非武装田園地帯




恋人岬



 結局、二人は恋人岬に行った。
 だが、鍵を付ける展望台には行かなかった。時期が時期だけに、多数のカップルが群がっていたからである。
車を出た二人は、展望台から外れた場所から海を見下ろしていた。高さが変わっただけで、景色は先程と同じだ。
化粧を直した静香は、横目に正弘を窺った。正弘は照れくさいらしく、静香と目を合わせようとしなかった。
静香もまた、そうだった。正弘と目を合わせると逃げ出したいほど恥ずかしくなるので、ずっと顔を背けていた。

「な、なんか、買ってきます」

 場が持たないと思ったのか、正弘は売店に向かった。静香はタバコを取り出そうと思ったが、やめた。

「あんたはパシリか」

 正弘が戻ってくるまでの間、静香は日本海を眺めた。遠くに見える佐渡島に向け、フェリーが航行している。
三年前に来た時は冬だったので、海の色も淀んでいたが今は真夏だ。周囲の景色も、夏らしい鮮やかさがある。
若い男と女の歓声が聞こえてきて、静香は軽く苛立った。先程のことが尾を引いているので、気が立っている。
 正弘の真意は解った。静香に煽られるがままに行動してしまった理由も、彼らしからぬ荒っぽさがあった原因も。
別れたくないから抱く、というのは、かなり直情的だ。正弘らしくない。だが、らしくないから、余計に熱く感じた。
正弘にそこまで思われていたのかと思うと、嬉しいやら恥ずかしいやらで、静香はまた激しい照れに襲われた。
 今まで、誰かにそこまで好きだと思われたことがない。過去に付き合った男達とは、いつも遊びで終わっていた。
家族の関係が冷え切っていたので、親兄弟からもあまり大事にされていなかったし、まともに愛された記憶がない。
その心の飢えを埋めたかったから、遊び回り、浪費し、男遊びを繰り返していた。だが、埋まった試しはなかった。
 しかし、正弘が相手ならどうだ。静香も正弘のことを男として好いているから、というものもあるが桁違いだ。
全てとまではいかないが、心身が満たされている感覚があった。だから、タバコを吸う気がまるで起きなかった。
苦い煙を肺に吸い込んでしまうと、胸中に満ちているものが穢されてしまうような、壊れるような、そんな気がした。

「えっと」

 正弘の情けない声がしたので振り返ると、正弘は缶コーヒーと缶のスポーツドリンクを持って立っていた。

「これで、良かったですか?」

「なんでもいいわよ」

 静香は、正弘から手渡されたよく冷えた缶コーヒーを開けた。正弘は、スポーツドリンクの缶を開けた。

「来てみたのはいいですけど、やっぱりやることありませんね。鍵でも買って、名前を書いて付けてきます?」

「あたしと愛を誓うなんて想像しただけでおぞましいって言ってたのはどこの誰よ」

「すいません」

 正弘は、条件反射で平謝りした。静香は、缶コーヒーを傾ける。

「マサ。どうして、あたしなんか好きになったわけ?」

 正弘はマスクを開いて飲用チューブを出してスポーツドリンクを啜っていたが、止めた。

「よく、解りません」

 考えあぐねた挙げ句、正弘は素直に心境を吐露した。静香は缶コーヒーを飲み干して、缶を下ろした。

「あたしもよ」

 正弘を男として意識したといっても、大したことではない。もう子供ではないんだな、と思う程度でしかなかった。
趣味は少女じみているが、男らしい部分も垣間見える。けれど、それだけで、好きになった覚えなどなかった。
しかし、好きだ。途中経過を飛ばして、感情だけが先走る。静香は横目に正弘を見たが、すぐに目線を外した。

「なんなんでしょうね、本当に」

 正弘は半分ほど中身を飲んだ缶を下ろし、静香の見ている方向を見下ろした。水平線が、広がっている。

「こういうのって、恋とはちょっと違うと思います」

「そうよねぇ。恋っつーんなら、もうちょっと、こー、波があって荒々しいもんじゃないの?」

 静香が頷く。正弘は、首を捻る。

「そういう、紆余曲折を全部ぶっ飛ばしてしまった気がします。おいしいところ、というかを」

「そもそも順番がおかしいのよね。普通、ヤッてから気付く?」

「え、あ、そうですよね。普通は、違いますもんね。セオリーで行けば、それが最終段階ですよね」

「まぁでも、別にいいんじゃないの? 両思いなら、それはそれで。面倒が少なくて楽じゃない」

「オレとしては、ちょっと物足りない気がしないでもないですけど」

「じゃ、妻子持ちの上司と不倫でもしようかしら」

「それは勘弁して下さい。なんですか、その極端な方向性は」

「物足りないって言うから刺激でも与えてやろうかと」

「強烈すぎます。物事には程度ってものがあります」

 正弘はげんなりしながらも、なんだか可笑しくなっていた。静香との皮肉の応酬が、不思議と楽しく思えてくる。
面と向かって気持ちをぶつけたことで、開放感と達成感に満ちていた。別れる寂しさは消えないが、清々しかった。
どれだけ好きだと思っても、身を切るような切なさは感じない。それどころか、ぶつけるだけぶつけてしまいたい。
気持ちをぶつければ、その分、照れくさそうな態度や荒っぽい物言いで反応が返ってくると知っているからだ。
 静香は本当の家族ではない。しかし、彼女は家族だ。現在は違うかもしれないが、当初の関係はそうだった。
家で待っていれば帰ってくる。食事を作れば食べてくれる。嫌々ながらも相手をしてくれる。それが、彼女だ。
好きになった理由などない。家族を好きなのは、同じ家族として当たり前なのだから、思い当たらなくて当然だ。
静香は家族だ、という理由を付けてしまえば、今まで心の中で引っ掛かっていたことがすんなりと嚥下されていく。
 放っておけないのも、目に付くのも、気になるのも、なんだかんだで世話をしてしまうのも、静香が家族だからだ。
けれど、普通の家族と決定的に違うのは、静香が女で正弘が男であることだ。だから、それ以上の感情を抱く。

「あの」

 正弘は、自身の気持ちの結論を口に出した。

「オレが静香さんのことを好きなのは、たぶん、静香さんが家族だからじゃないでしょうか」

「家族?」

 静香は、正弘を見上げる。正弘は、静香を見下ろした。

「はい。結構ベタな理由だな、とか思いますけど、それぐらいしか思い当たらないんですよ」

「家族、ねぇ…」

 静香は、潮風に乱されている前髪を掻き上げる。

「家族」

 小さく繰り返した静香は、その言葉を噛み締めた。それは、長い間、欲しくても絶対に手に入らなかったものだ。
両親もその祖父母も医者であったため、静香は医者になることを強制されて、幼い頃から勉強ばかりさせられた。
弟と妹はいたが、その二人もやはり医者になるための道を無理矢理歩かされていて、一緒に遊んだ覚えはない。
静香の家族は、学校の行事にはほとんど参加しなかった。どちらも、忙しいから、と理由を付けて来なかった。
だから、参観日や体育祭にやってくるクラスメイトの家族の姿を見るたびに、胸の奥で密かに羨望を抱いていた。
家族旅行にも、一度も行ったことはない。家族写真もない。家を出てから十年経ったので、既に絶縁されただろう。
こちらからも連絡を取らないしあちらからも連絡が来ないから、そう思うべきだ。下手な期待はしない方がいい。
 家族。口の中で、もう一度繰り返した。くすぐったいようでいて、心地良くもあり、温かい響きを含んでいる言葉だ。

「あんたとあたしが、家族ねぇ」

 静香は、自然と口元を綻ばせていた。

「悪くないんじゃないの?」

「そうですね」

 正弘は静香の微笑みを見つめ、内心で微笑み返した。

「本当にそうなる時が来たら、敬語はやめますよ。今はまだ、オレはただの被保護者に過ぎませんからね。それが、何年先になるかは解りませんけど、その時が来たらよろしくお願いします」

「それって、プロポーズのつもり?」

「だとしたら、どうします? そうすれば、オレはあなたと別れなくて済むでしょうしね」

 正弘の声色は、真剣だった。静香は、正弘の手にそっと手を触れた。

「あたしなんか選んで、後悔しない?」

「あなたを選ぶのは、オレぐらいしかいないと思いますよ」

 正弘は、右手に触れてきた静香の左手を取った。静香の手は緩むことはなく、正弘の指に長い指を絡めた。
それから、何も言葉は交わさなかった。目も合わせなかった。ただ、お互いがいることだけを確かめていた。
心を繋ぎ止めておくのに、鍵も鎖も、増してハート型のプレートも必要ない。必要なのは明確な気持ちだけだ。
 ただ、それだけでいい。




 帰宅した二人は、何事もなかったかのように日常に戻った。
 静香は酒を喰らい、正弘は夕食を作る。付けっぱなしのホロビジョンテレビからは、ローカルニュースが流れる。
正弘が冷蔵庫から材料を取り出そうとすると、ポケットに突っ込んだままにしていた携帯電話が唐突に鳴った。
冷蔵庫を閉めてポケットから携帯電話を抜き、フリップを開くと、黒鉄鋼太郎、との名が画面に表示されていた。

「よう」

 正弘が電話を受けると、電話の向こうで鋼太郎は訝しんだ。

『ムラマサ先輩、何かあったんすか? 昼間にも掛けたんすけど、繋がらなかったんすよ。電源切ってたんすか?』

 正弘はリビングのソファーで寛いでいる静香を見やってから、鋼太郎との会話に戻った。

「ちょっとな。大したことじゃない。それで、何か用でもあるのか?」

『やっはー、ムラマサ先輩ー!』

 鋼太郎の声を遮って、百合子の元気で高い声が受話器から響いた。正弘は、百合子に返す。

「ゆっこも一緒か」

『こんばんはっすー! あのですね、今夏のサイボーグ同好会活動についてのことなんですよ!』

 百合子のはしゃぎぶりに、正弘は冷蔵庫の脇のカレンダーを見た。明後日は、一ヶ谷祭りが開催される日だ。

「明後日の一ヶ谷祭りにでも行こうってことだな?」

『さすがはムラマサ先輩、物分かりがいいっすねー。透君も予定がないって言ってたので、皆で行きましょー』

「ああ、そうだな。どうせオレも暇だ。宿題も七月中に片付けたからな」

『なんすかそれ、有り得ないっすよ』

 電話の相手が、急に鋼太郎に戻った。正弘は、少し笑う。

「お前らもさっさと片付けておけよ。後で面倒な思いをするのは自分だからな。だが、オレは手伝わないぞ?」

『頭じゃ解ってるんすけどねー…。そう上手いこと行かないっつーか、なんつーかで…』

 鋼太郎の苦笑いの後ろから、百合子の含み笑いが漏れ聞こえた。程なくして、るせぇ、と鋼太郎が言い返した。

「それで、何時に待ち合わせればいいんだ?」

 正弘が尋ねると、また百合子に代わった。

『明後日の午後五時に、駅前集合でってことで』

「了解。帰りは何時頃になる?」

『花火大会があるのが七時半だから、八時過ぎぐらいじゃないでしょうかね』

「解った。覚えておくよ」

『それじゃ、また明後日に。おやすみなさーい』

 百合子の声が遠ざかると、鋼太郎の声が割って入ってきた。

『甲子園の話はまた明日にでもするっすからね! じゃ、また!』

「またな」

 鋼ちゃんそれって迷惑だよお、との百合子の声が聞こえたが、途中で通話が切られた。正弘も、通話を切った。

「また、四人で遊びに出るわけね」

 静香は、缶ビールを口元から外した。正弘は、携帯電話をポケットに押し込む。

「平たく言えばそういうことです」

「何も変わらないわね。あたしも、あんたも」

 静香は、なぜか不満げだった。正弘は赤く熟れたトマトをまな板に載せ、スライスしていった。

「いきなり変わる方が不自然でしょう。それに、十年もこんな感じだったんですから、この先もこんな感じですよ」

「ま、そうでしょうね」

 静香は一笑した。

「マサと急にラブラブバカップルになんてなったら、アホらしさで卒倒するわよ」

「希望とあればしましょうか? 漫画みたいなラブラブバカップル。手始めにご飯をハート型にしますけど」

「しなくていいわよ。したら蹴っ飛ばすわよ、今度こそ」

 静香は、キッチンから顔を出した正弘を睨み付けた。正弘は、笑っている。

「オレはやってみたいんですけど。漫画の資料にもなるし」

「黙れ伊集院かれん」

 静香が強く言い返しても、正弘は平然としていて夕食の支度に戻った。どうやら、からかわれたようだった。
正弘はやけに楽しそうで、笑いを噛み殺している。静香は妙に恥ずかしくなってきて、正弘から目を逸らした。
翻弄していたはずなのに、いつのまにかこちらが手玉に取られている。たまに、どちらが年上か解らなくなる。
 静香は気を紛らわすため、ビールを胃に注ぎ込んだ。体が火照るのは、アルコールが回ったからだけではない。
恋に比べれば平坦だが、愛情にしては熱が激しい。どちらとも付かないが、扱いづらいが、心地良い感情だ。
お互いに欲していたものは、お互いがいてこそ補える。だからこそ、どうしようもないほどに惹かれ合ってしまう。
 そういう、恋もある。







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