非武装田園地帯




第十話 体育祭



 ささやかな、変化の兆し。


 スニーカーの靴紐を、きつく結ぶ。
 立ち上がり、両方のつま先を地面に当てて整える。背中から落ちそうになったスポーツバッグを、背負い直す。
制服と同じく大きく作ってもらったジャージの襟元を緩めてから、鋼太郎は、玄関の姿見に映る自分を見た。
相変わらず、表情が解らないマスクフェイスだ。だが、顔があったならば多少なりとも緩んでいたのだろう。
 いつも通りの朝だが、一つだけ違うものがある。それは、普段の学ランではなくジャージを着ていることだ。
今日は、鮎野中学校の体育祭だ。体を動かすことしか能のない鋼太郎には、学校生活での最大の楽しみだ。
小学校の頃からもそうで、中学校になってもそれは同じだ。だが、体が機械になったことで大きく変わった。
 そのこともあり、鋼太郎は浮かれながらも素直に嬉しくなれなかった。練習の時も、常にそんな気分だった。
他の生徒達は生身の体で、自力で頑張って成績を残そうとしているのに、自分は機械の体を使っている。
 それを遠回しにからかわれたこともあり、鋼太郎は生まれて初めて体育祭の日が来るのが少し怖かった。
だが、楽しみであることは変わらないので、その気持ちで些細な不安を心の奥底に押し込めてしまった。
鋼太郎が玄関から出ようとすると、赤のランドセルを背負った亜留美がやってきた。鋼太郎の背後で、靴を履く。

「いってらっしゃい、鋼兄ちゃん」

「おう。あっこも、気を付けて学校に行けよ」

 鋼太郎は、黄色い帽子を被った妹の頭を押さえた。亜留美は、大きな手の下から目を上げる。

「鋼兄ちゃんもね!」

「解ってるって」

 鋼太郎は妹の頭から手を離し、体を起こした。すると二階から、黒のランドセルを背負った弟が下りてきた。

「銀」

 鋼太郎が声を掛けても、銀次郎は反応しなかった。無言で、亜留美の隣でスニーカーを履いている。

「お前も、気を付けて行けよ」

 両足にスニーカーを履いた銀次郎は立ち上がると、鋼太郎をきつく睨んだ。

「そんなこと、言われなくても解ってるって! うるせーな!」

「銀兄ちゃん、鋼兄ちゃんにそんな言い方ないじゃない! ごめんなさいしなきゃダメなんだよ!」

 亜留美が銀次郎に声を上げると、銀次郎は鋼太郎の脇を駆け抜けて、玄関の扉を開けた。

「こんなの、鋼兄ちゃんなもんか! 偽物のロボットになんて、心配されたくねーよ!」

 ばん、と扉を強く締め、銀次郎は走り去った。鋼太郎が妹を見下ろすと、亜留美は泣きそうになっていた。
次兄の言葉遣いの荒さと、剣幕に押されてしまったらしかった。亜留美は、怖々と鋼太郎を見上げてくる。

「鋼兄ちゃん…」

「大丈夫だ、気にすんな。あっこもさっさと行けよ、班の連中が待ってるぞ」

 鋼太郎が亜留美を急かすと、亜留美は心配そうにしていたが玄関を出た。小学生達は、集団登校なのだ。
オレもさっさと行かねぇとゆっこが来ちまうな、と鋼太郎は思っていたが、弟の言葉がなかなか消えなかった。
 銀次郎が鋼太郎と口を利かなくなって久しいが、たまに口を開けばこれだ。まだ、受け入れられていない。
仕方ないと思おうとしているが、出来なかった。サイボーグと化す前は、銀次郎ともとても仲が良かった。
一緒に遊びに出ようと誘ってきたり、ゲームの対戦相手をやらせてきたり、サッカーに付き合わされたり。
 まだ幼い弟は、鋼太郎をかなり慕っていた。鋼太郎も、亜留美と共に銀次郎のこともとても大事にしていた。
たまに意地悪なことをしたり言われたりしたが、それらのことも含めて、下の兄弟が可愛くて仕方なかった。
だから、銀次郎からあんな手酷い言葉や激しい怒りをぶつけられてしまうことが、辛くないわけがない。
弟がどんな気持ちでその言葉を言っているのかを考えると、余計に苦しくなってきて、切なくなってしまう。
 銀次郎とちゃんと向き合って仲直りしたいとは思うが、銀次郎があの状態では、近付けそうにもない。
鋼太郎の方から近付けば銀次郎は逃げてしまうし、挙げ句の果てには、物を投げてきたこともあった。
完全に元通りとはいかなくても、いつかまた弟と仲良くなりたい。だが、そのための具体策が思い付かない。
 鋼太郎は少々苛立ちを感じながらも、登校するために玄関を出た。すると、そこには百合子が待っていた。
 彼女も鋼太郎と同じく、ジャージ姿だった。




 ジャージ姿の二人は、いつも通りに通学路を辿った。
 百合子の取り留めのない話も、鋼太郎の気のない相槌も変わらない。時折、隣の車道を車が走り抜けていく。
長い坂を下りて、田んぼに沿って伸びる道を歩く。広大な田んぼには、青々とした若い稲が伸びている。
 鋼太郎は、百合子の話を聞き流していた。聞いていても聞いていなくても、別にどうでもいい内容だからだ。

「でね、私ね」

 幼い言い回しで、百合子が喋っている。

「昨日、銀ちゃんと遊んだの」

 唐突に出てきたその名に、鋼太郎は即座に反応して注意を戻した。今日の話は、どうでもよくなさそうだ。

「銀と? 何をしたんだ?」

「あ、聞いててくれたんだ。良かったぁー、鋼ちゃんって私の話はいっつも聞いていないから」

 百合子は安堵したように笑み、鋼太郎を見上げた。

「うん。銀ちゃんとね、道路にチョークで絵を描いて遊んだの」

「お前、それ、中学生のすることじゃねぇぞ」

 鋼太郎が馬鹿馬鹿しげにすると、百合子はけらけらと笑う。

「だぁってー、楽しいんだもん、あれー。途中から亜留美ちゃんも来たから、三人でずーっと遊んでたの」

「そういやぁ、お前んちの前の道路に、下手くそな絵が描いてあったなぁ」

 それがそうなのか、と鋼太郎が返すと百合子は頷く。

「うん。そうだよ」

「で」

「で、って?」

 百合子が首をかしげると、肩からお下げ髪がこぼれ落ちた。今日は、髪を二つに分けて三つ編みにしている。
鋼太郎は言葉を選んでいたが、上手くまとまらなかった。しばらく唸っていたが、間を置いてから言った。

「でー、だから、その、銀だよ、銀」

「うん。銀ちゃんは元気だよ」

「そりゃ解ってる」

「だから、何が聞きたいの?」

 んー、と百合子が不可解そうにする。鋼太郎は、百合子に歩調を合わせる。

「だからよ、その、銀、オレのことはなんか言ってたか?」

「なあに、鋼ちゃんは銀ちゃんとケンカでもしたの?」

「違ぇよ」

 ケンカ出来るほど仲は良くねぇ、と鋼太郎が付け加えると百合子は眉を下げた。

「そっかぁ」

 百合子は、体を失う以前の鋼太郎と銀次郎の仲を知っている。歳は離れているが、仲の良い兄弟だった。
鋼太郎がどこへ行くにも銀次郎は付いてきて、兄ちゃん兄ちゃんと慕っていて、微笑ましく思えるほどだった。
 それが、今はまるで逆だ。鋼太郎が近付こうとすれば逃げ、話し掛けても無視し、ろくに会話もしなくなった。
百合子も、この状態は悲しいと思っている。だが、こういったことは、当人同士でないと解決出来ないことだ。
 鋼太郎は銀次郎に歩み寄ろうとしているが、銀次郎はそうしない。余程、サイボーグとなった兄が嫌なのだ。
だが、なんとかして銀次郎の心を開かなければ一生このままだろう。少しでも、鋼太郎の役に立ちたい。
そう思い、百合子はここ最近の銀次郎の様子と、銀次郎が鋼太郎について言っていたことを思い出した。

「んーとね。銀ちゃんに鋼ちゃんの話をしようとすると、銀ちゃんは怒るんだぁ、すっごく」

「そんなにか?」

「うん。昨日だってそう。私がちょっと鋼ちゃんの名前を出しただけで、怒っちゃって」

 百合子はその時の銀次郎の様子を思い出し、目を伏せた。

「ゆっこ姉ちゃんはなんであんな偽物が好きなんだ、あんなのが兄ちゃんだなんて嘘なんだ、って」

「いつも、そうなのか?」

「うん。大体そんな感じ。銀ちゃんが言うことは決まっているから」

 百合子の眼差しが、悲しげな色を帯びる。

「でも、私には銀ちゃんの気持ちも解るから、私は銀ちゃんにとやかく言えないんだぁ」

「オレも解る。解るけどよ…」

 鋼太郎は顔を伏せ、肩を落とした。

「いい加減、どうにかしてぇって思うんだ。けど、何も出来ねぇんだ」

「焦っちゃダメだよ、鋼ちゃん。こればっかりは、どうしようもないから」

「…るせぇ」

 鋼太郎は、吐き捨てた。銀次郎への複雑な思いと、百合子の気遣いに対する妙な気恥ずかしさからだった。
そんなことは、承知している。ただ、頃合が計れない。一度離れてしまった弟の心を掴むのは、容易ではない。
 下手に近付けば、弟は尚更逃げる。けれど、近付かなければ距離は開いたままで、結局は堂々巡りになる。
一体どうすればいい、何をすればいい。鋼太郎が思い悩んでいると、百合子は軽い足取りで歩いていった。

「でも、大丈夫だよ。鋼ちゃんと銀ちゃん、きっとまた仲良しになれるよ」

 振り向き様、百合子は笑んだ。その表情は、眩しいほど明るい。

「私と鋼ちゃんが、また友達になれたみたいに」

「だといいけどな」

 百合子らしい気楽な考えに、鋼太郎は一笑した。根拠もないくせに何を言うんだ、と思わないわけではない。
だが、彼女に言われると、その気になるのはなぜだろう。百合子の、明るく元気な笑顔のせいかもしれない。
同じ仮定形であったとしても、ならないかもしれない、よりは、なれるかもしれない、の方が希望が持てる。
 体力的に問題があるので丸一日見学なのだが、体育祭に出られることが嬉しいのか、百合子は跳ねている。
お下げ髪が浮かれた歩調に合わせてぴょんぴょんと上下し、毛先が踊り、実に楽しげな雰囲気になっていた。
普段は白いヘアバンドで上げている前髪を、ピンクのヘアピンを左右の耳元に二本ずつ差して、まとめている。
そのせいで、広い額はいつも以上に強調され、目立っている。というより、目立たせているような気がする。
 恐らく百合子は、己の広い額をチャームポイントだと思っているのだ。だが、鋼太郎はそうは思わなかった。
要所要所で目に付くので、多少なりとも鬱陶しい。実のところ、あまり目立たせない方が良いと思っている。
どちらかと言えば、前髪を下ろしている方が好みだ。しかし、それを言っても、百合子は頑なに額を出す。
こればかりは個人の趣味なので、百合子に口出し出来ない。しつこく言うと、ケンカになってしまうからだ。
 空は高く、清々しい。昨日までは雨が降り続いていたが、体育祭の日に合わせるかのように低気圧が動いた。
その代わりに高気圧が張り出してきて、日本列島の東側はすっぽり高気圧に覆われ、台風一過のような天候だ。
水田の上を駆け抜けてきた風が、春から初夏に移り変わり始めた水の匂いを運んできたのを嗅覚が感じた。
 イオンセンサーの機能を更に上げた性能を持つ嗅覚は、サイボーグにとって、必要不可欠な感覚の一つだ。
本来は、戦闘仕様やレスキュー仕様のサイボーグ向けに開発されたものなのだが、一般にも普及している。
 匂いを感じることで己が人間であることを実感出来るのだが、フィルターの消耗が激しいのが少々難点だ。
 鋼太郎は、百合子から一歩半程度離れて歩いた。蓋をされていない側溝の中を、さらさらと水が流れている。
 今日は、体育祭日和だ。





 


06 11/8