非武装田園地帯




パンドラ・ランチボックス



 一週間後。静香の弁当作りは、未だに続いていた。
 正弘は二三日もすれば飽きるだろうと踏んでいたのだが、静香は毎朝のように玄関先で弁当箱を渡してきた。
本人が目の前にいるので断りづらいこともあり、正弘は押し切られる形で弁当を受け取って高校に通っていた。
そして、食べた。中身がどんなものであろうとも、フルサイボーグである正弘なら食べられないことはなかった。
どうしてもダメだと思う時もあったが、静香の心なしか得意げな顔を思い出すと食べないわけにはいかなかった。
夜になって帰宅した静香からは弁当の感想を尋ねられるので、正弘はかなり曖昧な表現で受け流していた。
正直な反応を示せば、静香はきっと怒るだろう。怒られるのは慣れているが、怒らせてしまうのは嫌だった。
それに、せっかく静香が家事に興味を示したのだから、料理の腕前が上がるまで付き合おうとも思っていた。
静香は自堕落を画に描いたような生活をしているので、これを機に改善されて人並みになるかもしれないのだ。
 だが、正直な話、辛かった。弁当箱の蓋を開けるたびにげんなりする日々が続くのは、さすがに苦痛だった。
静香に気を遣えば遣うほど、正弘のないはずの胃がきりきりと痛む。これでいいのかどうか、悩んでしまった。
おかげで、前は楽しみで仕方なかった昼休みがとても憂鬱だ。鋼太郎らにも心配されるほど、気が滅入っていた。
 今日もまた、静香の弁当だった。いい加減にしてくれと思う反面、今日こそはまともだ、という期待も抱いていた。
だが、弁当箱の蓋を開けた瞬間に期待は潰えた。いびつな形のおにぎりからは、異様な液体が流れ出していた。
おにぎりに入れる具として有り得ない、紫色で甘ったるい匂いを放つ液体はどう考えてもブルーベリージャムだ。
他にも、オレンジマーマレードだとしか思えない甘酸っぱい匂いや、ピーナッツバターと思しき薄茶色もあった。
しかも、これが上段の弁当箱なのである。恐る恐る下段の弁当箱を開いてみると、その中身もおにぎりだった。
ネタが尽きたのか、三つ詰め込まれたおにぎりからはチョコレートソースだとしか思えない液体が漏れている。
その上、きっちりと海苔が巻かれている。海苔特有の磯臭さに混じる甘ったるい匂いは、不気味極まりなかった。

「新手のいじめみてぇだ…」

 正弘の弁当箱を見下ろした鋼太郎が、恐ろしげに呟いた。

「これでパンだったら許せるのに、どうしておにぎりなの?」

 百合子もまた、唖然としている。

「アメリカンセンスですね」

 正弘の連日の悲劇を楽しんでいるのか、透は少し可笑しげだった。

「うん。オレも、日本を大いに勘違いしているアメリカ人みたいだと思った」

 正弘はやりきれない思いで弁当箱を見下ろして盛大にため息を吐き、弁当箱を鋼太郎に突き出した。

「さあ喰え、鋼!」

「いやいらないっすよ、ムラマサ先輩! つうかそれがいじめっぽいっすよ!」

 鋼太郎は、慌てて正弘の傍から退いた。正弘は、手を下げる。

「そうか、ならすまん」

「また味覚センサーをオフにするんですか?」

 百合子が苦笑すると、正弘は頷いた。

「それしかないだろう。いくら気を逸らしたところで、限界がある。だから、機械的に処理するしかない」

「まるで、パンドラの箱、ですよね。開けたら、災厄しか、出てきません」

 透は甘ったるい匂いを放つおにぎりを見下ろしていたが、目を上げて正弘を見やる。

「でも、底にも、希望はありません」

「ムラマサ先輩をあんまり打ちのめすなよ」

 透の容赦ない言い草に、鋼太郎は声を引きつらせる。すると、百合子がぽんと手を打つ。

「それいいね、透君! 橘さんの不思議弁当は、名付けてパンドラ弁当だ!」

「パンドラ…」

 正弘は目元に当たるゴーグル部分を押さえ、がっくりと肩を落とす。

「うん、まあ、オレもそれぐらいひどいとは思うが…」

「ムラマサ先輩は、橘さんの、絶望的な料理のセンスを、改善しようと思わないんですか?」

 透は自分の弁当を食べながら、正弘に尋ねた。正弘は、顔を背ける。

「しようとは思うんだが、邪魔するのは何か悪い気がするんだ。昨日だって、色々と買い込んでいたぐらいだし」

「初デート前の女学生みたいですね。脳内ピンク色で幸せ真っ盛り、ってな感じの」

 百合子の表現に、正弘は苦笑した。

「ああ、うん、そうだな」

「でも、オレらの知っている橘さんは弁当なんて絶対に作らねぇよなぁ」

 鋼太郎は訝り、首を捻る。透は鶏そぼろご飯を食べていたが、その手を止める。

「何か、心変わりするようなことでも、あったんでしょうか」

「そんなことがあったか?」

 正弘は出来れば見たくない弁当箱を傍らに置いてから、ブレザーに包まれた太い腕を組んだ。

「例えば、昼下がりのワイドショーの、訳の解らないモテる要素の特集を見たとか」

 あれは毒が強いです、と透は言ってから根菜の煮物を口に入れた。あー、と百合子も変な顔をする。

「あれはきついよねー。絶対に女受けも男受けもしないことを、いかにも流行ってるーって感じにするんだもん」

「じゃあ見るなよ」

 鋼太郎が呆れると、百合子は眉を下げる。

「メンテナンス入院の最中にやることなんてある? 最近は携帯ゲーム機の持ち込みは禁止されてるんだもん」

「でも、あの人は昼間のテレビなんて見ないしなぁ。平日休みも、大抵は寝るか飲むか遊ぶかだしな」

 正弘の呟きに、透はすぐさま切り返す。

「だったら、本の厚みの割に内容が薄っぺらい、ファッション雑誌でしょうか? よく、美容院とかに、ありますから」

「じゃなかったら、近くで似たようなことをしている人がいたから羨ましくなってー、とか?」

 百合子の言葉で、正弘は記憶の片隅にあったことを思い出した。

「ああ、だったらあれかな?」

「あれってなんすか?」

 鋼太郎に問われ、正弘は組んでいた腕を解いて顎に手を添えた。

「静香さんの職場で、最近結婚した男性社員がいるんだそうだ。静香さんも、その人の結婚式に出席したんだよ。で、その人は新婚何ヶ月かになるんだが、それまではえらく貧弱だった食生活が奥さんのおかげで改善されたとかで、日々肥えていっているらしい。で、その人の奥さんは料理がかなり得意らしくて、その人が持ってくる愛妻弁当の中身は彩りも良いけど味も良い、って…」

 そこで言葉を切り、正弘は頭を抱えた。

「そうか、それなのかー! あの人は新婚さんに毒されたのかー!」

「タチがいいやら、悪いやら、ですね」

 透は、やや呆れている。百合子は納得し、頷いている。

「新婚さんかぁ、それは確かに大きいですねー」

「だからって、ゆっこまでオレの弁当を作るなよ」

 鋼太郎が念を押すと、百合子はぎくっとしたように身動いだ。

「だ、大丈夫だよお! 今度、ケーキを焼こうかなーって考えたぐらいだもん!」

「小麦粉と卵とバターを突っ込んで混ぜただけの円盤岩石みたいなのは二度と勘弁してくれよな」

 鋼太郎がかなり嫌そうにしたので、正弘は百合子に向いた。

「ゆっこ、お前はそんなにひどいケーキを作ったことがあったのか?」

「あっ、あれは小学生の時ですから! もう過去も過去、宇宙最大の黒歴史っすよー!」

 だから忘れて鋼ちゃん、と百合子は鋼太郎に詰め寄るも、鋼太郎は、うるせぇ、と言って彼女をあしらっている。
円盤岩石、と称された百合子のケーキも余程ひどかったのだろう。どんなものか、想像するには難くなかったが。

「私も、小さい頃、お兄ちゃんに、失敗した料理を食べさせてしまいました」

 騒ぐ百合子と冷めた鋼太郎を横目に見つつ、透は正弘と顔を見合わせた。

「でも、お兄ちゃんは、私を傷付けまいと、全部食べてくれました。だけど、後で本当のことを教えられて、私はとても悲しくなりました。お兄ちゃんに喜んで欲しかったのに、逆に、気を遣わせてしまったから。だから、ムラマサ先輩も、我慢していたら、いけないと思います。橘さんのことを、本当に、思うんでしたら」

「そうかもしれないな」

 正弘は透の意見に賛同しつつも、先程の言葉が引っ掛かっていた。

「だけど透、パンドラ弁当は言い過ぎだと思うぞ」

「そうでしたか? 私は、妥当な表現だと、思ったんですが」

 透があまりにもしれっとしているので、正弘は言い返した。

「箱の底に希望がないなら、作ればいいだけのことさ」

「きっと、時間は、掛かるでしょうけど、頑張って下さいね」

 透は、柔らかく微笑んだ。正弘は、軽く手を振る。

「ああ、頑張るさ。オレだって、最初から家事が出来たわけじゃないしな」

 鋼太郎と百合子の言い合いは続いていた。だが、いつのまにか本筋からずれていて、別件で言い合っている。
内容は端を聞いただけで惚気も同然だと解ったので聞く気が失せ、正弘は静香の作った弁当に手を付けた。
出来るだけ味に気を向けないで、口中に押し込んで飲み下した。粘ついたジャムの感触が、かなり嫌だった。
だが、食べ切るしかないのだ。出来るだけ食べ物は無駄にしたくないので、正弘は今日も頑張って食べ終えた。
 まずは、静香の本意を聞き出さなくては。例の新婚夫婦が切っ掛けであっても、心変わりに理由はあるだろう。
静香らしくないが、らしくないからこそ何かあるのだ。それを突き止めなければ、根本的な解決にはならない。
 一刻も早く、パンドラ弁当を終わらせなければ身が持たない。



 そして、帰宅した正弘は、まず最初に冷蔵庫を開けた。
 静香の買ってきた食材と正弘の買ってきた食材が入り乱れており、静香のものは入れ方が多少乱雑だった。
ざっと目を通しただけでも、まともに使えるものばかりだ。だが、それでも、静香の料理はおかしなことになる。
これまでの料理の方向性と勘違いを考えるに、どうやら静香は目に付いたものでなんとかしているようだった。
今日の甘いおにぎりの中身である様々なジャム類は、冷蔵庫の扉の棚に使い掛けの瓶がずらりと並んでいる。
野菜室と冷凍室も開けてみると、静香は自分で買ってきたものを使い切らないうちに新しいものを開封している。
野菜にしても、正弘が買ったものと同じものを買ってきて、自分が買ってきた方だけを中途半端に使っている。
どうやら、作りたいものと作れるものが一致していないようだ。料理が出来ない人間が、陥りそうなことである。
変わった味付けや突拍子もないアレンジにはまだ突っ走っていないようだが、それもまた時間の問題なのだろう。
ここで食い止めなければ、事態は悪化してしまう。正弘は冷蔵庫の扉を閉じてから、今後の対策を思案し始めた。
 すると、玄関の鍵が開いた音がした。途端にチェーンが引っ張られ、がつっ、と扉とチェーンが硬い音を立てた。
正弘は慌てて玄関に向かい、一旦扉を閉めさせてチェーンを外した。再度開いた扉の先には、静香が立っていた。
静香は正弘を見て僅かに表情を緩めたが、無言でハイヒールを脱いで玄関に上がり、正弘の脇を通り過ぎた。
定時で仕事が終わったらしいが、静香がそのまま帰ってくるのは珍しいことだった。正弘は、静香を出迎える。

「お帰りなさい」

 正弘が静香の背に声を掛けると、静香はリビングで立ち止まり、振り返った。

「ただいま」

 窓から差し込む西日に照らされた静香の表情は、険しかった。

「やけに早いですけど、何かあったんですか?」

 正弘が静香に近付くと、静香は肩に掛けていた仕事用のバッグをソファーに放り投げた。

「ねえ、マサ。あたしの作った弁当、本当に全部食べてんの?」

「そりゃまあ、一応は」

 かなり苦労しているが、食べている。正弘の答えに、静香は目を伏せた。

「馬鹿じゃないの」

「はい?」

 正弘が聞き返すと、静香は冷淡に吐き捨てた。

「あんなもの、よく喰えるなっつってんのよ」

「喰えないことはないですよ。精神的にはかなりきついですけど」

「だったら捨てなさいよ、律儀に喰うんじゃないわよ! だから、あんたって馬鹿なのよ!」

 静香が急に声を張り上げたので、正弘は呆気に取られた。

「あ…?」

「捨てなさいよ、あんなもの!」

 静香は正弘を睨み、苛立ちを迸らせる。

「捨てられませんよ。静香さんが、せっかく作ってくれたんですから」

 正弘は気圧されながらも、返した。静香は腹立たしげに唇を歪めていたが、正弘の隣を通り過ぎてしまった。
ソファーに放り投げていたバッグを乱暴に引ったくると、そのまま玄関に戻ってハイヒールを履いて出ていった。
正弘は止めることも出来ないまま、突っ立っていた。急に怒られたり、怒鳴られたりする理由がまるで解らない。
ならば、弁当を食べなければ良かったのだろうか。だが、静香の気持ちを無駄にすることだけは出来なかった。
捨てたくないし、食べられる限りは食べたい。正弘に弁当を作ってくれるような人間は、静香しかいないのだから。
 正弘は静香を追いかけたいと思ったが、もう手遅れだと解っていた。聞き覚えのあるエンジン音がしたからだ。
正弘はリビングの窓を開けてベランダに出たが、静香の操る真っ赤なスポーツカーはあっという間に遠ざかった。
妙な罪悪感と共に軽い自己嫌悪も感じながら、正弘は肩を落とした。事態の解決以前に、行き詰まってしまった。
 本当のパンドラの箱は、静香の心だったらしい。





 


07 11/22