非武装田園地帯




第十五話 秘密



 忌まわしき、事件の真相は。


 八月が終わり、九月が始まった。
 だが、夏はまだ終わってはおらず、空気はじっとりと湿気を含んで、重たい暑さと共に肌にまとわりついてくる。
アスファルトの上を抜けてきた夜風は人間の体温のように生温く、風と称するには弱すぎる空気の流動だった。
 谷崎は、ボンネットに腰を下ろしていた。五本目のタバコに火を灯して吸いながら、目の前の建物を仰ぎ見た。
この近辺の建物にしては背の高い、二十階建てのビルだ。一ヶ谷市内から外れた場所にあるため、よく目立つ。
社内では社員達が残業に勤しんでいるようで、人の気配が感じられる。時折、帰宅する社員達の車が出ていく。
 谷崎は、ビルの正面にある門の傍に車を留めていた。待ち伏せていなければ、彼女に会うことは叶わない。
昼休み頃に彼女の携帯電話に連絡を入れたが、毎度のように素っ気なくあしらわれてすぐに切られてしまった。
谷崎は彼女から毛嫌いされているらしいので、それ自体はいつものことだが、そう毎度毎度では困ってしまう。
嫌いなのであれば会いたくない気持ちも解るが、いつも拒否されてしまっては事件捜査が進展しなくなる。
 手の内にある情報は、乏しい。なんとか情報を増やさなければ、村田一家惨殺事件の真相には到達出来ない。
香川県警時代に手に入れた情報もあるが、どれもこれも大事な部分が削られているかのように乏しかった。
あれだけひどい事件だったにもかかわらず、表立った捜査は五年も経たずに打ち切られ、人員も削減された。
このままではいけない、と正義感に駆られて捜査に一番入れ込んでいた谷崎は、最終的には飛ばされてしまった。
それが正弘の現住所とあまり遠くなかったのは、上が手を抜いたのか、それとも誰かが手を回してくれたのか。
 どちらにせよ、幸運であることに変わりない。正弘が近くにいる、ということはその保護者も必然的にいる。
正弘の同居人であり、身寄りのない正弘の保護者である彼女なら、正弘の知り得ない情報を持っているはずだ。
 今日こそ、それを聞き出さなければ。谷崎は六本目のタバコを抜こうとしたが、人影に気付き手を止めた。
正面玄関から、派手な格好の女が出てきた。待っていた甲斐があった、と、谷崎は図らずも心が浮き立った。
 橘静香。村田正弘の保護者だ。




 車内の雰囲気は、険悪だった。
 静香が苛立ち紛れにふかすタバコの煙が充満しているので、谷崎は自分のタバコには手を付けないことにした。
谷崎は運転席に座り、静香は助手席に座っていた。ストッキングに包まれた長い足を組み、腕を組んでいる。
態度どころか、行儀も悪い女だ。薄暗い中であっても、鮮やかなアイシャドウや口紅の色ははっきり見える。
 静香は口紅の付いたタバコを灰皿に押し付け、新しいタバコを抜いて銜えた。これで、もう四本目になる。

「さっさと解放してくれません、谷崎さん」

「あなたって人は、遠慮って言葉を知らないんですか」

 谷崎が愛想笑いすると、静香はタバコに火は点けず、唇から離した。

「好きでもない相手に気を遣うほど、あたしは育ちは良くありませんので」

「正弘君は、元気ですか」

「相変わらずですよ。友達とも、仲良くやってるみたいですわ」

 静香はタバコを指の間で弄んでいたが、ケースに戻した。

「ついでに言えば、やっと二次性徴が始まったみたいで机の裏にエロ本隠すようになりましたよ」

「それは、別に言わなくても良いんじゃないですか? 正弘君のプライベートに関わることなんですから」

 谷崎が苦笑すると、静香は背を丸めて頬杖を付いた。

「最近変わったことがあるとすれば、それぐらいですわよ。それ以外に、報告することなんてありませんわ」

「そうですか?」

 谷崎は、静香の横顔を見据える。静香は、横目に谷崎を窺う。

「そうですわよ」

 メンソールのタバコの匂いに、静香の甘ったるい化粧の匂いが入り混じった。それが、エアコンの風で乱される。
路肩に留めてある谷崎の車の傍を、数台の車が走り抜けていく。ハイビームが二人を照らし、すぐに遠のいた。
付近の街灯の明かりが流れ込んでいるが、暗いことには変わりない。だから、お互いの表情は見えなかった。

「これ以上、マサに関わるのはやめて頂けません?」

 静香は、さも鬱陶しそうに呟いた。谷崎は、平坦に言う。

「なぜです」

「もう、何も出てきませんわ。証拠もあなた方が入手したものが全てなんですから、あたしがお教え出来ることなんて何一つございません。証言も出尽くしております。マサの記憶だって、事件前後のものはすっぱり消えているし、取り戻さない方がいいと診断もされています。だから、あまり余計なことはしないでくれます?」

「俺が聞きたいのは、正弘君のことじゃありません。あなたのことです、橘さん」

「あたしが何か知っているとでも?」

「ええ。知っている範囲でよろしいんです、どうか教えて下さい」

 谷崎は、頷いた。静香はジッポライターの蓋を、親指の先で弾き飛ばした。ぴん、と小気味よい音が響く。

「だから、何度も言いましたわ。あたしが教えられることなんて、何もないんです。本当に」

「本当ですか?」

「本当ですよ。刑事さん相手に、嘘吐いたってどうしようもないですわよ」

 静香は先程のタバコをもう一度抜くと、唇に挟んで火を点けた。一瞬、彼女の手元が明るくなった。

「では、最初から整理してみましょうか。そうすれば、何か思い出すかもしれませんよ、橘さん」

 親しげな雰囲気を作っていた谷崎の声色が、僅かばかり変わった。

「四国、香川県某所。今から八年前の六月七日、午後六時半頃。妙な物音がする、との近所の住民による通報で、駐在所の警察官が村田一家の自宅に駆け付けた。玄関のドアは破壊され、ガラスは割られ、砕かれた下駄箱から靴が散乱していた。警察官が室内に踏み込むと、一階の居間では世帯主の村田高志さんが内臓破裂と出血多量で死亡しており、台所では妻の村田留美さんが頭蓋骨陥没と頸椎の損傷で死亡しており、居間では長男の村田正弘君が両手両足の骨折と内臓破裂で瀕死の重傷を負い、その傍では、祖父母の村田正祥さんと村田弘子さんがいずれも出血多量で死亡していた。二階の子供部屋では、長女の村田智代さんが全身を強打されて死亡し、次女の村田和代さんも同様の死因で死亡していた。いずれの遺体も損傷が激しく、正弘君が生きていたのは幸運としか言いようがない」

 谷崎もタバコを銜え、火を灯す。話に集中しているがために、無意識に手が伸びてしまったらしい。

「検死の結果、全員の死亡時刻がほぼ一致している。凶行は一時間足らずという短時間に行われたらしいが、現場には村田一家以外の足跡は一つも残っておらず、また、抵抗の後も見られたのだが、誰の爪の間にも他人の皮膚は残っていなかった。二階の寝室には預金通帳と現金の入った金庫があり、一階にも小銭の貯金箱もあったが、手を付けられてはおらず、金品は一切なくなっていなかった。事件発生前後の時刻が夕方頃であったことと村田家の自宅が住宅街からやや離れた位置にあったため、目撃証言は極めて乏しく、怪しい人物や車を見たという証言は一つもない。そう、ないんですよ。俺自身も、捜査本部にいましたから、事件直後の現場はこの目で見ています。長いこと刑事なんてやっていますが、村田一家の事件が一番凄まじかったですよ。血飛沫が天井まで噴き上がり、家具はほとんど壊されていて、床には被害者の体の一部が大量に散乱していて、内臓がばらばらになっていて…あ、失礼。とにかく、それだけの現場でしたから、何かしら痕跡が見つかるだろうと踏んでいたんです。ですが、鑑識が見つけ出したのは、犯人確保のために突入した特殊機動隊の足跡や被害者の足跡ばかりだったんです。加害者のものと思しき痕跡は、一切見つからなかったんです」

 谷崎は、煙をくゆらせる。

「精密機械のように統率の取れた動きをし、証拠を一切残さずに逃亡する、犯罪集団の犯行であるとするならば、それも有り得るでしょう。ですが、そうだとしたら金品が一つも奪われていないことは不自然すぎる。異常者や殺人快楽者の犯行とするならば、証拠がないのは不自然極まりないんです。容疑者が生身の人間である以上、短時間にあれだけの殺人を行えば、勢い余って凶器で自分の手を切ってしまったり、相手の歯や爪で傷が付いたり、毛髪の一つも落ちるでしょう。靴を履いたまま家に上がったのなら、土足の足跡も残るでしょう。靴を脱いで家に上がったのであれば、返り血がべったりと滲みた足跡が一つは残るでしょう。裸足であったら、砕けたガラスや家具の破片を踏んだりして出血したり、足跡が残るでしょう。足跡を掃除したのならば、掃除をした痕跡が残るでしょう。水で返り血を洗い流したとしたら、浴室からルミノール反応が出るでしょう。裏口から逃げ出したとしたら、その痕跡が残るでしょう。手袋を着けて犯行を行ったとしたら、壁や床に手形が僅かでも付くでしょう。被害者の傷口から見て、凶器は刃物などではなく相当な重さのある鈍器です。それを運んできたとしたら、車などで乗り付けているでしょう。最初から家の中にあったものだとしたら、犯行を終えた後に放置していくでしょう。ですが未だに、凶器も特定出来ず、発見も出来ずにいます」

 大型のダンプが傍らの車道を通り、激しい轟音と震動が車体を揺さぶった。

「村田一家の人間関係は全て洗い出しましたが、周囲にも親戚にも家庭内にもこれといったトラブルはなく、村田一家の誰かが恨みを買っていたとは思えなかったので、怨恨の線はすぐに消えました。今のところ、もっとも可能性が高いのは強盗ですが、可能性が高いからと言って断言してしまうのは危険です。捜査本部内では、強盗で決定したような雰囲気になっていますが、俺はそうじゃないかもしれないと踏んでいます。事件当初からね」

 谷崎は、独り言のように続けた。

「それから事件捜査が開始されましたが、橘さんもご存知の通り、成果は芳しくありませんでした。ろくな証言も物証も取れず、被疑者も絞り込めず、いたずらに時間だけが過ぎていきました」

 静香は黙ったまま、正面を見つめていた。

「あっという間に半年が過ぎ、一年が過ぎた頃には、捜査人員は大幅に削られてしまった。俺は現場の人間なので詳しいことは把握していませんが、漏れてきた噂によれば、上の決定だそうです。これはたぶん、本当なんでしょう。一年が過ぎて、正弘君のリハビリが終わり、退院の日を迎えました。そして間もなく、身元の安全を確保するためと環境の変化で心身の健康を取り戻させるために、香川からこちらに転校してきたわけです。そしてようやく、橘さんは正弘君に絡んできます」

 谷崎は、淀まない。

「そして、あなたは自衛隊と会社に命じられて、正弘君と同居を始めたわけです。これが、大まかな経緯です」

 失礼、と谷崎は吸い終えたタバコを灰皿にねじ込み、火を消した。

「自衛隊からは情報を引き出せませんでしたが、その代わり、身内からはまた新しい情報を得ましてね。この情報に確信を得るためにも、あなたの証言が必要なんですよ、橘さん。正弘君の保護者としての意見ではなく、サイボーグ技術の携わる人間という観点からの意見を窺いたいのです」

 静香の視線が、彷徨う。

「村田一家の検死を行った検死官の話では、遺体の傷口はいずれも、硬く平坦でありながらそれほど大きさのないもので殴られていたそうです。丁度、体格の良い人間の、拳程度の大きさだそうです。凶器として考えられるのは、それくらいの大きさの石や鉄槌ですが、七人もの人間を襲うための凶器にしては心許ないです。大抵、もっと大きなものや、手っ取り早い刃物や銃器を用いるでしょう。ですが、少しばかり視点を変えて、凶器は凶器ではなかったのではないのか、と思ったんです。もしくは、最初から凶器など持っていなかったのではないのか、とね。これも、まぁ、その検死官の推論に過ぎませんがね。そこで、俺は思ったんです」

 谷崎は、語気を強めた。



「村田一家を惨殺した容疑者は生身の人間ではないのかもしれない、と」



 静香は燃え尽きそうなタバコを口元から外し、灰皿に突っ込んだ。山盛りになっている吸い殻と灰が、零れた。

「…ストレートに言って頂けません?」

「では、言いましょう。これは、推論の域を出ませんが、容疑者はフルサイボーグではないのかと思うんです」

 谷崎は、いつになく饒舌だった。

「ついでに色々と調べましたら、六月七日には事故も起きていましたね。村田一家の住む町の近くの高速道路で、陸自の輸送車両が横転しています。乗員も少なく、負傷者もそれほどいなかったので普通の事故として処理されていました。俺も、ついこの間までは、この交通事故と事件は無関係なのだと考えていました。ようやく立ち直ってきた正弘君のためには、深読みしない方がいいかもしれない、真実を突き止めずにいた方がいいのかもしれない、とも思いましたが、これは刑事の性なんでしょうね。証拠がないために推論の域を出ませんが、それでも、俺は一つの結論に辿り着いています。俺の推論を馬鹿な話だと、下らない妄想だと笑い飛ばすのは、橘さんの自由です。ですが、意見を窺うためにも話しておきましょう」

 谷崎は、彼女に向き直る。

「事件の発端は、その交通事故にあるのでは、と思いましてね。六月七日の午後、何らかの原因で横転した自衛隊の輸送車両から、サイボーグ部隊に所属するフルサイボーグ、或いは護送中のフルサイボーグが逃走を図った。逃亡先は、村田一家の自宅。何らかの原因で異常を来していた、或いは錯乱していたフルサイボーグは、力任せに破壊活動を行い、村田一家全員を拳で惨殺した。拳大の鈍器が、金属で出来た拳そのものだと考えると、筋が通りますからね。そして、物証がないのもフルサイボーグだからだ。全身が機械のフルサイボーグなら、毛髪や皮膚や指紋は残りません。というより、元からありませんからね。となると問題は足跡ですが、俺も同じ国家権力を疑いたくはありませんが、自衛隊が証拠を隠滅するために消したのかもしれません。まぁ、邪推に過ぎませんがね」

 谷崎は、道端の街灯の明かりで輪郭を縁取られている静香の横顔を見つめた。

「何でも構いません。何か気付かれたことがあったら、仰って下さい、橘さん」

「何もありませんわ」

 ずっと黙っていたせいで、静香の声は少々掠れていた。

「何も」

 谷崎の言葉が止むと、車内には静寂が訪れた。外は暗さを増し、藍色の夜空には星が瞬き始めていた。
静香の横顔は、無表情だった。それを見ている谷崎もまた無表情で、お互いにお互いの様子を窺っていた。
 ダッシュボードのデジタルクロックが、午後八時を過ぎたことを示していた。静香は、黙ったまま車から出た。
ハイヒールの足音が遠ざかり、しばらくした後に彼女の車のエンジン音がし、赤いスポーツカーが通り抜けた。
流線形の車体が、闇に消える。谷崎は助手席と運転席の窓を開け、煙の充満した車内を換気することにした。
夜になっても蒸し暑い空気が流れ込み、煙を薄らがせる。同時に、甘く艶めかしい化粧の残り香も弱まった。
 谷崎はシートに背を沈め、深く息を吐き出した。タバコの煙と緊張で渇いてしまった喉が、少しばかり痛かった。
結論が、己の推論通りだとは思っていない。あくまでも、谷崎個人としての観点で考えた結果の推論だった。
静香からの答えがないのも、いつものことだ。彼女は谷崎という人間も好いていないのだから、心を開かない。
 もしも、谷崎の推論が真実に近いものだとしたら。もしも、捜査が進展し、正弘に真実を話す日が来るとしたら。
正弘は被害者なのだから、真実を知る権利がある。だから、話すのが必然であり、話さないでいるのはおかしい。
だが、フルサイボーグとなった彼にとって、家族を殺めた犯人が同じサイボーグだというのは、あまりにも酷だ。
 谷崎の推論が、外れていることを祈りたい。外れていたら、また別の角度から捜査を行えばいいだけのことだ。
手持ち無沙汰になり、またタバコに手を付けた。深く息を吸い込んで、肺一杯に煙を満たし、吐き出した。
 ゆるりと、紫煙が昇る。





 


06 12/7