非武装田園地帯




第十五話 秘密



 午後九時過ぎ。帰宅した静香は、ハイヒールを脱ぎ捨てた。
 リビングからは明かりが零れ、ダイニングキッチンからは夕食の良い匂いが漂い、冷房が程良く効いている。
玄関先から見えているリビングのソファーには、静香の洗濯物がきちんと折り畳まれて、積み重ねてあった。
カバンとスーツの上着をぶら下げて、リビングに入った。正弘は自室にいるらしく、ここにはいなかった。
手にしていたものを投げ出して、ソファーに座り込む。足を伸ばして肩を揉みほぐしながら、呟いていた。

「今更、どうでもいいじゃないのよ」

 過去を蒸し返したところで、良い方向に向かうわけがない。現状を維持していった方が、余程上手く行くだろう。
正弘の状態も安定し、友人を得たことで精神状態も快方に向かいつつある。それを、壊してしまいたくない。
第一、静香が知っている情報などごく限られている。自衛隊と会社が与えてくれたものは、必要最低限でしかない。
 谷崎の話を、鵜呑みにするほど愚かではない。彼がもっともらしく話しているから、真実のように感じるだけだ。
しかし、筋は通っている。ただ、その推論を裏付ける証拠がないというだけだ。もしも、その証拠が見つかったら。
もしも、自衛隊が証拠を隠蔽して事実をねじ曲げていたら、もしも、容疑者が本当にフルサイボーグだとしたら。
 一方だけでも、一大事だ。サイボーグ化技術の信憑性を疑われるどころか、サイボーグが否定されかねない。
百歩譲って、自衛隊の隠蔽工作が真実だとする。ならば、自衛隊は何を隠したのか、また、何を知っていたのか。
様々な想像が頭の中を巡ったが、どれも当て嵌まらない。だが、それほどのことをするなら余程の大事なのだ。
 自衛隊は、世界全体で推し進めている人類の宇宙進出に関わるようになってから、政治的にも力を増している。
二十世紀後半から二十一世紀初頭は立場が弱く、他国に利用されることが多かったが、昨今では強くなった。
名前は自衛隊だが、その役割が自衛の域を逸脱し、立派な軍隊としての機能を授けられたのが大きな要因だ。
そして、日本政府が特に力を入れている宇宙開発事業に携わることで、軍事以外の側面での力も付けている。
 八年前というと、サイボーグ部隊の自衛官達が外部太陽系の調査を行うための宇宙船に搭乗し、出発した年だ。
第一陣の一員であり、また、初の長距離宇宙航行であったために大々的に報道されていたので、覚えている。
関係ないだろうとは思うが、一番最初に頭に浮かんだのはこれだった。静香は、ソファーから体を起こす。

「馬鹿馬鹿しい」

 こんなことを考え出してしまうなんて、きっと谷崎の長話に毒されたに違いない。静香は、冷蔵庫に向かった。
冷蔵室の扉を開けて缶ビールを取り出し、その場で開けて飲んだ。苦みと炭酸が喉を通り抜け、胃に収まる。
アルコールが体に回る心地良さを味わいながらソファーに座り、ホロビジョンテレビのリモコンを手に取った。
適当な番組を付けて流しながら、ビールの続きを飲んだ。デスクワークに疲れた体が、内側から熱してくる。
 一本目を飲み終えてしまったので二本目を取り出そうと思い、静香が立ち上がると、自室から正弘が出てきた。

「あれ、帰ってたんですか」

「珍しいわね、マサが気付かないなんて」

 静香は空き缶をダイニングキッチンのカウンターに置き、正弘に近付く。正弘は、ああ、と頷いた。

「電話してましたから。聴覚に直接流し込んでいたんで、外からの音が入らなかったんですよ」

「へえ、誰と?」

「この時間、起きてるのは鋼ぐらいなもんです。ゆっこも透も、寝るのが早いから」

「鋼って、この間のエロ本少年ね。元気してる?」

 静香がにやつくと、正弘はあからさまに嫌そうにした。

「そのエロ本をごっそり与えたのは、橘さんでしょうが。別に、鋼は要求したわけじゃないんですからね」

「でも、もらっていったじゃないの」

「あれは…橘さんにそう言われたからで、もらったものをまた返すのは悪いってこともありますし」

 正弘は、言いづらそうに口籠もった。静香は、冷蔵庫から二本目のビールと冷や奴の載った皿を取り出した。

「ま、あたしも返して欲しくはないわね。何が付いてくるか解らないし」

「そりゃ、まぁ、そうですけど。でも、そうはっきり言うこともないんじゃないかなぁ…」

 苦笑気味に正弘は返してから、静香の手元を見、内心で顔をしかめる。

「飲むんだったら、まともに食べてからにして下さいよ。明らかに良くないですよ」

「あたしは後悔したくないの。どうせいつか死ぬんだから、やりたいようにやるのよ」

 リビングに戻ってソファーに座った静香は、お箸、と正弘に手を伸ばした。正弘は、渋々箸と醤油を渡した。

「最初から全部持っていって下さい。お酒だけじゃなくて」

「だったらマサが準備してよ」

 静香はラップをめくり、刻みネギとおろしショウガの載った豆腐に醤油を垂らした。正弘は、その向かいに座る。

「嫌です。不衛生になるから片付けはやりますけど、自分で食べるものぐらいは自分で出して下さい」

「そんなに口うるさいんじゃ、嫁さんに逃げられるわよ」

「橘さんこそ、一生結婚しない方がいいですよ。旦那さんが可哀想です」

 正弘は、しれっと言い返す。静香は、豆腐を崩して口に入れる。

「心配ご無用。あたしは結婚なんてしないわよ。一人の男のために人生を棒に振るなんて、馬鹿げてるわ」

「そう思うんだったら、貯蓄しておいて下さいね。オレは金は貸しませんからね」

「その辺も大丈夫よ。あたしはね、借金と二股だけはしない主義だから」

「じゃ、三股はアリってことですね」

「まー、あたしも若かったから」

 昔の話よ、と静香は可笑しげにしながら冷や奴の続きを食べた。正弘は、胡座を掻く。

「よく刺されませんでしたね」

「相手の男は、全員あたし以外の女はいなかったから。誰か一人にでも女がいたら、刺されてたかもしれないけど」

「よく喋りますね。もう酔ってきたんですか」

「マサが話し掛けてくるから、喋ってんじゃないのよ。食べ終えてから気付いたけど、カツオブシも欲しかったわ」

 静香は冷や奴を食べ終えた皿を、見下ろした。正弘は体をずらし、ホロビジョンテレビに向き直った。

「オレもちょっと思いましたけど、そこまで食べたんだったらもういいかなぁって思ったんで出しませんでした」

「他になんかないの?」

「冷たいのはそれだけです。他のは温めなきゃダメですけどね」

 煮付けだから、と正弘が返すと、静香は二本目のビールを開けて一口飲んだ。

「なんでもいいわ、ちょうだい。あたし、お腹空いてるから」

「亭主関白だなぁ…」

 正弘はぼやきつつ立ち上がり、ダイニングキッチンに向かった。いや、亭主とは言わないかな、と呟いている。
静香は醤油と豆腐の味をビールで流し、正弘の姿を見ていた。言った傍から動いてくれるから、使ってしまう。
正弘が何もしないのであれば、静香も自分から動くのだが、何か言うとすぐにやってくれるので頼りがちになる。
 それではいけないと思わないでもないが、正弘があまり文句を言わないのをいいことに、現状を維持している。
冷蔵庫から器を出し、レンジに入れて温め始めた。正弘はコンロの上の鍋の蓋を開けてから、静香に尋ねた。

「味噌汁もいります?」

「ご飯もちょうだい」

「解りましたよ、全部出しますよ、もう」

 全く、と正弘は漏らしながら静香のお椀と茶碗を出し、準備をしている。味噌汁が温まるにつれ、匂いが漂った。
白飯の甘みのある湯気が立ち上り、ご飯が盛られる。レンジの中で温まっている皿からは、醤油の匂いがした。
取り出されてラップが剥がされた皿の中には、カレイの煮付けが入っていた。今日、作った料理のようだった。
 静香はその出来を見、感心した。正弘が家事をやるようになったのは中学一年生の頃だが、随分と進歩した。
初めの頃は、何をしてもあまり上手く出来なかったが、元から手先が器用な少年なのですぐに慣れてしまった。
今では、料理の腕も正弘の方が上だ。もっとも、静香の料理の腕が、元から平均以下だったせいもあるのだが。
 手際良く準備をしている正弘から目を外し、静香は缶を傾けた。アルコールに集中しようとしても、気が逸れる。
谷崎の話が頭に張り付き、払拭することが出来ない。静香は正弘の後ろ姿を見上げていたが、口を開いた。

「マサ」

「なんです」

 少々鬱陶しそうに、正弘が振り返る。静香は、中身が半分以上残った缶ビールをテーブルに置く。

「香川に、自衛隊の施設ってあった?」

「そりゃ、駐屯地ぐらいはあったと思いますよ。よく覚えてませんけど」

 正弘は盆に味噌汁のお椀と白飯を盛った茶碗を載せ、カレイの煮付けの皿も載せていたが、手を止めた。

「ああ、でも、一番立派なのはあれですかね。えらく小さい時に、連れていかれた記憶があります」

「あれって?」

「宇宙開発連盟と陸自の共同施設です。名前は忘れましたけど、確か、宇宙空間での作業訓練をする施設だったかな。一般にも施設の一部が開放されていて、科学博物館みたいになっていたから、親に連れていってもらったんですよ。まぁ、そこに行ったってことしか覚えてませんけどね。小さすぎたから」

 それがどうかしましたか、と正弘に聞き返され、静香は首を振った。

「別に。なんでもないわよ」

 正弘が夕食を運んできたのでそれを食べ、静香は気を紛らわした。丁度良い味の煮付けに、意識を向けた。
単なる思い付きだと思ったが、符合する点が見つかった。恐らく、谷崎もこのことに気付いていたのだろう。
だから、あの推論に辿り着いた。それを真実とするのは乱暴だが、当たっていないこともないのかもしれない。
 正弘は自室に戻ることもなく、床に座った。友人が出来たといっても、家に一人でいるのは寂しいようだ。
静香は、押し黙って夕食を摂った。正弘もまた何をするでもなく、黙ってホロビジョンテレビを眺めていた。
しばらく、その状態が続いていた。静香は夕食を食べ終えて、食器を重ねた。正弘の、広い背を見下ろす。
 谷崎に会ったことを話そうかと思ったが、その気が起きなかった。会ったことを言えば、会話の中身にも触れる。
そうなれば、谷崎の推論を話さなければならない。しかしあの推論は、たとえ真実でなくても、正弘には過酷だ。
動揺し、苦悩を抱え込み、また心を閉ざしてしまうのが目に見えている。せっかく出来た友人とも、距離を空ける。
 正弘は、他人の顔色を窺うがあまりに自己を殺してしまう。自分の痛みを知られたくないがために、黙り込む。
一番辛いのは、誰でもない正弘だ。距離の空いた関係とはいえ、八年も付き合えば彼の性格は把握出来る。
谷崎に会ったことも、谷崎の推論を聞かされたことも、静香がその推論に確信を得たことも、全ては秘密だ。
 今夜の出来事は、なかったことにする。誰にも会わなかったことにして、誰とも話さなかったことにしてしまおう。
それが、一番良い方法だ。静香は飲みかけだった缶ビールを傾け、炭酸がやや弱まったビールを、流し込んだ。
 そして、秘密も心の隅に追いやった。





 


06 12/8