非武装田園地帯




第十四話 傷痕



 帰りの電車は、三人だけだった。
 透と亘は、昼頃の電車で先に帰ったからだ。迷惑は掛けられないから、と落ち着きを取り戻した透は弱く言った。
こんな状態では一緒にいても楽しくないから、またああなってしまってはいけないから、と悲しげな目で繰り返した。
透の激しく取り乱した姿が忘れられないのか、さすがに百合子のお喋りも止んでいて、二人も黙り込んでいた。

 お母さん。

 それが、透を怯えさせた原因であることは間違いない。携帯電話を手にした瞬間に、彼女はパニックに陥った。
詳しい事情は解らない。だが、何かがあるのだ。透が苦しまなければならないほど、凄まじくおぞましいものが。
 百合子は、いつのまにか泣いていた。震える奥歯を噛み締めて膝の上で拳を固め、目を閉じると涙が落ちた。

「透君、大丈夫かなぁ」

「お前が泣くことねぇだろうが」

 鋼太郎が呟くと、百合子は手の甲で涙を拭う。

「だってぇ…」

「力になれれば良いんだけどな」

 正弘が漏らすと、鋼太郎は顔を伏せた。

「そうっすね」

 三人は、再び黙った。透への思いを、それぞれの内に巡らせる。鋼太郎は、彼女の様子を思い出していた。
百合子の見繕った可愛い服を着せられて、照れと恥じらいで頬を染めている透は、いつも以上に頼りなかった。
 だから、目を離せなかった。離してしまった時に、他の表情を見せているのではないかと思ってしまったからだ。
すぐにでも泣きそうなほど気弱な眼差し。儚げな笑顔。滑らかな白い肌。華奢な体。それに不釣り合いな、左腕。
 透の姿が、頭から拭えない。




 ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。
 謝っても謝っても、母親は許してくれそうにない。いつもより、ほんの少し早く帰ってきてしまっただけなのに。
手狭なアパートの部屋は、タバコの匂いと生臭い空気で満たされていて、居間から玄関にぬるりと流れ出してくる。
 玄関先に立ったまま、そこから先に入れない。ランドセルを下ろしてしまいたいが、それすらも許してくれない。
不機嫌な母親は、苛立ちを吐き出し続けている。出来れば聞きたくなかったが、勝手に耳に入ってきてしまう。
こんなことなら養育費に負けるんじゃなかった、さっさと手放しておけば良かった、子供なんて、嫌いなのに。
 嫌わないで。捨てないで。いい子にするから。そう言いたかったが、黙っていろと怒鳴られたので言えなかった。
言える言葉は、謝罪だけだ。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。お母さん。ごめんなさい。お母さん。
 ごめんなさい。




 冷や汗にまみれて、跳ね起きた。
喉の奥から嫌なものが迫り上がる感触があり、胃液の味がする。台所に駆け込み、シンクに水を大量に流す。
水が掛かるのも構わずに頭を突き出して、吐き出した。息苦しく、気分が悪く、勝手に涙がぼろぼろと出てくる。
 どれだけ吐き出しても、止まらない。胃液すら出なくなって、喉にひりつく痛みが起きてきた頃、ようやく収まった。
水を止めることも忘れて、崩れ落ちた。ぞっとするほど冷え切った体を抱き締めていると、兄が駆け寄ってきた。

「透!」

 亘は透を背後から抱き締め、震える肩を押さえた。透は、更に泣き出した。

「帰りたくない、帰りたくない、帰りたくないの!」

「帰らなくていいんだ、透はここにいていいんだ、だから落ち着け!」

 亘が叫ぶと、透は激しく息を荒げながらしゃくり上げた。

「怖いよ、お兄ちゃん、助けて、怖いよ」

 怖い、怖い、と繰り返す透を、亘はより強く抱き竦めた。それでも、震えは止まらない。

「大丈夫だ、透」

「お兄ちゃん!」

 透は、力一杯亘にしがみ付いてきた。普段は出来る限り使おうとしない左手で、亘の服の裾を握り締めている。
何度も吐き戻したせいで顔色は青ざめ、目は虚ろだった。焦点が合っておらず、亘の姿を捉えていなかった。
 一ヶ谷から帰ってきてすぐに透は疲労を訴えて倒れ込むように眠ったが、一時間ほどで突然飛び起きた。
眠ったから落ち着いたのだと思っていたが、そうではなかったらしい。亘は、己の判断の甘さが嫌になった。
 亘は、居間のテーブルに放置してある透の携帯電話を、忌々しく睨んだ。なぜ、今になって連絡してくるのだ。

「父さんが帰ってきたら、話そう」

 携帯電話には、透が眠っている最中にも着信があった。着信履歴は、お母さん、で埋め尽くされている。

「くそお」

 亘は悔しくなってきて、透の乱れた髪に頬を押し当てた。

「なんで、邪魔するんだよ」

 やっと、透が元気になってきたというのに。ごく当たり前の日常を取り戻して、笑ってくれるようになったのに。
透の母親は、透を捨てていった。拓郎を捨てて新しい男の元に飛び出し、それから、二度と戻ってこなかった。
亘も、そのことには随分苦しんだ。幼い頃に実の母親が亡くなっているので、母親と接したことはなかった。
 だから、透の母親が拓郎と再婚した時はとても嬉しかった。やっと人並みの家族を得ることが出来たのだ、と。
それまでは、母親のいない家庭が寂しくてたまらなかった。友達の家族と比べては、隠れて泣いていたりした。
だが、再婚したことで母親と妹が一度に出来た。家に帰っても一人ではなくなり、妹といつも一緒に遊んだ。
 しかし、それは透が幼かった頃だけのことだった。透が高学年になると、母親は時折姿を消すようになった。
それを不思議に思って父親に尋ねると、父親は非常に悲しい顔をして、何度となく亘と透に謝ってきた。
その時はなぜ父親が謝ってくるのか解らなかったが、成長した今では、その意味と理由はなんとなく掴めている。
 母親が帰宅しないようになってから、透の様子がおかしくなった。亘や拓郎に、敬語を使うようになった。
家族だから気にしないでもいい、と二人が言い聞かせても、透はその態度を変えずに他人行儀に接してきた。
私はこの家の子供じゃないですから、お母さんが出ていったら私もここを出ていきますから、と言ってきた。
日に日に透の表情が失せていき、笑わなくなり、食欲も激減したので元から細かった体が痩せてしまった。
明らかに無理をしているのが解ったが、それでも透は態度を変えなかった。頑なに、敬語を使い続けた。
 そして、透の母親は帰ってこなくなった。そんな折に、透は不幸にも交通事故に遭い、左腕を失ってしまった。
透の母親が恋人を連れて病室を尋ねてきた時のことは、亘も良く覚えている。丁度、透を見舞っていたからだ。
 透の母親は、左腕の切断手術を終えて間もない透を、汚いもので見るかのように軽蔑しきった目で見ていた。
派手な色を塗った唇が動き、とんでもない言葉が出てきた。死ねば良かったのに。あんたなんていらないのに。
 その後の記憶は、ぷっつりと途切れている。亘は、母親とその恋人に掴み掛かったらしいが一切覚えていない。
気付いたら、看護師に取り押さえられていて、ベッドの上では透がぼろぼろと泣きながら胃液を吐き出していた。
たまらなくなって、亘は制服が汚れるのも構わずに透を抱き締めた。そうしなくては、妹が壊れると思った。
 その日を境に、透の母親は亘と透の前には姿を現さなくなった。いつのまにか、拓郎と母親は離婚していた。
そのことを二人に話しながら、父親は何度も謝罪した。その姿は、見たことがないくらいに疲れ切っていた。
 鮎野町へ越してきてからは、三人は一年前の出来事を全て忘れたように振る舞い、苦しみを遠ざけていた。
透は新しい友達を得て、亘も一ヶ谷市の高校で気の合う友人と出会い、拓郎も仕事に精を出すようになった。
どうということはないが、心地良い日常を繰り返すうちに、家族の中に平穏が戻ってきたのだと思っていた。
 だが、違っていた。肝心の問題は手近な場所から離れていただけで、根本的な解決にはなっていなかった。

「透」

 亘が妹の名を呼ぶと、透は兄の胸元を握り締めた。

「ごめんなさい」

「透は何も悪いことなんてしていない。だから、謝らなくたっていい」

「違うの。皆に、悪いこと、しちゃったから」

 透は、苦しげに声を上擦らせる。

「せっかく、皆で楽しくしてたのに、私のせいで、私がこうなっちゃったから、私がダメだから、弱いから」

「皆も、ちゃんと話せば解ってくれる。だから、そんなに心配するな」

「あんなに楽しいの、初めてで、もっと、皆と一緒にいたかったのに、買い物もしたかったのに、したかったのに」

「もう一度、行けばいい」

「で、でも、でも」

「大丈夫だ、大丈夫だから。オレがちゃんと守ってやる」

「ごめんなさい、お兄ちゃん。ごめんなさい、本当に」

「兄妹なんだから、当たり前だ。透は、オレの大事な妹なんだから」

 亘が笑ってみせると、透は少し安堵したようだった。

「…うん」

「二階に行こう。その方が、眠りやすいだろう」

 亘は透を立ち上がらせ、流しっぱなしになっていた水を止めた。足元のおぼつかない妹の体を、支えてやる。
階段を昇って二階に行き、透の部屋に入った。透は畳に座らせて、亘は押し入れから布団を出して敷いた。
透は申し訳なさそうにしていたが、亘に促されて布団に横たわった。一緒に出したタオルケットを、被る。

「お夕飯、どうしよう」

 透は、亘に目をやった。亘は、透の枕元に座る。

「それぐらいオレがやる。だから、気にするな」

「うん」

 透は頷くと、目を閉じた。亘は透が寝入るまで枕元に座っていたが、寝息が聞こえてきたので立ち上がった。
ゆっくり休めよ、と小声で言ってから透の部屋を出て、自室に入った。後ろ手に引き戸を閉め、息を吐いた。
両の腕を下ろし、その場に座り込んだ。腕に残る透の体温と感触が生々しく、すぐには消えそうになかった。
 妹の体は、あんなに柔らかかったのだろうか。小学生の頃や中学生になったばかりの頃は、ただ痩せていた。
薄い肉に包まれた細い骨格は、力を込めれば折れてしまいそうなほど頼りなく、最初に抱き締めた時に驚いた。
切断手術をして間もなかったから入院着を着ていたのだが、胸の下をまさぐれば、肋骨に触れられそうだった。
 子供そのもので、体形に丸みはなかった。それが、どうだ。たった一年で、ささやかながらも女らしくなった。
後ろから抱き締めた時に、胸の膨らみに思い掛けず触れてしまった。今までは感じなかった、甘い匂いがした。
意識してはいけないと思えば思うほど、透の女らしさが目に付いてくる。妹は異性なのだと、実感してしまう。
 お兄ちゃん。透の弾んだ声が、不意に蘇る。重みにも似た苦しさが湧き、亘は透の掴んでいた胸元を掴んだ。
 そこにはまだ、妹の温もりが残っていた。




 透は、浅い眠りから目を覚ました。
 眠ったはいいものの、神経が高ぶっているせいで寝入ることが出来なかったようだ。仕方なしに、寝返りを打つ。
兄の胸の広さが、忘れられない。すぐ傍で高鳴っていた心臓の音や、熱い体温や、男っぽい声が蘇ってくる。
頭を何度も撫でてくれた手も、あんなに厚く大きかっただろうか。体が覚えているものとは、大分違っている。
 手を繋いだことはあったが、それは幼い頃だけだ。亘が中学校に進学してからは、遠慮して繋がなくなった。
もう妹と手を繋ぐのは恥ずかしいだろう、と透から自粛した。兄もそう思っていたようで、手を伸ばさなくなった。
だから、亘の手がどんなものだったかすっかり忘れていた。あんなにも心地良く、安心出来るものだったのか。
 透は兄に触れられていた髪に、手を触れた。散々泣き喚いてしまったせいで、ぐしゃぐしゃに乱れている。
梳かしておきたくなったが、気力が湧かないのでそのままにした。寝て起きてから、整えれば良いだけだろう。
透は、部屋のテーブルに載せてある買い物袋に気付いた。帰ってからすぐに眠ったので、開けていなかった。
あの中には、百合子の見繕った可愛い服が入っている。それを着た自分を思い出し、透は赤くなってしまった。
 買ってきたのだから、ちゃんと着なければ勿体ない。でも、あんなに恥ずかしい思いはもうしたくなかった。
けれど、兄は、亘はを可愛いと言ってくれた。友人達に褒められたのも嬉しかったが、それが一番嬉しかった。
それ以上に照れくさかったけど、可愛いと言われれば悪い気はしない。もう一度ぐらい、着てみようかと思った。
 携帯電話は、一階の居間に置いてある。自室にいれば着信音は聞こえないから、不安には苛まれないで済む。
出来ることなら、完膚無きまでに叩き壊してしまいたかったが、あの中には百合子らからのメールが入っている。
母親の影に怯えてしまうことよりも、それらを失うことの方が余程辛い。だからもう、母親のことは忘れよう。
 楽しいことだけを考え、彼らと共に過ごした日々のことを思い出し、兄の優しさを味わいながら、眠りに落ちた。
 痛みを、忘れるために。





 


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