非武装田園地帯




この左手に幸福を




 失うことで、得るものもある。


 冷え切った体を縮めて、膝に顔を埋めていた。
 ずっと同じ姿勢で座っているので、手足どころか全身が凍えている。左手の人差し指の切り傷が、痛んでいた。
絆創膏も貼らずにそのままにしていたせいで、かすかに滲んだ血が指先を伝い落ちた形で固まってしまっていた。
鉄扉に寄り掛かり、足元の一点だけを見つめる。視界に入るのは、スニーカーのつま先とコンクリートだけだった。
眠たくなってきたが、目はずっと開いておいた。眠っているところを見つかったら、後でまた殴られてしまうのだ。
 悪いのは自分なのだから、休んではいけない。悪い子なのだから、心の底まで反省しなくてはいけないのだから。
お母さんはいつも正しいのだから、嘘なんか吐かない。悪い子だから、悪い子だと言ってくれて叱ってくれるのだ。
叱ってくれないお母さんは、正しいお母さんではない。叱ってくれるのは、叩いてくれるのは、正しいからなのだ。

「透?」

 不意に名を呼ばれて顔を上げると、玄関先には兄が立っていた。

「どうしたんだよ、こんなところで」

 友人の家から帰ってきた亘は驚きと困惑を混ぜた表情をしており、玄関で座り込んでいる透に歩み寄ってきた。

「お帰りなさい、お兄ちゃん」

 透は寒さで強張った頬を緩めようとしたが、出来なかった。

「とりあえず立て、うちに入ろう」

 亘は透を立ち上がらせて玄関の扉を開けようとしたが、透は慌てて兄の手を引いて止めた。

「ダメ、お兄ちゃん」

「なんでだよ」

 亘は言い返したが、透の左手の人差し指の切り傷に気付いた。

「その傷、どうしたんだよ」

 透はすぐさま兄の手を離し、ぎこちなく笑う。

「これ、なんでもないから」

「絆創膏ぐらい、貼らなきゃダメじゃないか」

「いいの。本当に、大丈夫」

「とにかく、うちに入らなきゃ」

「それはダメ。お母さんが、うちに、入っちゃいけないって、言ったから」

「だからって、このままにしておくわけにはいかないだろうが」

「でも、いけないの」

 透は寒さで青ざめた顔で、懇願するように兄を見上げてきた。

「お母さんは、悪くないの。いけないのは、私だから。お皿を、割っちゃったから。指も、その時に…」

「それ、何枚だよ」

「一つ、だけ」

 透は、丈の短いスカートの裾を握り締める。割れた皿を拾い集めた時に切れた指を、手の中に隠す。

「私が悪いの。ちょっと、ぼんやりして、落としちゃったの。お母さんは、何も悪くないの。悪い子は、私」

 そうだ。悪いのは自分だ。だから、他の誰も悪くない。誰も憎くない。透はそう思いながら、そっと目を上げた。
すると、兄が手を伸ばしてきたので条件反射で首を引っ込めた。だが、その手は透を叩きのめすことはなかった。
代わりに、母親に叩かれた時に乱れた髪を撫でた。亘の眼差しはひどく悲しげだったが、その理由が解らない。
兄はなぜ叱らないのだろう。なぜ叩かないのだろう。なぜ怒鳴らないのだろう。とても悪いことをしたはずなのに。
亘の手も冷たかったが、外気よりは遙かに暖かかった。透はなんとなく目を合わせづらくて、目を伏せていた。

「それで、あの人は?」

 亘の口調には、苛立ちが滲んでいた。透は撫でられながら、答えた。

「お友達と、買い物に。夜まで、帰らないって」

「またかよ」

 亘は呆れ混じりに呟くと、自分のコートを脱いで透に被せた。

「だったら、うちに入ってもいいじゃないか。そのままじゃ、透は風邪を引いちまうぞ」

「ダメ」

「何がダメなんだよ」

「ダメ」

「ダメなわけがあるか」

「ダメ、ダメ、ダメ」

「いいから」

 亘は透の手を無理に引いて玄関に近付こうとしたが、透は激しく首を振って足を踏ん張った。

「ダメぇっ!」

「だから、どうしてなんだよ!」

 思わず亘が声を荒げると、透はびくっと震えた。

「だって、入ったら、いけないから。お母さんが、帰ってくるまで、外にいないと、反省したことにならないの」

 亘の手の中で、透の冷え切った手は意志の固さを示すように強く握り締められていた。

「なんでだよ」

 亘は腕の力を緩め、必死に涙を堪えている妹を見つめた。なぜ、彼女は母親をいつも庇っているのだろうか。
透の実の母親であり亘の父親の再婚相手である香苗は、亘の目から見ても母親らしいところなどまるでない女だ。
再婚した当初こそ母親らしく振る舞っていたが、そのうちにボロが出てきて、我が侭で自分勝手な本性を現した。
再婚して三年が過ぎた今となっては、顔を合わせる日も少なくなってしまった。いたらいたで、娘を虐げている。
透は拓郎や亘の目に付かないところで叩かれているらしく、年頃の少女よりも細い腕や背中には痣が絶えない。
だが、透はそれを自分が転んだのだと言い張る。香苗も透のせいだと言い張り、問い詰めても答えは変わらない。
その上、香苗を詰問した翌日には、透は新しい痣を作っていた。娘を使って、憂さ晴らしをしているのだろう。
それがあるため、拓郎も亘も香苗を責めづらくなった。透を守りたいのは山々だが、守れば守るほど透は傷付く。
何度か香苗を追い出そうとしたが、そのたびに透が泣いて香苗を庇った。悪いのは私、お母さんは悪くない、と。

「お兄ちゃんは、うちに、入ってもいいよ」

 透は亘の手を振り解き、亘のコートを脱いで亘の手に返してから、また玄関先に座り込んだ。

「でも、私は、入っちゃダメなの。だから、ここでいいの」

 亘は透の手の感触が残る手を、痛みを感じるほど握り締めた。透の服装は薄着で、上着すら着ていなかった。
家事をしない香苗の代わりに家事をしている最中に追い出されたため、上着を着る暇すら与えられなかったのだ。
透はまだ小学五年生の少女だ。腕力もなければ握力も低いのだから、皿を落として割ってしまっても無理はない。

「ちょっと待ってろ、透」

 亘は居たたまれなくなって、鍵を開けて家に飛び込んだ。急いでスニーカーを脱ぎ、リビングへと駆け込んだ。
きちんとハンガーに掛けられている透のハーフコートと毛糸の帽子とマフラーを抱え、二階の自室に向かった。
机の引き出しを開けて、封筒の中に貯め込んでおいた小遣いをポケットに押し込んでから、また玄関に戻った。
だが、そこで一旦足を止めた。透の素肌の足が寒そうだったことを思い出したので、今度は透の部屋に行った。
躊躇しつつも、下着類が入っているタンスを開けて厚手のタイツを取り出し、透のショルダーバッグも持ち出した。
それらを抱えてまた靴を履き、玄関に戻った。透は、亘が抱えてきた自分のものを見て、きょとんと目を丸くした。

「だったら、しばらく出掛けるぞ。それならいいだろ?」

 亘から押しつけられた私物を見下ろし、透は目線を彷徨わせた。

「だけど…」

「お金なら持ってきたから、透の行きたいところに連れてってやるよ」

 亘は玄関に鍵を掛けてから、目を伏せている妹に向き直った。

「但し、近場だぞ。そんなに遠くまでは行けないからな」

「えっと、じゃあ…」

 透は控えめに口を開き、都心部のショッピングモールの名を挙げた。

「だったら、早く行こう。な?」

 亘は透の首にマフラーを掛けてやりながら、笑った。その笑顔が功を奏したのか、透も笑顔を返してくれた。
亘は内心でほっとしながら、コートに袖を通している妹を眺めた。それぐらいしか、してやれることはないのだ。
父親のように車が運転出来ればどこへでも連れて行けるのだろうが、中学二年生の所持金など限られている。
透が行きたいと言ったショッピングモールの最寄り駅までの電車賃もそれほど多くないことに、正直安堵した。
透は一通り着込んでから、手元に残ったタイツに気付いた。透は黒のタイツを見ていたが、兄を見上げてきた。

「えっと、これは」

「そのままじゃ寒いだろうと思って、持ってきたんだ。トイレに入って履いたらいい。絆創膏も、ドラッグストアで買ってやるよ。化膿したら大変だからな」

「ありがとう、お兄ちゃん」

 透は兄の気遣いが嬉しくて、笑んだ。亘が玄関を離れたので透もそれに続いたが、足を進めることを躊躇った。
何度か立ち止まって家に振り返るたびに、亘に急かされる。兄の気持ちは嬉しいが、母親の言葉が気になった。
叱られている最中なのだから、離れてはいけない。だが、兄に伝えた場所には前々から行きたいと思っていた。
別に欲しいものがあるわけではないが、そのショッピングモールに飾られているクリスマスツリーに興味があった。
ただ、それを見てみたいだけだった。行きたいとは思っていても、母親の手前、口に出すことさえも憚られた。
行きたいところや欲しいものがあっても、それを我慢するのがいい子で我慢しないのが悪い子だと教えられた。
少しでも悪い子になったら、また叱られる。お母さんに苦労を掛ける。だから、ずっと押し殺していた願いだった。
亘がそれをあっさり許してくれたことを意外に思いながらも、久し振りに出掛けられるので透は嬉しくなっていた。
 けれど、母親の言葉に背いた罪悪感はあった。




 二人は、私鉄を乗り継いでショッピングモールに到着した。
 クリスマスイブだけあって人でごった返しており、透は気疲れしそうになりながらも目当ての場所に向かった。
亘とはぐれないようにするため、亘のコートの袖をずっと掴んでいた。透と手を繋ぐと、兄が照れてしまうからだ。
ショッピングモールの中心部に作られた巨大な吹き抜けには、上階のフロアに届くほど大きいツリーが立っていた。
周囲ではカップルや親子連れが携帯電話で写真を撮影しており、浮ついた会話がそこかしこから聞こえてきた。
 透は亘と一緒に、手近なベンチに座っていた。だが、そこから動くことはなく、二人でずっと眺め続けていた。
透の手中には亘が買ってきてくれたココアがあったが、勿体ないので時間を掛けて飲むうちに冷めてしまった。

「本当にこれだけでいいのか、透?」

 亘は空になった缶コーヒーの缶をポケットに押し込み、傍らの妹に向いた。

「うん」

 透は生温くなったココアを少しだけ飲んでから、巨大なクリスマスツリーを見上げた。

「これだけでいい」

「何か欲しいものがあるから、来たかったんじゃないのか?」

「いいの」

 透はツリーを彩る煌びやかな電飾を見つめ、メガネの下で目を細めた。

「ありがとう、お兄ちゃん」

 その心底嬉しそうな横顔に、亘は複雑な心境だった。透は亘の眼差しに気付くと、優しく微笑んだ。

「お母さんはね、私のことを、思ってくれているの。今日だって、悪いのは、私なの。お母さんは、私を、いい子にするために、叱ってくれるの。私が、悪い子だから、叱るの。だから、お母さんは、悪くないの」

 悪いのは私、と透は再度繰り返した。

「お母さんも、本当は、優しい人なんだよ。小さい頃には、一緒に遊んでくれたし、外にも連れて行ってくれたし、絵を描いたら上手だねって褒めてくれたの。今は、お母さんは、お友達と会うのが忙しいから、疲れているだけなんだと思うの。だから、疲れているお母さんを、怒らせちゃう、私が悪いの」

「透…」

「お兄ちゃんも、そのうち、解るよ。お母さんは、ちょっと、疲れている、だけなんだって」

「にしたって、あれはないだろう」

 亘が顔を歪めると、透はそっと兄の腕に触れた。その左手の指先には、真新しい絆創膏が巻かれていた。

「大丈夫。私は、なんともないから、気にしないで。だって、悪いのは、私だから」

 透の笑みに陰りはなかった。亘は妹の邪心のない笑顔を見つめたが、尚のこと香苗への怒りが起きてきた。
母親はどこまでもひどい人間だが、その娘は真逆だ。何をされても母親を信じていて、自分ばかりを責めている。
だが、現実に悪いのは香苗だ。身勝手な理由で透の心身を責め立てて、まるでおもちゃのように扱っている。
透のことを、一人の人間ではなく物として見ている。余程機嫌がいい時は可愛がるが、それ以外の時は乱暴だ。
しかし、それでも透は母親を盲目的に慕い続けている。いつか母親に愛される日が来ると、信じているからだ。
そんな日が来ないことは、亘でさえも解る。近頃、香苗は遊び呆けるようになり、朝帰りすることも多くなった。
仕事で遠くまで写真撮影に出掛けるので、拓郎の帰りが遅いのをいいことに、亘と透を放置するようになった。
最初の頃は、香苗も拓郎の前では二人を可愛がっている振りをしたが、時間が経つと化けの皮が剥がれた。
化粧もかなり濃くなって、誰のものともつかないタバコの匂いがするようになり、昼間から酒臭い時すらあった。
拓郎が咎めても香苗の態度は改善せず、むしろ悪化している。このままでは、いずれ香苗は男を作るだろう。
いや、もう作った後かもしれない。拓郎と再婚して透を押し付け、自由の身になれたとでも思い込んでいるのだ。
 拓郎が香苗と再婚した理由は、亘のためだった。生後まもなく母親が死した亘が寂しかろうと、娶ったのだ。
幼い娘がいる香苗も頼れる相手が欲しいと言っていたこともあり、出会いから半年後に拓郎と香苗は結婚した。
結婚した当初は拓郎も香苗も仲が良く、亘も喜んでいた。お母さんとはこういうものなのか、と初めて知った。
三歳年下の義妹、透も可愛かった。家に帰っても一人ではなくなったことが嬉しくて、毎日がとても楽しかった。
だが、それはあまり長続きしなかった。香苗が優しかったのは最初の半年ほどで、そこから徐々に崩れ始めた。
少し甘えただけでとんでもない暴言を吐かれ、お母さんと呼んだだけでも物凄い目で睨まれるようになった。
だが、それは亘に対してだけではなかった。実の娘である透に対しても、冷酷な態度を取るようになってきた。
それが次第にエスカレートし、香苗は透に手を挙げるようになり、今日のように外へ閉め出すことも増えてきた。
しかし、透は母親の仕打ちにじっと耐えている。我慢することこそがいい子の証明だ、とでも言わんばかりに。
亘も拓郎も、何度となく透に我慢するなと言った。だが、透はにっこり笑って、大丈夫だと何度となく繰り返す。
 かこん、と空き缶が床に転げ落ちた。亘が振り向くと、透は気を失うように寝入っていて両手を下げていた。
香苗に押し付けられた家事の疲れのせいだろう、透は亘に寄り掛かっていることにも気付かずに眠り込んでいた。
亘は透の足元に落ちたココアの空き缶を拾ってから、透の小柄で華奢な体を支えて落ちないようにしてやった。
 二人が帰宅したのは、夜も更けた頃だった。透が目を覚ますのを待っていたら、遅くなってしまったのだ。
幸いなことに香苗とは鉢合わせすることはなく、その代わりに仕事を切り上げて帰ってきた拓郎が待っていた。
拓郎は二人の帰りが遅かったことを咎めたが、それだけだった。そして、三人はささやかなパーティーをした。
だが、その間も透は母親のことを気にしていた。寝る前になっても玄関まで覗きに行き、落胆して戻ってきた。
透は拓郎が買ってきてくれたクリスマスケーキもほとんど食べずに、香苗の分だと言って切り分けて残していた。
 しかし、翌日になっても香苗は帰ってこなかった。年が明けても姿を見せることはなく、連絡も取れなくなった。
亘と拓郎はそれほど香苗を心配していなかったが、透はひどく心配しており、料理も母親の分も作っていた。
だが、二月になっても香苗は帰ってこなかった。三月になり、ようやく香苗が帰ってくると透ははしゃいで喜んだ。
 しかし、香苗はこの上なく不愉快そうだった。 







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