非武装田園地帯




第九話 ワンポイント・リリーフ



 助けてくれる、人がいる。


 朝食が、おいしくない。
 空腹感は感じているはずなのに、食が進まない。好きなはずの卵焼きも、半分囓っただけで嫌になっていた。
口の中に入れていたご飯を飲み下し、味噌汁で流したが、舌に残った塩気にうんざりして顔をしかめてしまう。
 何かおかしい。透は、ぼやけている視界を明瞭にさせようと何度か瞬きしたが、輪郭はぶれているままだった。
頭全体が鈍い重みがあり、体も妙にだるい感じがする。透が食べる手を止めていると、額に手が当てられた。

「どうしたんだ、透?」

 隣に座っている兄、亘が透の額に触れてきた。

「顔色、良くないぞ」

「なんか、変」

 透が掠れた声で返すと、亘は箸を茶碗に乗せて椅子から立ち上がった。

「ちょっと待ってろ、体温計持ってきてやるから」

「うん」

 透が頷くと、亘は棚に入れてあった救急箱から電子体温計を取り出し、透に渡してきた。

「ほら」

「ん…」

 透は渡された体温計を作動させ、右の腋の下に挟んだ。およそ三十秒後、電子音が繰り返されたので抜いた。
液晶画面に表示された数字は、37.8。透が体温計を兄と父親に向けると、向かい側に座る父親は言った。

「こっちへ越してきてから、ずっと忙しかったからな。疲れが出たんだろう。今日は、ゆっくり休んでおきなさい」

「そうだ。ちゃんと治しておかないと、来週の体育祭に出られなくなるぞ」

 亘が、透の短い髪をぐしゃりと乱した。透は、再度頷く。

「うん、そうする」

「皆で山へ行くのは、また次の機会だな」

 父親、拓郎が少し残念そうにしたので、透は目を伏せる。

「ごめんなさい…」

「気にするな。具合が悪くなっちゃったものは仕方ないんだから」

 な、と亘は透に笑ってみせた。透は瞬きを繰り返していたが、細く答えた。

「うん」

 今日は、土曜日だ。家族で揃って出かけることを計画していて、透も外へ出かけることは楽しみにしていた。
それが、自分のせいでふいになってしまった。透は熱でぼんやりしながらも、多少なりとも罪悪感を感じた。
中身を半分も食べなかった茶碗を見下ろしながら、ぎゅっと左腕を掴んだ。火照った手に、冷たさが心地良い。
 父親と兄の心配そうな目が、罪悪感を煽り立ててくる。二人は、透を喜ばせようとして計画してくれたのに。
それなのに、肝心の自分がこれではどうしようもない。泣きたいほど胸苦しくなりながら、透は俯いた。
 左腕を掴む手の、力が増した。




 透は、二階の自室に戻っていた。
 先程飲んだ解熱剤が、徐々に体に回ってきた。ジーンズでは息苦しさを感じたので、着替えることにした。
薄手のジャージの上下を取り出して、畳の上に放り投げる。長袖のシャツを脱ぎながら、姿見に目をやった。
 肉の薄い背とあまり大きくない胸の膨らみに、胸元に残る裂傷の痕。そして、銀色の外装に覆われた左肩。
肩と皮膚の間には摩擦を防ぐための緩衝剤が挟んであり、上半身の左側の上半分は機械に変わっている。
左腕を失った際、折れた肋骨で左側の肺に大きな穴が開いてしまったので、左肺は半分以上が切除された。
胸の中央には、その時の手術の後が未だに残っている。目にするたびに、重たいものが胸の奥に詰まる。
 右手に比べて大きい左手の指で、胸の中央に走る縦一線の手術跡に触れると金属の硬さが肌に伝わった。
スポーツブラに覆われた左腕の乳房は、手術のせいで形が歪んでいて、右側の乳房とはまるで別物だ。
 見れば見るほど、醜い体だ。透は鏡を割ってしまいたい衝動に駆られたが理性で押し止め、服を着込んだ。
中学校のものとは違う薄い水色のジャージの上下を着、ファスナーを上げて前を締め、長めの裾を整える。
 押し入れのふすまを開けて片付けてしまった布団を出して、敷き布団を敷いて薄手の掛け布団を広げた。
メガネを外してから、その上に倒れ込む。熱の倦怠感と心身に溜まった疲労で、すぐに眠気がやってくる。
自分では、そんなに無理をしているとは思っていなかった。サイボーグ同好会のおかげで、毎日が楽しいからだ。
彼らと打ち解けているから、クラスに溶け込めなくても辛くなかった。友達が出来ると、日々に張りが出来る。
 以前に比べれば笑えるようになったし、自分から喋るのはまだまだ苦手だが、少しずつ出来るようになった。
だが、自分でも知らないうちに、気疲れしてしまったらしい。なんて弱いんだろう、と透は内心で自嘲した。
強くなりたいのに、強くなれない。布団の上で体を丸めて膝を抱え、ため息を吐いていると、扉が叩かれた。

「はぁい」

 透は、返事をしながら起き上がった。亘が、引き戸を半分ほど開けている。

「透。大丈夫か?」

「うん。大丈夫」

 透が弱く笑うと、亘は部屋に入ってきた。兄は、布団の傍に腰を下ろす。

「何か必要だったら、言ってくれよ」

「いいよ。それぐらい、自分で出来るから」

 透は兄の心遣いに、申し訳なくなってしまった。そこまでしてもらわなくてもいいのに、と気が引けてしまう。
兄や父親の優しさは、とても嬉しかった。だが、その優しさに、透は何一つとして返せないことが悔しかった。
 半袖のTシャツにハーフパンツを着ている兄は、野球部に入っていることもあり、がっしりした体付きをしている。
運動部らしく短くした髪に、父親に似た細めの目と、幼さを残しながらも次第に大人びてきた高校生らしい顔立ち。
身長は割と高く、百七十五程度ある。男と女の差もあるが、背が高いだけで体重の少ない透とは大違いである。
 透が兄を見ていると、なんだ、と亘は見返してきた。透は微笑もうとしたが、曖昧な表情が浮かんだだけだった。

「別に。なんでもないよ」

 この兄と本当の兄弟であったなら、素直に好意を受けられるのに。

「お兄ちゃん」

 透は、この家庭を出ていった無責任な女の連れ子だ。そして亘は、そんな下劣な女に振り回された男の息子だ。
つまり、二人とも連れ子同士だ。亘と拓郎は血が繋がっている親子なのだが、透は二人と血縁関係は皆無だ。
 あの女、透の母親のことは、思い出したくもない。透が山下親子の元に連れてこられたのは、小学生の頃だ。
透の旧姓は若林と言い、それは本当の父親の名前だが、その父親は透がうんと幼い頃に姿を消してしまった。
母親は透を上辺は可愛がっていたが、本当のところは疎ましがられてばかりで本当に愛された記憶はなかった。
 小学二年生の頃だったかと思う。ある日曜日、母親に連れられて出かけた先の動物園で、山下親子に会った。
お母さんのお友達とその息子さんよ、と、拓郎と亘を紹介された。最初は、亘も透も緊張しながら接していた。
今まで会ったこともない人で、しかも年上の男子なので怖かった。亘も、怯え気味の透を怖々と扱っていた。
だが、そこは子供なので一日もすれば打ち解けてしまい、帰る頃には、亘をお兄ちゃんと呼ぶほど懐いていた。
 そして、程なくして母親は拓郎と結婚し、透の名字も山下になり、亘は名実共に透のお兄ちゃんとなった。
そこまでは順調だった。透も幸せだと思った。いつも怖い顔をしていた母親が、にこにこ笑っていたからだ。
 しかし、それも長くは続かなかった。透が小学五年生になった頃から、母親はあまり家に帰ってこなくなった。
透が寂しくて泣いていると、亘が慰めてくれた。きっとお母さんには外せない用事があるんだよ、と言い聞かせた。
だが、母親は、日に日に化粧が濃くなって服が派手になっていく。その様に、透も子供心に不安を感じていた。
 そして、透が中学一年生になったばかりの頃に左腕を失うと、不安は具現化して現実となり、襲い掛かってきた。
母親には、別の男がいた。しかも、拓郎に出会う前から続いていて、母親はその男の子供を妊娠していた。
左腕を失った透の見舞いに来たのは、ただの一度だけだった。しかも、その恋人と連れ立って病室を訪れた。
 それから程なくして、母親は拓郎と離婚して透を置き去りにし、家を出ていった。今も、東京にいるらしい。
透は、山下家の中に放り出された異物だ。普通なら捨てられてしまってもおかしくないのに、優しくされている。
血の繋がりなどなく、一生治ることのない傷を負い、サイボーグ化してしまったために医療費を莫大に消費する。
 疎まれこそすれ、愛されるはずのない存在だ。常々そう思っているから、胸苦しくて申し訳なくなってくる。
大事にしてもらえばもらえるほどその切なさは増して、居心地が良くなればなるほど、情けなくなってしまう。

「透」

 兄に声を掛けられ、透は意識を戻した。

「何?」

「そのうちでいいからさ、お前の友達に会ってみたいな」

 亘は、透の短い髪を大きな手で撫でてきた。透は、目線を上げる。

「うん」

 無論、透もそう思っている。鋼太郎らはとても良い友人だ、いつか必ず亘だけでなく拓郎にも会わせたい。
だが、まだ早すぎる。友達になってから日が浅いうちにここへ連れてきて、己の過去が知られるのが嫌だった。
 亘と透が似ていないことは、誰が見ても解る。そこから問い詰められたりしたら、言ってしまうかもしれない。
だから、それはもっと先の話だ。過去を受け止められずとも、受け入れることが出来た時に、出来ることだ。
 髪に触れる兄の手が温かく、心地良い。その手から、どれだけ愛されているのか身に染みて実感出来てしまう。
母親は透に触れてくることなど滅多になかったから、その手の感触は覚えていない。だが、兄や父親は違う。
右腕だけでなく、左腕にも触れてくる。それが嬉しいと思う時もあるが、大抵は切なくなってしまうだけだ。

「透。絵は気に入ったのが描けてるか?」

 亘は、透の肩越しに机を見やった。透は、気恥ずかしくなって身を縮めた。

「描けたけど、出来はあんまり…」

「描くのは良いけど、夜更かしするんじゃないぞ」

「解ってるよ、それぐらい」

 透は言い返してから、自分の絵を見下ろした。色を塗りかけの水彩画があり、絵筆や色鉛筆が散らばっている。
何枚も描き溜めたスケッチの中から、使えそうだと思う絵を選んで、それを画用紙に描き写してから塗っている。
鮎野町やその周辺の景色は、どれも素敵なものばかりだ。そこそこのものは出来るが、傑作はまだ出来ない。
これだと思う瞬間はあるが、それをちゃんと描き表せていないからだ。画力が足りていないのが、歯痒くなる。

「良い天気だね」

 透は、窓の外を見上げて呟いた。亘は頷く。

「そうだな」

「お兄ちゃんの方は、どうなの? 野球部」

 透が尋ねると、亘は苦笑いした。

「前はレギュラーだったけど、こっちじゃ補欠になっちまった。まだ入ったばっかりだから、仕方ないけどな」

「うん、そうだね。でも、きっとまたレギュラーになれるよ」

「透は部活に入ったのか?」

「まだ。入りたくなったら、入るかもしれないけど」

「そっか」

「うん」

 透が返すと、そこで会話が途切れた。どちらも出来る限り、相手の深い部分に触れないようにしている。
お互いの痛い部分に触れないようにするのは、兄妹の間での暗黙の了解だった。兄もまた、傷を持っている。
生まれて間もない頃に母親と死別し、父親と再婚した女が母親になってくれたと思ったら出ていってしまった。
 表には出さないだけで、透に対しても複雑な思いを抱えているはずだ。それを、敢えて刺激することはない。
上辺だけ、と言えばそれまでだが、これはこれでやりやすい。透も亘も、平穏が戻った日常を壊したくないのだ。
透が事故に遭って左腕を失い、母親が家を出ていったばかりの頃は、透だけでなく亘と拓郎もいきり立っていた。
誰も彼もが荒んでいて、苦しかった。そんな日々がまた始まるのは嫌だから、二人とも相手を気遣って会話する。
 それではいけないかもしれない、けれどそれでいいのかもしれない。透は眠気が強くなったので、横たわった。
亘に掛け布団を掛けてもらい、目を閉じる。ゆっくり休めよ、と兄の声が上から聞こえたので、透は頷いた。
引き戸を閉める音がして、足音が廊下を遠ざかる。それが妙に寂しくて仕方なくなってしまったが、我慢した。
 浅い微睡みの中を、意識が漂った。解熱剤が回っていることもあり、すとんと落ちるように透は寝入った。
装着者の意識が落ちると、脳波を読み取って動いている左腕も機能を自動的に落とし、ただの金属塊と化す。
中途半端な形に開いた左手を布団の下に隠し、透は眠った。柔らかくて温かな意識の底に、沈んでいった。
 気怠くも、優しい時間だった。





 


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