非武装田園地帯




パンドラ・ランチボックス



 翌日。静香の態度は、この上なくぎこちなかった。
 正弘と顔を合わせても話そうとせず、ひどく怒っている時のように目を逸らして顔も向けようとしてこなかった。
不機嫌なのは不機嫌なのだが、いつもとは様子が違っている。タバコの量は増えているが、酒の量は減っている。
静香はストレスが溜まったり腹が立った時は酒とタバコで気を紛らわすのだが、タバコだけというのは初めてだ。
そのせいで、朝からリビングにはメンソール混じりの煙が充満しており、換気扇を延々と回しても消えなかった。
幸か不幸か、今日は祝日なのだ。静香の会社も仕事が落ち着いているらしく、久々に丸一日休みになっていた。
だから、正弘と静香は朝から同じ空間にいるのだが、二人が交わした言葉と言えば挨拶と朝食の内容だけだ。
静香の不機嫌の理由を尋ねようにも、近寄りがたい。昨日、急に怒った理由すらもまだ聞き出せていなかった。
さてどうしよう、と思案しながら、正弘は洗い立ての洗濯物が入った洗濯カゴを抱えて窓を開け、ベランダに出た。

「マサ」

 すると、急に声を掛けられた。正弘は洗濯カゴを足下に置き、リビングに振り返る。

「はい?」

「なんで怒らないのよ?」

 ソファーに腰掛けて足を組んでいる静香は、半分以上吸ったタバコを灰皿で押し潰した。

「何にですか」

「だから、あたしの弁当によ」

「怒る理由が見当たらないと思ったんですよ」

 正弘は自分のワイシャツやジャージなどをハンガーに掛けて物干し竿に下げながら、答えた。

「だって、あの弁当は静香さんの力作じゃないですか。器用じゃない上に家事が嫌いなあなたが作ったんですから、最初から出来がいいはずがないんですよ。そりゃ、多少どころか大分ひどいものでしたけど、オレはこの体ですから喰おうと思えば喰えます。静香さんがオレに気を遣ってくれるなんてことはそうそうあるものじゃないんで、ありがたく受け取っただけですよ。何かしらの悪意があった上であの弁当を作ったのであれば、そりゃ怒りますけど、静香さんの態度を見る限りそういう感じはしないので」

「馬鹿じゃないの」

 その辛辣な言葉とは裏腹に、静香の口調は弱っていた。

「それだけの理由で律儀に喰っていたっていうの? あんた、本当に馬鹿よ。救いがたい馬鹿だわ」

「いけませんか」

 正弘は洗濯物を干す手を止め、向き直った。静香は化粧を一切していない顔を上げ、唇を引きつらせる。

「どうしてあたしなのよ。あんたみたいな男だったら、別にあたしじゃなくたっていいじゃないの」

「それが、弁当を作ってくれた理由なんですか?」

「あんたに合わせようって思ったんだけど、結局あんたに気を遣わせただけだったのね。馬鹿なのはあたしだわ」

 静香は自虐する。

「マサ、あんたはあたしなんかで本当にいいの? あんたとずっと一緒にいただけの女じゃないの。金欲しさに引き取っただけだし、保護者らしいことなんてほとんどしたことがない。自分で思い返してみても、あんたにはひどいことをしたって思うわ。なのに、なんでマサはいつもそうなのよ」

「オレには、静香さんしかいませんから」

「本気でそれでいいと思っているの? あたしなんかじゃ、絶対にマサに釣り合わない。自分でも、それぐらい弁えているわよ。こんなどうしようもない女に付き合っても、せっかく良くなった人生がまた悪くなるだけよ」

「オレはそうは思いません」

「あたしがそう思うの!」

 静香は苛立った声を上げ、正弘を見据えた。

「大体ね、マサはまだ十八じゃないの! だけど、あたしは二十九よ! それからしておかしいと思わないの!? そりゃ、あたしもあんたから好きだって言われた時は嬉しかったし、あたしもあんたのことは気に入っていたわよ! でも、それがいいわけないじゃないの! いいなんて言わないでよ、思わないでよ!」

「どうしてですか」

「そんなの、解り切ったことじゃないの」

 急に勢いを失った静香は、肩を落とした。

「マサ、あんたにはあたしよりもずっと相応しい女がいるはずなのよ。あんたが前に好きだった、ゆっこちゃんみたいな明るくて可愛い子がよく似合うわ。そうよ、その方が絶対にいいに決まっているわ。あんたぐらい良い奴だったら、たとえフルサイボーグでも理解してくれる人間はいるだろうし。だから、あんたの相手があたしである必要性はどこにもないのよ。なのに、なんでマサはそれに気付かないの? どうして、こんなに付き合いがいいの? なんで、そんなにあたしに気を遣うの?」

「嬉しいからですよ」

 正弘は、静香の隣に腰を下ろした。

「それだけじゃいけませんか。最初に静香さんが作ってくれた日は、午前中だけでしたけど馬鹿みたいに浮かれていました。弁当を作ってくれたってだけなのに、嬉しくて嬉しくてどうしようもなかったんです。次の日からはさすがに中身の予想が付いたので気が滅入りましたけど、それでも嬉しいものは嬉しかったんですよ」

「本当に、それだけ? それだけのことで、あたしと一緒にいるの?」

 静香が小声で問うと、正弘は小さく首を竦める。

「この人にはオレがいなきゃダメだ、とかも思わないわけじゃないですけど、他にもありますよ。静香さんがいてくれないと、正直寂しいんです。情けないから、本当は言いたくなかったんですけどね。一緒にいる相手が、誰でもいいわけがないじゃないですか。静香さんじゃないと落ち着かないんです」

「…それだけ?」

「あと、そうですね」

 正弘はしばらく間を置いてから、必死に照れを押し殺しながら言った。

「本気で結婚したいなぁって思うようになりました」

「何よ、それ」

「だって、その、なんていうか、まあ…。前もそう思っていたんですけど、最近は特にそうで。金なら大分貯まっているんで出来ないこともないんですけど、事を進めるのは高校を卒業してからって決めているので、それまで我慢しますけどね。でも、どうせなら、初任給で買ってやりたいんですよ。けっ、結婚指輪ってのは」

「何よ何よ何よぅ!」

 あまりの恥ずかしさでソファーに突っ伏し、静香は喚いた。正弘は、羞恥と緊張で声を上擦らせる。

「いっ、いいじゃないですか! 静香さんもしたくないってわけじゃないだろうし!」

「そりゃあまぁ」

 来年で三十だし、と静香は諦観して呟いた。正弘は声色を元に戻そうとするも、すぐには戻らなかった。

「だから、あんまり不安がらないで下さいよ。釣り合うとか釣り合わないとかじゃなくて、それぐらい好きなんですよ。危なっかしいから放っておけないし、目を離せないし、悲しませたくないんです。静香さんは笑うと可愛いんで」

「それ、言っていて恥ずかしくない?」

「ええ、まあ」

「じゃ言わないでよ。あたしも恥ずかしいんだから」

 ソファーから体を起こした静香に、正弘は詰め寄った。

「あの、それと、上手くすれば子供も出来るかもしれないんですよ。本当に上手くいけば、ですけど」

「あんたのクローンとか言うんじゃないでしょうね」

 それはなんか嫌、と静香は唇を曲げて顔を背けた。正弘は、静香の横顔を見つめる。

「自衛隊のことがあるので、身辺整理も兼ねて身内の遺した書類とかを調べてみたんですけど、その中に凍結精子の書類があったんですよ。といっても、それはオレのじゃなくてオレの父さんのなんですけどね。オレは殺された時には七歳でしたから、精通もへったくれもなかったわけですし。どうも、オレの父さんは種が少なかったみたいでして、自然受精が難しいから人工授精をしていたらしいんです。で、それが上手くいって、オレと姉さん二人が出来たわけですが。それで、父さんの精子を凍結保存しているその病院に問い合わせてみたら、まだ廃棄されてなかったんですよ。だから、それを使えば、出来ないこともないんじゃないかと」

「でも、それじゃ、あたしから産まれるのはマサの異母兄弟になっちゃうじゃないの。それでもいいの?」

「オレの血が半分しか混じっていなくても、いいんですよ。家族は家族ですから」

「あたしは、子供なんて育てる自信ないわよ。好きじゃないし、ちゃんと産めるかどうかも解らないんだから」

 静香はしばらく視線を彷徨わせていたが、正弘に定めた。

「でも、マサは欲しいの?」

「無理にとは言いませんけどね」

「そう」

 静香は、正弘のマスクフェイスを見つめた。妊娠や出産に対する恐怖よりも、正弘への思いが勝っていた。

「解った。やれるだけ、やってみるわよ」

 言葉を返すよりも先に腕が伸び、正弘は静香を抱き竦めていた。こうして触れ合うのも、久し振りかもしれない。
静香の性格が性格なので、好き合っていてもあまり近付かないことが多く、それが正弘の寂しさの原因だった。
だが、それを口にするのは子供じみていると思っていたし、情けないとも感じていたので、ずっと黙っていた。
静香もまた似たようなものだったのか、抗おうともしなかった。それどころか、珍しく背中に腕を回してきてくれた。

「ところで」

 久し振りの静香の感触を味わいながら、正弘は尋ねた。

「静香さんが弁当作りに目覚めた理由って、やっぱり同僚の新婚さんだったりします?」

「うぐぁあ…」

 すると、静香は変な唸り声を出し、顔を覆った。正弘の推測は当たっていたらしい。

「そうですか」

「何よ、文句でもあるっての!?」

 静香が顔を上げずに喚いたので、正弘は首を横に振った。

「いえ、可愛いなぁと」

 正弘は文句を言いたげな静香を見下ろしつつ、内心で笑った。傍にいて嬉しいからこそ、大事にしたいと思う。
それだけでいいではないか。それ以外の理由など、探す気にもならない。年齢差も境遇も、気にしたことはない。
静香が怪しげなおかずと共に弁当箱に詰め込んだのは、素直になれないからこそ鬱屈してしまった気持ちだった。
今更、そんなことを気にする必要もないと思うのだが、女心とは難しい。手間を掛けて解いていくしかないだろう。
だが、この分だとあまり苦労せずに済みそうだ。言葉にはまるで出してこなくとも、行動で示してくれたのだから。
 静香のパンドラの箱は、既に開いていたのだ。




 だが、パンドラ弁当は終わらなかった。
 それどころか、一層調子に乗っていた。正弘の二段重ねの弁当箱に、もう一つ弁当箱が添えられてしまった。
デザート類を入れる小さなタッパーではなく、いわゆる男性用の大きな平べったいもので、当然容量も大きい。
玄関先で渡されたのがいつもの弁当箱だけだったので、油断していた。通学カバンの底に入れられていたのだ。
静香にああ言った手前、食べないわけにはいかない。二つの弁当箱の中身を気にしつつ、正弘は中庭に出た。
 中庭に出てサイボーグ同好会の面々と合流した正弘が、三人に二つの弁当を見せると大層驚かれてしまった。
正弘自身も、昼休みになって初めて二つ目の弁当箱に気付いたので驚いたのだが、三人の方が盛大に驚いた。
透でさえも顔を引きつらせているので、余程のことだ。正弘は、すっかり慣れてしまった自分が少し嫌だと思った。
恐る恐る包みを開いて弁当箱を開いたが、進歩していなかった。生焼け、丸焦げ、汁漏れなど相変わらずだ。
特にひどいのが、アルミカップに並々と注がれたヨーグルトが盛大に零れていた。おかげで上段は真っ白だ。
下段は冷凍食品と思しきおかずが並んでいたが、鋼太郎曰くゲロ甘の卵焼きは健在で、またもや焦げていた。
卵焼きの砂糖の量は日に日に増えているらしく、近頃では卵焼きの端がカラメル状になっている始末だった。

「気持ちだけは嬉しいんだけどさあっ!」

 静香の気持ちは嬉しいが、正弘の体には全く嬉しくない。正弘は、思わず頭を抱えてしまった。

「ていうか、このヨーグルトって何? デザートのつもりなんだろうけど、普通は別の容器に分けない?」

 上段の弁当箱を覗いた百合子は、訝しげに首を捻った。

「それよりも問題なのは、おかずが二段に増えたことじゃねぇか?」

 鋼太郎は、最早卵焼きと言えない甘さの卵焼きを見下ろし、苦笑いする。

「だとすれば、これは、ご飯なんでしょうか」

 透は、正弘のもう一つの弁当箱を示した。

「十中八九、主食だろうな」

 正弘はもう一つの弁当箱を取り、蓋を開けたが、内心で目を丸めた。予想外のものが詰め込まれていたからだ。
三人も弁当箱の中身を見、きょとんとしている。二つ目の弁当箱に入っていたのは、白飯ではなく食パンだった。

「主食、には、違いないんでしょうが…」

 透は、ロールケーキのように丸められて四枚も詰め込まれている食パンを見つめ、顔をしかめた。

「つーことは、この食パンにあのヨーグルトを塗れと? で、手当たり次第におかずを挟めってことっすか?」

 鋼太郎は半笑いになりながら、上下段の弁当箱を指す。

「ムラマサ先輩。一度、病院で人工臓器のメンテナンスをしてもらった方が良くないですか?」

 百合子は真顔で、口調も至極真剣だった。

「ちゃんとご飯は炊いてあったはずなんだがなぁ…」

 正弘は感じないはずの頭痛を覚えながら、隙間なく詰め込まれた食パンを見つめた。静香のセンスが解らない。
結婚の意志が陰ることはないが、今度は正弘が不安になった。これでは、産まれてくる子供の身が危ぶまれる。
それまでになんとかしないと、本当に大変なことになる。今のうちに、付きっきりで料理を教えなくてはならない。
先日の祝日はすっかり立ち直った静香に連れられて出かけ、実質的にデートをしたので、教える時間もなかった。
まずは調味料の使い方と適度な量を覚えさせなければ。火加減も、切り方も、詰め方も、最初から教えなくては。
子供を作るのはそれからだ。静香の料理下手を直してやらなければ、産まれる子供も悲惨な目に遭ってしまう。
ここで食い止めなければ、悲劇は繰り返される。正弘は決意を強く固めながら、丸まった食パンを取り出した。
 結局、正弘とパンドラ弁当の静かなる戦いは、高校を卒業するまで続いた。







07 11/24