非武装田園地帯




恋人岬



 辿り着いた先は、恋人岬ではなかった。
 恋人岬が見える砂浜に、静香の赤いスポーツカーは駐まった。静香が車外に出たので、正弘も出ることにした。
天気は良く、遠くに見える海水浴場には大量の人間がひしめき合っていて、沖にはウィンドサーファーもいる。
 二人のいる砂浜は海水浴場ではないので、人気は少なかった。砂浜に下りた静香は、サングラスを外した。
足を組み替えれば中身が見えそうなくらいに短いミニスカートを履き、胸を大きく開いたキャミソールを着ている。
キャミソールの上にタイトなジャケットを羽織っているが、それもまた丈が短いので、胸と足が強調されている。
車を運転している最中はローヒールのパンプスを履いていたが、車から出る時にミュールに履き替えている。
 対する正弘は、普段とこれといって代わりのない格好をしていた。Tシャツにジーンズ、ただそれだけである。
静香は、すっかり余所行きの顔になっている。部屋を出るまでは眠そうだったのに、外に出たら表情が締まった。
一時間以上掛けて整えられた髪型と化粧は、服装に見合って相変わらず派手で、何はなくとも目に付いてしまう。
静香はあまりレンズの大きくないサングラスをジャケットの胸ポケットに差してから、不機嫌そうに眉を曲げた。

「暑い」

「そりゃ八月ですから」

 正弘は、肩を竦めた。静香はポケットからタバコを出すと銜え、火を灯した。

「すっきりしないわね」

「八回裏が終わったばかりですからね。PLと智弁和歌山で、得点差は一点差と来ている。いい展開ですよ」

 正弘は、流線形のボディラインの赤い車に振り返る。移動中の車内では、甲子園のラジオ中継を聞いていた。

「今頃、鋼の奴がうるさいんだろうなぁ。でもって、ゆっこはそれに付き合わされている、と。透はどうだろう。亘さんは高校球児だったわけだし、そっちも付き合いで見ているかもな」

「気になるんなら、聞いてきなさいよ。試合結果」

 静香が車を指すと、正弘は首を横に振る。

「どうせ、夜になれば鋼が電話してきて、甲子園談義を小一時間ほど話してくれるんでいいですよ。鋼の熱暴走気味の話を聞き流していれば、試合結果は頭に入ってきますし。あれは、時間遅れの実況中継みたいなもんですから」

「それ、鬱陶しくない?」

「ちょっとは。でも、電話してきてくれるだけ、ありがたいじゃないですか」

 正弘は、嬉しそうだった。静香は、タバコを銜えている唇の端から煙を零した。

「そういうもんかしら」

「それで、何がどうすっきりしないんですか?」

「試合のことはどうでもいいわけ? ていうか、天然でボケたんじゃなかったの?」

「オレも野球は好きですけど、鋼ほど熱心じゃないんで、割とどうでもいいです。ついでに言えば、計算です」

「何よそれ」

「まぁ、静香さんがすっきりしない理由は、解らないでもないですけどね」

 正弘は日差しできらきらと輝く水平線を見つめながら、ジーンズの両ポケットに手を突っ込んだ。

「オレがしたことは、いけないことですから。色んな意味で」

 焼け付いた砂が、潮風に舞い上げられている。砂浜に打ち寄せた波が崩れて弾け、細かな水飛沫が散った。

「すいません」

 沈痛な謝罪が、潮騒に掻き消された。静香は、タバコを指に挟んで唇から外した。

「だから、別にいいわよ。あたしは処女ってわけじゃないんだし」

「だからって、いいってわけでもないですよ」

「悪いのは、マサだけじゃないわよ。あたしも、充分馬鹿だったのよ」

 静香はタバコを持った手を下ろし、正弘を見上げた。鋭利な日差しに照らされ、銀色の装甲が眩しく光っている。

「あんたを煽ったのはあたし。だから、半々ってことよ」

「だから、自衛隊の話をして、あんなに文句を言ったんですね。あれって、そういうことだったんですか」

 正弘は若干腹立たしげに、ため息を吐いた。

「でも、どうしてそんなことしたんですか」

「マサ。クラスに可愛い子とか、いる?」

「なんですか、唐突に」

「いいから答えなさいよ」

「まぁ…いないこともないですよ。垢抜けてないですけど」

 それがどうかしたんですか、と正弘が続けると、静香は唇を不愉快げに曲げた。

「あー、そう」

「だから、なんなんですか。変ですよ、昨日から」

「どうでもいいじゃない。マサには関係ないんだから」

「いいえ、ありますよ。大いにありますよ。まさかとは思いますけど、静香さん、変なことでも考えたんですか?」

「何よ、変なことって」

「静香さんのことだから、ないとは思いますけど、もしもそうだったら笑えてしまうんですが」

「だから何なのよ。はっきりしないわね」

「これでオレの方に浮いた話の一つでもあれば、それで確定なんですけど、微塵もないですからね」

 正弘は自嘲気味の半笑いになり、口調も上擦っていた。

「オレの考えすぎだな。もしも、オレがどこぞの女子から告白されていたとか付きまとわれていたとしたら、静香さんが妬いた挙げ句にああいう行動に出た、とも考えられるんですけど、妬く要因がありませんから」

 正弘の口調が、ほんの少しだけ強張った。

「今度こそ、出ていきますから。三月になったら、ちゃんと」

 正弘はポケットから両手を出すと、静香の両肩を掴んだ。

「マサ」

 僅かに身動いだ静香を、正弘は引き寄せた。

「あなたは、本当にどうしようもない人だ。オレの知る限り、こんなにダメな人はいない。家事なんてろくに出来ないし、金遣いも荒いし、悪いところだらけだ。でも、オレも、どうしようもないんだ」

 頬に接した正弘の胸は広く、少年らしくなかった。そして、頭上から聞こえてくる言葉もいやに大人びていた。
静香は指の間から、タバコを落としてしまった。誰かに抱き締められるなんて、一体、どれくらいぶりになるだろう。

「どうやら、オレは、あなたのことが好きらしい」

 正弘は、静香の体を胸に押し付けさせた。昨夜、体の下で息を荒げていた時と同じく、鼓動は高鳴っている。

「オレは馬鹿だ。本当に馬鹿だ。曲がりなりにも保護者なのに、別れなきゃならないって思ったら急にその気になっちまってあんなことまでやらかした。本当に、どうかしてる。出ていく日まで普通でいられると思ったけど、無理だったみたいだ。だから、ちょっと煽られただけで我慢出来なくなっちまった。本当に、馬鹿だよな」

「馬鹿なのは、どっちもよ」

 静香はタバコを失った手で、正弘の胸元を握り締めた。敬語ではない言葉遣いは、初めて聞いたかもしれない。

「あたしも馬鹿なの。あんたみたいなガキに、なんでこんなに本気にならなきゃならないのよ。訳解らない」

「…え?」

 正弘が、静香を見下ろしてきた。静香は目を合わせることが出来ず、正弘の胸に額を当てた。

「馬鹿ね。女ってのはね、適当にいじられただけで感じるほど単純じゃないの。その気がなきゃ、濡れるわけがないのよ。マサの推論も間違いじゃない、つーか、的中よ。あたしもガキかってーの。あんたがどうこうしたってわけじゃないのに、勝手に想像して、勝手に妬いて、挙げ句にあんなこと、無茶苦茶ハズいじゃないのよ!」

 恥ずかしさのあまり苛立ってしまい、静香は正弘の胸元を殴り付けた。正弘は、戸惑う。

「なんで、そこで怒るんですか」

「自分が情けないから! 死ぬほど恥ずかしいから!」

 ガキかあたしは、と嘆きながら静香は正弘に縋り付いた。

「で、どうするわけ」

「何がですか」

「だから、人に告っといて何もなしっつーのはないでしょうが!」

 顔を上げた静香は、頬が紅潮していた。正弘は、がりがりとマスクを引っ掻いた。

「えーと、でも、返事は」

「高校生のくせに、前後の文脈で想像出来ないわけ?」

 静香に睨まれ、正弘は口籠もった。

「いえ…。でも、あれを告白というのはどうかと思いますけど。ただの自虐じゃないですか」

「黙れ。あたしがそうだと言ったらそうなのよ!」

「なんですかそのジャイアニズムは」

「やりづらいわね! 変なリアクションしないでよ!」

「それはこっちのセリフです」

 正弘は静香の両肩を押して離させると、真正面から見下ろした。

「そうやっていちいちむきになられると、可愛いんですけど、正直扱いに困ります」

「どっ、どこが可愛いってのよ!」

「そうですか、自分じゃ解りませんか」

「どこが…」

 正弘から面と向かって褒められたことがなかったので、静香は思い切り照れてしまった。正弘は、笑う。

「そういうところが」

 正弘はポケットを探ってハンカチを取り出すと、静香の唇を拭って口紅を落とした。静香は、後退る。

「何するのよ」

「そのままじゃ、マスクにべったり付いちゃうんで。あと、化粧してない方が可愛いですよ」

 正弘は静香の顎を掴むと、上向かせた。

「あたしもマサに注文していい? あんたにやられっぱなしってのは癪だわ」

 静香は正弘の手を外させると、シャツの襟首を掴んで強引に屈ませた。

「敬語、やめてくれる?」

「なんでですか?」

「その方がやりやすいからよ」

「はあ」

 正弘が曖昧な返事をした直後、静香は正弘のマスクに唇を当てた。正弘は身を引きかけたが、思い止まった。
身長差がありすぎるので背伸びをしている静香に合わせて、背を曲げた。好きになる要素など、一つもないのに。
 そもそも、彼女のような人間は好みではない。自堕落で、無遠慮で、派手で、鼻に付く部分の方が余程多い。
だが、好きだ。別れてしまうと思っただけで、感情が情欲となって溢れ出してしまうほど好きでたまらなかった。
 百合子に対して感じたそれとは、方向性が違う。百合子への恋心は、同情と友情の混ざった淡いものだった。
しかし、静香に対する感情は濃く、熱を帯びている。抗えないほど強烈な衝動と化して、内から迫り上がってくる。
マスク越しの口付けだから何も感じられないはずなのに、ないはずの心臓が締め上げられるような錯覚を覚えた。
別れたくない。離したくない。正弘は荒い手付きで静香を掻き抱き、感じられない彼女の感触を感じようとした。
 潮騒だけが、聞こえている。





 


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