非武装田園地帯




メイド・イン・ザ・クローゼット



 そして、更に三日後。二人は、まだぎこちなかった。
 百合子は、今度はやけに恥ずかしがっていた。鋼太郎が話し掛けようとしても、何歩か前に出ていってしまう。
顔を合わせようとしても、目を逸らしてしまう。その横顔はいやに強張っていて、唇をぎゅっと噛み締めている。
鋼太郎は百合子の肩に手を伸ばそうとしたが、引っ込めた。この間感じた不安は、未だに拭い去れなかった。
百合子が何に対して恥ずかしがっているのか考えると、嫌な想像ばかりが湧いてきて、うんざりしてしまう。
 二人の歩く道の両脇には、穂が刈り取られて丸裸になった田んぼが並び、シートを被ったコンバインがある。
稲刈りは、とっくに終わっている。収穫した籾を乾燥させている乾燥機の唸りが、家々から流れてきていた。
 鋼太郎は百合子の背を見つめていたが、視線を上げた。もしかしたら、最悪の展開、になったのかもしれない。
そうなっていたらどうしよう。それこそ諦めるしかないな、と鋼太郎は思ったが、絶対に出来そうになかった。
百合子がいない日常など有り得ない。百合子が離れてしまったりしたら、寂しさと悲しさで気が狂いそうになる。

「ゆっこ」

 鋼太郎が意を決して彼女を呼ぶと、百合子は立ち止まり、気弱な眼差しで鋼太郎を見上げてくる。

「なあに?」

 百合子らしからぬ弱々しい様子に、鋼太郎は撫で回してやりたい心境になったが、それをぐっと堪えた。

「今度は、どうしたんだよ」

 矢継ぎ早に問い詰めてしまいたい衝動を抑え、出来るだけ普通にした。百合子は、目を伏せる。

「ん…」

 唇を開き掛けたが、閉じてしまった。しばらく歩いてから、百合子はもう一度立ち止まり、鋼太郎に振り返った。

「あの、ね」

 百合子は言葉を選んでいたようだったが、目を上げた。

「今度の日曜日、うちに来てくれない、かな」

 透のような区切り方をして言い終えてから、百合子は自信のない、懇願するような視線を鋼太郎に向けてきた。
そんな目で見られたら、そんなに頼りなく言われたら、断れるわけがないではないか。鋼太郎は、当然頷いた。

「まぁ、いいけどよ」

「えっとね、その」

 百合子はローファーの靴底を引き摺るように歩き、言いづらそうにしながらも続けた。

「お父さんとお母さん、いないの。お父さんの同僚の、結婚式だ、とかで。でも、何もしないでね」

 無理かもしれない。鋼太郎は瞬時にそう思った。百合子に近付けなかったせいで、色々なものが溜まっている。
双方の両親にばれるので、自宅では行為は行わないと約束しているが、それを守れるかどうかかなり怪しい。
すぐ手前にある百合子の背は、なんだか小さくなったように思えた。長い髪の隙間から、薄い耳が覗いている。
鋼太郎は、嫌な想像ではないまた別の想像をしそうになったが、自分でも現金すぎると思って強引に堪えた。
百合子から話し掛けてきただけなのに、そこまで飛躍するべきではない。完全には、仲直りしていないのだから。
 通学する間、二人はずっと黙っていた。




 そして、日曜日。鋼太郎は、いつになく緊張していた。
 百合子の家に行くだけなのだから、別に緊張するようなことではないはずなのに、妙に気持ちが高ぶってしまう。
思わせぶりなセリフが気になっているから、ということもあるが、ちゃんと話をしようと思うとやけに気持ちが強張る。
他にも様々な感情が駆け巡り、頭が痛くなりそうだ。鋼太郎は、白金家の玄関の階段を昇り、チャイムを押した。
愛嬌のある鐘の音が、玄関の内側で響いた。程なくして足音が近付いてきて、玄関の扉が、内側から開かれた。

「よう、ゆっこ」

 鋼太郎が挨拶すると、扉の隙間から顔を覗かせた百合子は、ぎこちない手付きで家の中を示した。

「鋼ちゃん、上がって」

 玄関で靴を脱いだ鋼太郎は、小綺麗なリビングに通された。百合子は鋼太郎に振り返り、鋼太郎を指した。

「十五分したら、私の部屋に来てね。早くても遅くてもダメだからね!」

 強い口調で言い切った百合子は、階段を駆け上がった。鋼太郎は返事も出来ないまま、突っ立っていた。
話そうと思っても、いきなりそれでは話しようがない。鋼太郎は仕方なしに、三人掛けのソファーに腰を下ろした。
二階からは、百合子が立てている物音がする。何をしようとしているのか考えてみたが、さっぱり解らなかった。
 十五分は、長いようでいて、あっという間に過ぎた。鋼太郎はソファーから立ち上がると、階段を昇っていった。
階段を昇ってすぐにある扉が、百合子の部屋だ。数回ノックすると部屋の中から、入って、きつめに言われた。
また怒っているのだろうか。鋼太郎は気落ちしそうになりながら、部屋に入ったが、百合子の姿がなかった。
女の子らしいものが詰め込まれている八畳の洋間を見渡してみたが、どこにも、彼女の影は見当たらなかった。
ベッドの影にもいそうにない。だが、声は確かに聞こえていた。鋼太郎が訝しんでいると、ごそっと物音がした。
 音源は、クローゼットからだった。まさかな、と思い、鋼太郎はベッドの反対側の壁にあるクローゼットに向いた。
白金家の住宅は近代的かつ洋風で洒落ているので、いかにも日本の農家な住宅である黒鉄家とは大違いだ。
畳の部屋は仏間だけで、他は全てフローリング敷きの洋間だ。そして、押し入れの代わりにクローゼットがある。
しかも、中に入れるほど大きい、ウォークインクローゼットというやつだ。幼い頃に、そこに入った記憶がある。
ウォークインクローゼットの中は一畳半程度の広さがあるので、大人が充分に入れる大きさの空間がある。
だから、入れないこともないのだが、百合子がそこに入る理由が解らない。鋼太郎は、内心で変な顔をした。
白い扉が内側から押され、軽く軋みながら開いていく。すると、その隙間から百合子がひょいっと顔を出した。

「何やってんだ、お前。隠れんぼか?」

 鋼太郎が呆れると、百合子は慌てながら引っ込んだ。

「違うよお、そんなんじゃないってば! ちょっ、ちょっと待ってて、もうちょっとだから!」

 ばたん、とクローゼットの扉が閉められた。数分後、また扉が開かれ、百合子はクローゼットから出てきた。
その姿を見て、鋼太郎は硬直した。百合子は、裾がふわりと広がった黒のワンピースとエプロンを着ている。
 パニエの下にちゃんとドロワーズを履いていて、白いニーソックスも身に付けていて、カチューシャも完璧だ。
白い襟元には赤いタイを結び、肩は膨らんでいるが袖は細く、袖口にも襟と同じ白のカーラーが巻いてある。
紛うことなきメイドだ。鋼太郎が歓喜のあまりに身動き出来ずにいると、百合子は目線を彷徨わせ、呟いた。

「に…似合わない?」

 嬉しさを上手く言葉に出来なかった鋼太郎は、凄い勢いで首を横に振った。百合子は、スカートの裾をつまむ。

「通販で、買ったんだけどさ」

「でも、なんでだよ。嫌なんじゃ、なかったのかよ」

 鋼太郎は決壊しそうな理性を、無理矢理押さえ付けた。百合子は、フリルの付いたエプロンをいじる。

「だって…」

 その仕草がまた、女の子らしくてたまらない。普段の笑い転げている明るい百合子とは、違った魅力がある。
百合子は子供っぽい表情で、拗ねたような目をしている。鋼太郎の様子をちらちらと窺いながら、口を開いた。

「鋼ちゃんが、悪いんだもん」

 百合子は唇を尖らせ、頬を張る。だが、眉は下がっていた。

「メイドものばっかり増やすんだもん」

「ま、まぁな…。けど、それとこれとはどういう関係があるんだよ」

「そういうのって、すっごく面白くないんだもん」

「ここんとこずっと怒ってたのは、それが原因なのか?」

 半信半疑で鋼太郎が問うと、百合子は俯いた。

「だって、面白くないんだもん。鋼ちゃん、そっちばっかり見てる気がしてさあ」

「馬鹿か。普通、それぐらいで怒るか?」

「嫌なんだもん! 嫌で嫌で仕方なかったんだもん!」

 急に顔を上げた百合子は、鋼太郎に詰め寄った。鋼太郎は逃げ腰になったが、百合子に胸倉を掴まれた。

「どうせだったら、こっちを見てほしいんだい!」

「だから、それ着たのか?」

 鋼太郎がメイド服を指すと、百合子は鋼太郎の胸に顔を埋めた。恥ずかしいからだ。

「こうしたら、鋼ちゃん、こっちに目が向くかなーって思って」

 鋼太郎の胸に縋り、百合子は自嘲した。勝手に怒って勝手に拒絶して、勝手に何をやっているのだろう。

「ごめん。私、馬鹿だよね」

 ということはつまり、百合子はメイド服に妬いていたのか。ガキ臭い、と思うと同時に目眩がしそうになった。
可愛すぎる。鋼太郎は気持ちが押さえられなくなってしまい、しがみ付いている百合子を力任せに抱き締めた。
触れなかった数日分の空虚感を埋めるために、百合子の髪を荒く乱した。そのせいで、カチューシャがずれた。
百合子は急に頭を押さえ込まれ、転びそうになったが鋼太郎の体で支えた。鋼太郎は、とても幸せそうだった。

「あーもう、お前って奴はー!」

 両脇を掴まれて持ち上げられた百合子は、一回転させられた。床に下ろされたが、また抱き締められる。

「こんちくしょーめー!」

 不安が的中しなかった安堵感と、百合子の子供っぽいがいじらしい気持ちが嬉しくて、溢れ出してしまいそうだ。
いきなり回されて困っている百合子の顔を見ていると、ますます嬉しくなってきて、再度きつく抱き締めてしまった。
 百合子は、鋼太郎に喜んでもらえたのはもちろん嬉しかったが、それはメイドだからなのだと考えてしまった。
この服を脱いだら、元に戻るに違いない。百合子は鋼太郎の胸をぐいっと押して間隔を開けると、身を引いた。

「なんか、やだ」

「何がだよ」

 鋼太郎が不思議がると、百合子は黒いスカートの両端を持ち上げた。

「だって、鋼ちゃんが好きなのはこれなんでしょ? 喜んでるのも、これだからでしょ? メイド服だったら、中身が私じゃなくてもいいってことじゃんよ」

「それは、うん、その、な」

 鋼太郎は言いづらかったが、ここで誤魔化してしまっては元通りになれないと思い、言うことにした。

「そりゃメイド服は好きだけど、その中身がゆっこだったらなーとか考えてるっつーか、うん、そうさせたいとは思ってんだけどお前があんまり嫌がるから言うに言えなくなっちまって。それに、中身がゆっこじゃなきゃ意味ないっつーか、なんつーか…」

「つまり、鋼ちゃんはあのメイド特集のエロ本で脳内アイコラをしていたと?」

「みなまで言うなあ! ていうかそう言われると超不健全な気がする! 元から健全じゃねぇけどさ!」

「そういうことなら、許容出来るかも」

「オレの脳内には妬かないのか?」

「だって、中身が私なんでしょ? だったら、別にいいかなーって。キモいけど」

「キモいは余計だ。そんなもん自覚してる」

「でも、メイドさんプレイはやだからね! 鋼ちゃんのことを御主人様なんて呼びたくないもん!」

「要するに、お前はそれが嫌なんだな?」

「たとえごっこ遊びでも、幼馴染み相手に服従なんてしたくないんだもん! ご奉仕なんてもっての他だよ! 大体、そういうのって不公平じゃん! 私だって命令したいもん、かしずかれたいもん、服従されたいもん!」

「いや…それがメイドものの醍醐味なんだけど」

「やなものはやなんだもん!」

 百合子は腰を両手に当てて、大きく胸を反らした。威圧しているつもりらしいが、胸が強調されているだけだ。
この姿であれば、何を言われても許せそうな気がしてしまう。いや、許せる。というか、許さないといけないのだ。
一秒でも長く、この状態を保っておきたい。そのためには、百合子の機嫌を損ねないように気を付けなくては。

「そこまで、しなくていいからさ」

 鋼太郎は、百合子の両肩に手を乗せた。

「着てくれるだけでいい! つうか着てくれ! 可愛くって可愛くってどうしようもねぇんだよ!」

 百合子の目が、限界まで見開かれた。薄い唇を半開きにして鋼太郎を凝視していたが、急に表情が弱った。

「本当に?」

 百合子の細い声に、鋼太郎は何度も頷いた。

「嘘なもんか! 可愛いもんは可愛いんだ!」

「怒ってない?」

「全然!」

「だって、私、鋼ちゃんのこと避けちゃってたし…」

「それぐらい、どうってことねぇ! つうか、もう、たまんねぇ!」

 鋼太郎は勢いに任せて、百合子をきつく抱き締めた。彼女のメイド姿で、全てがどうでもよくなってしまった。
この数日間、ろくに相手にされなくて物凄く悲しくて寂しかった。あらぬ想像を巡らせて、不安に苛まれてしまった。
だが、もう、そんなことは気にならない。百合子の可愛すぎる独占欲とこの姿で、何もかもが吹っ飛んでしまった。
頭上で幸せそうな声を漏らす鋼太郎に、百合子は無性に恥ずかしくなった。鋼太郎にまともに褒められている。
メイド姿だからなのだろうが、それにしては過剰だ。実に鋼太郎らしくない。だが、嬉しいものは嬉しかった。
 鋼太郎の背に手を回し、抱き締め返した。数日間触れられなかっただけで、百合子も、かなり寂しくなっていた。
いつも近くにいるのに、ほんの少し距離が空いてしまったぐらいで、切なさに押し潰されそうになってしまった。
どれだけ鋼太郎のことが好きなのかと自分でも呆れてしまうほどだったが、本当に好きなのだから仕方ない。
鋼太郎が百合子の頬に手を添えたので、百合子は顔を上げた。引き寄せられ、唇を冷たいマスクで塞がれた。

「すっげぇ、可愛い」

 マスクを離してから、鋼太郎は噛み締めるように漏らした。百合子は、彼のブルーのゴーグルを見つめる。

「でも、あんまり着られないからね? こんな格好、他の人には見せられないもん」

「見せるなよ。見せたりしたら、許さねぇからな」

「鋼ちゃんも、写真とかに撮らないでよね? 他の人に、見せたりしないでよね?」

「当たり前だ! その代わり、補助AIん中に画像データを山ほど溜め込むけどな!」

 鋼太郎は妙に誇らしげに、自身の側頭部を小突いた。百合子は可笑しくなってしまい、吹き出した。

「鋼ちゃんのド変態ー!」

 声を転がしてけらけらと笑う百合子に、鋼太郎は安堵した。笑う彼女を見るのも、久し振りのような気がした。
やはり、百合子は笑っていてこそ百合子だ。そして、その中身が好きでたまらないからこそ、メイド服が似合う。
笑い声を収めた百合子は、すっかり機嫌が治っていた。晴れやかな明るい顔で、鋼太郎を見上げてきた。

「それじゃ、もうあのエロ本には用はないよね!」

「そりゃどうかな。あれはあれで必要なんだよ」

 鋼太郎が渋ると、百合子は途端にむくれた。

「捨てなさい! 立派な三次元の彼女がいるんだから、二次元なんていらないじゃんよ!」

「うるっせぇ! これとあれとは別なんだよ! 解れ、その男心を!」

「そんなの、理解したくないもん!」

 百合子は背伸びをし、鋼太郎と睨み合った。鋼太郎も背を曲げて百合子を睨んでいたが、お互いに笑い出した。
何が可笑しいのかよく解らなかったが、とにかく可笑しかった。その笑いは、なかなか落ち着いてくれなかった。
二人はひとしきり笑い合っていたが、それが収まると部屋の中は静まった。カーテンを閉めているので、薄暗い。
百合子は照れくさそうに眉を下げ、スカートの両端を持ち上げてみせる。鋼太郎は、にやけてきて仕方なかった。
彼女がメイド服を着てくれたことも嬉しかったが、一番嬉しいのは、百合子との関係が元に戻ってくれたことだ。
艶やかな黒髪を撫でてやってから、顎を上げさせて口付ける。先程よりも力と思いを込めて、長く、接していた。
 それから、数え切れないぐらい可愛いと言った。そのたびに、照れたり恥じらう百合子が見たかったからだ。
彼女がメイド服を披露してくれる機会は、両親がいない時に限られているので少ないが、それでも構わない。
ケンカとも擦れ違いとも言い難い出来事は、ごく些細な切っ掛けで始まり、そしてどうでもいい結末を向かえた。
発端も結末も馬鹿馬鹿しくてどうしようもなかったので、この出来事は二人の間では未来永劫の秘密となった。
 そして、その秘密は、クローゼットの奥底に隠された。







07 2/23