「まぁ、それはそれとしてだ。あんたは、生きて帰ってきたいんだろう、むざむざ死にたくねぇんだろう?」

グレイスの口調は、親しげでありながら絡み付いてくるようだった。リチャードは、うっすらと笑った。

「そりゃそうですよ。妻を残して死ねるわけがない」

「生きていたけりゃオレの手駒になりな、リチャード。なーに、悪いようにはしねぇよ」

にぃっと、グレイスの口元が上向けられる。リチャードは眠り込んでいる幼妻を見下ろしてから、呪術師に向く。

「その報酬は?」

「新妻の身の安全と命だ。それなら、構わねぇだろう?」

「引き受けました」

リチャードが頷くと、よぉし、とグレイスは手を伸ばしてきた。

「んじゃ、頭ん中に全部送ってやるよ。黒幕の野郎の情報もその計略の綻びも、崩し方も、何もかもをな」

「随分と大盤振る舞いですね」

目の前に差し出されたグレイスの手をリチャードが見上げると、グレイスはその手を彼の額に当てる。

「こんなときに出し惜しみしても、どうしようもねぇだろ?」

直後。魔力の奔流に乗せられた思念が、リチャードの中に流し込まれた。電撃のようなものが、体を駆け抜けた。
痺れるような魔力の余韻を感じていると、様々な映像が見えた。本当に、彼はありとあらゆる情報を渡してきた。
リチャードは強い目眩を覚え、目元を押さえた。急激な強い魔力と情報の渦で、多少、酔ってしまいそうだった。
口で説明するよりも早く確実だが、かなり強引だ。だがそのおかげで、かなりの事を知ることが出来ていた。
これなら、なんとかなる。何も解らずに特務部隊の配下に入ってしまったら、本当に死んでしまうところだった。
そして、特務部隊の隊長であり、グレイスが黒幕と呼ぶ者も見た。その姿が見えた瞬間、リチャードは戦慄した。
軍服を着た人影、メガネを掛けた横顔、自信に満ち溢れた表情。その者が、アルゼンタムを操る姿も見えた。
リチャードが唖然としているのを見、グレイスは楽しくなってきた。これで、彼の計略を掻き回せるはずだ。

「ちったぁ驚いたろ?」

「ああ、まぁね」

リチャードは黒幕と呼ばれる者の正体や特務部隊隊長に就くまでの経緯も一度に見たので、混乱気味だった。

「なんとも、面倒なことになっていたんですねぇ」

「武運を祈るぜ。せいぜい、黒幕の野郎と仲良くやるんだな」

グレイスはリチャードに背を向けると、手を振ってみせた。リチャードは目眩を堪えながら、彼の背を見上げる。

「ええ、そうしますよ。死なないためにもね」

「大丈夫大丈夫、このオレが味方に付いてやったんだ。オレが裏切りでもしない限り、死ぬことはねぇよ」

「あなたって、不思議な人ですねぇ。敵でいたかと思えば味方に付くようなこともするし、一体どっちなんですか」

扉を開けて廊下に出かけたグレイスは、足を止めてリチャードに振り向いた。

「どっちもであるんだよ。オレは、オレのやりたいようにやるの」

そう言い残し、グレイスは廊下に出ていった。空間転移魔法を使ったのか、その足音はすぐに聞こえなくなった。
リチャードは深く息を吐いて、ソファーにもたれかかった。目眩はまだ残っていて、頭はじんじんと痛んでいる。
様々な情報と共に見せられた、黒幕の所業の凄まじさにはさすがに怒りを覚え、そして心底呆れてしまった。
黒幕の最終的な目的が何であるかも、少しだが見えていた。これもまた、おぞましく、気色の悪いことだった。
こればかりは、阻止しなければならない。キャロルのためにも、そして、フィリオラらのためにも戦わなくては。
リチャードは体を丸めている小さな花嫁を、抱き起こした。一向に起きる気配のない彼女に、顔を寄せた。
その耳元に、愛しているよ、と囁いた。


微睡みから意識を浮かばせ、キャロルは目を開いた。
ベッド脇のタンスの上で、煌々と鉱石ランプが輝いている。その光が届かない部屋の四隅は、闇が深かった。
頬の下のシーツからは、彼の匂いがする。目の前には見慣れた広い胸があり、肩と腰に腕を回されている。
リチャードの寝室の、いつものベッドの上だった。居間にいたはずだったが、彼に運ばれてきたようだった。
目線を上に向けると、すぐ上にリチャードがいた。安らかながら物悲しげな眼差しで、キャロルを見つめていた。

「起きた?」

「あ…」

キャロルはリチャードの肩越しに窓を見、暗くなっていることに気付くと、途端に跳ね起きた。

「いけない、寝ちゃった! お料理のお皿とか、テーブルとか、片付けて来なきゃ!」

「後でいいよ、そんなもん」

リチャードは起き上がり、多少乱れた髪を整えた。キャロルは、シワの寄った花嫁衣装を見下ろした。

「ですけど、ああ、着替えておけば良かった…」

せっかくの花嫁衣装が、ぐちゃぐちゃになっている。キャロルは無性に情けなくなってしまい、肩を落とした。
シワを伸ばそうとすると、急に抱き寄せられた。リチャードの胸に顔を埋められ、首元で細い鎖が小さく鳴った。
揺れ動いた指輪が、起伏の少ない胸元で止まる。不意のことにキャロルが戸惑っていると、すぐ上から声がした。

「キャロル」

「は、はい」

キャロルが答えると、リチャードは力を込めて少女を抱き締め、声を震わせた。

「このまま、朝が来なきゃいいなぁ…」

リチャードの声色は、いつになく弱っていた。

「キャロル。僕はね、明日から軍隊に、戦争に行くんだ。特務部隊っていう部隊に、入ることになっちゃったんだ」

驚きと恐怖でキャロルが息を飲むと、リチャードは項垂れ、キャロルの肩に顔を埋める。

「行きたくなんてないさ。でも、行かなきゃ行けないんだ」

肩に、熱いものが染みてきた。キャロルはそれが何であるか察すると、リチャードの広い背に手を回した。
リチャードが、泣いている。それだけで、キャロルは泣き出しそうになったが、必死に堪えて彼を抱き締めた。
彼は、苦しげに話している。態度を取り繕おうとしているのか、不自然に明るい言い方が、余計に痛々しかった。
戦争に行ったら帰ってこられないかもしれない、一緒にいられなくなるのが寂しくて辛い、などと漏らしていた。
キャロルは、何も出来なかった。リチャードの気持ちは痛いほど解るし、離れてしまうのが辛いのは同じだった。
だが、彼の方は死ぬ恐怖もある。それがどれだけ凄まじく重たいものか、想像しただけで身を切る思いがした。
ごめんね、と小さく声がした。リチャードはかなり弱々しく笑いつつ、キャロルの寝乱れた赤毛を、撫で付けた。

「ダメだなぁ僕は。君の寝顔を見ていたら、どんどん怖くなってきちゃった。戦争に行ったら帰ってこられないかもしれないなぁ、一人にさせちゃうなぁ、新婚なのになぁ、って色々と考えちゃったんだよ。そしたら、なんか、やけに泣けて来ちゃってさぁ。不思議だなぁ、もう十何年も泣いてなかったのに」

茶化した言い方だったが、苦しそうなのは変わらなかった。キャロルは、頬に触れてきた彼の手に手を重ねる。

「怖いのは私も同じです。一人になってしまうのは寂しいし苦しいし、リチャードさんが戦いに行くなんて考えただけで恐ろしいです。ずっとずっと一緒にいられるって、思っていましたから」

「うん。ごめんね」

リチャードは、キャロルの目元に滲んだ涙を指先で拭った。

「必ず、帰ってくるから。約束するよ」

そのまま引き寄せられたキャロルは、深く口付けられた。リチャードの唇からは、塩辛い涙の味が伝わってきた。
絡め合わせた舌も動きが慎重で、いつになく時間を掛けていた。離れてしまうのが惜しく、嫌でたまらなかった。
それでも、息苦しくなってしまったので、キャロルは唇を放した。リチャードは、キャロルの腰を抱いて引き寄せた。
柔らかく小さな体、触れただけで熱を持つ頬、優しい体温、愛おしげな笑顔。そのどれからも、離れたくはない。
息が詰まりそうなほど、苦しかった。グレイスのおかげで情報を得ているとはいえ、戦いへの恐怖は変わらない。
死んでしまいたくない。死なせてしまいたくない。守ってやりたい。そんなことを思うのは、生まれて初めてだ。
腕の中の少女は、震えている。声を殺して泣いている。それが自分への愛情からの涙だと思うと、嬉しくなった。
ああ、愛されている。そして、愛している。彼女の胸元に下げられている指輪が、鎖と擦れる音がしていた。
リチャードはキャロルの顔を上げさせると、再び口付けた。何度となく、彼女に愛を注ぐかのように唇を重ねた。
二人の初夜は、愛を確かめ合うことに終始した。体は重ねなかったものの、言葉を尽くして、思いを与え合った。
朝が来るまで、愛し合っていた。




翌朝。彼は、始発の列車の中でリチャードを待っていた。
煙と煤で灰色に汚れている窓の外では、蒸気がもうもうと立ち込めていて、そこだけ空気が熱くなっていた。
窓の向こうに見える旧王都の街並みは、蒸気機関車の蒸気に劣らないほどの白いもやに包まれ、静まっていた。
列車には、彼以外に数人の上位軍人が乗っていた。首都壊滅と同時に指揮系統が崩れたので、そのためだろう。
将軍などの上層は生き残っているのだが、前線で指揮を執る佐官の数が、首都壊滅によって激減してしまった。
首都が襲撃されたその日は、共和国軍内の佐官を集めて今後の作戦会議を行っていたので、それを狙われた。
そして、敵の狙い通り、共和国軍の前線はがたがたになった。思った通りだ、と彼は内心で笑みを浮かべていた。
将軍に佐官を集めるように進言、いや、そそのかしたのは成功だ。将軍は今や、彼の手中、傀儡に過ぎない。
過去に接見した際に掛けた呪いで、将軍は、彼の言葉であればどんな意見でも疑問を持たずに受け入れる。
本人は、それを自分の意思での判断だと思っているので、呪いを掛けられているとは欠片も思っていないだろう。
上層の軍人は、ある程度は意思を残しておいて操った方がいい。下手に洗脳するよりも、怪しまれずに済む。
このまま行けば、共和国は焦土となる。その後に造り上げるであろう世界を想像し、彼は、悦に浸っていた。
そして、リチャード・ヴァトラスをこちら側に引き入れることが出来た。彼がいれば、軌道修正が出来るはずだ。
アルゼンタムの代役として、彼らとの接点となってくれる存在だ。狂気に駆られた人形よりも、使い良いだろう。
実戦経験は浅いが魔導師としての腕は相当なものなので、特務部隊に置いても、充分な戦力となってくれる。
軍服から出した懐中時計を開くと、針は発車の時刻を示していた。そろそろ、リチャードが乗ってくるはずだ。
列車の扉が開き、真新しい軍服に身を包んだ長身の男が入ってきた。軍靴の固い靴底が、床板を鳴らした。
緩やかな歩調に合わせて、一括りにされた長い薄茶の髪がなびいた。軍帽で陰っていた細い目が、上がる。

「大佐、ですか」

彼が顔を上げると、真新しい軍服の男、リチャードは不慣れな手付きで敬礼した。

「リチャード・ヴァトラス中尉です」

「やあ、おはよう。ようこそ、特務部隊へ。来てくれて嬉しいよ」

彼が微笑むと、失礼します、とリチャードは彼の向かい側の座席に腰掛けた。彼は、軍帽の鍔を少し上げる。

「ヴァトラス中尉。僕を見ても、驚きもしないんだね。少し、残念だよ」

「それなりに、特務部隊の情報を得ていましたので」

リチャードが愛想良く笑むと彼は、ふぅん、と興味なさそうに息を漏らした。

「大方、グレイスだろうね。君はあの男と関わっていたみたいだから、僕の話をされてもおかしくはない」

「まぁ、そういうことです」

軍帽を外して膝に乗せたリチャードは、反対側の窓へ向いた。駅舎に阻まれて、旧王都の街並みは見えない。
ヴァトラスの屋敷では、キャロルが一人きりの朝を迎えているはずだ。また、泣いてしまっていることだろう。
昨夜は、二人とも眠らずに夜を明かした。眠ってしまうことが惜しく思えるほど、愛しくてならなかったのだ。
何度も何度も、彼女の様々な場所に口付けた。彼女の年齢がもう少し上だったら、その先まで行っていただろう。
キャロルからは事に及んでも良いと言われたが、心だけでなく体も苦しめては可哀想なので、遠慮しておいた。
戦場から帰ってきて、今度こそ新婚生活を始めて、キャロルの体が成熟してからでの方が良いに決まっている。
左手を見下ろすと、キャロルに渡した指輪と揃いで買ったものが薬指に填っていて、少々気恥ずかしくなった。
やっぱり首から提げておくべきだったかなぁ、と思ったが、もう遅い。鎖を買い求めに行く暇など、残っていない。
蒸気機関車の力強く甲高い汽笛が、鳴り響いた。車掌が笛を吹き鳴らしていると、ゆっくりと列車が進み始めた。
線路と車輪が軋み、車体全体が揺れるのを感じながら、リチャードは次第に離れていく旧王都の街並みを眺めた。
雑然としていて統一性のない建築物が、朝靄に霞んでいる。城壁を貫いて造ったトンネルを抜け、外へ出る。
城壁から出てしまうと、途端に景色は平坦になった。長方形の箱が並んだ工場街も、徐々に遠ざかっていく。
木がまばらに生えた草原の上を、列車は真っ直ぐに進んでいく。秋めいてきた色合いの空は、薄く曇っていた。
彼は、旧王都の方を見たままのリチャードを見ていた。メイドの少女と結婚した、と聞いたが、本当のようだ。
左手には結婚指輪もあるし、表情が違う。以前のような狡猾さは失せていて、眼差しも穏やかになっている。
腑抜けたな、と思った。顧みるものがあると、肝心な時に迷いが生まれ、的確な判断を下せなくなってしまう。
何も背負わない方が、全てに置いて楽だというのに。グレイスといいリチャードといい、なんと愚かなことだろうか。
他者を愛したり執着したりすると、それだけで弱点が出来てしまう。それぐらい、彼らにも解るはずだろうに。
恋も愛も、ただ無駄なだけだ。彼はリチャードから関心を外すと、首都周辺の惨状を思い浮かべて、笑った。
人が滅びていく様は、最上の快楽だった。




着実に広がりつつある戦火と共に、彼の計略も進み続ける。
愛を与え求め合う二人は契りを結び、そして、邪なる策謀によって引き離される。
魔導服ではなく軍服に身を包み、幼き妻ではなく上官に添いながら。

夫となった彼は、戦場に向かうのである。







06 2/23