女心は、複雑だ。 何が、そんなにいいのだろう。 百合子は押し入れの上段に腰掛け、布団にもたれかかっていた。外が明るいが、押し入れの中は薄暗い。 膝の上に広げた雑誌には、メイドの衣装を着たスタイルの良い若い女性達が、艶めかしいポーズを取っている。 御主人様の好きにして。ポップな字体で書かれたキャプションの下では、メイドの女性がスカートを捲っている。 スカートの下には、メイド姿とはギャップのある派手なガーターベルトを履き、その下に下着は着けていない。 鋼太郎の隠しているエロ本コレクションの中でも、メイドものは幅を利かせていて、今では七割を占めている。 百合子の与り知らぬうちに買っていたようだ。それが、彼女としては、なんとなくどころかかなり面白くなかった。 十七歳の血気盛んな少年に、エロ本を求めるなとは言わない。欲望を止めろとは言わない。だが、不愉快だ。 以前はそうでもなかったのだが、鋼太郎と彼氏彼女と言える関係になったせいか、苦いものが込み上げてくる。 百合子は、押し入れの中から鋼太郎の部屋を見渡した。百合子の部屋よりも狭い六畳間は、雑然としている。 カラーボックスの本棚に入っているのは野球関連の雑誌や漫画本が多く、参考書や辞書はほんの少ししかない。 壁には一ヶ谷市立高校の制服が掛けられていて、ハンガーには赤いネクタイがだらしなく引っ掛けられている。 窓からは、昼下がりの穏やかな日差しが流れ込んでくる。生温く、どうしようもなく気怠い、日曜日の午後だ。 百合子が三冊目のメイドもののエロ本を手にしようとした時、玄関の引き戸が開き、ただいま、との声がした。 どうやら、彼が帰ってきたようだった。体重の重い足音が階段を昇ってくると、廊下に繋がるふすまが開かれた。 「なんだ、ゆっこ、いたのか」 自室に入ってきた鋼太郎は、押し入れの上段に座っている百合子と、その手にある本を見た。 「お帰りー、鋼ちゃん」 百合子がやる気なく返すと、鋼太郎は背負っていたリュックを下ろし、畳の上に放り投げた。 「おー、ただいま。つうか、勝手に人のもん読むんじゃねぇよ」 百合子が鋼太郎の部屋に入り込み、エロ本を読むのはこれが初めてではないので、もう慣れっこになっている。 しょうがねぇな、と思いながら鋼太郎は百合子に振り返った。長袖シャツと、ジーンズのミニスカートを着ている。 押し入れに座っていてなおかつ片足を挙げているので、中身が思い切り見えている。鋼太郎は、それを眺めた。 「またピンク…ぐあっ」 唐突に、長い足で腹を蹴られてしまい、鋼太郎は上半身を曲げた。百合子はスカートを押さえ、唇を曲げる。 「いちいち見ないの!」 「見えたもんはどうしようもねぇだろ」 鋼太郎は蹴られた腹を押さえつつ、体を起こした。百合子は、とん、と押し入れの上段から下りた。 「鋼ちゃん、何しに出掛けてたの?」 「んー、ああ。単行本の発売日だったんだよ、今日は。それに、暇だったしな」 あれの、と鋼太郎はカラーボックスに詰め込んである少年漫画の単行本を指した。 「で、お前は何しに来たんだよ」 「んー、べっつにぃー」 百合子は押入を気にしつつ、目線を上げた。鋼太郎は、百合子の髪を乱す。 「ま、なんでもいいけどな」 「銀ちゃん達は、今日はお出掛け?」 「夕方まで帰ってこないってさ。色々と買い物があるらしいんだ」 「だからって、やらしいことしないでよね、鋼ちゃん? おうちの中じゃしないって約束だもんねー」 百合子がにやけると、鋼太郎は百合子の頭を押さえ込んだ。 「るせぇ!」 鋼太郎の声は、照れで上擦っている。百合子はもっとからかおうかと思ったが、先程の苦みを思い出した。 押し入れの上段と床には、メイドもののエロ本が散乱している。百合子が目をやると、鋼太郎もそれを見た。 しばらく、二人の間で会話が止んだ。百合子は、エロ本の表紙を凝視している鋼太郎をそっと見上げてみた。 マスクフェイスなので表情は解らないが、なんとなく楽しそうに見える。いや、実際楽しんでいるに違いない。 それがまた、面白くない。先程のものよりもずっと激しく、そして強烈に、百合子は不快感を覚えてしまった。 一体、あんなもののどこがいいのだ。苛立ちが顔に出てしまったのか、鋼太郎は百合子を覗き込んできた。 「ゆっこ、なんか怒ってねぇか?」 「なんでもないもん」 百合子はぷいっと顔を逸らし、廊下に通じるふすまを開けた。 「帰る!」 「あ、おい」 鋼太郎が百合子を引き留めようとしたが、百合子は足早に出ていった。 「せめて片付けろよ、オレの本…」 というより、彼女は何をしに来たのだ。鋼太郎が帰ってきたばかりなのに、何もしないで帰るとはかなり変だ。 いつもであれば、だらだらと居座ってどうでもいい話をするのだが、それすらない。全く、百合子らしくなかった。 鋼太郎は不可解さを覚えながらも、押し入れの前に散乱しているエロ本の山を、とりあえず片付けることにした。 が、その途中で手が止まった。気に入っている雑誌の一冊を手に取ると、押し入れの前に胡座を掻いて座った。 開いたページの中では、いかにも二次元臭いピンク色でフリルたっぷりのメイド服を着た女性が微笑んでいる。 その次のページでは、ブリティッシュメイドと呼ばれる十九世紀後半のメイド服を模したメイド服が登場している。 百合子がそういった格好をする様を、何度想像してしまっただろう。数えるのも、うんざりしてしまうほどだ。 だが、百合子は絶対に着ないだろう。鋼太郎の趣味に対しては寛大だが、コスプレまではしたくないらしい。 ちょっとでもその手の話をすれば頑なに拒み、むきになって言い返す。だから、強要は出来ないと諦めていた。 着せられるものなら、着せてしまいたい。だが、無理だろう。鋼太郎は雑誌を閉じると、押し入れにもたれた。 諦めることも、時には大事だ。 その日の夜。百合子は、パソコンの前に座っていた。 勉強机の隣に設置されているパソコンデスクに向かい、デスクトップタイプのパソコンとじっと睨み合っていた。 発色の良い液晶画面にはウェブブラウザが立ち上げてあり、検索エンジンによる検索結果が表示されていた。 それも、かなりの件数がある。たった一言、メイド、と打ち込んだだけで、一瞬で三千万件以上もヒットしていた。 メイド服の通販サイトやメイドカフェのサイトだけでなく、個人のコスプレやイラストサイトなどがどっさりと出てくる。 百合子は画面に映るメイド達を睨み付けながら、苦みを持て余し、唇を歪めていた。見れば見るほど、腹が立つ。 「…どいつもこいつも」 メイドの何がいいのだ。百合子は画面上のカーソルを動かし、メイド服の通販サイトをクリックし、表示させた。 画像がロードされると、トップページには売れ筋のメイド服や新作のメイド服を着た、モデル達の写真が現れた。 商品の中にはアニメや美少女ゲームのメイド服や制服を再現したコスチュームもあり、これも人気商品らしい。 値段を見てみると、それほど高いわけではない。高校生の身でも充分手が届く値段であり、サイズも豊富だ。 少女漫画を描くのが趣味で、資料としてコスプレ衣装を集めている正弘は、ネット通販を利用しているのだろう。 そうでもなければ、あんなに大量の衣装を手に入れられるはずがない。全く、ネットというものは便利である。 「こんなもの」 百合子はブラウザを消そうとしたが、不意に正弘の言葉が蘇った。鋼太郎は、メイド服を手放さなかった、と。 正弘の家に遊びに行った時に、正弘の部屋にある資料のコスプレ衣装を見て、男同士の話をしていたのだろう。 その時に、鋼太郎は一時間もメイド服を手にしていたそうだ。ますます腹立たしくなって、たまらなくなってくる。 苛立ちでバッテリーが過熱して、腹の底が焼け付いてしまいそうだ。画面を、殴り付けたい衝動が湧いてくる。 だが、それをしてしまったら、機械で出来た拳は簡単に液晶画面をぶち破ってしまうので辛うじて我慢した。 けれど、押し込めようとすればするほどに、苛立ちは増してしまう。百合子が不機嫌が極まって、舌打ちした。 「こんちくしょうめ!」 ブラウザを閉じてパソコンを終了させながら、百合子は立ち上がった。気晴らしに、適当なゲームでもやろう。 そうすれば、気が晴れるはずだ。百合子はホロビジョンテレビの前に座って、リモコンを使って電源を入れた。 テレビ台の下からゲーム機とコントローラーを引っ張り出し、ソフトを物色していると、携帯電話が鳴り響いた。 「なんだよもう」 百合子は眉を吊り上げながら、充電器から携帯電話を引っこ抜くと、フリップを開いた。着信名は、鋼ちゃん。 「何、鋼ちゃん?」 『ゆっこ。お前、まだ怒ってんのか?』 電話の向こうの鋼太郎の声には、呆れが混じっている。百合子はピンク色のカーテンを引き、窓を開け放った。 十月の中旬を過ぎたので、夜風は冷たく、辺りは真っ暗だ。金属質な虫の鳴き声が、そこかしこから聞こえる。 真向かいには、鋼太郎の家がある。その家の二階の窓も開いていて、鋼太郎がそこから顔を覗かせていた。 蛍光灯の逆光で体の前面が影になっているので、ブルーのゴーグルが、いつも以上にはっきりと見えている。 『よ』 その声は、電話からだけでなく、向かいの窓からも聞こえた。百合子は、鋼太郎を見据える。 「別に怒ってなんかないもん」 『オレ、なんかまずいことでも言ったか?』 「言ってないけどさあ」 言ってはいないが、とにかく気に食わないのだ。かなり機嫌の悪い百合子に、鋼太郎は不可解そうにする。 『じゃ、なんで怒ってんだよ』 「別にどうでもいいじゃない。用がないなら切るよ?」 百合子に突き放され、鋼太郎は戸惑った。 『だから、なんなんだよ、さっきから』 「なんだっていいじゃない! じゃあね、また明日ね!」 百合子は乱暴に電話を切り、窓を閉めてカーテンを引いた。携帯電話を机に放り投げて、ベッドに飛び乗った。 フルサイボーグの重量を受け、マットレスが大きく波打った。百合子は、ここまで苛立つ自分にさえも苛立った。 鋼太郎に、あんなことを言うつもりなんてなかったのに。そう思うと情けなくなってきて、泣きたくなってしまう。 百合子はやるせなくなって、ベッドに倒れ込んだ。今までこんなことはなかったのに、一体どうしてしまったのだ。 涙が出てきそうだったが、人工網膜が貼り付けられた義眼からは涙は出ず、気持ちばかりが胸中で渦巻いた。 枕に顔を埋め、ため息を吐いた。 携帯電話を片手に、鋼太郎は呆気に取られていた。 何が何だか、さっぱりだ。百合子に電話を掛け直そうと思ったが、余計に機嫌を損ねてしまいそうな気がした。 今朝はにこにこ笑っていたのに、急に苛々している。セイリか、とは思ったが、百合子はフルサイボーグの身だ。 外見こそ人間らしいが生身の部分は脳髄しかないので、当然、女性としての機能は全て失ってしまっている。 だから、月経が訪れるわけがない。鋼太郎は百合子の部屋の窓を見つめていたが、とりあえず窓を閉めた。 障子も閉めてから、畳に座り込んだ。正弘か透にでも相談してみようか、と思ったが、やめておくことにした。 どうせ、大したことじゃないんだ。鋼太郎は昼間に買ってきたばかりの漫画の単行本を取り、ページを開いた。 だが、気が向かなかった。前巻では決着が付かなかったバトルの結末とその後の急展開も、頭に入ってこない。 やはり、百合子のことが気に掛かる。だが、彼女の不機嫌の原因が解らない。何も、話してくれないのだから。 鋼太郎はこちらまで苛立ってしまいそうになったが、それでは悪循環が発生してしまうので、気持ちを抑えた。 「いっそ、あっちに行っちまおうかな」 鋼太郎は窓を見て呟いたが、もう夜も遅い。明日も一緒に登校するのだから、その時に問い詰めればいい。 元々、百合子は感情の起伏が大きい人間だ。明日の朝になれば、ころっと機嫌が治っている可能性もある。 そうであればいいと願いながら鋼太郎は今日の分の宿題に取り掛かったが、案の定、欠片も集中出来なかった。 教科書や参考書を見るよりも前に携帯電話を開いてしまうので、宿題を終えるのにいつも以上に手間取った。 結局、百合子からは電話もメールもなかった。 07 2/20 |