ドラゴンは眠らない




恋文



フィフィリアンヌは、星を見ていた。


深い藍色の果てしない夜空に、無数の星で成された美しい運河が横たわっており、半月が淡く輝いていた。
夜風に遊ばれた長い髪が、頬を軽く撫でる。聞こえるのは、湖の波音と木々の葉音、虫の鳴き声だけだ。
フィリオラとレオナルドが旅立ってから、丸一日も経っていない。なのに、いやに静かになった気がした。
今頃、二人はどうしているだろう。戦いを避けるために、かなり遠回りしてゼレイブに向かうと言っていた。
旧王都からは、あまり離れていないのかもしれない。だが、フィリオラもレオナルドも、もう離れてしまった。
キースとの戦いの後に、この城で共に暮らすようになり、孫のようなフィリオラを以前にも増して愛した。
レオナルドも、それなりに愛しかった。フィリオラに意地の悪いことを言う部分だけは、好きになれなかったが。
満ち足りた日々だった。遠い昔に死してしまった子供達が戻ってきてくれたような、錯覚すらあったほどだ。
瞬きをすると、目尻に涙が溜まった。目が乾いていたからだ、と自分に言い訳をしつつ、寝室の中に戻った。
春とはいえ、吹き付けてくる夜風は冷たい。窓を閉めてから、ベッドに昇ると、枕を背に当ててもたれた。
普段は数冊の本を周りに置いておくのだが、今日はさすがに読書をする気分にはなれず、持ってこなかった。
その代わりに盆を持ってきて、とっておきの赤ワインとグラスを二つ並べ、時間を掛けて飲んでいた。
伯爵は、既に眠っている。寝室中央のテーブルにワイングラスを置いて、その中で小さく気泡を出している。
ギルディオスも、そうなのだろう。彼はいつも適当な場所で眠るので、どこで眠っているのかは解らない。
フィフィリアンヌはワイングラスの半ばまでワインを注ぐと、持ち上げた。ゆらり、と赤紫の水面が揺れ動く。
いつもは流し込んでしまうワインを、じっくり味わってから嚥下したフィフィリアンヌは、グラスを置いた。
枕元に積み重ねてある古びた封筒の一つを取ると、その中からやはり古びた便箋を出し、慎重に広げた。


  僕の愛しのドラゴンへ

  いつも君の傍にいたいけど、そうすることが出来ないので、手紙を書くことにしました。
  なんだか、不思議な気分です。僕と君が手紙をやり取りしたことなんて、一度もありませんでしたから。
  返事は、無理に書いて下さらなくてもいいですが、書いて下さると嬉しいです。
  あと数日は、王国の議会から離れられそうにありません。予想以上に、事は大事でした。
  イノセンタスさんの存在は、僕が想像していたよりもずっと、王国の中では大きかったようです。
  国王付きの魔導師だったということもそうですが、政治家だけでなく、様々な人に関わっていました。
  イノセンタスさんの生きていた証を追いかけているような、そんな気分にすらなっています。
  僕は君に会えなくて、泣き出したいほど切ないけれど、君はどうなんでしょうか。
  良かったら、返事の手紙で教えて下さい。本当に、気が向いたら、でいいですけどね。

  愛を込めて

  カイン・ストレイン


  僕の愛しのドラゴンへ

  喜んで下さい。お母様はまだ渋っておられますが、お父様が結婚を許して下さいました。
  けれど、すぐに、というわけではありません。僕が領主になって周辺が落ち着いたら、とのことです。
  待つ覚悟は、とっくに出来ています。それに僕は、待つことには慣れていますから。
  手紙の返事、ありがとうございました。正直、あんまり期待していなかったので、とても嬉しいです。
  君の場合、文章の方が素直なんですね。読んでいて、ますます君が愛おしくなりました。
  けれど、二行だけというのは、短すぎる気がしないでもありません。
  また、返事を下さると嬉しいです。今度は、もう少し長いともっと嬉しいです。

  愛を込めて

  カイン・ストレイン


  僕の愛しのドラゴンへ

  君が隣で眠っているのに、こうして手紙を書くというのは、なんだか照れくさいです。
  ああ、これは夢ではないのだろうか。この光景は、僕が見ている夢の中のものではないのだろうか。
  式の間中、ふとした拍子に目が覚めてしまわないように、夢ではありませんように、と祈っていました。
  純白の花嫁衣装を着た君は、女神のように美しかったけれど、相変わらず笑いませんでしたね。
  せめて、少しは笑って欲しかったです。あの姿の君が笑ったならば、どれほど美しいことでしょう。
  けれど、気にしていません。これから一緒に生きていく時間の中で、きっと笑って下さるでしょうから。
  それと、僕と君の子の名前はどうしましょうか。気が早い、なんて、言われるかもしれませんが。
  良い考えがあったら、出来れば口で言って欲しいですが、言えない時はいつものように手紙で。  
  
  誰よりも強い、君への愛を込めて

  カイン・ストレイン


  僕の愛しのドラゴンへ

  なかなか、君と子供達のいる城へ帰れなくてすみません。本当なら、今すぐにでも帰ってしまいたい。
  何もかもを放り出して、全てをかなぐり捨てて、君と子供達と共に生きていけたらどれだけ幸せだろう。
  けれど、そういうわけには行きません。僕が今の立場を離れてしまったら、領地の民が苦しんでしまいます。
  政治に関わることを止めてしまったりしたら、僕がいなくなった分だけ、人々に不幸が訪れてしまいます。
  帝国や周辺諸国の動向も気になりますし、王国内部にもまた不穏な気配が漂っています。
  心配は尽きません。けれど、不安ではありません。君は、誰よりも強く誰よりも美しい竜なのだから。
  すっかり遅れてしまいましたが、百歳のお誕生日、おめでとうございます。
  君は、出会った頃から見た目が変わらないので、そんな歳になったという実感は湧いてきません。
  ですが、その代わりに僕が歳を取ったので、そちらの方で実感しています。

  永遠なる竜の少女に、愛を込めて

  カイン・ストレイン


  僕の愛しのドラゴンへ

  君の作ってくれる薬は、とても効き目が良いです。他の医者の作る薬とは、比べものになりません。
  夜も、気分良く眠れます。これで君が傍にいたならば、どれほど素晴らしい夜になるでしょうか。
  アルベールの二歳の娘と、リリエールの三歳の息子は元気でしょうか。僕の代わりに、会いに行って下さい。
  顔を見せられなくてすまない、抱いてやれなくてすまない、と、二人と二人の子に伝えて下さい。
  それと、出来れば謝って下さい。子供の頃に構ってやれなくて、愛していると言えなくて悪かった、と。
  君の薬が効いてきたので、この辺で。どうか、いい夢を見られますように。

  愛を込めて

  カイン・ストレイン


  僕の愛しのドラゴンへ

  昨夜に見た夢の中で、セイラの歌を聴きました。彼は君が好きでしたから、今もここにいるのでしょう。
  こうして、君の城で毎日を過ごせることはとても幸せなのですが、胸の痛みさえなければ、と思っています。
  息苦しくさえなければ、君を抱き締めていられるのに。体に力さえ入れば、愛してやれるのに。
  不甲斐なくて、情けなくて、たまりません。

  愛を込めて

  カイン・ストレイン


  僕の愛しのドラゴンへ

  今日もまた、返事を書いて下さってありがとうございます。毎朝、目が覚めるのが楽しみです。
  結婚したばかりの頃にはあまり食べることの出来なかった、君の作る料理も、いつも楽しみにしています。
  どれもこれも優しい味なので、食べるだけで体中の痛みが和らいでくれます。
  僕の隣で眠る、と言ってくれたことは、とても嬉しかったです。ですが、遠慮させて頂きます。
  近頃、僕は眠りが浅いんです。いつも痛みがあるせいで、寝入ったと思ったら目を覚ましてしまいます。
  君は眠ることが好きだから。君が気持ち良さそうに眠っているところを、邪魔してしまいたくないんです。
  だから、隣には来ないで下さい。これ以上、君の手を煩わせたくないから。
  どうか、解って下さい。

  愛を込めて

  カイン・ストレイン


  僕の愛しのドラゴンへ

  もう泣かないで。君が泣いているのを見るのは、血を吐き戻すよりも辛いです。
  ごめんなさい。君の気持ちも知らないで。ありがとう。そこまで、僕を愛してくれて。
  もう、僕は何も言いません。君の好きなように、やりたいように、して下さい。
  いつか、僕の目覚めない朝が来る、その時まで、ずっと傍にいよう。
  本当にありがとう。

  愛を込めて

  カイン・ストレイン


  僕の愛しのドラゴンへ

  もう、手紙を書けなくなってしまうかもしれないので、今のうちに書けるだけのことを書いておきます。
  
  僕が君に出会ったあの日。世界は、こんなにも素晴らしいのだと知りました。
  僕が君に再び出会えたあの日。僕と君を引き合わせてくれた、運命に感謝しました。
  君が僕を見てくれたあの日。心の底から、君を欲しました。
  君が僕を好いていると知ったあの日。苦しくなってしまうほど、嬉しかったです。
  君の中に、君と僕の子が宿ったあの日。どれだけ言葉を使っても、込み上げる感情を言い表せませんでした。
  君が目を逸らした時。少し悲しくなったけれど、照れ隠しだと解ったら、尚のこと君が愛おしくなりました。
  君が怒っていた時。僕が悪い時もあったし、君が悪い時もあったけど、出来ればすぐ仲直りしたかったです。
  君が悲しんでいた時。僕は君を抱き締めてやることしか出来なかったけれど、お役に立てたでしょうか。
  君が子供達を戯れていた時。僕も、そこにいたかったです。二人に、もっと愛していると言ってやりたかった。
  君が本を読んでいる時。邪魔をしてはいけないと思うんですが、たまに邪魔をしてしまいました。すみません。
  君が研究に没頭している時。実は、少しだけ寂しかったです。ずっと、言っていませんでしたが。
  君が涙を流した時。僕のために涙を流してくれたことは、忘れません。
  君が竜へと戻る時。美しく、気高く、そして猛々しい竜の姿の君も、愛しています。
  君が僕に触れてきてくれる時。その時だけは、君の手はいつもより温かくなっていましたね。
  そして、君が笑う時。僕は、世界で一番幸せになれる。

  花嫁衣装をもう一度着て見せてくれて、ありがとう。
  その姿で笑ってくれて、ありがとう。
  僕は、本当に幸せです。
  
  愛しているよ。僕の愛しのドラゴン、フィフィーナリリアンヌ。

  カイン


彼が死の間際に書いてくれた手紙は、どれも字が弱々しく震えており、所々に涙と思しき染みが付いていた。
最後の手紙は、特に弱々しかった。もう起き上がるのもままならなかったのに、時間を掛けて書いてくれた。
その間、フィフィリアンヌはずっと彼の傍にいた。一字一字、便箋に書き記されるのを、見守っていた。
それしか、出来ることがなかった。その頃にはもう、彼の体に効く薬も魔法もなくなり、死を待つだけだった。
彼の命が尽きる瞬間まで、寄り添っていた。残酷で、切なくて、苦しくて、そして、幸せな時間だった。
フィフィリアンヌは、幾度となく読み返しているせいで紙が弱ってきてしまった手紙を、優しく折り畳んだ。
もう、何年前になるだろうか。四百五十年近く前の出来事なのに、思い出そうと思えば、すぐに思い出せる。
胸の病に蝕まれて、日に日に肉が落ちて力が失せていく夫。その姿は、痛々しくて見ていられなかった。
けれど、目を逸らしてはいけない。辛いのは、自分よりも彼の方だ。そう思って、やれるだけのことをした。
日に何度も血を吐き戻して、痛みと苦しさで息も出来なくなって、それでも彼は笑いかけてきてくれた。
息を引き取る寸前に、口付けをした。フィフィリアンヌの涙の味と、カインの口中に残る鉄錆の味がした。
言いたいことは、山ほどあった。けれど、何も言えなかった。言いたくても、言葉になどならなかった。
カインの死を伝える手紙を子供達に出すと、アルベールとリリエールはすぐにやってきて、泣き崩れた。
幼い頃は、二人とも父親はあまり好きではなかった。優しいけれど、滅多に城にやってこなかったからだ。
二人は、フィフィリアンヌを責めた。どうして伝えてくれなかったのお母様、とリリエールに激しく怒鳴られた。
それはカインの意思だ、お前達に無駄な心配を掛けまいとして伝えなかったのだ、と言うと、二人は更に泣いた。
カインが死した後は、日々が途端に空虚になった。寂しい、悲しい、と思うたびに、彼の手紙を読み返した。
余計に寂しくなってしまったが、同時に愛しくもなった。決して彼は戻らないと解っているから、尚更だった。
フィフィリアンヌは、もう一つの空のワイングラスにボトルを傾けると、その中に並々とワインを注いだ。
自分のグラスをそのグラスに軽く当て、ぴん、と澄んだ硬い音を鳴らしてから、ワインをゆっくりと飲んだ。
空になったグラスを、もう一つのグラスの傍に置いて隣り合わせた。ベッドの傍の棚から、本を一冊抜いた。
ベッド脇のタンスの上に置いてあるペンをインク壷に浸し、二番目の引き出しを開けて、紙と封筒を取り出す。
分厚い本を膝に載せて、その上に紙を置き、ペンを滑らかに走らせた。


  今日、この城から、私とお前の子孫が出ていった。ニワトリ頭の子孫と一緒にな。
  何世代も離れているのに、あの子にはお前の面影が垣間見え、性格までもがどこか似通っている。
  時折、あの子はお前の生まれ変わりではないかと思う瞬間もあるが、そうではないと思い直している。
  お前はお前であって、あの子はあの子だ。似ていると言うだけで、同一視してはいけない。
  お前は知らないとは思うが、私には弟が一人いる。母上に良く似た顔の男で、名をキースと言う。
  キースとは、長い間、色々なものを間に挟んで争っていた。憎しみ合ってすらいた。
  それが、この間の冬に全てが片付いた。そして、今日の朝方に、キースはようやく楽になった。
  話せば、かなり長い話になるだろう。だから、今はこれ以上は話さないことにする。
  どうせ話すのであれば、お前と同じ場所に行った時に、お前が隣にいる時にでも話してやろう。
  そろそろ、キースもそちらに行った頃だろう。性格が歪んでいるから、お前とは気が合わないだろう。
  だから、無理に接することはない。キースがお前に気を許すようになったら、適当に接してやってくれ。
  私は、まだまだそちらに行けそうにない。魔導師協会の件もあるし、やることが大量に残っている。
  それらを全て片付けて、何一つ悔いを残さない時が来たら、お前の元にでも向かってやるつもりだ。
  それまで、待っていてくれ。お前が何度も書いてくれたように、出来れば、で良いのだが。

  また、性懲りもなくお前からの手紙を読み返していた。
  数えるのも嫌になるくらい読んだので、文面を全て暗記しているのだが、つい手紙を開いてしまう。
  全ての手紙を読むと、一日が簡単に過ぎてしまうので、私が特に気に入っているものだけだ。
  何せ、お前が私に寄越してきた手紙は、全部で二百近くもあったからな。
  よくもまぁ、飽きずに書いて寄越したものだ。それを全て読んでいた、私も私だが。
  伯爵は、残念なことに健在だ。ギルディオスも、なんだかんだでまだこちらにいる。
  この城の中は、時間が動かない。動いてはいるのだが、変化がなさ過ぎてそう感じないだけだ。
  国が戦火に包まれようとも、誰が死のうとも、背中を向け合おうとも、行き着く先は常に同じだからだ。
  だが、そのうち、この城の中も変わるだろうとは思っている。その時がいつなのかは、考えたことはないが。

  お前はまだ、私を愛しているか。そうでないと答えたら、牙と爪で八つ裂きにしてやろう。
  私はまだ、お前を愛している。それを示すべき相手が、お前がいないから、口に出すことはないが。

  今夜は星が美しい。そちらからの方が、きっと良く見えるだろう。

  我が夫、カインへ  妻より

  追伸  毎度毎度、取り留めのないことばかりを書いてしまってすまない。


ペンを置いたフィフィリアンヌは、インクが乾いたのを確かめてから折り畳み、封筒に入れて宛名を書いた。
出来上がった手紙を持ったフィフィリアンヌは、ベッドから下りると窓を開け、先程よりも冷えたベランダへ出た。
冬の気配が残っている風に、フィフィリアンヌは首を竦めた。寝間着の襟元を握って狭めると、そっと息を吐く。
吐き出された息は白く変化し、すぐに掻き消された。波打つ湖面は月光を照り返し、冴えた色合いになっている。
いつも、少しばかり不安になる。こうして書いた手紙が彼の元に届いているのかどうか、解らないからだ。
届いていると思えば届いているのかもしれないが、物理的には届いていないのだから、届いているとは言えない。
それでも、つい書いてしまう。カインが生きているうちに返してやれなかった手紙を、少しでも返したかった。
フィフィリアンヌは、夜風に乱された髪を掻き上げた。昔であれば、夜風を浴びていると、彼が背後にやってきた。
冷えますよ、などと言いながら上着を着せてきて、そのまま抱き締めてくれる。嬉しいが、気恥ずかしかった。
背中越しに聞こえる鼓動が温かくて、体に回された腕が強くて、心地良かった。彼も、心地良さそうにしていた。
フィフィリアンヌは、彼への手紙を顔の前に掲げた。軽く息を吸い込んでから魔力を高め、ふっ、と吐き出した。
小さく放たれた炎が、手紙を貫いた。すぐさまめらめらと燃え広がり、灰を落としながら、焦げた穴を開ける。
手紙が燃え尽きる寸前に、放り投げた。風に揺さぶられた手紙は炎を増し、あっという間に焼き尽くされた。
辺りには、ほんの少しだが煙の匂いが漂っていた。フィフィリアンヌは星の運河に背を向けて、寝室に戻った。
窓を閉めて鍵を掛けてから、ベッドに戻る。枕元に散らばった手紙を集め、それぞれの封筒に戻していく。
全て封筒に戻して揃えると、ベッド脇のタンスの一番下の引き出しを開き、その中に入れて引き出しを戻した。
片方のグラスに入れたワインを飲み干してから、二つのグラスとボトルの載った盆をタンスの上に置いた。
本だけは枕元に放り投げておいたまま、フィフィリアンヌは布団に潜り込み、上質で柔らかな枕に顔を埋めた。
枕に押し付けた目元から、水が吸い取られた。気付かないうちに、また泣いてしまっていたようだった。
涙脆くなったものだ、と少し情けなくなりながら、フィフィリアンヌは目を閉じ、押し寄せる眠気に身を任せた。
そのまま、呆気なく寝入った。




夢を見た。
何をするでもない、ただ、緩やかな時の過ぎる夢を。
彼の肩に頭を預けて、お互いの手を固く握り合っているだけだった。
それだけだった。だが、それだけだからこそ。
とても、幸せだった。




いつになく、気分の良い目覚めだった。
フィフィリアンヌは、窓から差し込む朝日に照らされた、高い天井を見上げていたが、瞬きを繰り返した。
窓の外からは、鳥のさえずりが聞こえる。フィフィリアンヌは上半身を起こすと、寝乱れた髪を指で梳いた。
ベランダには、昨夜の名残がある。燃やした手紙の灰が散らばっていて、白い朝日の中で妙に目立っていた。
テーブルにあるグラスの中では、伯爵が眠り続けている。規則正しい間隔で気泡が作られ、そして、弾けた。
普段より相当早かったようで、ギルディオスが起きている様子もない。彼が起きていれば、修練の音がするはずだ。
フィフィリアンヌは、夢の中で彼と握り合っていた手を挙げて、その手が握った形になっていることに気付いた。
本当に握り合っていたなら、どれだけ幸せか。そう内心で呟いてから、ベッド脇のタンスの引き出しを開けた。
一番上の引き出しには、滅多に使わない宝飾品が詰め込まれている。耳障りな金属音をさせながら、中を探った。
奥底を掻き回していたが、目当ての物を見つけたので、取り出した。それは、かなり古びた金の結婚指輪だった。
フィフィリアンヌは左手の薬指に結婚指輪を填めると、僅かに微笑んでから、指輪に唇をそっと触れさせた。
次の恋文には何を書こう、と思いながら。




在りし日に交わした、互いの思いを綴った手紙。
それは、竜の少女とその夫の愛を示すものであり、記憶でもある。
死によって引き離されたとしても、彼女への愛と、彼への愛が在る限り。

竜の少女の恋は、続いていくのである。






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