その日は、朝から冷たい雨が降っていた。 窓の外には無数の縦線が降り注ぎ、植木の葉を叩いている。窓に貼り付いた水滴が、音もなく流れ落ちた。 フィリオラは居間の窓の前に立ち、フィフィリアンヌからもらった帽子を抱えながら、窓の外を見つめていた。 縦長の窓には、背後に立っているギルディオスが映っている。彼は、フィリオラのツノの生えた頭に手を置いた。 「今日は中で遊ぼうや」 フィリオラは小さく頷いたが、抱えている帽子を見下ろした。毎日のように被っているので、よれていた。 その上枕元に置いて眠っているので、寝返りを打った際に多少なりとも手が当たったらしく、へこみもある。 それでも、体から離す気になれなかった。初めて他人からもらったものだし、何より、とても気に入っていた。 真っ白な色も、大人の女性が被る帽子のように幅の広い鍔も、長いリボンも、そのどれもが好きでならなかった。 自分でもあまり好きではないツノを隠せるから、ということもあり、本当なら一日中でも被っていたいほどだった。 フィリオラが帽子を見つめて俯いていると、ギルディオスは身を屈めた。幼女の背後に膝を付き、抱き寄せる。 「んで、どうやって遊ぼうか?」 「ん…」 フィリオラは、顔のすぐ脇にあるヘルムを見たが、目を伏せた。ギルディオスは、幼女の横顔を覗き込む。 「オレが決めたってどうしようもねぇだろ。遊ぶのはお前なんだから、フィオ」 「だけど」 フィリオラは肩を縮め、ぎゅっと帽子を抱き締めた。小さな肩の上に乗っていた二つ結びの髪が、滑り落ちた。 「オレになんか気ぃ使うなって。大体、オレはお前と遊ぶためにここにいるようなもんなんだから」 ギルディオスが優しく言葉を掛けてもフィリオラは反応せず、沈んでいる表情が明るくなることはなかった。 薄い唇を閉ざして暗い眼差しをしている幼女の横顔に、ギルディオスは胸苦しくなり、内心で顔を歪めていた。 このストレインの屋敷にやってきて、もう十数日は過ぎていた。その間、ずっとフィリオラの傍に付いていた。 だが、フィリオラが笑ったことなど数えるほどだ。声を上げたのは、フィフィリアンヌから帽子をもらった時ぐらいだ。 笑おうとしても表情を消してしまうし、何か言いたげであってもその言葉を飲み込んで、結局は黙ってしまう。 子供らしからぬ、表情のなさだった。原因は考えるまでもなく、あの部屋に閉じ込められてばかりいたからだろう。 泣くということは、子供にとっては大事なことだ。笑うことと同じぐらい、人格を育てるために必要なものだ。 それを無理に押さえ付ければ、泣いてはいけないと思うのは当然で、感情を波立ててはいけないとも思うだろう。 そして、いつしか、泣きもしなければ笑いもしない子供になってしまう。それほど、不自然で哀れなことはない。 ギルディオスは切なくなってきて、フィリオラを抱き締めた。なるべく明るい口調にして、黙りこくった幼女に言う。 「な、フィオ。遊ぼうや。やりてぇこと、なんでも言ってみろ」 フィリオラはギルディオスの肩に体を預けていたが、抱き締めていた帽子を見つめ、ぽつりと呟いた。 「おそとがいいです」 壁の内側は、もう嫌だ。外にいれば、あの部屋に投げ込まれる前に逃げられる。 「おそとであそびたいです」 「けどなぁ、雨降ってるぜ? 濡れちまうよ」 ギルディオスは、窓の外を指した。フィリオラは、ふるふると首を横に振る。 「おそとがいいんです」 「参ったなぁ…」 ギルディオスはそうは言いつつも、少し嬉しくなった。初めて、フィリオラが子供らしい我が侭を言ってきてくれた。 是非ともなんとかしてやろう、と思いながら、ギルディオスはフィリオラの小さな肩を軽く叩いて立ち上がった。 「んじゃ、ちょっと待ってろ。雨具でも持ってきてやるから」 ギルディオスはフィリオラに背を向けると、足早に居間から出て行った。重たい足音が、廊下を遠ざかっていく。 フィリオラは廊下に繋がる扉を見つめていたが、ふと、居間の奧に目を向けた。姉が、一人で本を読んでいた。 広々とした居間の奧にある、大きな暖炉の傍にあるソファーに腰掛けていて、膝の上に分厚い本を広げていた。 五歳年上の姉、ルーシーは母に良く似ていた。瞳の色も髪の色も面差しも近くて、たまに羨ましくなるほどだ。 フィリオラは、窓に映る自分をちらりと見やった。目鼻立ちも髪の色も、母にも父にもまるで似ていなかった。 他の親族にも似ている者は一人も見当たらず、自分に似ていると思った血縁者は、フィフィリアンヌだけだった。 これで、母か父に似ていれば違っていただろう。フィリオラは重苦しい気分になってきて、目線を足元に落とした。 すると、本が閉じる音がした。フィリオラが振り向くと、ルーシーはソファーから立ち上がり、歩み寄ってきた。 「フィオ」 その声に、フィリオラが背後の姉を見上げると、ルーシーは穏やかに笑んでいた。 「雨、上がるといいわね」 「…はい」 フィリオラは戸惑いつつも、頷いた。姉から声を掛けられることなど、今までは数えるほどしかなかったのだ。 だから、嬉しいよりも先に困ってしまった。フィリオラがやりづらそうに顔を伏せたのを見、ルーシーは言った。 「天気だけは、ギルディオスさんでもどうにもならないわ。今日はお部屋で遊びなさい」 フィリオラが答えずにいると、ルーシーは続けた。 「聞き分けなさい、フィオ」 ルーシーは目線を下げ、頭にツノの生えた妹を見下ろした。姉の言葉に返事をするでもなく、黙りこくっている。 可愛気のない妹だ。両親からは可愛がってやれと言われたが、人でない外見の妹など好きになれるはずもない。 生まれたばかりの頃は、それでも好きになろうと思った。だが、成長するに連れて、妹の力が疎ましくなった。 激しく泣き喚いては竜に変化して、我を忘れて暴れ回る。そのせいで、ストレイン家の本家の屋敷が壊された。 ルーシーは、その本家の屋敷が好きだった。白い壁と白い塀に囲まれていて、庭も広く、優雅な屋敷だった。 それを、妹は壊してしまった。一階の壁から屋根まで全部をぶち破り、庭も踏み荒らし、塀も崩してしまった。 とてもじゃないが、人の住める場所ではなくなってしまったので、今はその屋敷を建て直している最中だ。 その間だけ、と言われて、旧王都から大分離れた古い屋敷に住まわされた。それが、かなり面白くなかった。 元々、この古い屋敷は好きではない。壁も薄汚れているし庭も狭いし、屋敷の傍の鬱蒼とした森は気味が悪い。 数日だけならまだしも、これでもう半年近くになる。ルーシーは妹を見下ろし、次第に苛立ちを沸き上がらせた。 この化け物さえ屋敷を壊さなければ、もっと夜会に出られていたはずだし、父と母も傍にいてくれたはずなのに。 挙げ句に、この屋敷に入り浸るようになった共和国軍軍人の甲冑の男は、フィリオラにばかりべたべたする。 別にあの男に好かれたいわけではないが、なんとなく気に食わない。鬱屈した思いが、腹の中に溜まっていた。 ルーシーは顔を上げようとしないフィリオラを見下ろしていたが、妹が抱き締めている白い帽子に目をやった。 それは、首都の流行りのものだった。旧王都の街中でも、貴婦人達がこれと似たものを被っているのを見た。 ルーシーはその流行りの帽子を両親にせがんだが、去年のもので充分です、と言われて諦めたのを思い出した。 それを思い出した途端、苛立ちが増した。自分が手に入れられないものなのに、なぜ妹は手にしているのだ。 理不尽でたまらない。面白くない。ルーシーはフィリオラの抱えている白い帽子を引っ張り、奪い取った。 「貸して下さらない」 あ、とフィリオラが手を伸ばしたが、ルーシーはそれを無視して白い帽子を深く被ってみせた。 「あら、素敵ねぇ」 窓に映る自分の姿を見ながら、ルーシーはくるりと回転して帽子を整え、妹を見下ろす。 「これ、私の方が似合うんじゃないかしら」 フィリオラは姉へ伸ばしていた手を下ろし、スカートを握り締めた。返して、と言おうとしたが言えなかった。 言ったら、怒られてしまうかもしれない。それに、返してと言うことも我が侭なのではないか、と思ってしまった。 そう思うと、何も言えなくなった。フィリオラが唇を噛んでいるのを見、ルーシーは仕返しが出来た気分になった。 当分の間、返してやるまい。竜のくせに、人でないくせに、妹のくせに、こんなものを持っているのが悪いのだ。 ルーシーがにんまりしていると、居間の扉が開いた。ギルディオスが帰ってきたと思い、フィリオラは扉に向いた。 両開きの扉の片方を開けて入ってきたのは、メイド長だった。フィリオラは途端に落胆して、肩を落とした。 ルーシーは表情を曇らせたフィリオラを一瞥してから、メイド長に駆け寄り、被っている白い帽子を見せた。 「ジェーンさん、これ、私に似合うかしら?」 「ええ、とても良くお似合いですよ、ルーシーお嬢様」 メイド長は柔らかな笑顔になり、頷いた。ルーシーはメイド長の前で、もう一度くるりと回ってみせる。 「あら、やっぱり? 私もそう思っていましたのよ」 メイド長は満足げなルーシーに、目元を緩ませた。この娘はフィリオラと違って聞き分けが良く、態度も明るい。 それに比べて、と窓の傍で項垂れている幼女を見やった。フィリオラは暗い眼差しで、足元を見つめている。 ツノの生えた幼女は、愛想も良くなければ言うことも聞かない。何度言い聞かせても、すぐに泣き出してしまう。 フィリオラが泣くたびにあの部屋に放り込むのは、思いの外大変な仕事だというのに、感謝もしてこない。 こちらとしては、竜へ変化してしまうのを押さえ込んでやっているのだから、ありがたがられてもいいはずだ。 フィリオラも竜になるのは嫌だと言っているし、これからも閉じ込めるべきだと思うのに、あの部屋は壊された。 ストレインの先祖だとか言う尊大な竜の少女と、フィリオラばかり構って仕事を手伝わない甲冑の手によって。 それもまた、あまり面白くなかった。あの部屋に魔法陣を苦労して描いたのに、それを台無しにされてしまった。 慣れない魔法の勉強をして、魔力を減退させるのに一番効果的な魔法陣を探して、一日掛かりで描いたのだ。 それを、あの二人は一時で破壊し尽くし、挙げ句に壁に大穴まで開けた。それが、腹立たしくないわけがない。 メイド長は、満足げな笑みを浮かべているルーシーを見ていたが、一言も発しないフィリオラに目をやった。 「フィリオラお嬢様」 メイド長の声に、フィリオラは恐る恐る顔を上げた。メイド長は、ルーシーを手で示す。 「この帽子はお姉様にお渡し下さい。その方が、よろしいかと存じます」 「え…」 フィリオラが目を丸くすると、メイド長は笑った。だが、その笑みに温かみなどなかった。 「フィリオラお嬢様は、この帽子をお召しになるには小さすぎます。もう少し大きくなられてから、お被り下さいませ。ですが、その間に眠らせておくのは勿体のうございます。ですから、ルーシーお姉様にお貸し下さりませ」 「だ」 だけど、と言おうとしたフィリオラに、メイド長は表情を険しくさせた。 「言いたいことがおありでしたら、はっきり申し上げて下さりませんと解りかねます」 「う…」 フィリオラは、ぎちっと奥歯を噛み締めた。言いたいことなら、いくらでもある。だが、口から出せないのだ。 返して、と言うのは我が侭かもしれない。我が侭を言ったら、怒られる、そして、いないものとして扱われてしまう。 そうなるのは、もう嫌だ。だが、とても悔しい。あの帽子は自分のものなのに、初めてもらったものなのに。 それを奪った挙げ句に寄越せだなんて、いくらなんでもひどすぎる。帽子を返して、それは私のものなんです。 フィリオラはそれらの言葉が喉元まで出掛かったが、飲み込んでしまった。言おうと思っても、やはり言えない。 その間にも、白い帽子を被ったルーシーは上機嫌に笑っていて、メイド長はそんな姉を際限なく褒め称えている。 「か…」 フィリオラは目元に滲んできた涙で視界が歪むのを感じながら、弱々しく言った。 「かえしてぇ」 二人はちらりとフィリオラを見たが、すぐに視線を外した。フィリオラは肩を震わせながら、力一杯スカートを握る。 「それは、わたしの」 理不尽だ。不愉快だ。腹立たしい。むかむかする。フィリオラは怒りが強まるのを感じていたが、止まらなかった。 止めなくては、竜に変化する。だが、感情が少しも収まらない。魔力が高ぶっていく、竜の力が迫り上がってくる。 強く握り締めているスカートが、ぶちりと千切れた。いつのまにか鋭く伸びていた爪が、布を切り裂いている。 服の背中が張り詰めたかと思うと、ばりっと破けた。意思とは無関係に現れた翼が、徐々に大きさを増していく。 フィリオラは激しく喘ぎながら、雨に濡れている窓に目を向けた。そこに映る幼女は、最早幼女ではなくなっていた。 若草色のウロコに覆われた、トカゲだった。ツノが伸び、両手両足は固いウロコに包まれ、尾も生えている。 ぎらぎらした真紅の瞳の、縦長の瞳孔がぎゅっと縮まった。鋭い牙の並んだ口元に、頬を伝った涙が滑り込む。 その生温い塩味を感じながら、フィリオラは叫んだ。頭上の天井をツノで破り、壁を尾で叩きながら、喚いていた。 わたしのぼうしを、かえして。 気付くと、雨に打たれていた。 全身を冷たい水に包まれて、瓦礫の中に立っていた。足元には壁やガラスの破片が、大量に散らばっている。 それらを踏み潰しているのは、太い獣の足だった。びっしりとウロコに覆われ、爪の生えたつま先が見える。 ガラスの破片の一つに、竜が映っていた。虚ろな目をした、若草色のウロコを持った巨体のトカゲがそこにいた。 フィリオラが瞬きすると、その竜も瞬きした。顔を上げて空を見上げてみると、普段よりも近いように感じた。 背中に力を入れると、ばさりと翼が広がった。そして尾も振られ、激しい騒音を立てて瓦礫が蹴散らされた。 舌の上には、ひりつく痛みが残っている。その痛みを感じながら目線を下げてみると、屋敷の庭が見渡せた。 庭の木々はおろか花壇まで、全てが黒く焼け焦げていた。雨に打たれて火が消えたのか、煙を昇らせている。 鼻に突く焦げ臭さに混じって、埃っぽい匂いがした。フィリオラは涙を拭おうとしたが、手が目元に届かなかった。 すると、胸の辺りに何か冷たいものが触れた。首をもたげて見下ろすと、ギルディオスが胸元に手を触れていた。 「気ぃ、付いたか」 フィリオラはギルディオスに返事をしたつもりだったが、口から出たのは、呻くような低い鳴き声だった。 ギルディオスは、フィリオラを手招きした。フィリオラはその意味がよく解らなかったが、頭を下ろしてみた。 甲冑は身を乗り出して、フィリオラのツノの根元に手を伸ばした。宥めるように、優しい手付きで撫でてくれた。 フィリオラは訳が解らなかったしくすぐったかったが、そのうちに心地良くなってきて、ゆっくりと息を吐いた。 体が、萎んでいくような感覚があった。翼が縮んで尾が引っ込み、肌に現れていたウロコが消えていくのが解る。 一度目を閉じてから開くと、地面が近くなっていた。先程踏み潰していた瓦礫が、今度はいやに大きく感じた。 ガラスの破片を見ると、そこにはツノが伸びて翼の生えた竜の幼女が映っていて、フィリオラは己の頬に触れた。 すると、その竜の幼女も同じ仕草をした。フィリオラが竜の幼女を見つめていると、頭の上に手が置かれた。 振り返ると、先程は見下ろしていたはずのギルディオスが立っていた。フィリオラは、何度か瞬きしてから呟いた。 「おじさま」 フィリオラの前に膝を付いたギルディオスは、裸身の幼女を抱き締めた。鉄の感触が、素肌には冷たかった。 彼の装甲の冷たさにフィリオラは身を縮めたが、ギルディオスの肩越しに見える、庭の奧の光景に気付いた。 メイド達に取り囲まれた姉が、泣いていた。その隣で姉を抱き締めているメイド長も、がくがくと震えている。 自然と、笑みが浮かんだ。二人の怯える姿を見ていると清々しい気分になってきて、とても気持ち良かった。 フィリオラは唇をにいっと広げ、微かに笑い声を漏らした。心の中に、すっきりとした爽快感が広がった。 焦げ臭い煙の匂い、大量の瓦礫、砕けたガラス、焼き尽くされた庭。そのどれもが、清々しい光景だった。 もうどこにも、あの部屋は見当たらなかった。ならば、もう二度と、あの部屋に閉じ込められることはないのだ。 そう思うと、気分が良くてたまらなくなった。フィリオラはギルディオスにしがみ付き、満面の笑みを浮かべた。 「おじさまぁ」 「なぁ、フィオ」 子供らしい表情で楽しげに笑っているフィリオラを抱き締めながら、ギルディオスは声を沈めた。 「よく、見てみろ」 「なにをですか?」 「全部だ」 「ぜんぶ…?」 フィリオラが不思議そうにすると、ギルディオスは深く頷いた。 「目ぇ開いて、周りをよぉく見てみろ。これは全部、フィオがやったことなんだ」 「わかってます。わたしが、ぜんぶこわしちゃったんですよね」 フィリオラの口調は、弾んでいる。 「でも、とってもきもちよいんです。すっごく、すっごく、たのしいんです。たのしくってしかたないんです」 ギルディオスはフィリオラを抱き締める腕に力を込め、声を張り上げた。 「本当に、そう思うのか!」 笑う幼女の姿に、彼の姿が重なった。狡猾な笑みを浮かべた竜の青年が、殺される直前に見せたあの高笑いが。 予知能力者の幼女を奪い、同僚であった兵士達を次々に殺めながら、凄絶な笑い声を上げていた彼に似ている。 このままではフィリオラは、彼、キースのようになってしまう。それだけはいけない。ギルディオスは、更に叫んだ。 「全部見ろ、何もかも見てみろ!」 「ぜんぶ、みてますよぉ」 フィリオラは、へらりと笑ってギルディオスの肩に頭を預けた。ギルディオスは、幼女の小さな肩を握る。 「いいか、フィリオラ! お前は、いけねぇことをしたんだ! お前だけのせいじゃないかもしれねぇが、お前がやったことは悪いことなんだ! そんなことを楽しいだなんて思うな、そう感じたとしても思っちゃいけねぇんだ!」 キースの姿が、脳裏を過ぎる。ギルディオスは、過去の出来事に対する憤りで、魂が過熱していた。 「物を壊すことは悪いことだ! 人を悲しませるのも悪いことだ! 自分の思い通りにならないからって、何もかもをぶち壊しにしちまうのなんてすっげぇ悪いことなんだ! そして、その悪いことを自分の力のせいになんてするんじゃねぇ! フィオ、お前が大暴れしちまったのはお前のせいなんだ! 竜の力のせいなんかじゃねぇ、お前が弱いからなんだ! それを、忘れんじゃねぇぞぉ!」 フィリオラはギルディオスの血を吐くような叫びを聞いていたが、瓦礫の中に白いものを見つけ、目を見開いた。 居間のソファーであったと思しきものの上に、泥まみれになったあの白い帽子があり、雨に打たれて濡れていた。 それが帽子であると解った瞬間、背筋が逆立った。帽子を取り返したいだけだったのに、それを汚してしまった。 そして。フィリオラは、庭の奧で泣き喚いている姉とメイド達の様子に、強烈な罪悪感と、激しい後悔に襲われた。 なんてことをしたんだろう。なんていけないことをしてしまったんだろう。フィリオラは、徐々に怖くなってきた。 胸に満ちていた清々しさも何も消え、震えが起きた。瓦礫の山と、焼けた庭から立ち上る煙が恐ろしくなった。 これを、全部自分でやってしまった。目を左右に彷徨わせてみたが、塀と庭以外の屋敷の名残は跡形もなかった。 ただ、大切な白い帽子を取り戻したかっただけなのに。こんなことをしてしまうつもりなんて、なかったのに。 その帽子まで、ダメにしてしまった。フィリオラはギルディオスに縋ると、ぼろぼろと涙を落としながら喚いた。 「ごめんなさい!」 楽しくなんてない。気持ち良くなんてない。ただ、恐ろしい。 「ごめんなさい、ごめんなさい!」 ギルディオスの手が翼の生えた背を撫でていくのを感じながら、フィリオラは力一杯叫んだ。 「こわしちゃって、ごめんなさい!」 涙の溢れ続ける目を閉じ、甲冑の肩に顔を埋める。 「おねえさまから、かえしてほしかっただけなんです! あのぼうし、かえしてくださいっていえなかったんです!」 「言えば、良かったんだよ」 ギルディオスはフィリオラの後頭部を押さえ、小さく呟いた。フィリオラは、必死に声を上げる。 「で、でも、またおこられるかもしれないっておもって、わがままだっておこられるっておもってぇえええ!」 「我が侭なんかじゃねぇ。自分の物を取られちまったら、返して欲しいって思うのは当たり前だ」 「い、いって、よ、よか、よかったんですかぁ」 フィリオラがしゃくり上げながら問うと、ギルディオスは頷いた。 「ああ」 ギルディオスは、二つ結びが解けてしまったフィリオラの後ろ髪を撫で付けてやった。 「それぐらい、言ってもいいんだぞ。むしろ、言ってくれなきゃ困っちまうんだよ。フィオが何をしてぇのか解らねぇと、遊びようがねぇじゃねぇか。オレも、お前と遊びたいんだから」 「ほ、ほんとうですか、おじさまぁ」 フィリオラがギルディオスを見上げると、ギルディオスは涙と泥で汚れたフィリオラの頬に己の頬を当てた。 「ああ、本当だ。嘘なんかじゃないぜ。フィオ、オレはお前が大好きだ」 「わ、わたしも、おじさまがだいすきです、だっ、だいすき、なんです」 フィリオラはギルディオスの首に腕を回し、思い切り抱き付いた。 「だっ、だから、ごめんなさい、ほんとうにごめんなさいぃいいいいい!」 「フィリオラ、お前はいい子だ。悪いことが悪いって解ってるんだから、お前は絶対に悪い子なんかじゃねぇ」 ギルディオスは火が点いたように泣き喚いているフィリオラを抱き上げると、壁の破片の一つに腰を下ろした。 フィリオラは、当分の間泣き止みそうにない。止めどなく涙を流して声を張り上げ、咆哮を放ち続けている。 ギルディオスはその背を軽く叩いてやりながら、安堵していた。この分だと、この子は道を外さずに済みそうだ。 精一杯、愛してやろう。子供は、愛し愛されてこそ大きくなる。だが、愛されずにいると歪んでいってしまう。 キースのようには、絶対にさせはしない。彼のような哀れな竜、いや、哀れな子供をこれ以上増やすべきではない。 二十五年前、キースを救えずに死なせた記憶を思い起こしながら、ギルディオスは内心で決意を固めていた。 フィリオラは、嬉しいのと苦しいのと悲しいのが一緒くたになってしまい、それらを一度に発散すべく泣いていた。 ふと、明るさを感じた。ギルディオスの肩越しに注いでくる光に気付いて目を上げると、雲に切れ間が出来ていた。 分厚い鉛色の雲がほんの少し割れていて、そこから一筋の光が降り注ぎ、破壊された屋敷を照らし出していた。 それが、とても温かかった。まるで、ギルディオスの腕の中で目覚めた時と同じような、心地良い温もりだった。 フィリオラは、ギルディオスに体を預けた。もっと、この人の傍にいたい、光の中にいたい、明るい場所にいたい。 もう二度と、薄暗い世界に戻りたくない。そう強く願いながら、フィリオラは声を張り上げて一心に泣き続けた。 暗がりの中に差し込んだ光を、逃したくなかった。 暗き世界に沈み、絶望の深淵を覗いていた竜の幼女。 彼らは忌まわしき部屋を打ち砕き、孤独の底から竜の幼女を救い出した。 その温かくも力強い愛情は、彼女の心の闇を貫き、そして。 明日を示す、一条の光となるのである。 06 4/15 |