非武装田園地帯




この左手に幸福を



 透が入院してから、二週間が過ぎた。
 その日も、亘は透を見舞っていた。部活が終わるとすぐに病院に向かい、弱り切った透を必死に励ましていた。
透は左腕を切断してしまった苦しみと術後の痛みを堪えながら、懸命に亘に笑顔を見せて元気だと言い張った。
だが、それは痛々しいだけだった。透は亘が病室を出たあとに声を殺して泣いていることも、亘は知っていた。
左腕を失ったショックで、さすがの透も気を遣い続けられなくなったのか、亘と拓郎に敬語を使わなくなった。
それだけは、いいことだった。家族だと思っている相手から敬語を使われるのは、不自然極まりなかったからだ。
透は、いつも香苗が来ることを心待ちにしていた。今日は来るかな、明日かな、と毎日のように期待していた。
香苗が来ることで透が喜び、その痛みが和らぐなら香苗のことを肯定したい気もしたが、やはり出来なかった。
実の娘を容赦なく傷付ける女を、好きになれるわけがない。よって亘は、香苗を待ち望む透に何も言えなかった。
 透の病室は個室で、東側に面していた。朝方は日差しが差し込んで明るいが、夕方になると薄暗くなる部屋だ。
窓の端からは僅かに西日が入るが、部屋を照らすだけの光量はない。そんな中、透はベッドに横たわっていた。
虚ろな眼差しで窓の外を見つめていたが、病室に入ってきた亘に気付くと、薄い唇をゆっくりと開いて呟いた。

「お兄ちゃん」

「調子はどうだ、透」

 亘は病室の扉を閉めてから、ベッドに腰掛けた。妹の入院着の左腕は、悲しいほど空虚だった。

「今は、ちょっと楽。薬が、効いているから」

 透は、すぐ傍に座る亘を見上げた。亘は妹に笑顔を向けてから、通学カバンをベッドの下に置いた。

「後で父さんも来るってさ。何か、欲しい物はあるか?」

「いらない。結構、眠いから」

 透は、ゆっくりと首を振った。亘は、妹の脂っ気の抜けた髪に触れた。

「そうか」

「お兄ちゃんの手、土の匂いが、するね」

 透は安堵したように、目を伏せた。亘は苦笑いする。

「悪い。部活が終わった後に洗ったんだが、急いでいたからそんなに綺麗に出来なかったみたいだな」

「野球部、楽しい?」

「きついけど、すっげぇ楽しい。体が良くなったら、練習試合でも見に来てくれよな」

 亘が笑むと、透も青白い頬を緩めた。

「うん、行く。だったら、お弁当、作らなきゃ。お兄ちゃん、何がいい?」

「なんでもいい。透が作ってくれるんだったら、なんだって構わないよ」

 亘は、透の冷ややかな頬に触れた。透は心地良さそうに目を閉じ、その手に頭を預けた。

「うん。頑張る」

「サイボーグ化手術のこと、考えてくれたか?」

 亘は平静を保とうとしたが、声色は無意識に重たくなった。透は目を閉じたまま、呟く。

「やっぱり、嫌だよ。機械の腕、なんて、付けたくない。怖いもん」

「ゆっくり考えてくれればいいさ。透がしたいようにすればいい」

「うん」

 透はかすかに頷いた。亘は妹の左肩を見るたびに心臓が握り潰されそうだったが、顔には出さないようにした。
透の大事な左腕を潰したのは、他でもない自分だ。目を逸らさずに現実を受け止めることが、亘の贖罪になる。
肝心の妹がどう思っているかは知らないが、少なくとも亘はそう思った。逃げずに闘うことこそ、兄の仕事だ。
 ノックもなしに、扉が開いた。亘は反射的にそちらを見やり、寝入ろうとしていた透も目を開いて首を起こした。
スライド式の扉が開かれると、そこには派手な髪型で化粧が一際濃い香苗と、見知らぬ若い男が立っていた。
香苗の姿を認めた瞬間、透の頬に赤みが差した。体を起こそうとしたので、亘は透の背を支えて起こしてやった。

「お母さん」

 この上なく嬉しそうに、透は母親を見つめた。だが、香苗は透の左腕を見た瞬間に顔を強張らせた。

「死ねば良かったのに」

「え…?」

 透は戦慄し、硬直した。母親への愛しさに満ち溢れた笑顔を凍り付かせて、目を大きく見開いた。

「聞こえなかったの?」

 香苗はハイヒールを鳴らしながら病室に入ってくると、蔑む目で透を見下ろした。

「あんたなんか死ねばいいのよ。なんで生きてるのよ、死んだと思ったから来てやったのに」

「お母さん?」

 透の声は引きつり、顔色は紙のように白くなる。だが、香苗の顔色も声色も一切変わらなかった。

「元々役立たずだったけど、もっと役立たずになったわね。腕じゃなくて、頭を潰されていれば良かったのよ」

「おかあさん…」

 透は点滴が繋がった右腕を香苗へと伸ばすが、香苗はその手を力一杯弾き飛ばした。

「何よ、気持ち悪いわね! あんたのそういうところが一番嫌いなのよ! お母さんお母さんお母さんって、鬱陶しいったらありゃしない! あんたのことなんか、最初から子供だなんて思ってないのよ! 殺すと面倒だから生かしていただけよ! せっかく死んだと思ったのに、なんで生きてんのよ! 害虫並みにしぶといわね!」

「おかあさん」

 透は弾き飛ばされた右手を、再び香苗に伸ばした。香苗は眉を吊り上げ、その腕をハンドバッグで叩き伏せた。

「触らないでっつってんでしょうが! お腹の子が流れたらどうしてくれんのよ!」 

「なんだよ、それ」

 亘が呆然とすると、香苗はようやく亘に気付いたかのような目で亘を見据えた。

「聞いての通りよ。でも、この子の父親はあんたの馬鹿な親父なんかじゃないわ。彼よ」

 香苗は満足げな顔で、男の腕に腕を絡めた。その仕草は艶めかしく、亘は嫌悪感で吐き気が込み上がった。
予想はしていたが、目の当たりにするとおぞましかった。透が苦しんでいるのを横目に、この女は愉しんでいた。

「う、ぁ…」

 透は痣の残る右腕で顔を押さえ、がたがたと震え出した。その様に、香苗は哄笑する。

「そのまま自殺でもなんでもしてくれない? その方が、手間が掛からなくていいわ」

「いい加減にしやがれぇ!」

 亘は怒声を張り上げ、煮え滾る憎悪に任せて香苗に飛び掛かろうとしたが、廊下から医師が駆け込んできた。
騒ぎを聞き付けてやってきた医師は亘を取り押さえたが、亘はその腕を振り解かんとでたらめに暴れて叫んだ。

「死ねばいいのはお前の方だ! 死ね、死んじまえ!」

「だったらあんたもこいつと一緒に死ねば?」

 香苗は少し身を引いたものの、一切動じずに言い返してきた。亘は、喉を裂かんばかりに叫ぶ。

「透はずっとあんたを待ってたんだぞ、それなのになんだよ、滅茶苦茶なことばっかりしやがって! 最低だ!」

「だから何だってのよ」

「お前なんか、お前なんかああああああ!」

 亘は香苗に飛び掛かるべく両足に力を込めたが、それ以上の力で腕を押さえ込まれてしまい、動けなくなった。
香苗は涼しい顔で、若い男の腕を引いて病室から出た。医師は亘に落ち着くように言ったが、聞こえなかった。
今までに感じたことがないほどの激しい怒りで頭に血が上っていた亘の耳に、不意に細い泣き声が聞こえてきた。
その声に、亘は冷水を浴びせられたような感覚に襲われて力を抜き、振り向いた。ベッドで、透が泣いていた。
泣き声の合間に咳き込んでは、嘔吐していた。胃の内容物はなかったのか、胃液ばかりがシーツを濡らした。
亘は透に近寄り、躊躇いなく妹を抱き締めた。腕の中で、枯れ枝のように細い体が怯えきったように震えていた。

「透」

 亘は制服が汚れるのも構わずに、透を抱き締めた。左腕のなくなった肩も抱いてやり、乱れた髪に頬を寄せる。

「う、ああぁ…」

 透は力の入らない右手で亘のワイシャツを握り締め、ぼろぼろと涙を流しながら縋り付いた。

「おにいちゃん、おにいちゃん、わ、わたし」

「大丈夫だ! オレはここにいる、透を一人になんかしない!」

 亘も涙を流しながら、透を抱いた。それぐらいのことしか出来ないのが、とても悔しく、また非常に情けなかった。
透は泣き声とも言葉とも付かない音を発しながら、亘に縋り付いた。亘は何度となく、大丈夫だと語り掛けた。
 その後、透の病室にやってきた看護士や医師によって亘は透から引き離され、鎮静剤を投与されてしまった。
透もまた処置を施され、強制的に眠らされた。亘が目を覚ました時には、ひどく疲れた顔の拓郎が座っていた。
医師から事の次第を聞かされたらしく、拓郎はかなり苦しげだった。だが、亘は父親に言葉を掛けられなかった。
鎮静剤が抜けていないので、意識が朦朧としていたからだ。制服には、透の吐き出した胃液が染み付いていた。
眠り込んでいる透の頬にはくっきりと涙の筋が残り、右手は未だに亘を求めているのか、シーツを握っていた。
しかし、亘はその手に手を伸ばせなかった。亘が横にされている場所は、透のベッドから遠い壁際だったからだ。
それが無性に腹立たしかったが、薬のせいで言葉にもならなかった。すると、拓郎は亘に手を伸ばし、撫でた。
ごめんな、ごめんな、と何度となく繰り返しながら、拓郎は息子に謝り、それから眠り込んでいる娘にも謝った。
その表情は、ひどく弱々しく見えた。亘の知る拓郎の姿とは懸け離れていて、胸が締め付けられる気分だった。
これ以上謝って欲しくなかったが、声にすら出せなかった。亘は父親の肩越しに妹を見つめながら、歯噛みした。
 これでも、透の兄だと言えるのか。




 それから、一ヶ月が過ぎた。
 透も起き上がって動けるほど体力が回復していたが、左足の骨折は完治していないので車椅子に乗っていた。
だが、右腕だけで車椅子を操るのは大変なので、外へ散歩に出るのは亘と拓郎が見舞いに来てからにしていた。
亘が部活動を終える時には日が暮れ、拓郎が仕事を終える頃も同様なので、見舞いは面会時間ぎりぎりだった。
なので透は、もっぱら夕方に外へ連れ出された。その時だけは、表情が暗くなってしまった透も笑顔を浮かべた。
けれど、透は相変わらずサイボーグ化手術を受け入れなかった。医師の説得にも、まるで応じようとしなかった。
亘も拓郎も、本音を言えば躊躇っていた。サイボーグがいかなるものかは知っていたが、受け入れづらかった。
二人も何度となく話し合ったが、これは透自身の問題なので最終的な決定は透に任せよう、との結論になった。
だから、今は透にサイボーグ化手術の話題を振らなくなっていた。このままでもいいかもしれない、とも思った。
 その日も、透は亘に連れられて中庭に出ていた。夕暮れに染められた花壇には花が咲き誇り、揺れていた。
この時間帯になると、さすがに患者も少ない。車椅子に座っている透は、水色のカーディガンを羽織っていた。
亘はゆっくりと車椅子を押しながら、他愛もない話をしていた。高校での出来事や、最近読んだ本の話などを。
透は弱々しい声で相槌を打ち、亘の話を熱心に聞いていた。たまにだが、透からも話題が振られることもあった。
 花壇の前で車椅子を止めて、亘は花壇の傍に置かれたベンチに腰掛けた。透と同じ目線で、透と向き合った。
車椅子に座っている妹は、ただでさえ痩せて小さくなった体がますます小さく見える。亘は、妹の右手を取った。

「なあに?」

 透は兄の手を握り返しながら、首をかしげた。その拍子に、肩に触れる程度で切り揃えられた髪が揺れた。

「あのな、透」

 亘は口を開いたが、躊躇して一旦閉じた。だが、意を決してもう一度開き、言った。

「父さんとお前の母さんが、離婚したんだ」

 透の目が大きく見開かれ、浅く息が吸われた。亘は目線を揺らしかけたが、妹に据えた。

「ごめんな、今まで黙っていて」

「じゃ、わたし、は」

 亘の手の中で透の右手が冷え切り、透の腕のない肩が震え出した。

「大丈夫だ、透!」

 亘は声を張り、透の手を力一杯握り締めた。

「透はオレの妹だ! どこへだって行かせやしない、一人になんてさせやしない、だから!」

「おかあさん、は?」

 透は乾いた唇を震わせ、感情の失せた眼差しで兄を見下ろしていた。

「透のところに来てからすぐに、荷物をまとめて出ていったよ。離婚したのは、それから少ししてからだ」

 亘は香苗に対する苛立ちを隠そうとしたが、声色に出てしまった。透は瞬きもせずに、ぼろぼろと涙を落とした。

「そう、なの?」

「本当だ。オレだってそんなこと信じたくないし、言いたくもない。だけど、本当のことなんだ」

 亘は両手で握り締めた透の右手を額に押し当て、項垂れる。

「透。ごめんな」

「どうして、お兄ちゃんが、謝るの?」

 透の口調は、ぞっとするほど平べったかった。亘は、苦々しげに呟く。

「それ以外に、言えることなんてあると思うか?」

「そう、なんだ」

 透の表情のない目が瞬きし、亘の手の上に生温い滴が落ちて弾けた。

「そうなんだ、そうなんだ、そっか、そっかあ、そう、だよね」

「透?」

 亘が顔を上げると、透は目を見開いたまま口元を歪め、奇妙な表情を浮かべていた。

「そうだよね、そうなんだね、そうかぁ…」

「透…」

 亘が呆気に取られていると、透は脱力して車椅子の背もたれに体重を預け、首をだらしなく傾けた。

「お兄ちゃん。はっきり言って。私は、捨てられたんだよねぇ?」

 肯定の言葉を述べるのは、酷すぎた。透の表情は悲しみと苦悩で歪んでいるが、声色は奇妙に浮ついていた。
透は、明らかに混乱していた。次から次へと訪れる過酷な現実を、まともに受け止められなかったのだろう。
変に上擦った口調で取り留めのない言葉を漏らす透は、手足の細さも相まって、壊れた人形のように見えた。

「お兄ちゃん」

 透は、焦点を失った目で亘を見下ろしてきた。

「ねえ、そうなんだよね?」

「捨てられたんじゃない。自由になったんだ。やっと、透が自分らしく生きられるようになったんだ」

 亘は立ち上がると、透の両肩を掴んで真正面から見据えた。

「自由に絵を描いていいし、家の仕事を全部しなくてもいいし、勉強だって無理して頑張らなくたっていい。透がやれるだけやれば、それでいいんだ。褒められたいんだったら、オレと父さんがいくらでも褒めてやる。欲しいものだって買っていいし、行きたいところがあれば連れてってやる。元気になったら、最初に何がしたい?」

「え…」

 透の瞳に徐々に焦点が戻り、亘と目を合わせた。亘は、精一杯の笑顔を妹に向ける。

「言ってみろ。やれるだけのことは、してやるから」

「いいの?」

「当たり前だ」

 亘が頷くと、透は目線を彷徨わせながら呟いた。

「もっと、綺麗な景色が見たい。出来れば、その景色を、描いてみたい」

「解った」

 亘は、再度頷いた。

「父さんに頼んでみるよ。父さんは仕事で色んな場所に行っているから、いい場所を知っているはずだからな」

「本当に、いいの?」

 透が恐る恐る目を上げると、亘は屈んで透と目線を合わせた。

「だから、いいって言っているだろう」

「でも…」

 透は右腕を伸ばし、かつて左腕が存在していた空間を掴んだ。

「これじゃ、スケッチブックが、持てない…」

「右腕だけでも出来るさ。透が嫌なら、無理にサイボーグになることなんて」

 亘が首を横に振ると、透は右手でカーディガンの裾をぎゅっと握った。

「が、頑張る」

「そうか?」

 亘が聞き返すと、透はいつになく真剣な顔をした。

「嫌だけど、怖いけど、でも、私だけ、頑張らないなんて、おかしいから。お兄ちゃんも、お父さんも、頑張っているのに、私だけ、何もしないなんて、凄く嫌だから」

「透は、誰よりも頑張っているよ」

「嘘じゃ、ない?」

「嘘じゃない。よく頑張ったな、透。でも、これからはもういいんだ」

 亘が返すと、透は安堵して表情を緩めた。両肩を落として深く息を吐くと、細い体が前のめりに倒れ込んできた。
亘が慌てて透の体を支えると、透は小さく嗚咽を零していた。亘は妹の背をさすってやりながら、しっかりと支えた。
 もういいんだ。もういいんだ。いいんだ。いいんだ。透は泣きながら、同じ言葉を何度も何度も繰り返していた。
母親に捨てられた絶望で、心が潰されてしまいそうだった。だが、絶望と同等かそれ以上の開放感も感じていた。
母親を追い求めて追い縋って追い続けても、いつもいつも蔑ろにされた。いつもいつもいつもいつもいつもいつも。
求めていればいつか与えられると、尽くしていればいつか報われると、愛していればいつか愛されると信じていた。
けれど、そんなことは一度もなかった。あるのは無惨な結末と辛辣な言葉ばかりで、愛情は一欠片もなかった。
ないものはないと気付くまで、かなり時間が掛かってしまった。けれど、ようやく、ないものはないと理解出来た。
だが、他のものはある。血は繋がっていなくとも心は繋がっている兄と、分け隔てなく思い遣ってくれる父親だ。
どうして今まで、それらに目を向けなかったのだろう。温かな手を取ろうとせずに、意地を張っていたのだろう。
 切なくて、悲しくて、嬉しくて、泣き続けた。





 


07 12/3