豪烈甲者カンタロス




第五話 破れた純情



 オフィス街を貫く大通りに、巨体の甲虫は舞い降りた。
 アスファルトを砕いて着地した異形の姿に、行き交っていたタクシーや乗用車は急ブレーキを踏んで止まった。
途端に、複数の破損音が鳴り響いた。皆、何の前触れもなく現れた異形の物体を避けようとして失敗したからだ。
衝突した車も多く、家路を急いでいたサラリーマンなども足を止め、前触れもなく現れた物体に目を留めていた。
折れたボンネットから煙を上げるタクシーを横目に、カンタロスは触角を動かして、人型昆虫の気配を探知した。
道路を挟んで立ち並ぶビルからかすかに人型昆虫の匂いが流れてくるが、人間の放つ匂いも入り混じっている。
だが、敵が現れれば、探すまでもない。カンタロスは破損した乗用車から逃げ出した人間を、無造作に捕らえた。

「餌、作ればいいんだよね」

 カンタロスと化した繭が呟くと、脳の中にカンタロスが返した。

『ああ。連中も腹が減ってるからな』

「じゃ、さっさとやっちゃおうか」

 カンタロスは顔を引きつらせているスーツ姿の男の胸倉を掴み、持ち上げた。男が声を上げる前に、爪を振る。
黒い爪は仕立ての良いスーツを呆気なく切り裂き、皮膚も肉も筋も裂いた。脂肪と赤い肉の隙間から、血が迸る。
直後、周囲から耳障りな悲鳴が上がった。革靴やハイヒールで懸命に駆ける人々に、カンタロスは複眼を向けた。

「逃げるんだったら、早い方が良いよ。まあ、無駄なんだけど」

 カンタロスは逃げ惑う人々を横目に、触角を動かした。血の匂いに誘われたのか、人型昆虫の気配が増した。
外骨格の擦れ合う音、顎を擦り合わせる音、羽を動かす音、体液の匂い、土の匂い、血の匂い、同族の匂い。
一つ二つしか感じられなかった気配が一気に増殖し、カンタロスを取り囲むように、ビルの屋上へ集まってきた。
男の死体を投げ捨ててから、カンタロスは顔を上げた。街灯を浴びて輝く複眼が並び、カンタロスを睨んでいた。
 りいりいりいりいりいりい。場違いに涼やかな音色が鳴り響き、人々は足を止めてビルを仰ぎ見、音源を探した。
六本の足を曲げてビルの外壁に貼り付いていたものが、立ち上がった。強靱な下足を持つ、人型コオロギだった。
最初に戦った人型バッタよりも小柄だが、数が多い。丸い頭部に長い触角、茶褐色の羽を持つ人型昆虫である。
リーダーと思しき先頭の個体が上右足を掲げると、ビルに取り付いていた人型コオロギが一斉に羽を擦らせた。
 音の域を超えた暴力が、無差別に放たれた。一定の音程を保った音が更に音に重なり、重なり、力になった。
凄まじい圧力の音に揺さぶられたガラスは砕け、砕け、砕け、砕け、ビルの真下で逃げ惑う人々に降り注いだ。
カンタロスらが手を下す前に、逃げ遅れた人々はガラスの破片に顔や腕を切り裂かれて倒れ、血の海に沈んだ。
だが、カンタロスにはそれほど音の打撃は訪れなかった。外骨格を覆う細かい毛が、薙ぎ払われているだけだ。

「あ、そうか」
 
 カンタロスの中で音を感じながら、繭は思い出した。カブトムシには耳はなく、触角や体毛で音を感じるのだ。
機械的な聴覚はあるのだが、カンタロスに搭載されているもう一つの脳は、自動的に音域を下げていてくれた。
だから、繭にはほとんどダメージが訪れなかったのだ。だったら戦いようがある、とカンタロスは周囲を見渡した。
ビルの屋上や外壁に取り付いている人型コオロギの数は多く、これまで戦った人型昆虫の群れとは桁が違う。
これまでのように、群れの中に突っ込んで力任せに蹴散らすだけでは、彼を操る繭の方が先に疲弊してしまう。
だから、策を講じなければ。カンタロスは思案していたが、運転手が逃げ出してしまった乗用車に目を留めた。

「良いこと思い付いちゃったかも」

 カンタロスは乗用車を難なく担ぎ上げると、下両足に思い切り力を入れて踏ん張り、腰を捻った。

「てぇやっ!」

 掛け声と共に放たれた鉄塊は、唸りを上げて回転しながら上昇し、人型コオロギの貼り付いたビルに刺さった。
コンクリートと鉄骨を破壊しながらビル壁に埋まった乗用車は、ガソリンタンクが破損したのか、だらだらと零れた。
突然訪れた衝撃に、人型コオロギは後退って触角を動かしている。だが、火の気がないのか出火の気配はない。
もう一台投げるべきか、とカンタロスがタクシーを担ぎ上げかけた時、ビルの室内で切れた電線が火花を放った。
刹那、気化したガソリンに火花が触れ、引火した。爆発も同然に発火したガソリンが、人型コオロギの群れを襲う。

『女王にしては考えたな』

 脳内に響いたカンタロスの言葉に、繭は少し照れた。

「燃やしちゃえば、簡単だから」

 ぎいぎいぎいと情けなく鳴きながら悶える人型コオロギは、同族の中に突っ込んだり、地上へと落下してきた。
炎に巻かれながら暴れる人型コオロギは同族にも炎を分け与え、地上に落ちた者は人間を潰し、焼け焦がした。
街灯以外の光源が生まれたことで、オフィス街は異様な明るさを得て、炎を纏った虫達が死の舞踏を踊っていた。
追い打ちを掛けるべく、二台、三台、四台、五台と更に投げ飛ばしてやり、次々にビルの壁に突き刺していった。
一台刺さるたびに炎の領域は増え、光も増した。どこかのビルからは非常警報が鳴り響いたが、悲鳴に紛れた。
 ガソリンの炎を逃れた人型コオロギの群れは、ビルの壁を蹴りながら飛び跳ね、カンタロスを取り囲み始めた。
複眼に映るビルの壁、電柱、街灯、車両などの上に人型コオロギが貼り付き、りいりいりいりいりいと鳴き続けた。
それらが、徐々に間隔を詰めてくる。カンタロスは爪に付いた金属片を払い落としてから、上両足の爪を掲げた。
 カンタロスが踏み出すよりも早く、人型コオロギの一体が飛び出した。小柄なので、人型バッタよりも身軽だった。
瞬時に懐に飛び込まれたが、カンタロスは怯まずに爪を振って頭部を壊し、背後に迫った一体の胸部を貫いた。
頭上に飛び降りてきた一体はツノで叩き伏せ、複眼の死角である真後ろから襲ってきた一体には蹴りを放った。
 頭で考えた通りに、カンタロスは動いてくれる。最初の頃は動かし方すら解らなかったが、今では慣れたものだ。
カンタロスが触角や体毛で感じる敵の動きを受け、繭はすぐさまその方向に下左足を放ち、強烈な打撃を送った。
また一体、人型コオロギが腹部を潰されて死んだ。高く吹き上がった体液が外骨格を汚し、アスファルトに広がる。
 カンタロスが爪を降ろした時には、人型コオロギのほとんどが死んでいた。複眼に付いた体液を拭い、捨てた。
頭を破壊されたために肉体の制御を失って痙攣している者や、下半身を失ったが触角を動かしている者もいる。
だが、程なくして絶命するだろう。生き残りがいたら面倒なので、カンタロスは呼吸を整えながら、辺りを見回した。
 いつも通りの、死体の山だ。人型コオロギの死体だけでなく、巻き添えを食って死んだ人間の死体も多かった。
カンタロスが突き飛ばした人型昆虫に首を折られた女性、カンタロスが投げた人型昆虫の足で腹を破られた男性。
誰のものとも付かない手足が転げ、折れた指や抉れた肉片も落ちていて、喰われかけの内臓も散らばっている。
鋭敏な触角をくすぐる鉄錆の匂いに、カンタロスの食欲と本能が高揚していくのが神経糸を通じて繭に伝わった。
だが、繭はさすがに食欲は湧かなかった。戦闘による疲労で空腹は感じていたが、空腹と食欲は全く別のものだ。
生き残りを適当に倒したら、早く帰って夜食を食べよう。そう思いながら、カンタロスは複眼に映る景色を眺めた。
 視界の隅に、漆黒の巨体が掠めた。同時に、敵意と殺意を含んだ鋭敏な羽音が聴覚を叩き、神経を騒がせる。
戦闘を終えたことで少し気を緩めていたが、そんなものは吹き飛ばされ、カンタロスは顔を上げてそれを探した。

「あれって、まさか」

 そして、見つけた。燃えるビルから放たれる朱色の光を浴びる、最大の武器の片方を失った戦士が立っていた。
右側のあぎとと中右足のない、人型クワガタムシ。表情が出ないはずの黒い複眼には、熱い憎悪が漲っていた。
人型クワガタムシはビルの屋上を蹴り、虚空に躍り出た。琥珀色の羽を優雅に広げ、女性らしい仕草で着地した。
青い体液の海に下両足を付けた人型クワガタムシは、薄い羽を収めて、ゆらりと頭部を振りながら立ち上がった。

「素敵な夜ね」

 体格に応じた低さでありながら、色気さえ感じさせる声で、セールヴォランは言った。

「会いたかったわ、十五号。そして、兜森さん」

「セール、ヴォラン」

 カンタロスが身構えると、セールヴォランは上左足の爪を顔に添えた。

「そうよ、私はセールヴォラン。桐子はセールヴォランで、セールヴォランは桐子なのよ」

「意味が解らないんだけど」

「ふふふふふふふ。解らないのは、あなたはまだ恋をしていないからよ。私は彼を愛しているし、彼も私を愛しているから、私と彼は一つなのよ。だから、彼の傷は私の傷で、私の悲しみは彼の悲しみなの」

 セールヴォランは、人間の死体も人型昆虫の死体も踏み散らかしながら、近付いてくる。

「だから、私達はあなたを許さない!」

 どちゃり、と粘り気のある飛沫が上がった。カンタロスが振り上げた爪の下を擦り抜け、巨体が飛び込んできた。
滑るように動いた漆黒の戦士が、胸部へと拳を叩き込んだ。繭にまで直接及んだ打撃に、カンタロスは後退った。
その隙に、セールヴォランは身を伸ばして足を上げた。ツノを蹴り、頭部を突き、腹部を叩き、ダメージを与えた。
人型コオロギの攻撃とは、比べ物にならなかった。確実に体重を乗せているので、安定した重みが掛かっている。
 カンタロスが突き出した拳に絡めるように拳が放たれ、下げる際に曲げた関節にセールヴォランの足が絡んだ。
それをねじ曲げ、上右足の肩まで捻ってきた。カンタロスは上左足でセールヴォランの爪を払い、距離を取った。
セールヴォランは上体を下げて駆け出し、後退るカンタロスが姿勢を戻す前に懐に入り、左側のあぎとを上げた。
右側のあぎとを失って出来た空間にカンタロスの胴体を入れ、首を上げてカンタロスの上左足の付け根を狙った。
カンタロスは下右足を軸にしてぐるりと回転して、上左足への斬撃を避けたが、身を翻したために隙が生まれた。
僅かに遊んだ上右足を掴んだセールヴォランは、空いた上左足でカンタロスのツノを掴み、首を大きく反らさせた。
そして、下右足を払い、姿勢を崩させた。セールヴォランはカンタロスの体重を腰に乗せると、鞭のように投げた。

「うぐうっ!?」

 投げ飛ばされたカンタロスの巨体はビルの壁に激突し、外壁は大きく抉れた。

「ふふふふふふふ」

 ひび割れた外壁に背を埋めているカンタロスを見下ろし、セールヴォランは微笑んだ。

「あなた達のダンスは荒っぽすぎるわ、もう少し力を抜いてステップを踏まなきゃダメよ」

「…う」

 カンタロスは全身に蓄積した疲労と打撃の痛みに呻きつつも、態勢を立て直そうとした。

「さあ、今度は私達があなたにやり返す番よ」

 セールヴォランは上両足でカンタロスの頭部を壁に押し付けると、中左足をカンタロスの胸部に差し込んだ。

「出ていらっしゃい、兜森さん。とっても素敵な目に遭わせてあげるわ」

「ぐがぁっ!?」

 胸部の外骨格の隙間に爪を差し込まれて捻られ、カンタロスは凄まじい痛みに襲われた。

「素直に開きなさい。そうしないと、もっと素敵なことになるわよ?」

 ぎちぎちぎちぎちぎちぎち、とセールヴォランの中左足の爪が、カンタロスの胸部の繋ぎ目を引き裂きに掛かる。
体液を流出させないために普段は閉じている膜に爪が刺され、みぢみぢと音を立てて筋肉繊維が千切れていく。
麻酔をせずに開腹手術をしたらこんな感じだろう、と内臓を抉られるような痛みに悶えながら繭は頭の隅で思った。

「ぎぃげえあああっ!」

 カンタロスは痛みに耐えたが、繭は痛みに耐えられなかった。膜を全て裂かれる前に、胸部を開いてしまった。
途端に脳の中にカンタロスから叱責が注ぎ込まれたが、それに気を向ける余裕もなく、繭は神経糸を吐き出した。
体液と胃液の混じったものを吐き出していると、目の前のセールヴォランの胸部が開き、小柄な少女が現れた。
 青い体液に浸った、美しい少女だった。濡れた黒髪と肌が淫靡な色香を作り、同性の繭でも見入るほどだった。
同じように神経糸を全身に差し込まれていた少女、鍬形桐子は瞼を開けて繭の姿を捉えると、瞳に光を宿した。
喉の奥まで入っていた神経糸を抜き、首の後ろに接続していた神経糸を外すと、桐子は悩ましげに身を捩った。

「あ…ふぁ」

 喘ぎを漏らした桐子は仰け反り、胎内から最後の神経糸を抜くと、薄い唇の端から一筋の涎を落とした。

「やだぁ…こんな時に来るなんてぇっ…」

 桐子はセールヴォランの上右足に縋り、荒い呼吸を繰り返していたが、セールヴォランの体内から外へ出た。
繭は全身に残留する激痛のせいで身動き出来ず、桐子を見上げたが、その冷たい両手が繭の首に吸い付いた。

「私はこんなに気持ちいいのに、あなたは気持ち良くなさそうね」

 カンタロスとセールヴォランの体液を混ぜるように、桐子の手がぬるりと繭の首筋を這う。

「それはきっと、あなたの彼が下手だからよ。私のセールヴォランは凄く上手よ、とろけちゃうくらいに」

「あ…」

 繭が後退ろうとすると、桐子は繭を押し倒し、首に添えた両手に体重を掛けた。

「セールヴォランは素敵だわ。セールヴォランは美しいわ。セールヴォランは可愛らしいわ。セールヴォランは格好良いわ。セールヴォランは逞しいわ。セールヴォランは誰よりも強いわ。だから、負けるわけがないの」

「うぐぇっ」

 喉を強く押さえられ、繭は舌を出して呻いた。

「だから、彼を傷付けたあなた達を絶対に許さない! あなた達を殺さなきゃ、気が済まないのよ!」

 繭の首を絞める桐子の手に、一際力が入る。息苦しさと重たさに喘いだ繭は身を捩ろうとするが、封じられる。

「どう、苦しい? でも、セールヴォランはもっと痛かったのよ!」

 繭の喉を押さえる指が、ぐ、と押し込まれていく。

「すぐに首の骨を折ってもいいけど、それじゃ面白くないわ。苦しんで、苦しんで、苦しんでから死になさい!」

 視界が暗くなり、呼吸が詰まり、意識が遠のく。桐子の手を剥がそうとしていた手から、徐々に力が抜けていく。
炎を帯びた桐子の顔は美しく、そしておぞましかった。弓形に唇を吊り上げているが、目は欠片も笑っていない。

「…ざけんじゃねぇ」

 繭の耳に、あの声が届いた。

「そいつは俺の女王だ。俺の女王に、気安く触れるんじゃねぇ」

 繭の体液が絡む神経糸を引き戻し、傷付いた胸部装甲を閉じたカンタロスが、割れた壁から立ち上がる。

「あら」

 桐子は繭の首を絞める手を緩めずに、カンタロスを見上げた。

「私は女王なのよ? あなたなんかに、私が殺せるわけないじゃないの」

「確かにお前も女王かもしれねぇが、俺が選んだ俺の女王じゃねぇんだよ」

 カンタロスが踏み出すと、胸部の外骨格を閉じたセールヴォランは、二人の間に立ちはだかった。

「桐子は僕の女王だ。そして、僕のものだ」

「だから、俺はお前らにはまるで興味がねぇんだよ!」

 カンタロスが突き出した拳を、セールヴォランは防いだ。合体時よりも双方パワーが落ちたが、やはり強力だ。
セールヴォランの下両足の爪痕がアスファルトに残り、破片が散る。カンタロスは繭がいない分、敏捷に跳ねた。
ほぼ同等の体格と腕力を持つセールヴォランに、拳を叩き、突き、抉り、落とし、放ち、激しい応酬を繰り返した。
桐子が体内からいなくなると、セールヴォランの戦闘からは緻密さが失われ、直情的な攻撃ばかりを放ってきた。
体液で滑る足元を者ともせずに立ち回ったカンタロスは、セールヴォランの肩を突いて、ぐるりと体勢を動かした。
その背後には、繭の首を絞める桐子がいた。カンタロスはセールヴォランの胸部に拳を叩き込んで、後退させた。
姿勢を直そうとしたセールヴォランが、背後の女王に気を取られた僅かな隙に、カンタロスはぐんと頭を下げた。

「クワガタムシってのはなぁ」

 最も大きな武器であるツノが、セールヴォランの下両足の間に入れられ、上がる。

「カブトムシに勝てねぇもんなんだよぉおおおっ!」

 真下から掬い上げられた巨体が、宙を舞う。カンタロスがツノを振り切った時には、セールヴォランは落下した。
背中から道路に叩き付けられたセールヴォランは、衝撃と痛みで小さく呻いたが、立ち上がる様子はなかった。
カンタロスは二人の少女の元に近付くと、容易く桐子を繭から引き剥がし、上左足で腹部を掴んで持ち上げた。

「ごちゃごちゃうるせぇんだよ、お前らは。最強である俺に刃向かったらどうなるか、教えてやる必要があるな」

「嫌ぁっ、助けてセールヴォラン!」 

 桐子は足をばたつかせて暴れるが、カンタロスの爪が緩むことはなく、腹部にめり込んで薄い肌を破ってきた。
出血と痛みに声を上げる桐子の首に、カンタロスの爪が添えられる。セールヴォランが身を起こすが、遅かった。
 黒い爪が、白い喉を切り裂いた。躊躇いなく真横に振り抜かれた爪が筋や頸椎も切断し、血管の断面を見せた。
赤黒く生温い液体が吹き上がり、雨のように注ぐ。辛うじて繋がっていた皮が千切れ、鈍い音を立てて落下した。
丸く膨らんだ二つの乳房、生々しい傷跡が付いた肩、捻れば容易く折れそうな腕、柔らかな脂肪の付いた太股。
薄く肋骨の浮いた胸、くびれた腰、人型昆虫の未来を変える卵を宿した子宮を持つ肉体がだらしなく倒れている。

「お前の女王だ。返すぜ」

 カンタロスがセールヴォランの胸元に放り投げたのは、泣き出しそうな顔をした桐子の頭部だった。

「僕の…桐子…」

 上両足で桐子の頭部に触れたセールヴォランは、かたかたと震え出した。

「桐子、桐子、桐子、桐子、桐子、桐子、桐子、桐子…」

 カンタロスは主の名前を機械的に繰り返すセールヴォランに背を向けると、気絶した繭を神経糸で拾い上げた。
細い首筋に桐子の手形がくっきりと残っている繭は、カンタロスの神経糸に触れられても気付くことはなかった。
膜を裂かれたために外骨格を開けなかったので、カンタロスは仕方なく繭を胸に抱えて、琥珀色の羽を広げた。
桐子、桐子、桐子、と延々と名を呼び続けているセールヴォランを一瞥してから、カンタロスは夜空へ飛び立った。
 飼い慣らされた虫など、殺すだけの価値もない。





 


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