非武装田園地帯




パンドラ・ランチボックス



 気持ちだけは、とても嬉しい。


 思い掛けないことに、正弘は面食らった。
 通学用の革靴を履きかけていたが、一旦その手を止め、目の前に突き出されているものをまじまじと眺めた。
ブルーの巾着袋に入っている、正弘自身の弁当箱だった。道理で、朝から弁当箱が見当たらないわけである。
今日は弁当を持っていくことを諦めて購買にしよう、と思っていたが、この分だと予定は元に戻りそうだった。
振り返ると、弁当箱の包みを突き出している彼女はとてつもなく機嫌の悪い顔で、そっぽを向いてしまっていた。
一際目を引く赤い口紅を塗った唇を歪め、綺麗に整えた眉も吊り上げ、アイシャドウを載せた瞼を伏せている。

「マサ、持って行きなさいよ」

 静香は正弘の手中に弁当箱を押しつけてから、ストッキングを履いた足をヒールの高いパンプスに収めた。

「オレの弁当ですからね、そりゃもちろん持っていきますけど」

 正弘は通学カバンを開けて弁当箱を中に入れてから、革靴を履き直して玄関の扉を開けた。

「で、なんでオレの弁当箱を静香さんが持っていたんですか?」

「それぐらい解るでしょうが!」

 正弘にきつく言い返してから、静香は大股に歩き出した。先に行く、と怒ったような声を上げて行ってしまった。
正弘は静香の後ろ姿を見、納得した。珍しく静香が自分より先に起きていたのは、ちゃんと理由があったらしい。
昨夜に綺麗に片付けたはずのキッチンがひどく汚れていたのも、見覚えのない生ゴミが大量に捨ててあったのも。
おまけに、静香の指先には絆創膏が貼ってあった。そういえば彼女は、化粧に関すること以外は不器用だった。
それがいじらしく、嬉しくてたまらなかった。内心でだらしない笑顔を浮かべつつ、正弘はエレベーターを待った。
傍らで苛立ったようにつま先でコンクリートの床を叩く静香は、一見すれば怒っているようだが、実は照れていた。
付き合いが長いので、それぐらいは解る。どんな心変わりなのかは知らないが、弁当はありがたく頂くことにしよう。
 こんなことは、初めてだ。




 昼休み。正弘は、友人達と共に中庭に出ていた。
 背後の校舎の中からは生徒達のざわめきが聞こえ、それぞれの友人と楽しげに言葉を交わしているようだった。
十月も終盤になり、風は冷たいが日差しは暖かい。それに、フルサイボーグの三人には寒さなど関係ないのだ。
一人だけセミサイボーグである透も、ブレザーとセーターの冬服の下に防寒着を着込んでいるので平気そうだ。
 花壇の側に置かれたベンチに並んで座る四人は、言葉を交わして他愛のないことで声を上げて笑い合っていた。
マスクを開いて飲用チューブを伸ばしている鋼太郎は、早々に自分の弁当を食べ終えたらしく、蓋も閉じてある。
その隣で笑い転げる百合子はまだ食べている途中らしく、購買で買ったサンドイッチが二切れほど残っていた。
向かい側に座る透も途中で、礼儀正しく揃えた膝の上に載せてある小振りな弁当箱には、中身が残っている。

「ムラマサ先輩、喰わないんすか?」

 飲用チューブをパックの牛乳に直接突き刺して飲んでいた鋼太郎は、飲用チューブを抜いてから正弘に向いた。

「ああ、うん」

 正弘は内心でにやにやしながら、巾着袋を開いて二段重ねの弁当箱を取り出した。

「何か、いいことでも、ありましたか?」

 透は正弘の声色の違いを感じ取り、興味ありげに見つめてきた。百合子は鋼太郎を乗り越え、身を乗り出す。

「さっきからご機嫌ですもんねー、ムラマサ先輩! 橘さんと何かあったんですかぁ?」

「どけっての」

 邪魔なんだよ、と鋼太郎は膝の上に縋っている百合子を押した。百合子はむくれ、鋼太郎を見上げる。

「えぇー、いいじゃんよー。鋼ちゃんの外装の耐久性能なら、私の体重なんてへっちゃらなんだしさぁ」

「外装は平気でも、関節に来ちまうんだよ。結構デリケートなんだぞ」

 鋼太郎は大きな銀色の手で百合子の腕を掴んで引き上げようとするも、百合子は拗ねて唇を尖らせる。

「鋼ちゃんの意地悪ー」

「意地悪とかそれ以前の問題だろ! ちったぁ恥じらえよ、十七歳! さっさとどかねぇとスカート捲っちまうぞ!」

 鋼太郎は、すぐ目の前に突き出されている百合子の尻を指した。

「何その下半身直結思考」

 百合子がひどく冷めた目で言い放ったので、鋼太郎は少しむっとした。

「ああそうだな、どうせオレはそんな野郎だ。だからやってやろうじゃねぇか!」

「あー、馬鹿ぁ!」

 百合子は慌ててスカートを押さえるも、鋼太郎の手の方が一瞬早く、百合子のスカートは大きく捲り上げられた。
その様に正弘と透は固まったが、鋼太郎は残念そうに舌打ちした。スカートの中身は、一分丈のスパッツだった。

「なんだよ、つまんねぇ」

「…だって、寒くなったせいで股関節のジョイントが軋むんだもん。暖かくすればちょっとはまともなんだもん」

 百合子はちょっと泣きそうになりながら、スカートを両手でしっかりと押さえてベンチに座り直した。

「だったら、油でも差しとけよ」

 鋼太郎が言うと、百合子は頬を張る。

「それが出来たら苦労しないってば。こういう時だけは、鋼ちゃんとかムラマサ先輩の方が便利なんだよなぁ」

「オレ達みたいな旧タイプの利点は、ある程度は自己メンテナンスが出来るように造られている点だからな」

 正弘はそう言ってから、透に向く。

「透は、気温の変動は大丈夫か?」

「あ、はい。生体部品も、すっかり、体に、馴染みましたから、大丈夫です。でも、凄く寒くなると、事故で折った方の足が、痛むことは、ありますね」

 透は生身にしか見えない左腕の義手を伸ばし、左足首に触れた。

「それで、ムラマサ先輩。いいことって、なんですか?」

「まあ、言うほどのことじゃないんだが」

 正弘は照れくさくなりながら、まだ蓋を開けていない弁当を示した。

「どういう風の吹き回しかは知らないけど、静香さんがオレの弁当を作ってくれたんだよ」

「そりゃ凄いっすね。橘さん、そういうことは絶対にしない人だとばかり思っていたっすから」

 鋼太郎が素直に感心すると、百合子は歓喜して手を叩いた。

「ムラマサ先輩、これで一気に進展ですね!」

「他の人から、お弁当を作ってもらうのって、嬉しい、ですよね」

 透は、羨ましげに目を細める。三人の反応のおかげで、正弘の照れも増した。

「まあ、うん、そうだな」

 本当は飛び上がりたいほど嬉しいのだが、照れで素直になれない。まず、静香が料理をしたことが嬉しかった。
正弘と同居を始めたばかりの頃は、静香も時たま料理を作っていたが、忙しくなると全く作らなくなってしまった。
毎日コンビニ弁当やインスタント食品ばかりだったので、正弘は見るに見かねて家事を始めたという節もある。
彼女の腕前はそれほど上手ではなかったが、食べられるものは作っていたように思う。だから、大丈夫だろう。
期待と不安を抱きながら、正弘は弁当箱の上段と下段を分けて、最初に上段の蓋を外して中身を覗き込んだ。
 そこにあったのは、意外にもまともなおかずだった。ホウレン草とベーコンの炒め物や、少し焦げた卵焼き。
ポテトサラダ、冷凍食品と思しき唐揚げ。どこもおかしくはない。正弘は安堵して、箸箱を開けて箸を取り出した。

「いただきます」

 正弘は静香への礼も込めて頭を下げてから、手始めに卵焼きを取って口中に入れた。途端に違和感がした。
明らかに硬いものを噛んだ時の、じゃり、という音が聞こえた。それは正弘だけでなく、三人の耳にも届いた。
サイボーグと言えど、味覚は人並みにある。正弘は味覚のセンサーに突き刺さる有り得ない感覚に、戦慄した。

「…甘い」

「甘いって、どのくらい、ですか?」

 透が尋ねてきたので、正弘は透を遮った。

「透は喰わない方がいいレベルだ。透は生身だから、この甘さに耐えられるとは思えない」

 だから、と正弘は半分ほど囓った卵焼きを鋼太郎に差し出した。

「喰え、鋼。ほら、あーん」

「ちょ、待って下さいよムラマサ先輩、マジ嫌な予感しかしないんすけど! ていうかあーんて!」

 鋼太郎がずりさがると、百合子が背中に貼り付いて押し戻してきた。

「ほらほら鋼ちゃん、先輩の言うことは聞かないとダメだよぉー。体育会系なんだから、年上は敬わなきゃあ」

「そりゃそうだけど、なんでオレなんすか!」

 鋼太郎は正弘に喚くも、正弘は卵焼きを挟んだ箸を鋼太郎のマスクへと突き出した。

「大丈夫だ、少ぉし血糖値が跳ね上がるだけだ。ついでに炭化した蛋白質の苦みも感じるだけだ」

「それってつまり失敗作ってことじゃ!」

 鋼太郎は正弘に必死に反論したが、正弘に顎を捕まえて凄まれてしまったので、仕方なしにマスクを開いた。
口中に押し込まれた卵焼きを咀嚼した途端、またあの砂を噛むような音と感触が広がり、強烈な甘みに貫かれた。

「甘ぁっ!」

 思わず鋼太郎が仰け反ると、正弘は項垂れた。

「そうだろう、甘いだろう。あの音と感触は、ほとんど溶けていない砂糖を噛んだためだ。焼き過ぎて硬くなっているのに、砂糖が全くと言っていいほど溶けていないのがある意味では不思議だ。これじゃ、失敗したスポンジケーキを圧縮したようなものじゃないか…」

「じゃ、他の、ものは」

 透は、失礼します、と正弘に断ってから、比較的安全そうなホウレン草とベーコンの炒め物を一口含んだ。

「う」

 途端に、透の眉根が歪んだ。自分の水筒からお茶を出して流し込んでから、透は苦々しげに呟いた。

「土の味と、生のベーコンの味が、しました…。洗っていない上に、ろくに、火を通して、いないんですね…」

「本当にすまない、透」

 正弘は、透に力一杯謝った。百合子は鋼太郎の箸を借りると、恐る恐る手を伸ばした。

「じゃ、私も少し頂きます」

 ポテトサラダを少しだけつまんで口に入れた百合子は、顔をしかめた。

「…何これ? そもそも、ポテトサラダってこんなに硬かったっけ? おまけにすんごく冷たいんだけど!」

「凍ってやがる」

 鋼太郎は上段の弁当箱の裏に触れ、その温度を感じ取った。

「ついでに言えば、唐揚げも凍ってるな。つうか、半溶けって感じか? 夏場ならもっとやばかったな、これ」

「確かに、お弁当に、入れておけば、自然解凍する、冷凍食品もありますけど、唐揚げは、違うと思います」

 無表情になった透は、もう一杯お茶を呷った。

「だっ、だけど、ご飯はきっと大丈夫ですよムラマサ先輩!」

 百合子は無理に元気を出して、正弘を励ました。正弘はどんよりとした気持ちになっていたが、顔を上げた。

「ま、まあ、炭水化物さえ取れれば…」

 正弘は下段の蓋を開けたが、白飯の上に散らばるものを見て内心で目を丸くした。

「なんだ、これ」

 一見すれば、カビのようだった。青や緑、ピンクやオレンジ、赤や黄色といった鮮やかな色彩が広がっていた。
ほのかに甘い匂いも立ち上り、背筋に嫌なものが這い上がってくる。これがなんなのか、出来れば認識したくない。
だが、おのずと察しが付いてしまった。白飯の水分と熱で溶けてしまっているが、これは間違いなく、製菓用の。

「カラースプレー…」

 呆然とした透が、カラースプレーライスを凝視していた。つまり、お菓子の彩りに使うチョコレートチップである。
本来はケーキの装飾などに使うもので、弁当に使うものではない。正弘は上体を反らして目元を押さえ、嘆いた。

「ああ、確かにあったなぁ…。戸棚の奥に、少しだけ余っていた気がする。でも、どうしてそんなものをご飯に…」

「甘いものは好きだけど、ご飯が甘いのは嫌だなぁ」

 百合子は苦笑いしながら、カラースプレーライスを覗き込んだ。鋼太郎は、正弘の肩を叩く。

「えー、なんてーか、頑張って下さい。ムラマサ先輩も大変っすねぇ」

「それで、どうします、これ?」

 透は右手を伸ばし、正弘の弁当箱を指す。正弘は姿勢を戻し、弁当箱を見下ろした。

「出来れば食べ物は無駄にしたくないが、これは無理だ。静香さんには悪いが、処分するしかないな」

「あ、じゃあ、私の袋でも」

 百合子は、購買のパンが入っていたビニール袋を正弘に差し出した。正弘は袋を受け取り、ため息を零す。

「ありがとう、ゆっこ。オレだって喰えるものなら喰いたいが、あの甘さの卵焼きは無理なんだよ」

「あの卵焼きって、たまにゆっこが喰っている外国のお菓子みたいな味だったぜ。ゲロ甘、ってーの?」

 鋼太郎が肩を竦めると、百合子は不満げに唇を曲げた。

「ああいうのは、甘ぁーいからこそいいんじゃんよー。なんでそれが解らないかなぁ、鋼ちゃんは」

「昔はもうちょっとまともだったはずなのになぁ…」

 正弘は静香の作ったおかずをビニール袋に入れようとしたが、心が握り潰されるようなやるせなさに苛まれた。
食べられないものは仕方ない。だが、食べてやりたい。けれど、一口で無理だと思ったものは食べられなかった。
非常に心苦しく思いながら、正弘は上段の弁当箱を袋の中で裏返しにしようとすると、不意に透が低く呟いた。

「でも、あの女よりはマシですよ、ムラマサ先輩。だって、まだ、食べ物の形をしていますから」

 透の重みを含んだ言葉に、正弘は手を止めた。

「ごめんなさい…」

 はっとして口元に手を当て、透は目を伏せた。正弘は百合子からもらったビニール袋を、ぐしゃりと握り潰した。

「いや」

 正弘はビニール袋を制服のポケットに突っ込んでから、中途半端に食べた上段の弁当箱を見下ろした。

「やろうと思えば、喰えないわけじゃない。やるだけやってみる」

 食べられなかったから捨てた、と静香に言えば、どれほど傷付けてしまうだろう。こんなことで泣かせたくない。
あの人が泣く様を見たことはない。だが、意地っ張りで気が強いから、見えないところで泣いているかもしれない。
静香は大事な家族であり女性だ、悲しませたくない。正弘は意を決して箸を取り、凍ったポテトサラダを突いた。
箸が突き刺さり、持ち上がるほど凍っていた。半解凍の冷凍ポテトに、凍ったミックスベジタブルを入れたらしい。
口に押し込んでみると、底の部分や外側はシャーベット状になっていたが、中心はがちがちに凍ったままだった。
おまけに味がなく、ほのかに生臭い。生のベーコンの味が移っているらしく、肉の生臭みと塩気も混じっていた。
三人は戸惑っているのか顔を見合わせているが、正弘は無心になって味を一切気にせずにひたすら食べた。
カラースプレーライスも全部平らげて、空になった弁当箱を重ねた。生身ではないからこそ、出来たことである。
 正弘は達成感と同時に、なぜか空しさも覚えていた。静香の気持ちを尊重したのに、無性に情けなくなっていた。
どうしてだろう、と疑問に苛まれながら、正弘は空の弁当箱と箸箱を巾着袋に入れて紐をチョウチョ結びにした。
 昼食を食べただけなのに、やけに疲れてしまった。







07 11/21