薄紅色の、淡き幸せ。 幾重にも、桜の木が連なっている。 新緑の木々を背景にして、春の象徴のような薄紅色が視界に満ちている。それが、車窓の外を流れていく。 窓を開けると、草木の青い匂いに混じって花の匂いもする。透は無意識に歓声を漏らし、その光景を見つめる。 山頂へと続く道路の両端には、夜桜を照らすための灯籠が吊り下げられていて、商店街の店名が入っていた。 きっと、夜には花見客が多く来るのだろう。そんなことを思いながら、透は身を引き、パワーウィンドウを閉めた。 シートベルトを直してから、運転席に座る兄を見やる。カーブが多いので、亘は慎重にハンドルを曲げている。 透の視線に気付いた亘は、横目に妹を見たがすぐに前に向いた。心なしか、その横顔は緩んでいるようだった。 「上に着いたら、もっと景色が良いと思うぞ」 「うん」 透は頷いてから、また桜並木を眺めた。無数の桜の花が咲き誇っている光景は、ふわふわと柔らかく幻想的だ。 二人で一緒に花見に出掛けることは、前々から決めていたことだった。透もそうだが、亘もまた楽しみにしていた。 透は車に酔いやすいので、あまり遠い場所へは行けない。ということで、一ヶ谷市郊外の山に行くことにしたのだ。 この山はソメイヨシノが多く植樹されていて、綺麗だと評判ということと、丁度花見シーズンだからということもある。 道の途中にある駐車場には、花見客のものと思しき車がびっちりと駐まっていて、この分だと人出は多そうだ。 亘は車を駐車出来るかどうかを気にしながら、上へと向かった。花見は花見なのだが、他人とは少々目的が違う。 透は、桜の写真撮影とスケッチをしたい、と言った。亘はその運転手と付き合いを兼ねて、同行することにした。 写真を撮るにしても、スケッチをするにしても、それは透が一人ですることであって亘が関われることではない。 増して、亘は、父親が写真家で妹は絵心があるにも関わらず、そのどちらにも興味がない上に才能が皆無だった。 だから、出来ることと言ったら、透の見る景色を一緒に見ることぐらいだ。だが、亘はそれだけで満足している。 大学に進学してからというもの、高校時代以上に忙しくなってしまい、透と接する時間が大幅に減ってしまった。 また、透も高校に進学したばかりなので忙しくなり、近頃では擦れ違い気味で一緒に出掛けること自体が久々だ。 そのせいもあって、今日は二人とも気分が浮ついていた。淡く、儚げな桜の色も、多く連なると力強く見える。 亘は、透の横顔を窺った。交通事故のせいで進学が一年遅れているので、高校一年生だが今年で十七歳になる。 顔立ちからは幼さが消えてきて、元からあった大人びた雰囲気が前面に押し出され、表情も我が強くなってきた。 左腕も機械そのものの腕から、人間そっくりの最新式の義腕に換装したので一見ではサイボーグとは解らない。 メガネの下の澄んだ黒い瞳が、桜の色を映している。亘は透に向いていた意識を、ハンドルに戻して前に向いた。 桜は、どこまでも続いている。 山頂の駐車場に着き、二人は車を降りた。 花見客による宴会が行われている広場を通り過ぎ、奧へ奧へと向かっていくと、喧噪が次第に遠ざかっていく。 亘は、透の大きなバッグを左肩に担いでいた。大学の野球部でもピッチャーなので、肩には気を遣っている。 透は亘の歩調に追い付けないらしく、少し遅れて付いてくる。引き離されると小走りに走り、間を狭めていた。 だが、元々体力のある亘とそれほど体力のない透ではすぐに差が開いてしまい、また距離が空いてしまった。 それに気付いた亘が立ち止まると、透も立ち止まった。透は水色のカーディガンの襟元を直しつつ、息を荒げる。 「大丈夫」 「そんなに急がなくてもいい。オレが合わせる」 亘が笑うと、透は首を横に振った。 「いいの」 透は意地になっているのか、唇を尖らせる。亘は、透に手を伸ばす。 「こうすれば、離れないだろう?」 透は気恥ずかしいのか、靴底を引き摺るように後退り、頬を押さえてしまう。 「でも」 「ほら」 亘は透の左手を取り、引っ張った。透は少しよろけたが、兄に従って歩き出した。 「…うん」 遠慮がちに頷いた妹に、亘は再度笑った。手に伝わる妹の新しい腕の感触は、前のものとは違い温かかった。 以前の外骨格強化型の義腕とは違い、人工人皮を外装に使っているので、疑似体温が表面に施されている。 装着者の体温を感知して合わせているので、生身の部分との体温の差はなかった。だが、感触は違っている。 生身の肌にある水気が一切なかった。開発当初よりは改良されたらしいのだが、どうしても潤いは足りなかった。 だが、嫌悪感はなかった。この腕もまた、妹なのだから。透は亘の傍までやってくると、伏せていた顔を上げた。 頬の色を桜よりも濃くさせた透は、周囲を見回して人影がないことを確かめてから、亘との間隔を慎重に狭めた。 妹の左手が、亘の右手を握り返してきた。 大分歩いて、ようやく透の気に入る場所に辿り着いた。 亘は良さそうだと思っても透にとっては気に食わない部分があるのか、なかなか透は立ち止まろうとしなかった。 三十分近く吟味をしてから、やっと決めた場所だった。だがやはり、亘には、場所の善し悪しは解らなかった。 広場が遠くなったので花見客の残したゴミも見当たらなくなり、人の気配もなくなって、二人きりになっていた。 斜面があるのか、木々の先にはフェンスがあった。透はフェンスの傍まで寄ると、浮かれながら亘を手招いた。 「お兄ちゃん!」 「どうした」 亘は透の背後に立つと、透は山の中腹から麓に繋がる桜並木を指した。曲がりくねった道路に沿っている。 「ほら、あれ。さっき、通ってきた道だね」 「二高はあっちかな」 亘は身を乗り出し、市街地の東側を見やった。遥か遠くに、見覚えのある白い校舎が建っている。 「一高は、あっち」 透は、市街地の南西側を指した。その先には、それほど新しくはない校舎が建っていた。 「結構離れてるんだな」 亘が言うと、透は亘が担いでいたバッグを下ろさせて地面に置き、ファスナーを開けた。 「うん。方向、逆」 透はバッグの中から、一眼レフのカメラを取り出した。フィルムも何本か取り出すと、ポケットに詰め込んだ。 「ちょっと、撮ってくる」 「あんまり遠くに行くなよ」 亘が透の背に声を掛けると、桜の木々の中に戻った透は振り返り、頷いた。 「大丈夫。この辺りだけだから」 ショートカットの髪を揺らしながら、透は遠ざかっていった。亘は、妹の頼りない背中を目で追い掛けていた。 フェンスに寄り掛かり、桜の木を見上げている透を眺めた。亘にとっては、桜よりも、透の方が余程美しかった。 兄の欲目だけではなく、恋心というフィルターが掛かっているから、どんなに些細なことでも目に付いてしまう。 それが、とても愛おしかった。高校生の頃に感じていた、劣情と隣り合わせの恋心とはまた違った感情だった。 血の繋がらない妹、透と、兄と妹以上の関係に至ったばかりの頃は、亘は透の体が気になって仕方なかった。 もちろんそれだけで好きなのではないのだが、少女から大人になりかけている妹の姿形は、儚げな色気があった。 簡単に折れてしまいそうな首筋や鎖骨が見えるたびに鼓動が跳ねて、ただ一度見た素肌が忘れられなかった。 透の心の傷に触れてしまうので、あの雪の日以降は妹を組み伏せることはなかったが、頭にこびり付いていた。 何度となく頭の中で再現して、そこから先に至る夢も見てしまうことがあり、そのたびに深い自己嫌悪に陥った。 その夢が強烈すぎて、欲望を放ってしまったことも多い。それほどまでに、透の存在は亘の中で大きくなっていた。 高校時代には、東京からの転校生だったからか、クラスの女子に近付かれたこともあったが目に入らなかった。 透のことしか頭になかったからだ。それは弱まるどころか増大するばかりで、透との距離もまた狭まりつつあった。 透が中学生で亘が高校生だった頃は、どちらも遠慮している部分があって、兄と妹の体面をきちんと保っていた。 だが、透が高校生になって亘が大学生になると、その遠慮が次第に薄らいできて、一緒に眠る日も増えていた。 何もしない、というわけにはいかなくなっていた。透の心の傷も徐々に癒えてきたので、触れられるようにはなった。 けれど、そこから先へは進めないままだ。透が最後の部分で身を固くしてしまうから、亘も強要は出来なかった。 しかし、それでいいと思っている。透が子供であるうちは、亘の存在はあくまでもお兄ちゃんであるべきなのだ。 透の姿は亘の視界から外れない。というより、透は、亘の目に入る場所でだけ、景色を撮影しているらしかった。 不意に透が振り向いたので、亘と目が合った。透は首から提げたカメラを掲げてみせ、照れくさそうに笑った。 「お兄ちゃんのこと、何枚か、撮っちゃった」 「オレを?」 思いも寄らないことだったので、亘は目を丸くした。透は、カメラを軽く撫でた。 「うん。だって、なんだか、素敵だったから」 「じゃ、それ貸してくれ」 亘はフェンスから背を外し、手を伸ばした。透は、きょとんとする。 「え?」 「透も撮ってやるよ。そんなに綺麗に撮れないだろうけど、使い方ぐらいは解るから」 「だけど」 透が躊躇ったので、亘は透に近付いてその手からカメラを取った。 「オレばっかり撮られるのは、不公平じゃないか」 「うん…」 透は、遠慮がちに受けた。手で髪を撫で付けていたが、亘から離れて桜の木の元に立った。 「ピントはオートフォーカスだし、露光も合わせてあるから、そのままでいいよ」 「了解」 亘は、透にレンズを向けた。透はやや控えめながらも、笑顔を浮かべてくれた。すかさずシャッターを切った。 満開の桜から舞い降りてくる花びらが、透の髪に付いた。それを取ろうとした透の姿も、何度となく撮っていく。 ちょっと困ったようにこちらを見る表情も、かなり恥ずかしそうにしながらポーズらしきものを取る姿も、撮った。 気付けば、フィルムが終わっていた。亘がカメラを下ろすと透は小走りに寄ってきて、あ、と小さく声を上げた。 「終わっちゃった」 「悪い」 亘が謝ると、透はカメラを受け取った。 「いいよ。フィルムは、まだ三つあるし。それに、絵も描きたいから」 「透」 亘は、透の頬に触れた。照れで紅潮していたためか、少し熱くなっていた。 「お兄ちゃん…」 透は目線を彷徨わせながら、何か言おうとしたが飲み込んでしまった。亘は、透の髪を乱した。 「しないよ。外だしな」 「あ、うん」 透はほっとしたのか、安堵の息を漏らした。亘は、少し意地悪く言ってみた。 「それとも、してほしかったのか?」 「そ、そういうんじゃ、なくて、えっと、その」 途端に透はしどろもどろになり、真っ赤になってしまった。亘は、それが可愛くてたまらなかった。 「冗談だよ」 「あうぅ…」 透は亘に背を向けると、頬を両手で覆ってしまった。亘は、透の頭を軽く押さえる。 「そんなに間に受けるなって」 だってぇ、と力なく抗議する透は、恥ずかしさのあまりに少し目が潤んでいた。亘は、顔が独りでに緩んでしまう。 もっと意地悪したくなるが、あまりそういうことをすると透は泣いてしまう。それもまた、たまらなく可愛いのだが。 透は拗ねたように亘を睨み付けたが、まだ恥ずかしいのかすぐに目線を逸らしてしまい、身を縮めてしまった。 亘は、透の背に覆い被さった。体全体に感じる妹の体温は春の気温よりも優しく、間近に感じる匂いも甘い。 透は僅かに身を固くしたが、亘の胸に体重を預けてきた。頬に触れる妹の髪は細く、さらさらと心地良かった。 腕に力を込めると、弾力が返ってくる。それは三年前よりも幾分か柔らかく、妹が女になったことを示していた。 透は、亘の肩に頭を乗せてきた。亘は透の華奢な肩を手の中に収めると、透の温もりを感じながら目を閉じた。 愛しさで、息が詰まってしまいそうだった。 07 2/4 |