数日後。鋼太郎は、居心地が悪かった。 今日は、百合子はメンテナンスのために学校を休んだ。よって、いつもの中庭には三人だけが集まっていた。 飲用チューブを突き刺した紙パックから牛乳を啜りながら、左右から注がれている視線をやり過ごそうとした。 だが、出来なかった。鋼太郎は、心配というよりも興味深げな視線を注いでいる正弘と透の様子を交互に窺った。 「だから、なんでもねぇっての」 鋼太郎の呟きに、正弘は弁当を食べる手を止めて鋼太郎を覗き込んできた。 「ゆっことケンカしたのなら、さっさと仲直りした方がいいぞ」 「三日ぐらい、ろくに、喋って、ませんよね? 何か、あったんですよね?」 透も上半身を傾けて、鋼太郎を見上げてきた。鋼太郎は、二人から顔を逸らした。 「オレは悪くねぇよ。ゆっこの方が変なんだ」 「だったら、ゆっこから理由を聞き出せばいいじゃないか」 正弘の意見に、鋼太郎は少しむっとしてしまった。そう出来るのならば、とっくにやっている。 「ずっと怒ってるみたいで、話もしてくれないんすよ。だから、聞き出そうにも、聞くに聞けないんす」 「やっぱり、それは、おかしいですよ」 透は、不安げに眉を下げる。鋼太郎は、紙パックから飲用チューブを抜かないまま、言った。 「心当たりがありゃまだいいんだけど、マジで何もねぇんだよなー…」 百合子の様子がおかしくなったのは、先日の日曜日からである。だが、言い争いをしたような記憶はない。 その前日にも何もなかった。百合子は相変わらず甘えてきて、鋼太郎にまとわりついて邪魔をしてきたくらいだ。 その時の甘ったるい会話を思い出し、内心でにやけそうになったが、思い出すべきはそんなことではない。 百合子の不機嫌の原因を探らなければ、この事態は打開出来ない。ぎくしゃくした関係を長く続けたくはない。 「まさかとは思うが」 正弘は弁当箱の蓋を閉じてから、鋼太郎を指した。 「メイドさんプレイでも強要したんじゃないだろうな?」 「違うっすよ、そんな」 心外っす、と鋼太郎が拗ねると、正弘は平謝りした。 「悪い。だが、ゆっこの場合、強要しようにも出来ないからなぁ」 「ゆっこさんて、コスプレは、嫌いなんですよね。他のものには、寛容、なんですけど」 と、透が不思議そうにする。鋼太郎は、牛乳の残りを全て吸い上げた。 「コスプレ自体には興味あるっぽいんだよな。でも、オレに流されたくないっつーか、そういう感じらしいんだ」 「都合の良い女にはなりたくない、と」 女性心理だな、と正弘がもっともらしく頷いた。透も頷く。 「その、気持ちは、私にも、解る気がします」 「だが、鋼としては、やっぱり着てほしいのか?」 正弘に問われ、鋼太郎は苛立ち紛れに逆に聞き返してやった。 「そういうムラマサ先輩はどうなんすか。ムラマサ先輩も、橘さんになんか着せたいんじゃないっすか?」 「え」 がたっ、と正弘が身動いだ。その拍子に、ベンチの足元に溜まっている枯れ葉が潰され、耳障りな音を立てた。 どうなんすか、と鋼太郎がもう一度尋ねたが、正弘は固まっていた。妙にぎこちない動きで、正弘は項垂れた。 「ないと言えば、嘘になるなぁ…」 正弘はマスクを押さえていたが、ゆっくりと上半身を起こした。 「オレも男だからな。考えないわけじゃない。まぁ、実行はしないけどな。相手はあの静香さんだから」 「男の人って、皆、コスプレが、好きなんですか?」 透は、少し戸惑っている。鋼太郎は、苦笑いする。 「全員が全員、こうってわけじゃねぇよ。ただ、オレとムラマサ先輩は好きなんだよ、ああいうのが」 「だから勘違いするなよ、透。亘さんは、制服もメイドも好きだとは限らないんだぞ。スク水かもしれないけど!」 正弘に念を押され、透は心持ち頬を染めながら頷いた。 「あ、はい」 「で、鋼はゆっこにメイド服を着てほしいのか?」 話題の中心を変えたいのか、正弘は急に話を戻した。鋼太郎は、やや身を引く。 「そりゃあ、まあ…」 「もしかしたら、って、思ったんですけど」 透は神妙な顔をして、鋼太郎との間を詰めた。 「ゆっこさんは、黒鉄君の、そういうところが、嫌になっちゃったんじゃないでしょうか」 「え」 鋼太郎が声を裏返すと、透はやけに真剣になった。 「可能性としては、充分に、ありますよ。いえ、原因として、一番、考えられるのは、それです」 「カレカノになって今年で三年だろ? そろそろ、こじれてきてもいい頃だよな」 「物騒なこと言わないで下さいっすよ!」 正弘の言葉に、鋼太郎は思わず腰を上げてしまった。正弘は、しれっとしている。 「どっちもベタ惚れのバカップルとはいえ、何もないのはある意味ではおかしいからな。好き合っているといっても、お互いに違う人間である以上、価値観の相違が発生するのが当然だ。食べ物の好き嫌いとか、好きな芸能人とか、ジャンルとか、その辺の些細なことが積もり積もった挙げ句、擦れ違ってしまうんだな。そして、その擦れ違いが悪化していくと、恋人に嫌気が差してくる。そういう嫌気が差した状態で気の合う友人と親密になると、恋人と仲直りしようという気が失せてしまって、こっちに乗り換えた方が楽かもしれないなんて思って乗り換える。そうなると、状況は最悪だ。とっくに見限った前彼と別れようと思っても、前彼は未練を持っていて、なかなか別れようとしない。だが今彼は、さっさと男女関係になりたいから、前彼と早く別れてしまえと彼女に急かしてくる。そんなぐだぐだな展開の最中に、彼女の家の前、或いはバイト先、もしくは教室の廊下で前彼と今彼が鉢合わせして、挙げ句にそこに彼女がやってきたりしたら」 正弘は、鋼太郎の顔を指差して言い切った。 「修羅場だぞ」 「なんすか、その、昼ドラみたいな話は」 「仮に、という話だ。本気にするな。ちなみに、この展開だと、美形の転校生が彼女に一目惚れして、新たな修羅場展開に突入するというのもアリだ。だが、こういう展開は収拾が付けづらいから、素人にはお勧めしないぞ」 「伊集院かれんは引っ込んでて下さい」 鋼太郎はげんなりした。どうやら正弘は、自分が描いている少女漫画の展開を話していたようだった。 「でも、ない、ってわけじゃ、ないですよね」 透が、引っ掛かりのある言い回しをした。鋼太郎は透に振り向くと、手を横に振る。 「いや、ねぇよ。ゆっこはああいう性格であの体だから、ダチは多いけど異性として見られてないっつーかでさ」 「だけど、事例が、あるじゃないですか」 「どこにだよ」 「黒鉄君、自身ですよ」 「なんだよ、それ」 鋼太郎は笑おうと思ったが、声が引きつってしまった。正弘の話した修羅場展開が、脳裏を素早く過ぎった。 百合子がつれないのは、鋼太郎自身に原因があるからで、鋼太郎に嫌気が差しているからなのかもしれない。 思い出してみれば、百合子はなかなか評判が良い。フルサイボーグであるという欠点も、性格でカバーしている。 大人と子供の中間のような可愛らしい顔立ちをしていて、体形も出るところは出て締まるところは締まっている。 鋼太郎の知らないところで、知らない人間が彼女を見ているかもしれない。そして、近付いているかもしれない。 考えれば考えるほど、最悪の展開が思い浮かんでしまう。鋼太郎が内心で青ざめていると、正弘が含み笑った。 「ゆっこは可愛いからなぁ」 その一言は、もやもやした不安に襲われている鋼太郎の不安を、一気に増長させた。 「う…」 「可愛い人は、誰にでも、好かれますからね」 透が、正弘に続けた。鋼太郎はそれでとどめを刺されてしまい、苦く重たい不安がずしりと背中にのし掛かった。 そういうことを、今まで考えてみたこともなかった。いや、百合子との日々が楽しすぎて、考える余裕もなかった。 百合子のあの明るい笑顔を、自分だけが見ているとは限らない。そして、彼女は誰にでも好意を示す性格だ。 どこぞの誰かが勘違いをしているかもしれないわけで、ついでに百合子が自分に飽きているかもしれないわけで。 飽きている、かもしれない。百合子との付き合いは五歳の頃からだから、今年で十二年以上の付き合いになる。 鋼太郎は、百合子と一緒にいることに飽きは感じていないのだが、百合子は鋼太郎よりも遥かに多感な少女だ。 好奇心も旺盛で、興味があることには突き進んでいく。だから、他の男に興味を示す可能性もないわけではない。 「示されて、たまるかあー!」 鋼太郎は自分の想像に苛立って、声を荒げた。 「ゆっこはオレんのだぁー!」 虚空に向かって叫ぶ鋼太郎に、正弘と透は顔を見合わせた。鋼太郎は、軽く煽れば面白いぐらい反応する。 正弘と透は、冗談のつもりで話していた。あの百合子に限って、鋼太郎以外の男に目が行くはずがないのだ。 鋼太郎がいない時は、百合子はこちらまで照れそうなくらいにでれでれになって、うんざりするほど惚気てくる。 鋼太郎もまた、百合子がいない時は延々と惚気る。だから、この二人に限って、不安になるはずがないと思った。 だが、そうではなかったようだ。正弘と透は軽い罪悪感を感じたが、見えない恋敵と戦う鋼太郎を眺めていた。 その光景は割と面白かったので、二人はしばらく見物することにした。 夕方になって、百合子は帰宅した。 リビングもキッチンも薄暗く、まだ両親は帰っていなかった。白金家の両親は共働きだから、仕方ないことだ。 百合子は玄関でスニーカーを脱ぐと、スリッパを引っ掛けて廊下を歩いた。メンテナンス後なので、調子が良い。 僅かばかり違和感のあった首の関節も調整してもらえたし、人工体液も新しいものに入れ替えたので気分が良い。 だが、心は晴れなかった。今朝も自室の窓から百合子に挨拶してきた鋼太郎に対して、素っ気ない態度を取った。 そんなつもりはなかったのに。百合子は自己嫌悪に陥ってしまい、階段をのろのろと昇り、自分の部屋に入った。 医療用電子機器や栄養剤などが入っているバッグをベッドの横に置くと、ベッドに腰掛け、長い足を投げ出した。 たかがメイド服で、なぜこんなに怒ってしまうのだ。鋼太郎に罪はないのだから、鋼太郎に苛立つ理由はない。 そのはずなのに、気持ちが収まらない。百合子はベッドに寝転がり、枕元にあるぬいぐるみを引き寄せて抱いた。 人工人皮で出来た肌には触覚があるので、ぬいぐるみの柔らかい感触が伝わってきたが、心は癒されなかった。 「鋼ちゃん…」 いつものように仲良くしようと思っても、苛立ちが先に立つ。一緒にいたいはずなのに、嫌だと思ってしまう。 情けなくて、腹立たしくて、馬鹿馬鹿しくて、泣けてくる。百合子は背を丸めて縮まり、ぬいぐるみに顔を埋めた。 こんなに話さないのは、久々だ。といっても、鋼太郎が話し掛けてきても、百合子が邪険にしているだけだ。 悪いのは全部自分だ。鋼太郎の趣味にむかむかしてしまうのも、その延長で鋼太郎に苛立ってしまうのも。 鋼太郎は悪くないのに。すると、不意に携帯電話が鳴った。百合子は慌てて起き上がると、バッグを開けた。 だが、取り出した時には着信音はもう止まっていた。フリップを開いて液晶画面を見ると、鋼ちゃん、とあった。 「すぐに切ること、ないじゃない」 そう呟いてから、百合子は更に情けなくなった。数日前に、それよりももっとひどいことをしてしまったのに。 鋼太郎が百合子のことを心配して電話を掛けてきてくれたのに、一方的に話を終わらせて、切ってしまった。 そのことも、謝っていない。謝ろうと思っても、なんだか意地になってしまって、素直に謝罪の言葉が出ない。 どうしよう。なんとかしなくては、とは思うが、どうやって鋼太郎に謝ればいいのか全く解らなくなってしまった。 百合子は泣きたくなって、涙の出ない目元を擦った。部屋が薄暗くなってきたので、蛍光灯のスイッチを入れた。 蛍光灯が数回瞬き、青白い光が部屋の中を満たした。百合子は姿見をちらりと見、そこに映る自分の顔を見た。 顔色こそ変わらないが、表情がかなり弱かった。鋼太郎と少し仲違いしただけで、すっかり気力が削げている。 鋼太郎が好きだ。だから、許せない部分がある。けれど、些細なことで苛立ってしまう自分が、もっと許せない。 自己嫌悪の悪循環に、ずぶずぶと填っていく。百合子は心が重たくなったせいで、体の重量が増した気がした。 ベッドのマットレスに、沈んでいきそうだ。虚ろな眼差しで天井を見上げていたが、ふと、視線を壁際に向けた。 パソコンデスクの、十七インチの液晶モニターと大容量ハードディスクを備えた一体型のパソコンが目に入った。 機種としては少し古いのだが、充分使える。父親の孝彦が仕事用のものを買い換えたので、お下がりをもらった。 一時期はネットゲームに熱中したが、今ではその熱も下がり、ネットゲームのアカウントへの課金も止めている。 だから、最近の使用頻度は低くなっていた。それでも使うことには使う。もっとも、インターネットばかりだったが。 百合子は起き上がると、パソコンを見つめた。電源を入れていないので、平たいモニターは黒く静まり返っている。 検索すれば、あのサイトはすぐに見つかるだろう。 07 2/22 |