非武装田園地帯




第九話 ワンポイント・リリーフ



 引き戸を細く開け、中を覗いた。
 掛け布団にくるまって丸くなっている妹は、寝息を立てている。この分だと、昼まで起きることはないだろう。
亘はほっとしながら、引き戸を閉めた。足音を殺して向かい側にある自分の部屋に戻り、引き戸をそっと閉めた。
勉強机の椅子を引いて座ると、広げたままになっている課題に手を付けようとしたが、その気が起きなかった。
 やはり、気に掛かる。ちらっと透の部屋の方向を窺ってみるが、邪魔をしてはいけない、と気持ちを押し止めた。
透は、可愛い妹だ。血は一切繋がっていないが、亘に初めて出来た兄弟で、大事にしてやりたくて仕方ない。
最初の頃は、どう大事にすればいいのかよく解っていなかったが、兄弟になって大分過ぎた今は解ってきた。
 透は、あまりべたべたした関係は好まない。控えめな性格も相まって、ある程度距離がある方が良いらしい。
亘としては、もう少し大っぴらに透を大事にしたいのだが、多少の気恥ずかしさや照れもあってそう出来ない。
思春期真っ直中の男子としてごく自然な感情と、兄としての感情の狭間に揺れながら、亘は机に突っ伏した。
 透の髪の感触が、手に残っていた。亘の硬くて太いだけの髪と違って細くて滑りが良く、さらさらしている。
あの髪が長かった頃を、思い出した。亘は体を起こすと、透の左手に手袋が填っていなかったな、と思った。
着替えるために外したのだろうが、日常生活では何がなんでも外さない。せいぜい、風呂に入る時ぐらいだ。
 彼女が左腕を失った原因の一端に、自分がある。亘は、一年三ヶ月前に起きた、あの交通事故を思い起こした。
妹が交通事故に遭ったのは、透が中学校に入学して、少しした頃。満開に咲いていた桜が、散り始めた時期だ。
その頃の透は髪が長く、背中の中程まであった。中学校のブレザーの制服に身を包んでいて、初々しかった。
小学校の中学年頃から掛け始めたメガネも新調し、新しい環境に戸惑いながらも、懸命に慣れようとしていた。
 事故が起きる前日、亘は透に言った。明日は高校が早く終わるから、駅で待ち合わせて一緒に帰ろう、と。
透はほんの少し頬を紅潮させて、嬉しそうにしながら頷いた。そして翌日、亘は駅前で透を待っていた。
中学校の下校時間になった頃、亘は透の携帯電話にメールを送った。早く来ないと置いていくぞ、と。
それから数分後、透から駅に向かっているからもう少し待って、とメールがあった。亘はそれに返信した。
解った、と。だが、十五分過ぎても透は駅前に現れず、亘は嫌な予感を感じながら中学校へ向かう道を辿った。
 最初は歩いていたが、途中から走り出した。そして、駅と中学校の中程の場所で妹は左腕を潰されていた。
道路に横転して大破しているバイクと微動だにしないライダー、道路に残るタイヤ痕と血痕、救急車のパトライト。
 妹の姿を見た時は、何が起きたのか解らなかった。黒いアスファルトの上に横たわっていて、顔色は真っ青だ。
モスグリーンのブレザーが砂と血に汚れ、ブラウスは千切れ、チェックのプリーツスカートはめくれ上がっている。
ローファーを履いた足は投げ出され、左の足首が変な方向に曲がり、紺色のハイソックスの色が変わっている。
長い髪が散らばり、捻れたネクタイが載った胸元はかすかに上下していた。亘は駆け寄ろうとして、足を止めた。
 靴底の下で、ガラスのようなものが砕けた。何かと思って見下ろすと、透が掛けていたはずのメガネだった。
フレームは歪み、ヒビの入ったレンズが抜け落ちていて、そのレンズを踏んでいた。これを、拾ってやらないと。
早く修理して渡さないと、透が困る。メガネがないと遠くのものが見えないから、絵が描けなくなってしまう。
 亘はレンズの破片と一緒にメガネを拾い、握り締めた。手のひらに破片が刺さったが、痛みは感じなかった。
それほど、動転していたのだ。力の入らない足で透に近寄ろうとすると、救急隊員がやってきて遮られた。
彼らに押さえ付けられながら、オレの妹だ、透だ、と叫んでいたらしいが、亘自身はさっぱり覚えていなかった。
 亘は搬送される透と一緒に病院に行き、手のひらの傷を消毒されて包帯を巻かれ、そこでようやく痛いと感じた。
手術室に入った透が出てくるまで、動けなかった。脈打つたびにずきずきと傷む傷が、現実を知らしめていた。
夕方になって青ざめた父親はやってきたが、母親はやってこなかった。携帯電話にも、出なかったらしい。
亘が言葉少なに説明すると、父親は泣き崩れた。父親の取り乱した姿を見ながら、亘は幾度となく後悔した。
 亘が一緒に帰ろうなどと透に言ったりしなければ、透はあの道を通ることは絶対になかったのだから。
あの道は、透の普段の通学路ではなかった。中学校へはバス通学だったので、普段は駅を利用していなかった。
透がその道を通って駅にやってくることは、あの日が初めてだった。そこで事故に遭うなど、運が悪すぎる。
事故に遭うのが自分だったらまだ良かった、なんで透なんだ、どうしてあの子ばっかり不幸なんだ、不公平だ。
 亘は、声を殺して泣き続けた。結局、透が手術室から出てきたのは、半日以上たった十二時間半後だった。
命に別状はない、だが左腕は元に戻らない、切断した、だからサイボーグ化手術を行った方がいいでしょう。
医者の淡々とした説明も、亘の頭には残っていない。覚えているのは、包帯だらけで髪を切られた妹の姿だ。
事故の際にボロボロになってしまったらしくざんばらに切られていて、これじゃ可哀想だ、と真っ先に感じた。
 包帯姿の痛々しさや、サイボーグ化を拒絶する時の泣き顔や、縋り付いてきた手の冷たさは覚えている。
あの時は、出口のない暗闇の中を歩いているようだった。透は今にも死にそうな顔をしていて、泣いていた。
それから、なんとか妹は立ち直ったがまだ油断は出来ない。透は繊細な子だ、守ってやらなくてはならない。

「けど…」

 亘は、小さく漏らした。守ってやりたいと思うのだが、過干渉してはならないと常々自分に言い聞かせている。
透と仲良くなったという三人のサイボーグのことが、気掛かりだった。まだ、その中の誰とも会ったことがない。
仲が良いならいいのだが、その実で透を苦しめていたりやしないかと思うと、居ても立ってもいられなくなる。
思うがあまりに、自分が透を苦しめてしまいたくない。頼れるお兄ちゃんであることが、亘の内での信念だ。
 亘と兄弟になったばかりの頃の透は、おどおどしていて扱いに困ったが、接するうちに可愛くなってきた。
少しでも亘が離れると不安げにして、気付いたら亘の服の裾を掴んでいる。一人にしないで、と言うかのように。
亘は、その手を未だに振り解くことが出来ない。透のことを思えば、透と少し距離を開けていた方が良いだろう。
 実の兄弟でない以上、過度に距離を狭めると良からぬ展開になってしまう可能性も、全くないわけではない。
そうなってしまったら、取り返しが付かなくなる。透を妹ではなく女として見てしまうのは、とても恐ろしいと思った。
だから、透とはもう少し接し方を考えるべきだ。だが、ついついいつも通りにしてしまって後で悩んでしまう。
 次に何かあった時に必ず助けてやりたい、助けなければならない、と思うと、距離はそのままの方がいいと思う。
いざという時に手の届く場所にいなかったら、妹を助けられない。しかし、先を考えると離れた方が良い気がする。
 悩みに悩んで、そのうち寝入ってしまった。




 家の中は、静まっていた。
 微睡みから意識を引き上げた透は、瞬きを繰り返した。右手で目を擦りながら、枕元からメガネを取った。
起き上がって、メガネを取ってツルを広げて掛けた。小さく欠伸をしながら、壁掛けのアナログ時計を見る。
 午前十一時五十三分。丁度、昼時だ。道理でお腹が空いているわけだ、と透は強烈な空腹感に納得した。
何か食べないと、と思いながら立ち上がると、頭の重さや熱っぽさが大分失せていて、すっきりしていた。
 掛け布団を簡単に畳んでから、部屋を出た。後ろ手に引き戸を閉めてから、なんとなく兄の部屋に向いた。
そっと引き戸を開けて中を窺うと、兄が机に向かって眠りこけていた。その様子に、透は少し笑ってしまう。
眠るなら横になればいいのに、と思いながら部屋に入り、丸まっている兄の背にタオルケットを掛けた。
透は一階に下りると、しんとしたリビングの中を覗いた。どうやら、父親は書斎にでも籠もっているようだ。

「お昼、食べないと」

 透の声は、空腹によって普段よりも細かった。適当に何か作ろうかな、と、台所に入って冷蔵庫を開けた。
その中に入っていた野菜をいくつかと卵を一個取ってテーブルに置き、まな板と包丁を水を流して軽く洗う。
ちょっと考えて、消化の良い雑炊にしよう、と野菜を細かく切り始めた。味は、ダシと醤油だけでいいだろう。
それも、薄味だ。兄は割と濃い目の味付けが好きなようだが、透は料理でもお菓子でも味は薄い方が好みだ。
 野菜を細かく切ってから、蛋白質も入れた方がいい、と冷蔵庫のチルドルームの中から鶏肉の切れ端を出した。
鶏肉も野菜と同じく細かく切り、水を少し入れた鍋に入れて煮立てる。灰汁を掬い取ってから、味を付けた。
灰汁を取ったお玉で煮汁を掬い、少し飲んで味見した。野菜の甘みと醤油の塩気が丁度良い具合になっている。
 その中に、炊飯ジャーの中に残っていたご飯をしゃもじ一杯半ほど入れてから、卵を割り入れてかき混ぜる。
卵の黄身と白身が崩れて混ざり合い、湯気が立ち上る。鍋から器に移し、レンゲと一緒にテーブルに運んだ。
野菜と卵の甘みのある匂いが、台所一杯に広がっている。そのおかげで、空腹感はますます強くなっていた。
 透が湯気を吹きながら野菜雑炊を食べていると、二階から亘が降りてきた。透は、一旦食べる手を止める。

「お兄ちゃん、起きたの?」

「起きたなら、オレを起こせば良かったのに」

 亘は台所に入ってくると、椅子を引いて透の向かいに座った。

「旨そうだな、それ」

「あ、でも、これ、自分の分しか作らなかったから。味、お兄ちゃんには薄いだろうし、だから」

 たぶん、そんなにおいしくないよ、と透は目を伏せた。亘は、柔らかく笑う。

「いいさ。オレは後で適当に喰うから」

「…うん」

 相変わらず、兄は優しい。透はまた胸苦しさを覚えながら、レンゲを動かして、野菜雑炊を口に運んだ。

「父さん、仕事みたいだな」

 亘が言うと、透は頷いた。

「うん。お昼になったのに、出てこないもんね」

「この分だと、夕方まで書斎に籠もってるんじゃないのか」

 亘は、父親の書斎の方向を見やった。亘の実の父で透の義理の父の山下拓郎は、写真を生業としている。
あまり目立った活躍はしていないが、雑誌の記事に使う写真や書籍の表紙に使う写真などを撮っている。
若い頃は個展も開いていたらしいが、今となっては子供二人を養うために仕事をしているようなものだった。
透には父親の写真の良さが解るらしいが、亘には全く理解出来ず、綺麗に撮れた写真だとしか思わなかった。
 リビングの壁にも、父親が渓流で撮ってきた野鳥の写真が飾ってあるが、亘には何の鳥かもよく解らない。
透によればセキレイだそうだが、亘にはただの野鳥にしか見えない。雑炊を半分程度食べ、透は手を止めた。

「お兄ちゃん」

「ん?」

「体育祭、晴れるかな」

 透は、亘の背後にあるカレンダーに目を向けていた。亘は振り返り、来週の金曜日に書かれた予定を見た。

「どうだろうなぁ…。梅雨の真っ直中だし、天気予報なんてそんなに信用するもんじゃないし」

「晴れたらいいね」

「だな」

 亘が返すと、透は言葉に詰まりながら言った。

「でも、大丈夫かな。私、そういうの、得意じゃ、ないから」

「大丈夫って、大丈夫に決まっているだろうが」

 亘が答えると、透は少し慌てたそぶりで身を乗り出す。

「で、でも、私、ダメだから。どの競技でも、大抵後ろの方だし、走るのなんて、その、凄く遅いし…」

「いいじゃんか、それで。透は透なんだから」

 亘がにっとすると、透は椅子を引く勢いで身を引いた。

「でも…」

「大丈夫さ。透には三人も友達がいるんだから」

 亘が言うと、透はびくっと肩を上下させた。

「えっ、あっ、だけど」

「友達が作れるんだから、透はもう大丈夫なんだよ。だから、自信持てよ」

 な、と亘に迫られ、透は押される形で頷いた。

「うん…」

「確か、三人とも先輩なんだよな?」

「皆、上だよ。黒鉄君とゆっこさんは歳は同じだけど、学年が一つ上で、ムラマサ先輩だけ三年生なの」

「そっか」

 亘は笑顔だったが、心中は複雑だった。彼らのことが気になって仕方ないが、安易に近付くべきではない。
だが、一度は会うべきだ。黒鉄鋼太郎と白金百合子と村田正弘の三人が、どんな人間か知っておかなければ。
三人が本当に透の友達になってくれているのか、透を大事にしてくれているのか、きちんと確かめておきたい。
 透は、亘と拓郎が手を差し伸べていなければ一人きりになってしまう。本当の両親からは、捨てられた子供だ。
縋れる存在がいなければ、一つだけでもいいから頼れるものがなければ、根元から折れてしまう危険がある。
うたた寝をする前に考えていた悩み事に、一応結論が出た。今はまだ、透からは離れない方が良さそうだ。
 透から離れる時は、透から突き放された時でいい。それは、彼女が一人の人間として成長した証だからだ。
だが、まだその時期ではない。亘は、親にも似た心境になりながら、困り果てている妹の顔を見つめた。
顔色は良いが、頬がほんのり赤みを帯びている。恐らく、困ってしまって、ついでに照れてしまったのだろう。
元が色白なので、赤くなるとすぐ解る。薄く小さな唇の端が下げられていて、細い眉も同じく下がっている。
 透には悪いが、正直これが一番可愛らしいと思う。笑顔も良いのだが、困っている表情に愛らしさがある。
これで亘の性格がもっと悪かったら、意地悪でもして困らせているのだろうが、亘はそこまで子供ではない。
さすがにもう、女子を困らせて喜ぶような年頃ではない。だが、たまに困らせてみたいと思う瞬間もある。
透にとっては良い迷惑なので、しないように努めているが。下の兄弟をいじめるのは、亘の兄の意義に反する。
 透はちらちらと亘を窺っていたが、野菜雑炊の続きを食べ始めた。小さく口を開け、レンゲの半分を食べる。
一気に食べないのが透だ。亘なら一口で済ませてしまうようなものを、いちいち何度かに分けてしまう。
面倒そうに見えるが、それが彼女のペースだからとやかく言えない。透は、時間を掛けて雑炊を食べ終えた。
ふう、と大きく息を吐いてからレンゲを器の中に入れた。透はコップに入れた水を、ゆっくりと飲んでいる。

「熱、下がったみたいだな」

 亘は手を伸ばし、透の額に当てた。透は肩を縮めたが、抵抗しなかった。

「うん。もう、熱っぽくないけど、念のために薬は飲むね」

「それがいい」

 亘は手を下げ、座り直した。透は器とレンゲを水を張った鍋の中に浸してから、薬を取りに向かった。
救急箱から解熱剤と一緒に体温計も取り出してテーブルまで持ってくると、熱を測るより先に解熱剤を飲んだ。
それから、体温計を抜いて右の脇に挟んだ。無意識に上げていた左手は、水仕事で外装が少し濡れていた。
本来ならゴム手袋でも填めて家事をするのだが、熱があったせいか、綿の手袋をするのも忘れていた。
 その機械の手を、包む手があった。顔を上げると、亘は透の冷たい左手を大きな両手で握り締めていた。

「無理はするなよ、透」

 透は反射的に左手を下げようとしたが、それを押し止め、兄の手の中に残した。

「うん…」

 今は、兄の優しさに甘えていよう。その優しさが疎ましいと感じる時まで、亘の妹でいる方が良いだろう。
自分は、ここにいてはいけない存在だ。いるはずのない、いる方がおかしい、いてはならない、異物だ。
いつか、この居心地の良い場所を出ていかなければならない。元々、透はこの家の子供ではないのだから。
 肉体的にも精神的にも経済的にも助けてもらってばかりいるのに、何一つ、二人には返せたものはない。
お金でも何でも、父親と兄に返せるだけ物を返してから、誰にも何も言わずにこの家を出ていってしまおう。
だが、まだそれは出来ない。体も弱ければ心も脆弱で、一人きりで生きていける自信など持っていない。
 透は、兄に向けて笑みを見せながら決意を改めた。強くなりたい。誰にも、助けられなくても済むように。
 いつまでも助けられてばかりでは、いられない。





 


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