透は折り畳み式の椅子に座り、膝にスケッチブックを載せている。 色とりどりの色鉛筆がずらりと並んだケースから数本取り出すと、手の中に何本も持ちながら紙上に走らせる。 桜並木ではなく、桜並木をフレームにしてそこから見える市街地を描いていた。色が重なり、別の色に変わる。 目線を動かしながらも手を休めない透の横顔は真剣そのもので、亘は邪魔をしてはいけないと思い、黙っていた。 時折吹き付ける風には、春先の水の匂いと桜の香りが入り混じっている。日差しは強く、軽く汗ばむほどだった。 透が持ってきたやたらと大きなバッグの中には、昼食の弁当や水筒だけでなく、様々なものが詰め込まれていた。 細かなものも多いので相当ごちゃごちゃするはずなのだが、几帳面に整頓されていて取り出しやすくなっていた。 画材は色鉛筆だけでなく、普通の鉛筆や水彩絵の具も入っていて、当然ながらパレットと小さいバケツもあった。 レンズも、一眼レフだけではなく少しサイズの大きいものが入っていた。道理で重たいと思った、と亘は納得した。 透が心配性で几帳面なのは前々から知っていたが、その準備の良さは回を増すごとに徹底されていくようだ。 そのうち、テントでも担いできそうだ。亘はそんな想像をしながら、もう一つの折り畳み式の椅子に座っていた。 透の右手が、動きを止めた。色鉛筆をケースの中に順序良く並べてから、ふう、と力を抜くように息を吐いた。 「気が済んだか?」 亘が尋ねると、透は頷いた。 「一応」 透はメガネの蔓を指先で押して、位置を直した。 「ねえ、お兄ちゃん」 静かながらも力のある声が、間近から聞こえた。吹き付けてきた風に桜並木が揺さぶられ、薄紅色が舞う。 ざあざあと枝が擦れ、地面が花びらに覆い尽くされていく。透は風に乱された髪を、機械の左手で掻き上げた。 「最近、鏡を見るのが、嫌なの」 気弱だった眼差しから温度が失せ、口調も硬くなる。 「鏡を見ると、よく解るの。私を半分構成しているのは、あの女の血なんだってことが」 「透」 亘が身動ぐと、透はスケッチブックを閉じてバッグの中に入れた。 「お兄ちゃんには、解らないかもしれない。でも、私には、よく解るの。顔も、声も、近くなってきたの」 亘が透の傍に寄ると、透は生気の失せた目を瞬かせた。 「私の中に、あの女があるのかと思うと、気持ち悪い。私もあの女と同じになりそうで、嫌で嫌でたまらないの」 「透は透だ、あいつなんかじゃない」 亘が透の肩を支えると、透は兄の手に自分の手を重ねた。 「解ってる。でも、そういうことが遺伝するのは、姿形だけじゃないらしいから」 「透は、絶対にああはならない」 「だと、いいんだけどね」 透は兄の厚い手に頬を当てて、その体温を味わった。 「昔、聞かされたことがあるの。あの女の親も、やっぱりあんな感じだったんだって。父親も母親も、外にばかり目が向いていて、手当たり次第に手を付けていたらしいの。だから、あの女の父親も、戸籍上の父親とは違うんだって。頭おかしいよ、どいつもこいつも」 妹の表情が、失せていく。 「でも、その血も、私の中に混じっているんだよね。抜けるものなら、全部抜いて、別のを混ぜちゃいたいよ」 「もういい、解ったから」 亘は、透の強張った体を抱き締めてやった。だが、透の目は亘を捉えない。 「解ってない。お兄ちゃんは、全然解ってない。お兄ちゃんは、ちゃんとしたお父さんがいるし、お母さんもまともな人だから解らないんだよ。なんで、生き物って親がいないと生まれられないんだろうね。なんで、人間って、後先考えずにまぐわうんだろうね。本当に、嫌。自分が気持ちいいだけで、その先に出てくるもののことを、ちっとも考えないし。きっと、あの女の親の親も、その親の親も、そうだったんだよ。汚くて下品な血が、ずっとずっと流れているんだ」 透の目は、虚空を見つめている。 「でも、その汚いのが、左腕と一緒に少しだけ抜けたんだよね。だから、なんとか平気」 「そうか」 亘は透の左腕に、手を這わせた。透の眼差しが少しだけ緩み、亘の胸に縋ってくる。 「うん。そうなの」 「だから、透は」 亘は、そこから先を飲み込んだ。交通事故で左腕を失った後から、透は母親に拒絶の意思を示すようになった。 事故のショックで錯乱しているから拒絶しているのだろう、と思っていたが、それだけではなかったということか。 それまでは、香苗の操り人形のような少女だった。自我も弱く、香苗の言われるがままに動いてばかりだった。 母親の血で構成された一部を失ったことで体の全てが母親ではなくなったから、透は自我を表に出したのだろう。 きっと、香苗からしつこく言われていたのだろう。あんたは私が作ったんだから私のものなのよ、ということを。 亘は、きついぐらいに透を抱き締めた。透は少し苦しげな声を漏らしたが、抵抗せずに亘の力を受け止めていた。 「あの時、お兄ちゃんが、十六歳だったら、良かったのに」 透の声色から強張りが失せ、恍惚が滲む。 「そうしたら、お兄ちゃんの血が、輸血されたかもしれないのに。そうなったら、凄く素敵だと思うのに」 「あの時、オレはまだ、十五だったもんな」 亘は、透の髪を何度も撫で付ける。透は、目を細める。 「ちょっと、早かった。あと二ヶ月ぐらい、後だったら、出来たのにね」 「そうだな」 亘が返すと、透は亘の胸を押して間隔を開かせ、顔を上げた。透は右手で亘の肩を掴むと、腰を軽く上げた。 距離は一瞬にして詰まり、唇に妹のそれが重なる。いつもは受け身の妹が、珍しく積極的に亘を求めてきた。 亘は閉じかけていた唇を開いて、透の後頭部を引き寄せて深く舌を差し込む。透に求められるまま、応える。 粘着質な水音の合間に、かすかに喘ぎが漏れる。透は亘の頭を両手で抱えていたが、それを離し、唇も離した。 「お兄ちゃん」 「そんなに、オレが欲しいのか?」 亘は一気に欲情してしまいそうになり、喉の奥が乾き切った。透は虚ろだった目に焦点を戻し、唇を舐めた。 「全部が」 今度は、亘が透を求める番だった。亘は透を引き寄せると、互いの唾液で潤っている妹の薄い唇に噛み付いた。 透の傷口が開くたびに、埋めてやりたい衝動が湧く。その傷口を自分で満たしてしまいたい、独占欲が生まれる。 桜の枝が擦れ合う音も、薄紅色の吹雪も、新緑の鮮やかな色も、何も見えない。在るのは、愛しい妹だけだった。 メガネが邪魔だと感じて、外させた。あ、と素顔を曝した透は手を伸ばしかけたが、追い縋ろうとはしなかった。 亘は透のメガネをポケットに押し込んでから、再び透を埋める作業に掛かった。何度も、何度も、口付けてやる。 欲望を愛情へと変換させながら、妹の内へ注ぎ込んだ。 微睡みから戻り、亘は顔を上げた。 はっとして辺りを見回すと、透は眠る前と同じ場所にいて、膝の上にスケッチブックを広げて描き続けていた。 亘はそのことにほっとしながら、フェンスに背を預けた。折り畳み式の椅子がぎしっと軋みを上げ、後ろに傾いた。 あれから先へ進めなかったのは、ここが外だったからである。室内であったり車内だったら、かなり危なかった。 透からキスされること自体がまず珍しいのに、あんなことを言われては、亘の理性を外しに掛かるようなものだ。 亘は欲望が現れていないことを確かめて、安堵の息を吐いた。幸い、下半身は辛うじて理性を保っていたようだ。 透を窺うと、透はスケッチブックの上に色鉛筆を手早く走らせている。今度は、桜並木を描いているようだった。 「あ、起きた?」 透は、先程の暗い表情とは正反対の柔らかな微笑みを見せた。亘は、苦笑する。 「昼、食べた後だったからな。悪い」 「春は、気持ちいいもんね」 透は微笑ましげにしていたが、その眼差しが、ほんの少し邪心を含んだ。 「私は、食べなくていいの?」 何の前触れもなく言われた言葉に動揺し、亘はフェンスに後頭部をぶつけた。がしゃっ、と耳障りな音がした。 「だって、お兄ちゃん、凄く気持ちよさそうだったから。それに」 透の指先が、亘の下半身を指す。 「結構、元気、だったから。何も、しなくていいのかなぁって」 「そんなところ、見てた、のか?」 亘が思わず赤面すると、透は笑んだ。 「さっきの、お返し。冗談」 くすくすと邪気のない笑い声を漏らしながら、妹はスケッチブックに向かった。亘は、血の気が引いた気がした。 前に、妹の囁きが悪魔の言葉のように聞こえたことがあったが、あれはあながち間違いではないのかもしれない。 但し、仰々しい悪魔の方ではなく、どちらかといえば可愛らしい小悪魔の方だ。どちらにせよ、侮りがたいが。 透は何事もなかったかのように、スケッチに戻っている。紙面を色鉛筆が走る軽快な音が、繰り返されている。 亘は背を丸めて頬杖を付き、透を眺めた。気弱な眼差しも、愛らしい仕草も、狂気の垣間見える表情も、愛しい。 「高校、楽しいか?」 「うん。皆もいるし、友達も、出来たし」 透はスケッチブックから目を上げずに、答えた。亘は、やり返した。 「浮気なんかしたら、許さないからな?」 「し、しないよ、そんなこと」 透はすぐに赤くなると、視線を彷徨わせた。 「出来るわけ、ないから」 透はぱたんとスケッチブックを閉じると、僅かに潤んだ瞳を亘に向けた。 「だって、こんなに、楽しいんだもん。お兄ちゃんと一緒に出掛けて、好きなだけ絵を描いて、写真も撮って、お弁当食べてもらって、一日中一緒にいられるんだもん。こんなに、嬉しいことって、ないよ。こういうことを、幸せ、って言うんだよね。お兄ちゃん」 「そうだな。オレも、幸せだ」 亘が笑うと、透は満面の笑みを浮かべた。 「うん。幸せ」 春の心地良い空気が、するりと足元を流れる。亘は透の笑顔を見つめながら、なぜか涙が出てきそうだった。 幸せ。亘にとっても縁遠い言葉だった。産まれてすぐに死したので、母親の顔は写真の中でしか知らなかった。 父親は亘を精一杯愛してくれているが、それでも仕事が忙しいので充分な時間が取れず、満足に接せていない。 新しく母親になってくれると思っていた女性は母親ではなく、自分の娘を物扱いするほど愛情が欠落していた。 亘も、透が来るまでは愛する感覚など知らなかった。妹が出来て、初めて他人が大事だと思えるようになった。 そして、亘の後を必死に追い縋ってくる小さな妹が示してくれる、拙いながらも温かな愛情で心が埋まっていった。 その妹の心は、深く抉られ、暗い闇の中に沈んでいる。前よりもまともになったとはいえ、中心は黒く淀んでいる。 完全に救い出すことは出来なくても、薄らがせることは出来るはずだ。透は、亘を幸せにしてくれる存在なのだ だからこそ、精一杯愛してやり、幸せにしてやりたい。亘は、再びスケッチに戻った透を見つめながら呟いた。 「綺麗だな」 「うん。凄く。だから、一杯描くの。桜も、他のものも」 満足げな透に、亘は首を横に振った。 「違う。透が、だ」 「え、あ、う、ど、どこが」 透は椅子から落ちそうなくらいに、身を下げた。亘は、透と同じ言葉を口にした。それが、相応しかったからだ。 「全部が」 透は耳まで赤くなって、固まった。照れと羞恥が限界を越えてしまったらしく、縮めた肩が細かく震えている。 力任せに抱き締めてやりたかったが、それでは透がオーバーヒートしてしまいそうなので、やめておくことにした。 亘は、顔が勝手に緩むのを感じていた。スケッチブックで顔を隠した透は背を丸め、変な唸り声を漏らしている。 透はスケッチブックを慎重に下ろして目だけ出したが、亘と目が合うと、素早く隠してがばっと背を向けてしまった。 他人からすれば、家庭も、関係も、そして愛情もいびつかもしれない。だが、二人にとっては、何よりの幸福だ。 透の中に自分の血が流れる。透がそれを言ってきた時は、少し畏怖を感じたが、考えてみれば素晴らしいことだ。 亘の血が透の命を繋ぐ。兄の命が妹の命を作る、ということなのだから。本当に、十六歳でなかったのが惜しい。 血の代わりにはならないかもしれないが、愛情ならいくらでも注げる。透がいる限り、際限なく生まれるからだ。 世界は、桜色に染め上げられている。その色は透の赤く染まった頬の色にも、薄く艶のある唇の色にも似ている。 そして、幸せの色のようにも思える。 07 2/5 |