非武装田園地帯




この左手に幸福を



 それから、半年後。
 何度も手術をして左腕に新たな腕を付けた透は、リハビリを繰り返し、機械の腕を自在に動かせるようになった。
透の義腕は最新型のもので、フルサイボーグと同じように脳波を電気信号に変換して操作出来るタイプだった。
最初の頃こそ勝手が掴めずに力加減も間違えていたが、一ヶ月もすれば大分慣れて透の体にも馴染んできた。
だが、外見はまだ馴染まなかった。繊細な駆動部分やコンピューターを守るために、腕は装甲に包まれていた。
そのため、透の左腕は十三歳の少女の体には似つかわしくないほど太く、肌の色も無機質極まりない銀色だった。
それを隠すために、透は常に長袖の服を着るようになった。左手には白い手袋を被せ、徹底的に覆い隠していた。
退院して日常生活に戻ったが、機械で出来た左腕がどうしても気になってしまうのか、外へ出たがらなかった。
笑顔は消えて表情も乏しくなり、言葉は弱くなっていった。休学したままだった私立中学校にも、行かなくなった。
香苗から捨てられた苦しさとはまた別の、普通ではない体になってしまった現実が透をじわじわと苦しめていた。
都心部に住んでいるため、外へ出ればおのずと人目に付く。長袖を着ていたとしても、左腕の太さは解ってしまう。
透も年頃の少女だ。自分で受け入れたこととはいえ、サイボーグとなったことがコンプレックスになってしまった。
 環境を変えるべきだ、と言ったのは拓郎だった。亘から透の願いを聞いていたこともあり、引っ越すことにした。
亘は住み慣れた都会を離れることは辛く、仲の良い友人達と別れるのも寂しかったが、妹のためだと我慢した。
日に日に生気が失せる透を見ている方が、余程辛かった。せっかく自由になれたのに、これでは何の意味もない。
透は引っ越しの話を聞いても反応が薄かったが、拓郎が引っ越し先になる土地の写真を見せると少し反応した。
高い空の下に青々とした山が連なり、雪の積もった山脈がその奥にあり、亘の目から見ても綺麗な景色だった。
その写真を見た日から、透は徐々に生き生きしてきた。拓郎に、しきりに引っ越し先の話を聞くようになった。
減っていた会話も戻り、弱くはあるが笑顔も蘇って、久しく開いていなかったスケッチブックも開くようになった。
 辛く悲しい時を経て、ようやく事態は好転し始めた。




 長い長いドライブの末、目的地に辿り着いた。
 透は車酔いを堪えながら体を起こし、後部座席に座り直した。酔い止めは効いているが、気分が優れなかった。
父親の運転は上手いと思うのだが、それでも車だけは弱い。鉄道は平気なのに、車だけはどうしても慣れない。
隣に座っている亘は心配そうな顔で覗き込んできた。透は頭痛と胃の重たさをぐっと押し込め、笑顔を浮かべた。
幸い、今回は吐き戻すほどではない。兄と父親に大丈夫だと言ってから、透は左腕を伸ばしてドアを開けた。
白い手袋に包まれた機械の指先は透の意志に従って曲がり、かすかなモーター音と共にドアのロックを外した。
車から出ると、冷ややかな風が吹き付けてきた。透は首を縮めて、後部座席に放り投げてあった上着を取った。
それを羽織ってから、改めて景色を見渡した。ずっと車の中にいたために日差しがいやに眩しく、目を刺した。
数回瞬きをしてから、透は目を見張った。紅葉に彩られた山脈が長く連なり、広大な田園地帯が広がっていた。
稲刈りの時期は終わってしまっていたのが、少々残念だった。紅葉の奥には、一際高い山々がそびえていた。
高速道路からも見えていたが、ここからは更によく見えた。鋭く尖った頂は雪が積もったばかりで、輝いている。
山肌の青い色合いは、抜けるような秋晴れの空も相まって、拓郎が見せてくれた写真よりも遙かに美しかった。

「透」

 振り返ると、亘も外へ出てきていた。

「気分はどうだ?」

「凄く、いい」

 事実、車酔いなど吹き飛んでいた。透は目尻にうっすらと滲んだ涙を拭ってから、再度景色を見つめた。

「お父さん、ここ、綺麗だね」

 透は、亘に続いて外へ出てきた拓郎に笑みを向けた。

「透の気が済んだら、下へ降りて新しい家に行かないとな。引っ越しの荷物は、明日来るはずだ」

「野球部のある高校、見つけないとな」

 亘が言うと、透は少し目を伏せた。それに気付いた亘は、透のショートカットの髪をぐしゃりと乱した。

「透も、もう一度一年生をやり直さないとだな」

「…うん」

 透は兄の手の下で、小さく頷いた。

「学校は、嫌いじゃない」

「今度は、大丈夫だよな」

 亘は妹の髪から手を外し、様々な思いを込めて呟いた。拓郎は色彩豊かな景色を見下ろし、頷く。

「今度はきっと、悪いようにならんさ」

「今度は…」

 透は右手を左腕に添え、その無機質な硬さを味わった。この一年間だけで、色々なことがめまぐるしく変わった。
母親のいない日々にも、慣れてしまった。前から家を空けることが多かったので、その延長だと思えば良かった。
物を落としても、平手が飛んでこないことがこんなにも楽だと気付けるまでは、少し時間が掛かってしまったが。
不必要に怒鳴られず、寝過ごしても蹴られず、家事を疎かにしてしまっても外へ出されないことに違和感があった。
それまでは、それが常識だと思っていた。母親とは子供を虐げるもので、子供とは母親の所業に耐えるものだと。
透は寂しさのあまりに、香苗から与えられるものは全て愛情の片鱗なのだと信じていたが、それは間違っていた。
香苗は人よりも少しだけ不器用で、他の母親よりも素直ではないだけで、言葉がきついだけなのだと思っていた。
そうでも思わなければ、押し潰されそうだった。ろくに友人も出来なかった透にとっては、母親だけが全てだった。
それと同じように、香苗も透が全てなのだと思いたかった。透を思い遣っているからこそ、いつも厳しくするのだと。
 透にとってのいい子とは、香苗に忠実であることだった。そして悪い子とは、香苗の機嫌を損ねることだった。
香苗に笑って欲しかったから、幼い頃のように構って欲しかったから、透は何をされても堪えて母親を追い続けた。
透が幼い頃だけは、香苗は人並みに優しかった。それは、未だに忘れることの出来ない、とても大切な思い出だ。
だが、今にして思えばそれは他人への見栄だったのかもしれない。香苗が優しい時は、人目に付く時だけだった。
外に出掛けている時だけは、香苗は母親だった。他の母親と同じように、透を撫でたり抱き上げたりしてくれた。
手狭なアパートに戻ってから甘えると、香苗はまた元に戻っており、透を乱暴に払いのけて汚い言葉で罵ってきた。
その頃は、それが当たり前だと思っていた。けれど、それは当たり前のことではなく、香苗がおかしいのだと解った。
 入院している間に、他の家族を目にした。どの家族も、というわけではなかったが、母親は愛情に満ちていた。
香苗のように透を傷付ける言葉を吐くこともなく、伸ばした腕も張り飛ばさず、病で弱った子供を抱き締めていた。
それがとても羨ましくて、泣いたことは一度や二度ではなかった。常識を知ったから、本当の愛情が何かも知った。
今でも、香苗から愛されたら嬉しいとは思う。けれど、もう二度と会いたくない、絶対に関わりたくない、とも思う。
だが、もう大丈夫だろう。これだけ離れた場所にやってきたのだし、香苗もこちらに関わってくることもないだろう。
一度捨てた子供を拾いに来るほど、情の深い女ではない。心変わりの早い自分に、透は自分のことながら驚いた。
けれどそれも、香苗のせいで歪められていた価値観が、人並みになったという証拠だ。これだけでも大きな進歩だ。

「お父さん、お兄ちゃん」

 透は二人に向き直ると、笑った。

「ありがとう」

 二人は、透に笑い返してきてくれた。今度は亘だけではなく拓郎にも撫でられ、透は少し気恥ずかしくなった。
けれど、抗う気は起きなかった。二人の手から感じる体温と向けられる笑顔が心地良く、顔が勝手に緩んでしまう。
二人のためにも、背筋を伸ばして生きていこう。自分のためにここまで尽くしてくれた人達は、絶対に裏切れない。
本音を言えば、新しい中学校に転校することは怖かった。全く違う環境に入るのだから、それなりに勇気が必要だ。
しかし、ずっと家にいるのも嫌だった。そうなれば、これまで以上に塞ぎ込んでしまうことが解っていたからだ。
せっかく二人が透の願いを叶えてくれたのだから、妹として、子供として、家族の一員として、応える義務がある。
 だから、前を向こう。




 そして、新たな春が訪れた。
 透は姿見の前に立ち、紺のセーラーの襟とグリーンのリボンを整えた。見るからに野暮ったい、田舎の制服だ。
あれほど苦労して入学したのに二週間程度しか通えなかった私立中学校の制服とは、天と地ほどの差があった。
中に着たブラウスの襟も整え、左手の手袋も填め直す。先日短く切り揃えたばかりの髪の襟足も、撫で付けた。
窓の外から見える山肌には残雪がくっきりと残り、春の気配はまだ遠い。だが、カレンダーでは既に四月だった。
この地方は、季節の進みが違う。まだ違和感を感じているが、時間が経てばいずれそれが当たり前になるだろう。
 服装の確認を終えた透は、これまた野暮ったい通学カバンを開いて、忘れ物がないか確かめてカバンを閉めた。
その通学カバンを背負った透は、階段を下りて一階のリビングに顔を出すと、既に準備を終えた兄が待っていた。

「お、出来たな」

 昨年の秋から転入した高校の制服を着ている亘は、ソファーから立ち上がった。

「可愛いじゃんか」

「そう、かな」

 透は妙に気恥ずかしくなり、顔を伏せた。亘は腰を曲げ、透と目線を合わせる。

「似合うぞ、透」

「あう…」

 そんなに褒められると、却って困ってしまう。透は赤くなりながら、兄から顔を背けた。

「じゃ、オレも行くかな。電車、一時間に一本ぐらいしかないから、絶対に乗り過ごすわけにはいかないもんな」

「うん、そうだね」

 透は、通学カバンとスポーツバッグを担ぐ兄を見上げた。亘はすれ違い様に透の肩を叩き、玄関に向かった。
透はその背を見送り、いってらっしゃい、と声を掛けると、兄は手を振りながら、いってきます、と返してきた。
こちらも、あまりのんびりしているわけにはいかない。今日は、新たに入学した中学校の入学式があるのだから。
今度こそちゃんとした学校生活を送るためにも、精一杯頑張らなければ。そう思いながら、ローファーを履いた。
つま先を揃えてから玄関を出ると、車庫からは父親のワンボックスカーが出ていて、エンジンを暖気させていた。
拓郎は透の姿に気付くと、眩しそうに目を細めた。透はまた照れくさくなったが、玄関に鍵を掛けて階段を下りた。
 三人が移り住んだ新しい家は、この地方に合わせた雪国仕様だ。一階は、コンクリート製の車庫になっている。
居住部分はその上に造られた二階と三階で、屋根は大きく傾斜が付いている。昨年の冬には、大変な思いをした。
十一月の終盤から降り出した雪はすぐに降り積もったが、除雪をしたことがなかったので勝手が解らなかった。
側溝の蓋を開けて雪を流すことも知らなかったので、車庫の前から退けた雪を敷地内に山と積み上げてしまった。
それが異様だったらしく、見るに見かねた近所の住民に教えてもらって事なきを得たが、冬場は重労働だった。
雪がひどい時は朝早くと夕方頃にも除雪をしなくてはならず、透も手伝った。一年目の冬は、慌ただしかった。
それが終わり、やっと春が訪れた。少しずつ空気が柔らかくなり、風には土と水の匂いが混じるようになった。
日に日に濃くなる春の気配を、直接肌で感じられた。雪解けと同じくして、透の心も解け、潤いも戻ってきた。

「お父さん、これ、そんなに、似合う?」

 透は通学カバンを後部座席に入れてから、セーラーの襟をつまんだ。

「お兄ちゃんが、やたらに褒めてくれたんだけど、私は、そうでもないと思う」

「ん、ああ。似合うよ」

 拓郎が笑むと、透はさも不審そうに眉を下げた。

「そう?」

「透」

 拓郎は透に手を差し伸べ、ぽんぽんと頭を軽く撫でた。

「亘も、透が元気になったことが嬉しいんだ。それぐらい解ってやれ」

「うん」

 透は小さく頷き、表情を戻した。

「じゃ、お父さんも、嬉しいの?」

「当たり前だ。当たり前だから、嬉しいんだ」

 拓郎は透を見下ろし、複雑な表情を浮かべた。

「だが、その当たり前になるまでの道程が、少し遠回りだっただけなんだ。透にも、亘にもな」

「だったら、お父さん。えっと、その、授業参観、来てくれる?」

 透はおずおずと呟くと、拓郎は大きく頷いた。

「ああ」

 透はその答えが嬉しくて、思わず頬を緩めた。拓郎はもう一度透を撫でてやってから、運転席に乗り込んだ
香苗には我が侭だと言われたことなのに、受け入れてもらえた。この上ない嬉しさの中、透も助手席に乗った。
静かに発進した車は、残雪の残る道路を通り、鉄道の橋と併走している橋を渡って中学校へと向かっていった。
程なくして見えてきた校舎に、透は見入っていた。これから大変かもしれないが、それ以上に期待も大きかった。
 左腕を犠牲にして得た自由を狭めるか広げるかは、透次第だ。友人が出来るか出来ないかも、勇気の問題だ。
けれど、もう二度とあんな生活には戻りたくない。母親が異常なのだと解ると、愛情は嫌悪感に変わりつつあった。
これまで散々人格を否定されてきたことに対する仕返しではないが、香苗を否定せずにはいられなくなっていた。
だから、今日から始まる新しい日々の中では、香苗のことはなかったことにしてしまおうと透は内心で決意した。
母親などいなかった。いるのは父親と兄だけだ。二人こそが本物の家族であり、あんな母親は家族などではない。
心も体も徹底的に壊されて、生活すらも砕かれた。だから、再構築して一からやり直すことは許されるはずだ。
 透は、白い手袋を填めた左手に右手を重ねた。布越しに、金属の冷たさと硬さが手のひらに伝わってきた。
この左腕は、未だにあまり好いていない。便利な道具だとは思うが、自分自身だと思えるまでは時間が掛かる。
けれど、機械仕掛けの腕なら、今までは指の間から取り落としてしまっていたものも掴み取れるようになるだろう。
当たり前の幸せや、どこにでもある日常や、痛みのない日々といったものにも、手が届くようになったのだから。
だから、その手を離してはいけない。生身の右腕では力が足りないかもしれないが、機械の左腕なら大丈夫だ。
もしも、またこの幸せが壊れてしまいそうになったら、その時はこの左腕を振り上げて精一杯闘おうと決意した。
 もう二度と、幸福を失いたくない。







07 12/4