非武装田園地帯




この左手に幸福を



 香苗の不機嫌は、なかなか収まらなかった。
 いつも苛立っていて事ある事に透に当たり散らし、その度に透は肉体的にも精神的にも痛め付けられていた。
それは、透が進級して六年生になっても変わらなかった。香苗もまた、長期間家を空けるようになっていた。
四月は多少家にいたが、四月の後半になると姿を消した。かと思えば、何の前触れもなく帰ることもあった。
香苗はどこかに出掛けるたびに拓郎の貯めた金を持ち出しており、その金は湯水の如く使い込まれていた。
拓郎は写真家だがそれほど稼ぎが多いというわけではなかったので、家計が困窮するのは時間の問題だった。
それでも、透は母親を慕っていた。母親が帰ってくると誰よりも先に出迎えに行き、嬉しそうな笑顔を見せる。
亘は、透の愚かに思えるほど真摯な母親への愛が鬱陶しいと思う時もあったが、すぐに哀れみへと変わった。
透は母親に好かれたい一心で、母親を思い遣っている。その気持ちだけは、亘にも解らないでもなかった。
けれど、理解出来なかった。いくら実の母親とは言え、香苗の所業を受け入れられる透はおかしいと感じた。
しかし、それを口にすることはなかった。亘も苦しいが、誰よりも苦しいのは透本人なのだと知っているからだ。
 この頃から、透の様子が変わった。亘と拓郎にやけに他人行儀になり、敬語を使って話すようになっていた。
それまでは弱々しいが普通の言葉遣いをしていたのに、ぎこちない敬語を使って二人に気を遣うようになった。
香苗がいなければ親子でも家族でもないから、と透は言い張り、止めさせようとしても一向に止めなかった。
また、亘に甘えてくることもぱったりとなくなった。亘の方から構いに行かなければ、近付かないほどだった。
 四月が過ぎ、五月に入った頃。透は、急に中学受験をすると言い出した。香苗を喜ばせたい、のだそうだ。
透が私立中学を受験して合格すれば、確かに香苗は喜ぶだろう。己を着飾るメッキが増えた、と思う程度だが。
亘も拓郎もそうに違いないと透に言い聞かせたが、透はそれでもいいと笑顔を浮かべ、勉強に励み始めた。
中途半端な時期からの受験勉強だったが、透は元々頭の良い少女で、頭の回転も速く記憶力も悪くなかった。
あまりにも透が熱心なので、拓郎も根負けして学習塾へ通わせるようになると一気に成績は良くなっていった。
当初は担任教師や塾講師からは無理だと言われた私立中学校への受験も、この分だと合格出来ると言われた。
 だが、成績が上がるに連れて、透は疲弊していった。家事と勉強、そして香苗の相手をしていたからだった。
家事は亘も手伝っていたのだが、透は妙な意地を張って自分でやりたがり、亘に手伝わせようとしなかった。
香苗は思い出したように帰ってきても態度が悪くなる一方だったが、それでも透は笑顔で母親を出迎え続けた。
そうやって無理に無理を重ねた結果、透の華奢な体はますます細くなってしまい、顔色も悪くなる一方だった。
透は今にも倒れそうになりながらも踏ん張って中学受験を果たし、レベルの高い私立中学校に上位で合格した。
香苗も、透が私立中学校に合格したことだけは喜んだ。一言、あんたにしてはマシね、と言っただけだったが。
母親の言葉に、透はとても嬉しそうに笑った。血の気が薄くなり、心労で大分痩せてしまった頬を緩めていた。
だが、これで透の環境も大きく変わる。そうなれば、透も少しは世の中が見えるだろう、と亘も拓郎も思っていた。
 透も母親への忠誠心から始めた中学受験が成功したことが嬉しいらしく、春休み中はずっと浮かれていた。
新しく作った制服を着て見せ、久し振りに亘に甘えてきた。それまでの反動からか、まるで幼子のようだった。
母親から一言でも褒められたことが嬉しくてたまらないのか、何度となくその話をしてはにこにこと笑っていた。
 これから、全てが良くなるはずだった。




 その日。透は、兄と一緒に帰る約束をしていた。
 大変な受験勉強をして入学した私立中学校のレベルは予想以上に高く、勉強に付いていくだけで精一杯だ。
クラスメイトも様々な場所から通っているので見知らぬ人間ばかりで、人見知りをする透は気疲れもしていた。
だが、楽しかった。勉強の内容は難しいが充実していて、クラスメイト達とも徐々に打ち解けられるようになった。
まだ深い会話は出来ないが、小学校時代から友人が少なかった透にとっては、それだけでも大きなことだった。
 クラスメイト達に別れの挨拶をしてから、透は桜に挟まれた校門を出て、私鉄の駅へと向かって歩き出した。
はらはらと舞い落ちる桜の花びらが綺麗で、つい見とれてしまう。久しく描いていなかった絵を、描きたくなる。
中学受験で忙しかったために、大好きな絵を描けない日々が続いたが、これからは少しは暇が出来るだろう。
美術部に入れば、学校でも思い切り絵を描ける。レベルの高い私立校だけあって、美術部の設備も良かった。
部活動を見学した時には迷ったが、今度入部届けを出そう。水彩画だけでなく、油絵も描いてみたいと思った。
そして、いつかは美術大学に入りたいと漠然と考えるようになった。今はまだ単なる憧れだが、叶えたい夢だ。
自分に才能があるとは思わないが、技術を身につけたかった。そうすれば、きっと母親も絵を褒めてくれるだろう。
母親には、どんな絵を描いても下手だと言われて、何枚も破られた。だが、上手くなれば認めてくれるはずだ。
透が得意なことはそれだけだ。勉強は少し出来るだけで、家事は人並み程度しか出来ないが、絵だけは出来る。
だから、絵だけは一生懸命頑張ろうと決めた。我が侭だと言われるかもしれないが、それだけは貫き通したい。
 透は道路の右側を歩いていたが、着信音がしたので通学カバンから携帯電話を取り出した。兄からのメールだ。
早く来ないと置いていくぞ、との短いメールだった。透は頬を緩めながら、携帯電話のボタンを押して返信した。
駅に向かっているからもう少し待って、とだけ書き、亘に送信する。中学校から駅までは、徒歩で十五分程度だ。
 長く伸ばした髪が春風に乱されたので、整える。兄を待たせてはいけないと思い、透は歩調を進めようとした。
だが、急に目眩がしてよろけてしまった。姿勢を戻そうとして足に力を入れたが、背後から爆音が接近してきた。
振り向いたが、遅かった。ほとんどブレーキを掛けずにバイクが透の左半身に衝突し、透の体は吹き飛ばされた。
アスファルトに叩き付けられた衝撃で、声も出せない。左腕がずきずきと激しく痛み、肘から先の感覚がなかった。
起き上がろうとするも、衝撃が体から抜けていなかった。透にぶつかったバイクは転倒し、ライダーも転げていた。
ライダーは気を失ってしまっているらし、身動き一つしなかった。早く助けなきゃ、と思うが、透自身も動けなかった。
視界がぼやけていることに気付いて目線を動かすと、透のメガネは歩道に落下しており、落下の際に割れていた。
 すると、地面が震動を始めた。透は目を下げて音の発信源を見つけ、それを見た途端に目を大きく見開いた。
それは、大型トラックだった。凶暴な轟音を撒き散らしながら、激しく回転するタイヤがこちらへと向かってくる。
相手は道路に倒れている透に気付いたのか、急ブレーキを掛けた。アスファルトとタイヤが擦れ合い、鳴った。
だが、遅く踏まれたブレーキは大型トラックの速度を殺せず、必死にハンドルを切るも、透を避けられなかった。
 透の顔のすぐ横を、熱く重たい固まりが通り抜けた。頬と肩に生温いものが飛び散り、腕の骨が砕かれた。
洒落たデザインのモスグリーンのブレザーの切れ端と共に肉片が落ち、鉄臭い液体が背中の下に広がった。
そして、衝撃は再びやってきた。前輪に踏み潰された左腕を後輪が踏み潰し、透の血と肉片を飛び散らした。
何が起きたのか、まるで解らなかった。透は轟音と衝撃の余波が残る頭を懸命に働かせながら、顔を上げた。

「あ、え…?」

 左腕が、なくなっていた。ぐちゃぐちゃに潰された赤黒い肉片からは、粉々に砕かれた骨片が零れていた。
筋肉と思しき筋が引きちぎられ、皮がべろりと剥がれてアスファルトに付着し、肩の先から血が出続けている。
吐き気や嫌悪感を感じている余裕など、なかった。透は、これがなんなのかを理解するだけで精一杯だった。

「あ、あああ、ああ、ああああぁ」

 ようやく恐怖と痛みを実感し、透は震え出した。

「いたいよ、いたい、いたい、いたいぃ…。たすけて、こわいよ、いたいよ、おにいちゃん…」

 痛みと恐怖で、透の意識は遠くなった。すぐ近くにいるはずの兄に助けを求めながら、そして、気を失った。
優しく降り注ぐ桜の花びらが、血溜まりに沈む。左腕を潰されて倒れたまま動かない少女に、誰かが気付いた。
興味半分で近付いてきた人々は透の有様に驚き、あからさまに怯えた。動かないライダーにも、同じ反応をした。
誰かが救急車を呼んだと叫び、近付かない方がいいと言った。雑踏の中には、私立中学校の生徒も何人かいた。
透の制服を見るやいなや、生徒達はすぐさま引き返して中学校に向かった。静かな住宅街が、騒がしくなった。
 いつまでも駅に来ない透を心配した亘がやってきたのは、透が左腕を潰されてから十数分が過ぎた頃だった。
その頃には、救急車が到着していた。亘は左腕を潰されている透の姿に戦慄し、すぐに妹に駆け寄ろうとした。
だが、足の下で何かを踏んでしまった。それは、透のメガネだった。亘はそれを握り締めると、妹の名を叫んだ。

「透!」

 透を収容しようとしていた救急隊員が亘に気付き、透に駆け寄ろうとする亘を押し止めた。

「近付いちゃいけません、危険な状態なんですから!」

「うるせぇ、透に触るな!」

 亘は何を叫んでいるのか解らないまま、救急隊員に制止されながらも喚き散らした。

「透、どうしたんだよ、透、透、透!」

 亘は左肩に止血処置を施された妹に手を伸ばすも、妹は目を覚まさず、ストレッチャーに載せられていった。

「ご身内でしたら、患者の血液型は解りますか? 一刻も早く、輸血を行う必要がありますので」

 救急隊員の一人が、亘を落ち着かせながら声を掛ける。

「O型だよ! オレの妹なんだぞ、解らないわけねぇだろうが!」

 亘は息を荒げながら叫ぶと、救急隊員が透を載せたストレッチャーを搬入している隊員達へ声を張り上げた。
その後の会話は、亘の耳には届かなかった。手の中で握り締めていた透のメガネが、ひどく重たく感じられた。
亘は透の乗せられた救急車に同乗し、死人のような顔で眠る妹の名を呼んだ。だが、妹は目を覚まさなかった。
透の顔には酸素マスクが被せられ、無事だった右腕から輸血が行われるも、左肩からは血が流れ続けていた。
包帯がきつく巻かれていても骨の形がくっきりと解り、ストレッチャーから赤い滴がぽたぽたと伝い落ちていた。
救急隊員に言われて、亘は透の右手を握り締めた。妹の手はぞっとするほど冷たく、亘は現実に引き戻された。
亘の手のひらの傷から出た血が、透の手を汚し、冷えた指先を暖めた。しかし、透の内側からの温もりはない。

「死ぬな、死ぬなよ、絶対だ!」

 亘は身を乗り出して、涙混じりの声で叫んだ。

「お願いだから死なないでくれ、透! 透ぅ!」

 やっと、やっと、これから透の世界が拓けるはずだったのに。母親だけではない世界を、知るはずだったのに。
どうしてこうなる。なぜ透なのだ。これまで辛い目に遭ってきた透が、更に辛い目に遭う必要がどこにあるのだ。
わあわあと泣き喚きながら、亘は透の名を呼び続けた。そうしていなければ、透が死んでしまうような気がした。
妹の手は冷たいままで、温度は戻ってこなかった。だから、少しでも暖まるようにと、亘は両手で握り締めた。
 一緒に帰ろう、なんて、誘わなければよかった。




 頭が重い。体も重い。まるで鉛のようだ。
 透は目を開くも、視界がぼやけていた。起き上がってメガネを掛けなければ、と思うが、指先も動かせなかった。
ぼんやりとした視界に入る天井は、知らないものだった。右腕には管が刺され、先を辿ると点滴のパックがあった。
白いベッドの傍らには、憔悴しきった兄がいた。その肩を父親が支えているが、父親の表情も冴えていなかった。
どうしたんだろう。何があったんだろう。透は虚ろな頭で考えていたが、思い出すことと言えば一つだけだった。
動きの鈍い眼球を動かして、左半身を見た。腕の体積に合わせて膨らむはずの布団が、膨らんでいなかった。
それを目にした途端、左肩に鈍い痛みが走った。その痛みで透が呻くと、亘と拓郎が即座に反応して顔を上げた。

「透、起きたのか!」

 亘はすぐさま透に駆け寄ったが、ベッドの傍で崩れ落ちて膝を付いた。

「ごめん…本当にごめん…オレがあんなこと言わなきゃ、こんなことには…」

「亘」

 拓郎は項垂れた亘の肩を叩いてから、透に向いた。

「透。起きてくれて、本当に良かった。すぐに先生を呼んでくる。亘が一緒にいるんだ、だから大丈夫だ」

 拓郎は透の髪をそっと撫でてやってから、医師を呼びに行くために足早に病室を出ていった。

「ここ、どこ…?」

 透が掠れた声で尋ねると、亘は涙に濡れた顔を上げた。

「病院だよ。透は、オレのせいで事故に遭ったんだ。オレが透を誘ったりしなきゃ、透は、透の腕は…」

 己への憎しみと悔しさで呻きながら、亘は包帯を巻かれた手で自分の足を何度も殴り付けた。 

「おにいちゃん…」

 透が戸惑いながら呟くと、亘は袖で涙を拭った。

「恨むなら恨んでくれ。オレは最低だ、こんなの、兄貴なんかじゃねぇよ!」

 亘が泣いている。亘が自分を責めている。亘は悪くない。事故に遭ったのは、透がぼんやりしていたせいだ。
立ち眩みがしたのも、トラックから逃げられなかったのも、腕を潰されてしまったのも、全て自分が弱いからだ。

「おにいちゃんは、わるくない」

 透は麻酔が残っているために動作の鈍い舌を動かし、舌っ足らずな声で言った。

「わるいのは、わたし、だから」

「どうしてそんなこと、言うんだよ」

 亘は己への怒りに声を震わせながら、病室の冷たい床を殴り付けた。

「オレを責めてくれよ、なあ、透! なんで、なんでそうなんだよ!」

「だって」

 透は、力の入らない右手でシーツを緩く掴んだ。

「おにいちゃん、だから」

 亘は透を思い遣ってくれる。一緒に帰ろうと誘ってくれたのだって、透との時間を増やしたかったからなのだ。
亘は、透を叱ったり殴ったりしない。その代わりに撫でてきてくれたり、笑顔を向けてきたり、褒めてくれたりする。
そんな兄が、悪い子であるわけがない。悪いのは自分。悪い子だから、悪い子だったから、こんな目に遭うのだ。
兄にそのことを言おうとしたが、上手く唇が動かなかった。透は、床に座り込んで泣き伏せている兄を見下ろす。

「おかあさん、は?」

「…来るわけがないだろ」

 亘が喉の奥から押し出した言葉には、香苗への憎悪が溢れていた。

「あの女が透を心配したことなんて、一度だってあるかよ! いい加減、解ってくれよ!」

「おかあさんは、いそがしいんだよ」

「なあ、透…。お前は本当にそれでいいのか…?」

 亘は握り締めた拳を震わせながら、奥歯を噛み締めた。 

「だって、おかあさん、だから」

 透はそれだけ言ったが、力が保たなくなった。意識が戻ったばかりで体力がないため、再び眠気に襲われた。
亘は透の異変に気付いて顔を上げたが、透は既に眠り込んでいた。よろけながら立ち上がり、妹に近寄った。
酸素マスクを被せられている妹は薄い唇が乾き切り、肌も脂っ気が抜けていた。顔色も悪く、髪も乱れていた。
長かった髪は事故の際に血でひどく汚れてしまったため、肩近くまでばっさり切られており、切り口は荒かった。
頬に触れると、以前の柔らかさはなくなっていた。心身への負担が、ただでさえ細い体を削ってしまったのだ。
 亘は泣くのを止めたかったが、涙が止まらなかった。透のために、今まで一体何を出来たというのだろうか。
亘がしてきたことと言えば、兄貴面をして透を甘やかしてきただけだ。それしか、思い付かなかったからだ。
透が何を求めているのか解らなかったから、透を振り回してばかりで、透がしたいことをさせてやれなかった。
一緒に帰ろうと誘ったのだって、元はと言えば亘の我が侭だ。亘のせいで、透は通らなくていい道を通った。
ヒステリックで横暴な香苗を、心の隅で恐れていた。だから、香苗と真っ向から衝突せずに透に逃げていた。
透がやりたがるからと、家事をさせ続けていた。透に負担を掛けていたのは、香苗や中学受験だけではない。
妹から怒られてもいいから、家事をすれば良かった。だが、妹から嫌われたくないから、強く出られなかった。

「透…」

 亘は透の枕元に顔を埋めて、肩を怒らせた。

「ごめんな、本当にごめんな…」

 いつのまにか、一番大変な境遇の妹に甘えていた自分に気付いた。そして、気付かなかった自分に腹が立つ。
これからは、透を支えてやろうと誓った。自分のせいで透は身を削る羽目になり、左腕を失ってしまったのだから。
亘が泣き伏せていると、病室の扉が開いた。父親と共に病室に入ってきた医師と看護士が、透の診察を始めた。
医師は亘と拓郎に断ってから、透の入院着の胸を開いた。肉の薄い少女の胸には、痛々しい手術痕があった。
左胸下の手術痕には分厚いガーゼが当てられていて、看護士は慣れた手付きで左胸下のガーゼを交換した。
入院着の左袖が解かれて、透の体が持ち上げられて脱がされた。露わにされた左肩には、包帯が巻かれていた。
生々しい現実に、亘は思わず目を背け掛けたが視線を据えた。透を支えると決めたのだから見るべきだ、と。
 左胸下と同じく、たっぷりとガーゼを貼り付けられた透の左肩から先には、在るべきものが失われていた。
つい先日まで両腕が揃っていた透を知っているだけに、余計に胸苦しい。だが、亘は視線を逸らさなかった。
看護士は透の左肩に巻き付けている包帯を取ると、その下に貼り付けていたガーゼも剥がして消毒を行った。
縫合してある左肩に皮を引っ張ってきたためか、透の控えめな左の乳房が引きつってしまい、形が歪んでいた。
左肩から先が潰されて肉片と化していた様を思い出し、亘は青ざめたが、拳を強く握り締めて嫌悪感を堪えた。
よく見ると、左右の肋骨の数が違っていた。左胸の肋骨が折れて肺に刺さったので、肋骨を切除したためだった。
左足も分厚いギプスに覆われており、見るからに重たそうだ。この分だと、当分は歩くことも出来ないだろう。
亘は激しい自己嫌悪に陥り、唇を歪めた。透の受けている痛みの半分でもいいから、寄越して欲しいと思った。
 看護士による介護が終わってから、医師は二人に話した。一命は取り留めたが油断は出来ない、と言った。
欠損した左腕を補いたければサイボーグ化するべきだ、とも。だが、亘の耳には医師の話は入ってこなかった。
看護士によって清められた透を、見つめていた。しばらくして医師と看護士は退出し、病室は三人だけになった。
 拓郎は亘を残して病室を出ると、三本の缶ジュースを手にして戻ってきた。その一つを、透の傍に置いた。
拓郎は亘が好きなジュースを手渡したが、二人とも手を付けなかった。そんな気分に、なれなかったからだ。

「お前にも透にも、すまないと思っている」

 先に口を開いたのは、拓郎だった。

「父さんが甘かったんだ。お前を寂しがらせてはいけないと思うあまりに焦ってしまって、あの人の本性を見抜けないまま再婚してしまった。何度も別れようと思ったんだが」

 父親は、また深い眠りに落ちた義子を見やった。

「あの子を、またあんな親と二人きりにするわけにいかないと思ったんだ」

「透は、オレの妹だ」

 亘が涙で声を詰まらせると、拓郎は頷いた。

「ああ。誰がなんと言おうと、透はうちの子だ。絶対に、一人になんてさせるものか」

「腕が一本ぐらいなくたって、構うもんか。透は大事な妹なんだ」

「父さんもそう思う。だが、あの人は、そうは思わないだろうがな」

「電話、したんだろ?」

「何度も掛けたが、一度も出なかったよ。メールも打ってみたが、見てくれたとは思えん」

「なんで、そんなのが透の親なんだよ」

 亘が腹立たしげに漏らすと、拓郎は亘の丸められた背を撫でた。

「だが、もういいんだ。あの人とは別れるつもりだ。もちろん、透はうちで引き取る。何がなんでも、あんな親の元へは戻さない。お前達に今まで散々迷惑を掛けたんだ、それぐらいやらなければ」

「透、それで幸せになるよな? なれるよな?」

「幸せにするんだ」

 拓郎の言葉は、いつになく力強かった。

「父さんは、亘にとってもいい親だったとは思っていない。お前を産んですぐにお前の母さんが死んでしまったから、お前を人並みに育てるために仕事をしてばかりだったから、小さい頃はあまり相手をしてやれなかった。それは今も変わらない。お前には留守番ばかりをさせている。だが、お前は捻くれないでちゃんとした子に育ってくれた。透とも仲良くしてくれて、本当の兄妹になった。亘、お前はいい子だ。だから、透を幸せにする手伝いをしてくれないか」

「言われなくたって」

 亘が答えると、拓郎は涙を僅かに滲ませた目を細めた。

「ありがとう、亘」

「でも、透の幸せって、なんだろうな」

 透の横顔を見つめながら亘が呟くと、拓郎は息子の視線の先を辿り、複雑そうな顔をした。

「それは、透に聞いてみなければ解らないな」

「だよな」

 亘は手の中で生温くなりつつある缶ジュースを見下ろし、目を伏せた。今の透が望むことは、ただ一つだろう。
他でもない、香苗との生活だ。透は母親こそが価値観の全てで、母親に褒められることが生き甲斐になっている。
それがあるからこそ、今まで透は頑張れた。体を痛め付けられようと、心を踏み躙られようと、母親に追い縋る。
なんとかして透の価値観を変えてやりたい、とは思うが、これまでの亘や拓郎の言葉は透の耳には届いていない。
 どうすればいい。何を与えれば、何を伝えれば、透は目を覚ます。亘は必死に考えたが、答えが出なかった。
拓郎もまた神妙な顔をして、深く考え込んでいた。だが、どちらにも良い答えが出ず、長い間黙り込んでしまった。
 点滴が落ちる音が、いやに大きく聞こえた。





 


07 11/29