ドラゴンは眠らない




幸せな未来



ジョセフィーヌは、視ていた。


今し方まで見ていた景色が薄らぎ、差し変わる。聞こえていた音が聞こえなくなり、聞いたこともない声がする。
抗えない。逆らえない。意思とは無関係に発動した予知能力が、時を超えて、まだ知らぬ世界を映し出す。
薄暗い天井。スイセンの家紋が描かれた床。窓に映るのは、自分の顔をした、メガネを掛けた見知らぬ女。
背後にある鉱石ランプの青白い光が、女の半身を照らしている。窓の外では、延々と、雪が降り続いている。
軍服に身を固めた女は、窓に近寄ってくる。結露さえも凍り付いた窓に手を押し当て、愛おしげに目を細めた。

「なぁ」

口から出た声はジョセフィーヌのものだったが、口調は違っていた。

「そうだろう」

ジョセフィーヌの顔で、ジョセフィーヌの表情で、微笑んでいるが、その眼差しは冷たい。

「ジョセフィーヌ」

己が、己に語り掛ける、奇妙な光景。

「君だけは」

女の指先が滑り、窓に映る己を慈しむ。

「僕の味方でいてくれるよね」

その言葉で、そこにいる女が誰なのか直感した。彼だ。彼が、外に出てきたんだ。やはり、そうなってしまうんだ。
視たくもない未来は、続いていく。己の姿をした見知らぬ女が振り返ると、スイセンの家紋が書かれた床が見えた。
そこには、見知らぬ者が倒れている。竜の少女、メイド姿の少女、魔導師の姿をした竜の少女、そして、あの人。
銀色の装甲を持った、屈強な影が床に倒れ伏している。それを見下ろしている自分が笑っているのが、解る。
頬が引きつって口元が上向いて目が細められて、顔一杯に笑みが広がっている。だが、それは、優しくはない。
己の顔は見えないが、その表情が冷酷なものであるということは、己の内に染み渡る感情で理解していた。
なぜ。どうして。何が、どうなってこうなっているんだ。理解出来ないけど、出来るだけしようと頑張った。
視界の固定された世界の中で、必死に情報を探る。目に映っているものを、捉えられるだけ捉えて覚えた。
女が見ていない視界の隅に、黒い布の端が見えた。その色には見覚えがあったので、すぐに注意を向けた。
竜の少女らの傍に、見知らぬ少年が倒れていた。銀と金の混じったような髪色をした、色白な幼い少年だった。
瞼は固く閉じられ、眉根は歪められている。薄い唇は苦しげに半開きになっており、小さな牙が、覗いていた。
ジョセフィーヌは、少年の牙から目が離せなかった。なんだろう、見たことがある。いつも、見ているものだ。
それを思い出すよりも前に、未来は、消え失せた。




背後から、呼び掛ける声がしていた。
不安げながらも穏やかな、大好きな人の声がしている。だが、それが彼女の耳に届くまで、しばらく間があった。
肩に触れていた手が腰に回されて、広い胸が背に当たる。その感触で、ジョセフィーヌはようやく意識を戻した。
手にしていた盆を落としたらしく、二人分のティーカップとティーポットが、足元で粉々に砕け散っていた。
淹れたばかりの紅茶の良い香りとほのかな湯気が、床の水溜まりから立ち上っており、鼻先を掠めていった。
紅茶と共に食べようと思って運んできた、焼いたばかりのケーキも床に落ちて潰れており、食べられそうにない。
琥珀色の水溜まりの半分を、ひっくり返って底を見せた盆が覆っている。ジョセフィーヌは、それを見ていた。
瞬きをして視界を明瞭にさせると、目の端に銀色を捉えた。それは長い銀髪で、顔のすぐ傍から流れている。

「どうしたんだい、ジョー」

しなやかな指が、ジョセフィーヌの顎をなぞる。ジョセフィーヌは、瞬きをしてから、彼を見上げた。

「ラミアン…」

ジョセフィーヌを背後から抱き竦めている男は、作り物のように整った顔に高貴さを漂わせる笑みを湛えていた。
形の良い唇が僅かに開かれていて、そこからは鋭い牙が垣間見えている。顔立ちとは懸け離れた、獣のものだ。
体に回されている腕は、黒い礼服を着ている。彼の羽織る真っ黒なマントが、二人の体を柔らかく包み込む。
顎に触れている指先は、死体のように冷たい。だが、ジョセフィーヌには、その冷たさすらも愛おしかった。

「あのね、あのね」

ジョセフィーヌは今し方視た光景を言葉にしようとしたが、上手く言葉が出てこない。

「えっとね、えっとね、んーとね」

自分だけど、見知らぬ顔をした女。メガネを掛けた女。スイセンの家紋。雪の降る日。そして、牙を持つ少年。
どれか一つから話そうとしても、その一つすらも具体的にまとまってくれず、言葉らしい言葉になってくれない。
背中に感じるラミアンは、ジョセフィーヌの言葉を待ってくれている。急かしたりせずに、微笑んでくれている。
ジョセフィーヌは、なかなか言えないのが申し訳なくなってきて、焦ってしまい、余計に頭が混乱してきた。
何が、一番大事な未来だろう。ジョセフィーヌの頭には、あの、小さな牙を持った黒衣の少年が焼き付いていた。
あの牙は、吸血鬼の証だ。髪の色は違うが、顔立ちには彼の面影があり、目鼻立ちも似ている。だから、きっと。

「おとこのこ!」

ジョセフィーヌは嬉しくなり、ラミアンの腕の中で飛び跳ねた。

「おとこのこだよ、おとこのこ! あのこ、きっとラミアンのこどもだよ!」

「私の…子供?」

ラミアンが目を丸くすると、ジョセフィーヌはラミアンに向き直り、しがみ付く。

「うん、まちがいないよ! だって、きばがあったもん! かみのいろはちょっとちがうけど、そっくりだったもん!」

「ということは、私とジョーの子供ということか!」

「うん、そうだよ、こどもだよ、おとこのこだよ!」

「そうか、そうか、そうなのか」

破顔したラミアンは、ジョセフィーヌをきつく抱き締める。ジョセフィーヌは、ラミアンの服の背を握る。

「うん、そうだよ。そうなんだよ」

ラミアンの胸に顔を埋め、ジョセフィーヌは目を閉じた。目の裏には、あの少年の姿がありありと残っていた。
彼の着ている服に、良く似た服を着ていた。黒いマントも、黒い上下も、ラミアンのものを小さくしたようだ。
思い出せば思い出すほど、少年が愛おしくなる。すぐにでも、会いたくなる。でも、まだ、あの子には会えない。
あの子がこの世に現れるのは、ずっと先だ。明確な時期などは解らないが、感覚的に、遠い未来なのだと解る。
ジョセフィーヌは、それがとてももどかしかった。大好きなラミアンとの間に子供が出来るのは、物凄く嬉しい。
ラミアンは吸血鬼だが、ジョセフィーヌは人間だ。姿形は似ているが、生体構造の懸け離れた異種族同士だ。
だから、子供が出来るとは限らない、とラミアンに言われたことがあった。その時は、心の底から残念だった。
だが、出来るのだ。それが、嬉しくないわけがない。だから、その子の情報を、彼に言えるだけ言いたかった。
しかし、やはり、言葉が出てこなかった。頭の中では言葉になるのだが、それをまとめて口から出せないのだ。
ジョセフィーヌは自分に対して苛立ってしまったが、ラミアンがあまりにも嬉しそうなので、釣られて笑った。
そのまま二人は、抱き合っていた。子供の名前をどうしようか、いつ生まれるのか、などと延々と話していた。
砕けたティーカップを片付けるのは、後回しになった。






吊り上がった目、狂気の笑みを浮かべた口、その奧に見えるぎざぎざの牙。
刃で出来た手。金属の骨格。微かに青味掛かった銀色のマント。緑の魔導鉱石。そして、聞こえる、彼の声。


 愛しているよ、ジョセフィーヌ。


刃で出来た指先が、首筋に当てられている。その刃は冷たすぎて、熱だと間違いそうなほどに冷たかった。


これは、誰。


機関車。黒衣の兵士。竜の少女。牙を持つ少年。白い世界。雪の中に倒れ込んだ、炎を胸に宿した戦士。
燃え盛る街。沈みゆく大地。死にゆく人々。そして、凄絶な高笑いを放っている、自分。


これは、何。


 悪い子だ。十年も迷子になって。


これは、彼の声。


 いいんだ、生きていてくれたから。


これも、彼の声。


 お帰り、ジョー。





「おはよう、ジョー」

未来予知の余韻が残ったまま、ジョセフィーヌはその声を聞いた。何度も瞬きしてから、ごしごしと目を擦った。
柔らかな枕は頭の下から外れていて、ベッドから落ちていた。ジョセフィーヌは、傍らのラミアンにしがみ付く。
彼の寝間着の胸元を握り締めて、顔を埋める。眠っている間にジョセフィーヌに体温が移り、少し温かかった。
礼服を着ている時は解りづらいが、無駄のない筋肉が付いている。彼の大きな手が、寝乱れた髪を撫でてきた。
まだ眠たいので、ジョセフィーヌは甘えた声を漏らした。仔ネコのような仕草に、ラミアンは口元を綻ばせる。

「まだ眠いのかい?」

「らみあぁん…」

ジョセフィーヌは半開きの目で、ラミアンを見上げた。目が覚めてくると、昨夜に生じた痛みが蘇ってくる。

「まだ、ずきずきするよぉ」

「すまん、ジョー。本当に、すまなかったと思っているよ」

うー、と顔をしかめているジョセフィーヌに、ラミアンはひたすら謝った。彼女の予知が、嬉しすぎたのが原因だ。
ジョセフィーヌは最近になって情交の意味と行為を理解したばかりなので、普段はかなり気を遣って行っていた。
だが、昨夜は歯止めが効かなかった。子供が出来る、子供が出来る、とジョセフィーヌがはしゃいだためである。
ジョセフィーヌは、情交を行えば子供が出来ることは知識として知っているのだが、欲情することは知らない。
幼い知性しか持たないジョセフィーヌを、その気にさせるのは容易ではないので、ラミアンは常に苦労している。
大抵の女性に通用することが一切通用しないし、回りくどいことをすれば笑われるし、直球に行えば泣き出される。
なので、ジョセフィーヌの方から求めてきた時だけ行うことにしているのだが、昨夜はその求め方が激しかった。
といっても、所詮は幼女の思考なので、べったりと貼り付いてせがむだけなのだが、ラミアンには充分過ぎた。
その結果、理性が弱った。いつもはなるべく力を抜いて行うのだが、嬉しくて嬉しくて、つい力が入ってしまった。
ジョセフィーヌは掛け布団を蹴り飛ばすと、寝間着のスカートをめくっている。痛い部分が、気になるらしい。

「うー…」

「次は、もっと加減しなくてはならないな」

ラミアンが情けなさそうにすると、ジョセフィーヌは頬を張る。

「あんまりいたくすると、もうやらないからね! ジョー、いたいのやだもん!」

「だから、すまなかった。お願いだから、それだけは勘弁してくれないだろうか、ジョー」

弱り切ったラミアンを、ジョセフィーヌは邪気のない瞳でじっと見つめる。

「ほんとうにほんとう?」

「ああ、本当だとも。天上に棲まう万物の神と、ここにいる私の女神に誓って、約束させてもらえないだろうか」

ラミアンはジョセフィーヌへ向けて、手を差し出した。ジョセフィーヌはスカートを元に戻し、その手を取る。

「いいよ。でも、つぎ、いたくしたら、ほんとうにやらないからね?」

「ああ、解っているよ」

ジョセフィーヌを起こしたラミアンは、肩を押して背を向けさせた。長い栗色の髪が、ぐちゃぐちゃになっている。
ベッド脇のタンスの上から櫛を取り、彼女の髪に差し込む。絡まっている部分があり、時折、櫛の歯が引っ掛かる。
丁寧に何度も梳いてやると、整ってくる。寝癖は多少付いているが、編み込んでまとめてしまえば、解らなくなる。
ラミアンが髪を整える感触が気持ち良くて、ジョセフィーヌはにこにこしていた。機嫌は、すっかり治っている。

「つぎはジョーがやるね。ラミアンのかみ、きれいにしてあげる」

「頼むよ」

ラミアンは櫛を枕元に置くと、長い栗色の髪を三つに分けた。手触りが良くて柔らかだが、量が多めの髪だった。
後れ毛を出さないようにきっちりと編み込まないと、すぐに解けてしまう。ジョセフィーヌの動きが、激しいからだ。
飛び跳ねたり走り回ったり転んだりするので、髪も揺れる。髪留めも外れないようにしないと、簡単に落ちてしまう。
編み上げた長い髪を丸めて、髪留めできつく止める。出来たよ、とラミアンが囁くと、ジョセフィーヌは振り向く。

「ありがとー、ラミアン」

じゃあ次はジョーね、と櫛を取ってラミアンを反対に向かせる。腰まである長い銀髪は、不思議と乱れていない。
さらさらとして滑らかで、絡まってもいないしクセも付いていない。なので、ジョセフィーヌにはやりやすかった。
窓から差し込む朝日を浴び、銀髪は眩しく光る。その色合いが美しいので、ジョセフィーヌはまたにこにこする。
ラミアンは、どこもかしこも素敵だ。綺麗な顔や澄んだ瞳だけでなく、手も、声も、髪も、何もかもが大好きだ。
髪を整えている内に、その好きが膨れ上がってきた。ジョセフィーヌはたまらなくなって、彼の背に抱き付いた。

「なんだい、もう飽きてしまったのか?」

ラミアンが可笑しげにすると、ジョセフィーヌは膝立ちになり、ラミアンの肩に顎を乗せる。

「ちがうもん。そうじゃないもん。ラミアンがだいすきなんだもん」

「私もだ、ジョー。愛しているよ」

ラミアンはジョセフィーヌを引き寄せると、その頬に唇を当てた。ジョセフィーヌは、くすぐったそうにする。

「えへへ」

ジョセフィーヌはラミアンの背から離れると、彼の前に回った。身を乗り出すと、彼の方から近付いてきてくれた。
冷ややかな唇と、温かな唇が重なる。これは嬉しくて気持ち良いことだけど、少しだけ、恥ずかしいことだ。
深く重ね合わせていた唇を放し、吐息を零す。ジョセフィーヌはラミアンの胸に縋り、先程の予知夢を反芻した。
何なのか、解らなかった。いつも、どこかの何かの未来を視ているけど、それが何なのか解る方が少なかった。
だが、断片だけなら解ることもある。しかし今回の予知夢は、最初から最後まで、何一つとして解らなかった。
目が覚めて時間が経つと、次第に夢の記憶が薄らいでいく。銀色の何かも、何かの景色も、崩れるように消えた。
覚えているのは、ラミアンと思しき声だけだ。悪い子だ、十年も迷子になって。いいんだ、生きていてくれたから。
愛しているよ、ジョセフィーヌ。お帰り、ジョー。やはり、これだけでは、何があったのかは全く掴めなかった。
中でも特に印象に残ったのが、十年、という単語だ。そんなにも長い時間、ずっと迷子になってしまうのだろうか。
だがそれは、迷子になるようなことになっても、十年したらラミアンに見つけてもらえる、ということでもある。
何かあったら、十年間、頑張るんだ。そうすれば、ラミアンが見つけてくれる。ジョセフィーヌは、強く信じた。
ラミアンの腕の中で、微睡みかけた。寝て起きたばかりなのに、また眠気が襲ってきて、瞼が下がっていく。
目を閉じた瞬間、胸の奥で鼓動が跳ねた。心臓の音ではない、音のない音が内側から響き、頭の中に声が響く。
十年。十年か。何の十年だ。解らないのかい、その意味は。ジョセフィーヌは目をきつく閉じたが、声は続く。
子供が出来るのか。その子が生まれたのなら、僕は外へ出られる。君は、約束を忘れたわけではないよね。
忘れるわけなんてないもん、とジョセフィーヌが言い返すと、声は喉の奥から出すような笑い声を漏らした。
忘れるようなことがあったら、思い出させてやるまでさ。ああ、楽しみだなぁ、君と奴の子供が生まれるのが。

「ラミアン」

ジョセフィーヌは、体の中にいるもう一つの魂が発する言葉を聞かないようにしながら、呟いた。

「だいすきだよ」

そうだ。忘れかけていた。ラミアンとの幸せな日々で、愛される喜びの中で、キースの存在を忘れていた。
十数年前の出来事で体の内に潜むようになった、竜の青年、キース・ドラグーンの魂は未だに息づいている。
ジョセフィーヌの魔力を食い物にしながら、消えることも薄らぐこともなく、表へ出られる機会を窺っている。
彼が表に出たら、ラミアンは彼に殺されるだろう。子供が生まれたら体が弱るから、彼は外へ出てしまうだろう。
嫌な未来ばかりだ。ジョセフィーヌはそのどちらも怖くて、涙が出そうになったが、少年の姿が脳裏に蘇った。
そうだ、怖いものばかりじゃない。ラミアンとの間にあの少年が生まれるのだから、幸せだって訪れるのだ。
予知能力で視る未来は選べない。嫌なことばかりが視えているが、いいことも、視えていないわけではない。
だからきっと、幸せな未来もあるはずだ。




未来には、明るい希望もあれば、どす黒い不安もある。
それを受け止める力を有する彼女は、その未来に抗うことも、逃げることも敵わない。
彼女の内に魂を潜めし竜の青年と、彼を宿せし幼女のような彼女の、未来には。

おぞましき悪夢が、待ち受けているのである。






06 9/11