豪烈甲者カンタロス




第十二話 現れた真因



 湯船に浸かると、手足に温もりが戻ってきた。
 カンタロスと合体して戦うと、想像以上に体力を消耗する上、カンタロスの冷たい体液に体温を奪われてしまう。
シャワーを浴びて体液を流し、陰部に残留している異物感を消すために丹念に洗い、全身のべたつきを落とした。
乾くとジェルのように髪を固めてくる体液を落とすのは一苦労だったが、綺麗になってから風呂に入った方が良い。
湯も汚れないし、何より気分が良い。繭は手足を伸ばし切って顎まで湯に身を浸すと、ほうっとため息を零した。
人型昆虫対策班分室で割り当てられた部屋は高級マンション顔負けで風呂も広かったが、やっぱり自宅が良い。
落ち着くし、気が楽になる。入浴剤とシャンプーの香りが満ちる暖かい空気を肺に満たしてから、緩く吐き出した。
 壁越しに、両親の談笑が聞こえる。音が籠もっているので解りづらいが、どちらの声色も穏やかで優しげだった。
そんな声を聞いたことは、一度もなかった。物心付いた頃から、二人の関係は冷め切り、会話も感情がなかった。
連絡事項を伝え合う程度で、私的な話をすることはなかった。家族と言うよりも、仕事相手に対する態度だった。
実際、そうだったのだろう。世間に体面を保つために作った偽物の家族なのだから、情を寄せる必要がないのだ。
だから、家族旅行に行ったことがなければ、揃って遊びに行ったこともなく、構ってもらったことすらも少なかった。
家に帰ってきても繭一人きりで、両親が帰ってくるのは大抵夜遅くで、帰ってきたとしても会話はほとんどなかった。
その寂しさを紛らわすために料理に没頭し、上手く出来たからと冷蔵庫に入れておいても、二人は食べなかった。
翌朝、やはり両親のいない食卓でその料理を温め直して食べた時の寂しさを思い出して、繭は薄く涙を滲ませた。
 だから、あんなふうに出迎えてもらうのが夢だった。繭は唇を噛み締めながら湯に顔を浸し、滲む涙を溶かした。
誰もいない家に帰るのが嫌で市街地を彷徨いていると、他の家では帰宅した家族を家人が温かく出迎えていた。
夕食の匂い、談笑の声、人の息吹。そのどれもが憎らしいぐらい愛おしかったが、繭にそれを与える者はいない。
与えて欲しいと思っても、その相手は家に帰ってこない。そう思っていたし、諦めたはずなのに、胸が苦しかった。

「早く、上がらなきゃ」

 母親が準備してくれた夕食が、冷めてしまう。湯船から出た繭は、タオルで髪を拭いながら鏡を見やった。

「あ…」

 いつのまにか、笑っていた。カンタロスを相手にして作るぎこちない笑顔とは違う、自分でも嬉しくなる顔だった。
なんだか無性に恥ずかしくなってしまい、繭は荒っぽく髪の水気を拭い落としてから浴室を出て、脱衣所に入った。
そこには、繭の下着と服が用意してあった。風呂に入った時には持ってきていなかったので、母親の仕事だろう。
それがますます胸を締め付けてきて、繭は笑いたいが泣きたくなり、下着を身に付けながら何度となく涙を拭った。
髪を乾かしながら鏡を見ては、自分の表情を確認してしまう。私ってこんな顔で笑うんだなぁ、と少し切なくなった。
 家中に流れている夕食の匂いはカレーだった。繭は幼い子供に戻ったような気持ちになり、リビングに向かった。
リビングに入ると、父親が出迎えてくれた。母親は繭の分のカレーを盛るために、皿に温かな白飯を載せていた。

「やっと上がってきたか、随分長風呂だったなぁ」

 父親は繭の髪に触れ、撫でてくれた。その手の大きさと暖かさに、繭は弛緩する。

「うん」

「ちょっと見ない間に、大きくなったなぁ」

 父親は繭を撫でながら、目を細めた。

「お前には本当に悪いことをしたよ、繭」

「うん…」

 繭が俯くと、父親は繭の肩を痛みが生じるほど強く叩いた。

「これからは、ずっと一緒に暮らそう。もちろん、母さんもだ」

「うん」

 繭は頷き、また滲みそうになった涙を拭った。

「さあ、食べようか。お前が帰ってくるのを待っていたんだからな」

 父親は繭をもう一度撫でてから立ち上がり、ダイニングテーブルに向かった。

「私もこの人も、繭のことを全然知ろうとしなかったし、知らなかったから、あなたが好きなものが解らなかったの」

 母親はサラダボウルやスープの器を食卓に並べながら、申し訳なさそうに眉を下げた。

「だから、カレーにしてみたんだけど、それで良かったかしら?」

「うん。私、お母さんのカレー、大好き」

 繭は母親に飛びついて甘えたい気持ちを抑えて答えると、母親は安堵の笑みを浮かべた。

「そう。良かった」

 さあ、食べましょう、と母親から促されて繭は自分の席に着いた。両親は、繭の向かい側に並んで座っている。
繭はちょっと照れ臭くなってしまい、視線を彷徨わせてから、スプーンを取ってカレーの盛られた皿を見下ろした。
食欲をくすぐる香辛料の匂いと野菜の煮えた甘い匂いが立ち上るルーには、戦闘で見慣れたものが浮いていた。
 白く瞳孔が煮えた、柔らかな眼球。千切れた分厚い舌。折れた歯。頭皮が付着した頭蓋骨。頸椎。脳の断片。
それらがニンジンやジャガイモやタマネギに混ざって煮込まれ、眼球はスプーンで突けばとろけそうなほどだった。
両親を見やると、二人はそれを躊躇いもなく食べている。骨を砕き、筋肉を噛み、脳を啜り、人間を喰らっている。
サラダボウルも、レタスやキュウリに混じって茹でられた人間の筋肉が山と盛られ、ドレッシングが掛かっている。
この分だと、スープも死体から煮出したものだろう。繭が目を剥くと、母親はカレーを食べ終えて笑みを向けた。

「どうしたの、繭? お腹、空いてるんでしょ?」

「なんで食べないんだ? こんなに旨いのになぁ」

 父親も笑みを向けてくるが、母親と全く同じ表情だった。顔の作りが違うだけで、表情のパターンはそっくりだ。
繭が立ち上がって後退ると、二階から足音が聞こえた。誰もいないはずなのに、と身動ぐとそれは近付いてきた。
リビングと廊下を繋ぐドアが開き、制服姿の少女が現れた。その姿を見た瞬間、繭は即物的な恐怖に駆られた。
 確かに、あの日、この家の廊下でカンタロスに喰わせたはずなのに。だが、彼女は間違いなく塚本真衣だった。
絶対に有り得ない光景に繭が青ざめていると、真衣はわざとらしい笑みを顔に貼り付けて繭に歩み寄ってきた。

「久し振り、元気してた?」

「どうして…塚本さんが…」

 繭がリビングの壁際まで後退ると、真衣は繭の前に立ち塞がった。

「さあ、どうしてだろうね?」

「あなたは私が、カンタロスに喰わせたはずなのに!」

 繭は握ったままだったスプーンを振り上げ、真衣の眼球に突き刺した。ぐじゅりっ、と柔らかな手応えが返る。
薄い瞼がめくれ上がって眼球が潰れ、血混じりの水が飛び散った。だが、真衣は動じるどころか笑みを見せた。

「この個体の痛覚は切ってある。そなたが何をしたところで、この個体は何も感じぬ」

「…え?」

 真衣の声だが、別人の言葉だった。繭が血濡れたスプーンを握り締めると、真衣はけたけたと笑った。

「つまらぬものじゃな。これしきのことで惑わされるとはのう」

「あなた、誰? どうして塚本さんの体を使っているの?」

 繭が問うと、真衣の姿をした異形は抉れた眼球を引き抜き、投げ捨てた。

「妾は女王の中の女王、万物の母であり、女神よ。妾にとって、人の姿を模した者を成すのは容易いことよ」

「お父さんとお母さんも、あなたが操っていたの?」

「それ以外にあるかえ。そなたらに屠られた子や虫に付いておった匂いで、この家とこの者共のことを探り当てたのでな、こやつらの脳からそなたの情報を吸い尽くさせてもらったわ。情報は思ったほど得られなかったが、そなたを誘い込むことが出来たのだから、まあ、無駄ではなかったようじゃがな」

「いつのまに…」

 繭は異形から視線を外さぬように気を付けながら足元に落ちた眼球を見下ろすと、瞳孔が一つではなかった。
カンタロスや他の人型昆虫の目と良く似た、複眼だ。白目があったからだろう、一見しただけでは解らなかった。
肌は外骨格には見えないが、眼球と瞼を失った目から零れ出る体液は青く、紛れもなく人型昆虫のものだった。

「そんなこと、出来るの?」

 あまりの出来の良さに繭が訝ると、真衣の姿の異形は爪先を頬に立て、薄い皮膚を引き裂いた。

「これはさなぎでな。脱皮すれば、そなたの見知った虫に近しい姿になる」

 爪に裂かれた皮膚の下から覗くのは、体液の薄い膜に覆われた外骨格だったが、女王の色と変わらなかった。
これまでに交戦してきた人型昆虫とは違う、女王の直系の個体ということだろうが、それにしては大きさが小さい。
外見を操作出来るぐらいだから、大きさも簡単に操れるのだろう。だが、なぜ、そんなものが繭に接触するのだ。

「これまで、妾はそなたらが妾の愛し子と戦う様を見てきた。人や、虫や、機械の目を通じてな」

 真衣の姿をした異形の手が繭の顎に吸い付き、指を曲げた。

「人の腹に妾の分身の卵を孕ませて成長させてきたが、その力を使い、妾に刃向かってきたのはそなたらが初めてだった。人のくせに虫と化した者もおったが、あれは話にならん。だが、そなたらは違う。人の手に穢された子の力を引き出したばかりか、妾を脅かし始めたのじゃ」

「ぐぇあっ!」

 凄まじい力で喉を潰され、繭は舌を出して呻いた。

「滅ぶべきは妾ではない、人じゃ!」

 真衣の姿をした異形の指が息苦しさで開いた顎に入り込み、強引に喉を開かせた。

「妾は星の数ほども子を産んだ! だが、子を産んで育てた傍からそなたらは子を殺し、妾の繁栄を阻んだ! 餌を求めて地上に現れた子は捕らえられ、女王の卵を奪われた! 無事に孵化した虫の子らも、人でもなければ虫でもない男に屠られる始末よ! なぜだ、なぜ妾と子らは殺されねばならぬのじゃ! 妾と子らは、栄えたいだけだというに!」

 繭は懸命に顎を閉じようとするが、真衣の姿をした異形の指の力には敵わず、顎の関節と筋が痛んでしまった。
噛み切ろうにも、指が硬すぎて歯が折れてしまいそうだった。さなぎとはいえ、中身の外骨格は成虫並みなのだ。

「そなたの孕んだ卵を返してもらおうぞ」

 ぐ、と顎が抜けそうなほど下げられ、真衣の姿をした異形は繭の目の前に顔を寄せると、口を開いた。

「これまでの戦いで、妾は次なる女王を消耗しすぎたのでのう」

 真衣の姿をした異形の口の中には歯はなく、歯に似た顎が尖っており、舌はカンタロスのものと同じく細長い。
その舌がにゅるりと蠢いて繭の口中に滑り込み、喉に迫ってきた。舌とは思えぬ硬さで、粘膜を切り裂いてくる。
そのまま皮膚も肉も破かれて頸椎に至るかと思われたが、繭は自由の利く足で真衣の姿をした異形を蹴った。
思い掛けない反撃に顎を押し下げる指が緩んだので、繭は真衣の姿をした異形を突き飛ばして転ばせ、駆けた。
機械的に夕食を食べ続ける両親の脇を抜けてキッチンに駆け込むと、人間の血肉に汚れた包丁を握り締めた。

「そんなもので何をするつもりかえ、人間め」

 真衣の姿をした異形は、ダイニングキッチンの奥で包丁を構える繭に歩み寄り、退路を塞いだ。

「返す気がないというのなら、その腹を裂いてしまおうぞ!」

「嫌ぁっ!」

 繭は力一杯叫び、包丁を突き出した。

「私は女王になるの、ならなきゃいけないの!」

「笑止! 虫の女王は虫でなければならぬわ、苗床如きが何をほざくか!」

 真衣の姿をした異形は踏み込み、身を躍らせた。繭が反射的にしゃがみ込むと、頭上の食器棚が貫かれた。
ガラス片と共に食器の欠片が降り注ぎ、頬や髪を切った。目を上げると、左腕が繭の頭を砕くために放たれた。
戦闘時の要領で素早く横に転身した繭は、真衣の姿をした異形の脇の脇に回り込んで包丁を高く振り上げた。

「私は、女王になりたいの!」

 真衣の姿をした異形の首に、幾度も包丁を突き立てる。

「生まれて初めて、男の子を好きになったの! だから、私のことを好きになってほしいって思ったの!」

 肌に似せた柔らかな外皮が破れ、その下の首関節と膜が露わになるが、繭は包丁を振り下ろす手を緩めない。

「女王にならなきゃ、きっと!」

 膜が破れ、神経が千切れ、内臓がずるりとはみ出し、自重で首が落下し、体液を散らしながら転げた。

「カンタロスは、私のことなんて、好きになってくれないから」

 青い体液を全身くまなく浴びた繭は、包丁を握り締めたまま息を荒げた。

「だから、邪魔しないでね?」

 繭がカウンター越しにダイニングテーブルを見やると、異変が起きても食事を続けていた両親が振り向いた。
二人の目は複眼ではないが、目の焦点が合っていなかった。注視すると、二人の頸椎には傷口が付いていた。
カンタロスと合体した後に出来る神経接続痕と同じものだ。恐らく、神経糸を差し込まれて操作されたのだろう。
 ほんの僅かな時間だったが、長年の願望が叶ったことで繭は家族に対しての未練は欠片も感じていなかった。
母親が出迎えてくれて、父親が構ってくれて、食卓を囲むことが出来た。飢えていたものが、少し満たされていた。
繭が本当に求めているものは、両親の愛情でもなければ温かな家庭でもない。だから、引き摺ることはなかった。

「さよなら、お父さん、お母さん」

 繭は真衣の姿をした異形の体液に濡れた包丁を振り上げると、虚ろな眼差しの父親の背に深々と突き立てた。
本物の人間の本物の血液が噴き上がり、青く染まった服を赤黒く汚し、外骨格よりも柔らかい手応えが伝わった。
肺を破り、肋骨を割り、体重を掛けて心臓に到達させると、父親は前のめりに倒れ込んで、皿に顔を突っ込んだ。
その間、母親は全く反応しなかった。二人を操っていた真衣の姿をした異形が、殺されてしまったからなのだろう。
 父親が息絶えたことを確認してから、繭は母親の頸動脈に包丁を叩き込んだ。天井まで、高く血飛沫が上がる。
真衣の姿をした異形と父親を殺したことで切れ味が鈍くなっていたので、最早切ることは難しくなっていたからだ。
切ると言うよりも抉られた首筋の傷を数回叩き、ごきっ、と頸椎に刃が当たったので、骨の繋ぎ目に挟み込んだ。
首を切断しようかと思ったが、そこまでの余力はない。母親の首を押して九十度近く曲げた繭は、深く息を吐いた。
こうしておけば、生き返ることはないだろう。外に出ようとしたが、体液と血で全身が汚れていることに気付いた。
 再度風呂に入って体を洗い、冷蔵庫の中に残っていた食べられそうなものを胃に詰めてから、繭は家から出た。
玄関から出ると、カンタロスが立っていた。待っていてくれたのだ、と思うと、繭は嬉しくなって顔が緩んでしまった。

「遅いじゃねぇか。服はどうした」

「あ…」

 カンタロスに指摘され、繭は自分が手ぶらであることに気付いたが、もう家に戻る気は起きなかった。

「もう、いいや」

「訳が解らねぇな」

 カンタロスは触角を下げ、繭の匂いに混じる他の人型昆虫の匂いに気付いた。

「巣の中で何があった?」

「ん…別に」

 繭は少し目を伏せたが、カンタロスを見上げた。

「何か、聞いた?」

「何がだよ」

「なら、いいや」

 繭は照れ混じりの笑みを零すと、カンタロスの上右足に触れた。

「そろそろ分室に戻ろうか、カンタロス。お腹空いちゃった」

「ん、ああ」

 外骨格に染み渡る繭の体温に、カンタロスはあの手応えのない疑似感情が呼び起こされ、僅かに言い淀んだ。
頭から罵倒してやるつもりだった。傷付けてでも責めるつもりだった。だが、繭の笑顔を見ると、その気が萎れた。
繭が家の中に消えた時、思ってしまった。在るべき世界に戻った彼女は二度とこちらに戻ってこないのでは、と。
だが、そうではなかった。それがやたらと嬉しかったが、どう示せばいいのか解らず、言葉にすることも出来ない。
 傍らでは、繭が笑っている。疲労と達成感が色濃く表れているが、照れ臭さの入り混じる笑みは可愛らしかった。
躊躇いもなくそう認識した自分に戸惑うが、払拭することすら出来ず、カンタロスは上両足で繭を引き寄せていた。
いきなり持ち上げられて繭は目を丸めたが、抗わなかった。カンタロスは顔を前に倒し、顎を開き、舌を伸ばした。
柔らかく薄い唇の間に舌を入れ、絡め、唾液を奪う。繭は悩ましげに喘いで、カンタロスの首に腕を回してきた。
今までにないことにカンタロスが驚いて舌を引き抜こうとすると、繭はカンタロスの舌を噛んで口中に留まらせた。
足を浮かせつつも身を乗り出してきた繭は、カンタロスの分厚く鋭い顎に顔を寄せ、気を許した証しに目を閉じた。
 両者が離れたのは、数分後だった。互いの唾液が混じったものを唇から舐め取った繭は、地上に降ろされた。
カンタロスは前例のないことに困っていたが、それ以上に訳の解らない高揚感を覚えてぎりぎりと顎を軋ませた。

「戻ろう、カンタロス」

「…おう」

 繭の命令に従ってしまった自分を疎む余裕すら失ったカンタロスは、繭を横抱きに抱えて琥珀色の羽を広げた。
繭はカンタロスの首に腕を回して、抱き付いてくる。触角を掠める吐息と繭の甘ったるい匂いに、酔いそうになる。
虫を惑わす女王の匂いが煩わしく思えるほど、繭の匂いが強かった。生温い夜風を切って夜景の上を飛行する。
 頭上に散らばる無数の星と、眼下に瞬く無数の光。見慣れたはずの光景が心身に染み入り、胸中を痛ませる。
好きだと伝えたいが、まだその勇気が足りなかった。カンタロスに対する思いを受け入れただけで精一杯だった。
彼の求めるものを得て、繭が真の女王になり、自信が持てるようになったら、この思いを伝えられるかもしれない。
そのためにも、戦おう。女王になろう。カンタロスの首に回した手を硬く握り締めながら、繭は頬を赤らめていた。
 カンタロスが好きだ。




 戦って、戦って、戦い抜いた。
 生臭い死臭が漂う球場に寝転がったねねは、息を荒げながら、傍らに転がる女王の死体を横目に見ていた。
女王の体にはいくつもの刺し傷と無数の切り傷が出来ていたが、毒針で頭部を貫けたのは戦闘の終盤だった。
この個体は地上に現れたばかりで交尾はしていなかったらしく、次世代の女王を孕んでいなかったのは幸運だ。
もし、この女王が次世代の女王や人型昆虫の子を孕んでいたら、ベスパ一匹では全く勝ち目はなかっただろう。
 前回、渋谷駅前で交戦した時はカンタロスとブラックシャインの助力があったから難なく毒針で敵を貫けたのだ。
だが、今回はそうではない。カンタロスは球場を脱し、ブラックシャインは姿を消し、セールヴォランは論外だった。
確かにセールヴォランは戦術に長けていて、場合によっては三組の中で最も強いのだが桐子の性格が悪すぎる。
セールヴォランは自分に向かってきた女王を片方のあぎとで切り刻み、内臓を引き摺り出して倒し、すぐに去った。
その場に取り残されたベスパは懸命に戦ったが、ブラックシャインが戻ってくる様子はなくカンタロスも同様だった。
だから、正直言って勝てるかどうかは解らなかったが、なんとか凌げた。それが嬉しくて、意味もなく笑ってしまう。

「クイーン」

 ねねの視界に、ベスパが顔を出した。

「どうかなさったのですか」

「べーっつにぃー」

 ねねは冷たい地面から起き上がると、ベスパを見上げた。

「てか、あたしってマジ凄くね? だって、あんなでかいの倒したんだし。つか、マジヤバいっしょ?」

「仰る通りです、クイーン」

 ベスパはねねの傍らに膝を付き、頷いた。

「クイーンは御立派です、優秀です、最高です、そして麗しいのです!」

「そう、かなぁ」

 自分で言う分には平気だが、他人から言われると恥ずかしい。ねねが恥じらうと、ベスパは胸を張った。

「そうですとも! クイーンこそが、真の女王に相応しい御方なのです!」

「なあ、ベスパ」

「はい?」

「なんでもねーよ」

 ねねは緩んだ顔を元に戻せず、あらぬ方向に顔を向けた。こんなに褒めてもらうと、くすぐったくなってしまう。
誰かに褒めてもらったことなど、数えるほどしかなかった。いつも兄ばかりが褒められて、ねねは蔑ろにされた。
意識しないようにしても、劣等感は膨らんだ。だが、心底捻くれてしまうと劣等感を埋めるどころではなくなった。
出来が悪いのは自覚しているし、今更やり直そうとは思わない。だから、他人から褒められるとは思わなかった。
その相手が虫だというのも、最早気にならなくなっていた。ねねの身を案じ、考え、思うのは、ベスパだけなのだ。
 少しぐらいなら、好きになってもいいかもしれない。真の女王になる理由はなかったが、ベスパの傍にいたい。
そのためになら、戦い続けられるかもしれない。どれほど意地を張っても、やはり一人で生きるのは寂しすぎる。
 だから、手近な相手に心を開きたくなる。





 


09 3/11