非武装田園地帯




伊集院かれんの憂鬱



 正弘が帰宅してから一時間ほど後に、静香も帰ってきた。
 こちらも思う存分買い漁ってきたらしく、満足げに頬を緩めながらいくつものブランドの紙袋を腕に提げていた。
静香はリビングまでやってくると、ソファーに身を沈めた。足元に大量の紙袋を並べながら、にやにやしている。
正弘は夕食の準備をしていたが、その手を止めた。買ってきたものを出して眺めている静香に、声を掛けた。

「そっちはどうでした?」

「なかなかのもんだったわ」

 静香は、紙袋の一つを開けて真新しいハンドバッグを取り出した。

「マサはどうだった? 楽しんできた?」

「まぁ、それなりに」

 正弘はオムライスに掛けるデミグラスソースを、小鍋で煮詰めていた。焦げ付かないように、お玉で掻き回す。
リビングには、デミグラスソースの濃厚な香りが漂った。静香の好みに合わせ、赤ワインを多めに入れてある。
デミグラスソースを自分で作るのはさすがに面倒なので、今度ばかりは缶詰に頼ったが、味はなかなか悪くない。
静香は買ってきたものをテーブルやソファーの上に広げ、悦に浸っている。この時間が、一番楽しいのだそうだ。
大きな金額をぽんぽんと使うことも楽しいのだが、物を手に入れたのだという実感を味わうのが特に好きなのだ。
その割には飽きるのが早いので、不思議な性分である。正弘は楽しげな静香の横顔を、なんとなく眺めていた。
ガラステーブルは、仕立ての良いブラウスや洒落たデザインのハンドバッグ、香水瓶、口紅などで埋め尽くされた。
その一つ一つを手に取り、静香はうっとりしている。この様子だと、明日の朝も静香の機嫌は良いに違いない。
 デミグラスソースを掻き回していたお玉を止め、掬い上げて垂らしてみた。艶やかな照りを持った、滴が落ちる。
良い具合にとろみがついたので、そろそろいいだろう。正弘は火を止めて、ソースを入れた小鍋を下ろした。

「思うんだけどさー」

 バラの花を模した香水瓶を掲げながら、静香は独り言のように言った。

「マサって、真面目すぎるのよね。漫画はただの趣味なんだから、そこまでリキ入れることないんじゃない?」

「そりゃ、趣味ですけど、趣味だからこそ真剣になるものなんですよ」

 チキンライスの具となる鶏肉やタマネギなどを冷蔵庫から出した正弘は、カウンター越しに静香を見下ろした。
静香は香水瓶からマニュキアのボトルに持ち替えて、蛍光灯に透かしている。嬉しそうに、良い色、と呟いた。

「でも、楽しくなきゃ趣味じゃないんじゃない?」

「そりゃあ、まぁ…」

 正弘が言葉を濁すと、静香はマニュキアのボトルを置いて口紅のケースを取り、蓋を開けて中身を眺めた。

「あんたって、常に頑張りすぎっていうか、力の抜き方を知らないって感じなのよねぇ」

「そうですか?」

「そうよ」

 静香はオレンジ色の口紅をケースの中に戻して蓋を被せると、指の間に挟んでタバコのようにくるりと回した。

「ま、なるようにしかならないわよ。ところで、オムライスまだ?」

「その前にテーブルを片付けて下さい。邪魔です」

「いいじゃないの、直前に片付ければ!」

「あと、いらない紙袋とかも潔く捨てて下さいね。既に段ボール二箱分もあるんですから」

「いつか必要になるかもしれないじゃないの」

「いつか、という言葉ほど根拠のないものはありません。捨てて下さい」

「うるさいわね」

 静香はむっとしながら立ち上がり、テーブルに広げていた化粧品を掻き集めて紙袋の中に突っ込んでいった。
ソファーの上に散らばらせていた買ったばかりの服も抱えると、不機嫌そうにしながら自室に向かっていった。
正弘はシンク下の戸棚からフライパンを取り出すと、水で表面を流して布巾で拭いてから、コンロに載せた。
カラオケの疲労は、まだ頭の芯に残っている。それほど多くは歌えなかったが、それなりに気分は晴れていた。
軽い疲労感は、心地良くもあった。漫画のことを考えようかと思ったが、頭が回らないので考えられなかった。
そういう状態になってしまうと、焦りも疲れの中に埋もれた。あまり、無理をする必要はないのかもしれない。
考えてみれば、漫画を描くのは自分が楽しみたいからだ。だから、苦しんで嫌々に描いても楽しいはずがない。
 漫画の神様は正弘の元から離れていった。それを追い掛けたいのは山々だが、今は捕まえられないだろう。
別にイベントを控えているわけではないし、印刷所に入稿するための原稿ではない。だから、焦らずとも良い。
サイボーグ同好会活動は、無駄ではなかったようだ。正弘はまな板に載せたタマネギを、細かく切っていった。
 切りながら、ふと思った。この状態の自分を見て、二人の姉はどう思うだろう。智代はまず、大笑いするだろう。
趣味こそ大違いだが、智代の性格はどことなく静香に近い。だから、少女漫画趣味も家政夫状態も笑うだろう。
対する和代は、普通に応援してくるだろう。気が合うのは和代だが、なんだかんだで智代のことも好きだった。
意地悪な部分も多かったが、正弘が上級生の男子にちょっかいを出されるとその上級生を追い回してくれた。
正弘が泣いていると少々乱暴だったが慰めてくれたり、カブトムシが良く採れる木に連れていってくれたりした。
 今にして思えば、智代は不器用だったのだろう。それこそ、静香のように、好意を表に出すのが苦手なのだ。
二人の姉は十年前に死してしまったが、自分の中では生きている。正弘はそのことを実感し、内心で笑った。
 陰鬱だった気分が、和らいでくれた。




 それから、一ヶ月後。秋が終わり、冬が始まった。
 湿気を含んでべちゃべちゃした初雪を踏みながら、正弘は橋を歩いていた。時折、大型のダンプが通り過ぎる。
そのたびに橋が揺れ、足元が上下する感覚が伝わってくる。雪が降って自転車が使えないので、今日は徒歩だ。
橋の向こうにある集落に入り、杉の木に囲まれた鎮守社の脇を通り、集落の中を貫く細い道路を歩いていく。
昼下がりなので、集落の住民達の姿はなかった。薄曇りの空の下、雪に覆われた田んぼを吹き抜ける風は強い。
 百合子の自宅である白金家で立ち止まったが、シャッターが閉められていて、自家用車のセダンはなかった。
どうやら、一家で出掛けたらしい。となれば、と正弘は、鋼太郎の自宅であるすぐ隣にある黒鉄家に顔を向けた。
すると、玄関先にいた少女が振り向いた。正弘の姿を見、あ、と明るい声を発した少女は正弘に駆け寄ってきた。

「伊集院かれんだ!」

 その呼び名に、正弘はちょっと戸惑ったが挨拶した。

「こんにちは、亜留美ちゃん」

 両手に抱えていた雪玉を放り投げた亜留美は、正弘の足元までやってくると、真下から見上げてきた。

「鋼兄ちゃんはいません。病院に行っちゃいました。なんか、クドーブブンってのを交換するんだって言ってました」

「鋼は運動部だからな。オレよりも摩耗が激しいんだ」

 正弘は身を屈め、亜留美と視線を合わせた。玄関の引き戸が開いたのでそちらを見ると、銀次郎が顔を出した。

「あ、ムラマサ先輩だ」

「よう、銀」

 正弘が手を上げて挨拶すると、銀次郎は長靴を両足に突っ込んでから正弘の元に近付いてきた。

「ちわっす。なんか用ですか?」

「新しいのを仕上げたから、持ってきたんだ。銀も、良かったら読んでみてくれないか」

 正弘は、ショルダーバッグを軽く叩いた。うわぁ、と亜留美は歓声を上げる。

「どんなの、どんなの!?」

「でも、そういうのって、オレ達よりも鋼兄ちゃんとかゆっこ姉ちゃんとか透さんに読ませた方が」

 不可解そうな銀次郎に、正弘は首を横に振った。

「甘いな、銀。オレの漫画の対象年齢は小学生女子なのさ」

「上がって、ムラマサ先輩!」

 亜留美は正弘の手を引き、玄関に引っ張っていった。正弘は腰を上げ、亜留美に引かれるがまま歩き出した。
銀次郎も、正弘に続いて戻ってきた。正弘は玄関に入ると、居間にいた両親に挨拶してから二階に昇った。
漫画を読めるからか、亜留美の足取りはうきうきしている。銀次郎も、多少なりとも楽しみにしているようだった。
 正弘は二人に案内されて、二階の左奧にある二人の部屋に入った。いつも入る、鋼太郎の部屋とは逆方向だ。
畳敷きの六畳間には学習机が二つ並べてあり、右側には赤のランドセルが、左側には黒のランドセルがある。
亜留美の机には少女漫画雑誌や可愛い文房具が散らばり、銀次郎の机には携帯ゲーム機が置いてあった。
正弘が胡座を掻いて座ると、亜留美はすぐ傍に座った。早く読みたくて仕方ないのか、目を輝かせて待っている。

「銀も読むか?」

 正弘がショルダーバッグを開けると、銀次郎は躊躇いがちに頷いた。

「うん。でも、亜留美の後でいい」

「三部ずつ持ってきたんだ。二部は銀と亜留美ちゃんにやるから、最後のは鋼兄ちゃんにやるんだぞ」

 鋼が読むかは解らないが、と正弘は言いながらショルダーバッグから三部の薄べったい冊子を二つ出した。
それを一つずつ二人に渡すと、早速読み始めた。亜留美はにこにこしながら、コピー誌のページをめくった。
銀次郎は今年で小学五年生になったので、少女漫画を読んでいることが少しばかり照れくさいようだった。
だが、読み進めるうちに没入してきたらしく、二人は無表情になった。その反応が、正弘はとても嬉しかった。
漫画を描くのはとても楽しい。そして、それを誰かに読んでもらうことは描くのと同じぐらいに楽しいことなのだ。
正弘は、鋼太郎に渡す分の冊子を出し、ぱらぱらとめくった。昨夜、必死にホチキス留めをした甲斐があった。
 すた☆ぷり! シリーズは亜留美には好評だったが銀次郎には今一つで、敵が弱い、と言われてしまった。
彼はヒーローものや勧善懲悪のRPGが大好きな世代なので、恋愛主体のストーリーでは掴みが弱かったのだ。
だが、そう言われたからと言って、安易に方向性を変える気はない。あくまでも、描いているのは少女漫画だ。
なので、今日持ってきた新作、お助けうぃっちーず! もすた☆ぷり! と同じく変身魔法美少女ものである。
 宇宙や超能力などのSF的な設定を交えた前作とは少し違い、今度は真っ向から魔法少女路線で攻めてみた。
小学校に通う二人の女子が、偶然手に入れた魔法の宝石から魔法の力を得て悪と戦う、というのが大筋だ。
正義の魔法少女一号ウィッチーローズに変身するのは、六年二組の花崎トモミである。ボーイッシュ系だ。
正義の魔法少女二号ウィッチーリリアンに変身するのは、六年一組の白井カズサである。こちらは清純系だ。
 二人は幼稚園の頃からの付き合いの幼馴染みだが、クラス替えで離れ離れになって寂しい日々を送っていた。
登下校もなかなか合わせられずに擦れ違ってばかりだったが、ある日、二人は久し振りに一緒に下校出来た。
その途中、空から光る何かが降ってきて道端に墜落した。目映い光の中心には、赤と白の二つの宝石があった。
トモミは赤い宝石を、カズサが白い宝石を手にすると、二人の前に美しい女性のホログラフィー映像が現れた。
彼女の話によれば、異次元からやってくる魔物達が地球のあらゆる命を喰らい尽くそうと企んでいるのだそうだ。
女性は、以前に敵を追い返した先代の魔法少女の残留思念であり、敵を倒しきれなかったことを悔やんでいた。
だから、次なる魔法少女へ指導をするべく宝石の中に意思を残していた。ちなみに、彼女の名はフローラである。
 トモミとカズサが現状を把握出来ないでいると、いきなり空間が切り裂かれて、どろどろとしたものが降ってきた。
フローラの説明に寄れば、それはスライムだという。敵である異界の魔物達が、先発隊として送り込んだのだ。
ねばねばとした粘液に追い掛けられながら泣くカズサを、トモミは自分も泣きそうになりながら必死に励ました。
フローラは逃げ惑う二人に変身の方法を教えようとするが、スライムの発した粘液のビームで映像が破られた。
スライムに追い詰められた二人は、最後の抵抗で宝石をスライムに掲げると、宝石から強烈な閃光が迸った。
直後、二人は変身していた。訳も解らないまま決めポーズをし、変身後の名を名乗って派手なステッキを翳した。
 魔法少女とは言いながらもパワーファイターのウィッチーローズは、ロングタイプのステッキでスライムを叩いた。
正統派の魔法少女であるウィッチーリリアンは、ウィッチーローズの一撃で怯んだスライムに雷撃を落とした。
そして、浄化魔法キュアキュアリンでスライムを浄化して消滅させた二人は、魔法少女としての自覚を持った。
今まで以上に友情を深めながら、次なる戦いへの覚悟を決めるのであった。というのが、第一話の粗筋である。
トモミとカズサの名は、正弘の二人の姉の名のもじりである。亜留美は最後まで読み終えると、顔を上げた。

「次の話は?」

「さあ、どうなると思う?」

 正弘が笑うと、亜留美はちょっと首をかしげた。

「んー、解んないや」

「三人目の魔法少女、いつ頃出てくるの?」

 銀次郎も読み終えたので、目を上げた。正弘は、腕を組む。

「さあな。それはこれからのお楽しみだ」

「でも、良かった」

 亜留美は冊子を閉じると、正弘を見上げてきた。

「ムラマサ先輩がまた漫画を描けるようになって! 鋼兄ちゃんが言ってたスランプは、もう終わったんだよね?」

「たぶんな」

 正弘が返すと、銀次郎は冊子を閉じて畳の上に置いた。

「これ、前のよりも好きかも」

「そうか? どの辺りが?」

 正弘が銀次郎に迫ると、銀次郎は気恥ずかしげにしていたが口を開いた。

「リリアンが、なんか可愛いから」

「ローズも可愛いよ、乱暴だけど!」

 亜留美はウィッチーローズの出ているページを、大きく開いてみせた。正弘は、亜留美の頭を撫でた。

「気に入ってくれたなら、良かったよ」

 それから、正弘は二人と遊ぶことにした。鋼太郎が帰ってくるまでのしばらくの間、長兄の代わりとなっていた。
正弘は三姉弟の末弟だったということもあり、兄のように振る舞える相手と遊べるのが楽しくてたまらなかった。
亜留美の口から得意げに話される鋼太郎と百合子のべたべたした恋愛関係の話には、少しばかり辟易したが。
ボードゲームやカードゲームに興じているうちにいつのまにか時間が過ぎ、そして、鋼太郎が病院から帰宅した。
 鋼太郎は正弘が来ていると知るとちょっと意外そうにしたが、正弘がすぐに帰ると言うと鋼太郎は残念がった。
正弘も鋼太郎と話し込めないのは物足りなかったが、既に辺りは薄暗くなっていたので、帰らなくてはならない。
夕食を作らなければ、静香に文句を言われてしまう。正弘は鋼太郎に橋まで見送ってもらってから、帰路を辿った。
 街灯に照らし出された狭い歩道を歩きながら、正弘は、最近頻繁に思い出す姉達の記憶を呼び起こしていた。
思えば、漫画を描く切っ掛けは智代の言葉だ。和代と一緒に描いた絵を見て、上手いじゃない、と言ったのだ。
智代から褒められたことが嬉しくて、和代からも良かったねと言われて舞い上がって、正弘はその気になった。
 少女漫画を描くことに夢中になるうちに忘れかけていたことだが、決して忘れることはない、とても大事な記憶だ。
スランプから脱することが出来たのも、亜留美と銀次郎に喜んでもらえたのも嬉しかったが、残念なこともある。
せっかく絵が上手くなったのに、漫画らしい漫画を描けるようになったのに、一番読んでほしい人はもういない。
辺りの暗さも相まって、陰鬱な気持ちになりかけたが気を取り直した。漫画は、次の墓参りに持っていけばいい。
姉達に読んでもらえるかどうかは解らないが、墓に供えることは出来る。正弘は足取りを早め、家路を急いだ。
 次は、どんな漫画を描こう。







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