この一ヶ月で、服の数が目に見えて減っていた。 リビングで洗濯物を折り畳みながら、繭は眉を下げた。普通の衣服だけでなく、下着も目に見えて減っていた。 原因は解り切っている。行く先々で出会う人型昆虫の群れと戦闘するたびに、カンタロスと合体しているからだ。 体液まみれになるので服を脱いで合体するのが一番良いのだが、カンタロスは脱ぐ暇すら与えてくれないのだ。 脱ごうとしている間に神経糸を接続されて押し込まれ、戦闘に突入してしまうので、服も下着もダメになってしまう。 おかげで、行きは服を着ていても帰りは裸になっていることも珍しくなく、泣く泣くゴミ箱に捨てた服も数知れない。 カンタロスには何度となく抗議したが、聞き入れてもらえる相手ではない。繭は気が滅入ってきて、肩を落とした。 「はぁ…」 「何を落ち込んでやがる、うざってぇな」 いつものように壁際に座るカンタロスは、昨夜の戦闘で掠り傷の付いた上右足を掲げ、見回していた。 「服が減っちゃって」 繭がぼやくと、カンタロスは言い捨てた。 「着なきゃいいだけだ。大体、お前が服を着てると俺の腹の中がゴワゴワしてやりづらいんだよ。何も着るな」 「でも、着ないと冷えちゃうし、それに…恥ずかしいし」 「そう思うのはお前だけだ。俺にはどうでもいい」 「私にはどうでもよくないんだよ」 繭は畳み終えた洗濯物をリビングテーブルの上に重ねてから、両手を重ねた。 「そうだ、買い物に行けば良いんだよ。お金ならあるんだし」 「なぜだ」 「だから、服が足りないんだよ。いくつか買ってこなきゃ、本当に裸で過ごさなきゃいけなくなっちゃう」 繭は洗濯物を抱えて立ち上がり、んー、と考えあぐねた。 「どこがいいかなぁ。近場で済ませるのもいいけど、やっぱり渋谷かなぁ」 スリッパを鳴らしながら二階に戻っていく繭を見送り、カンタロスは首を捻った。服を着る意味が解らないのだ。 脆弱な皮膚を守るための鎧にすらならないものを毎日のように身に付けていて、服の下にも更に服を着ている。 特に厄介なのが、パンツである。あの布のせいで、カンタロスの神経糸が女王の卵に届くまで手間取ってしまう。 繭には履くなと命じているが、履かなかった試しがない。苛立ちのあまり、服と下着を全て引き裂いたこともある。 その後は、ひどく泣かれて怒られてしまったが。その厄介な出来事を思い出し、カンタロスはうんざりしてしまった。 だが、遠出されては面倒だ。近所であれば何か起きたらすぐに出撃出来るが、離れられてはそうもいかなくなる。 ならば、どうすればいい。カンタロスが考えあぐねていると、掃除をするために、繭が掃除機を抱えて戻ってきた。 「カンタロス、ちょっと動いてね。掃除機、掛けるから」 「不本意だが、俺も付き合うしかねぇか」 カンタロスが心底鬱陶しげに吐き捨てると、繭が目を丸めた。 「…え?」 「カイモノだよ、カイモノ。お前を一人で放り出すと、どこの虫にヤられるか解ったもんじゃねぇからな」 「え、ああ、そう、だけど」 繭は掃除機を置き、意味もなくエプロンをいじった。 「でも、付き合うって言っても、どうやって…。カンタロスは、人前に出ちゃいけないし…」 「何を今更言ってやがる。人間が邪魔になったら、適当に殺せばいいだけだろうが」 「うん、それはそうなんだけど、買い物ぐらいは普通にしたいなぁって思って」 「なぜだ」 「やっぱり、そういうことをするのは楽しいし、ちょっとぐらいは普通でいたいから」 繭は少し気恥ずかしげに呟いてから、顔を上げた。 「そうだ。だったら、カンタロスは私のことを見張ってくれればいいよ」 「離れると面倒だろうが」 「そんなに距離を取らなきゃ平気だよ。それに、ある程度離れていた方が、何か起きたら動きやすいと思うし」 「それもそうだな。視野が広いに越したことはねぇ」 「じゃ、決まりだね。だったら、早く掃除を終わらせて、支度しなきゃ」 繭は嬉しそうに笑うと、カンタロスを見上げた。何がそんなに嬉しいのか、カンタロスにはやはり解らなかった。 一気に機嫌が良くなった繭は、カンタロスを移動させてから、リビングのフローリングに掃除機を掛けていった。 壁際からリビングの中央に移動したカンタロスは、ツノの先端を天井に刺しながら、暇潰しに繭の横顔を眺めた。 繭と一緒に暮らすようになって、一ヶ月以上過ぎていた。だが、未だに繭のことを理解出来たとは思えなかった。 出会った当初は表情も少なければ態度も弱かったが、自信を得たのか、カンタロスに対して強く出るようになった。 もちろん、カンタロスが繭に神経糸を責められた挙げ句に、昆虫生初の敗北を認めてしまった件の後からである。 それがなければ、繭は今でもカンタロスに従順だったのだろう。その方がずっと楽だったのに、と思ってしまった。 だが、今更どうにもならない。カンタロスはため息を吐く代わりに顎を鳴らしながら、掃除を行う繭を眺めていた。 それ以外に、することがないからだ。 ねねに与えられた任務は非常に簡単だ。 十五号、識別名称カンタロスを撃破し、その現使用者である女王の卵を孕んだ少女を殺すこと。それだけだ。 たった一匹と一人を殺すために訓練を行うのは馬鹿げていると思ったが、しなければならないと強く言われた。 しかも、下僕であるベスパに、だ。彼はお目付役の城岡や主任の薫子を差し置いて、ねねに言い聞かせてきた。 それがまた、鬱陶しいことこの上ない。虫のくせに理性的な言葉を並べてきて、筋の通ったことを語り掛けてくる。 まるで、少女漫画に出てくる口うるさい執事だ。だが、スズメバチだ。どこをどう見ても、紛れもない人型昆虫だ。 その事実が尚更鬱陶しさを煽り立ててくるので、ねねは日々苛立ちを募らせながら、今日も訓練を行っていた。 足元に散らばる人型昆虫の残骸を払い、爪に付いた体液を振り落とす。ベスパと化したねねは、一息吐いた。 強化ガラス越しに見えるタイマーは、制限時間の半分も過ぎていない。数日前に比べると、効率が良くなっている。 撃破する対象の人型昆虫の数も回を増すごとに増えてきたが、ねねはベスパの巨体を操れるようになっていた。 ねねの適応能力が高いことと、ベスパがねねにタイミングを合わせてくれるので、少しずつだが息が合ってきた。 パワーで押し切るカンタロスやテクニックを駆使するセールヴォランと違い、ベスパは身の軽さが最大の武器だ。 基本を終えたら身の軽さを生かした戦法を体に叩き込まなければならないが、肝心のねねにやる気がなかった。 「マジダルいんだけど。つか、腹減ったし」 ベスパの体内から出たねねは、ベスパが抜くのを待たずに頸椎や陰部から神経糸を引き抜き、捨てた。 「んぐほっ!」 神経糸を思い切り床に叩き付けられてしまい、ベスパは悶えた。 「何そのリアクション。マジつまんないんだけど」 ねねは口に溜まった体液を吐き捨てると、濡れた髪を掻き上げた。手術痕はまだあるが、もう痛みはなかった。 「お待ち下さい、クイーン」 ベスパはにゅるりと神経糸を体内に戻して外骨格を閉じてから、ねねの背後で跪いた。 「御身をお清めします」 「は!?」 ねねがぎょっとすると、ベスパは先細りの顎を開けて舌を伸ばした。 「クイーンの体を穢しているのは私の体液ですので、私が始末をいたします」 「マジ有り得ないんだけど」 ねねは顔を引きつらせ、出口に向かって歩き出した。 「ああっ、お待ち下さいクイーン! せめて、その愛らしい生殖器、じゃなかった、お顔だけでも!」 「死ね害虫!」 「どうぞ罵って下さい! なんなら踏み付けて下さっても結構です! もう思いっ切り!」 「マジ死ね!」 ねねが殺気漲る声を張り上げるが、ベスパは怯まない。 「クイーンに死ねと命じられたら喜んで命を差し出します! ですが、私は役目を全うしてから死ぬ所存です!」 「だったら今死ね、すぐに死ね!」 ねねは力一杯罵倒してから訓練施設に併設した研究施設に入り、強化ガラスに貼り付いたベスパを見やった。 本当に名残惜しいのか、ベスパは触角を下げている。それが心底鬱陶しくて、ねねは二度と振り向かなかった。 徹底した教育と電子頭脳の制御プログラムで、ベスパはこれまでの戦術外骨格よりも完成した人格を持っている。 だが、少々行き過ぎてしまったらしく、女王であるねねには完全服従を通り越してマゾヒストのような態度を取る。 他の面は至って良好で、口うるさくはあるが理性的で本能も抑制され、戦闘時にはねねを程良く引っ張っている。 しかし、マゾだ。ねねは城岡や他の研究員にベスパの人格を矯正するように抗議したのだが、修正されなかった。 「ねねちゃん」 ねねが体液をタオルで拭っていると、薫子が声を掛けてきた。 「ちょっと手間取ったけど、あなたが殺すべき対象の顔が割れたわ」 「ふーん」 「これが、十五号、もとい、カンタロスの使用者の顔と名前よ」 薫子は脇に抱えていたファイルを開き、差し出した。それを覗き込んだねねは、見た途端に吹き出した。 「何こいつ。マジ変な名前なんだけど」 「兜森繭。六本木の都立高校に通う一年生で、十六歳の女の子よ」 薫子は繭の学生証の写真を引き伸ばした写真と簡単な経歴の書かれた書類を、ねねに見せつける。 「諜報員を送り込んで素行調査を行っているけど、彼女の周りには常にカンタロスがいるのよ。現住所も割れているんだけど、近付きすぎると却ってこちらの動きが読まれてしまいかねないの。かといって、何もしないまま、放っておくのは危険すぎるのよ。カンタロスと合体出来ていることからして、兜森繭が女王の卵を孕んでいることは確定事項なのよ。いずれ、カンタロスは兜森繭と交尾して新たな女王を生み出すわ。その前に、手を下す必要があるのよ」 「つまり、あたしと同じってこと?」 「経緯は少し違うけどね」 「へぇ」 ねねは、繭の顔写真を舐めるように見た。繭の顔立ちは可愛らしいものだったが、生気のない目をしていた。 部品の一つ一つは悪くないが、印象が希薄だ。表情を求められない顔写真であることを踏まえても、薄すぎる。 死んだような、という表現が見事に当て嵌まる。見つけづらい部類の人間だが、女王ならば見つけるのは簡単だ。 「んじゃ、ベスパ出してよ」 ねねが強化ガラスの向こうにいる相棒を示すと、ベスパは歓喜した。 「クイーンの赴くところならば、私はどこへでもお供します! ですが、その前に是非お体を舐めさせて頂きたく!」 「うっさいマジ死ね! そういうんじゃねーよ!」 ねねは歯を剥いて言い返してから、薫子に向き直った。 「あいつらってさ、女王の卵のある場所が解るんだろ? なんてったっけか、あの、フェラ?」 「フェロモンよ」 「そうそう、それで解るんだろ? だったら、マジ使わない手はねーし?」 「人型昆虫は人間よりも遙かに鋭敏な感覚を持っているから、女王の卵だけでなく、人型昆虫の発するフェロモンを感じて気配を感じることが出来るわ。でも、それはあちらも同じことが言えるわ。だから、ベスパを兜森繭捜索作戦に投入するのはリスクが高すぎるわ」 「んなのマジ簡単だし。あたしが倒すの、カンタロスをさ」 にやりと笑ったねねに、薫子は少し渋い顔をした。 「ねねちゃん、あなたはまだ訓練途中なのよ。ベスパの性能は高いけど、あなたはそれを使いこなすどころか、振り回されているじゃないの。今、ベスパを失うわけにはいかないのよ」 「だぁーけどさぁー」 ねねがむくれると、薫子はファイルを閉じた。 「だから、もうしばらく、訓練を続けてもらうわ。兜森繭の捜索は引き続き行うから、見つけ次第連絡するわ」 薫子は途端に不機嫌になったねねに背を向け、歩き出したが、部屋を出る前に立ち止まった。 「それと、ベスパには体液を舐めさせてあげなさい。そうじゃないと、あなたに懐かなくなるわよ」 「てか、あたしマジ嫌なんだけど」 「人型昆虫にとって、女王の卵を孕んだ人間の体液は麻薬みたいなものなのよ。女王が卵を守り通すために本能的に生み出した一種の毒物で、一度でも味わえば死ぬまでやめられなくなるの。効果はそれだけじゃなくて、女王の体液を摂取し続けた人型昆虫は身体機能が向上し、女王の卵の守護者に相応しい力を得るのよ。だから、ベスパに強くなってもらいたかったら、あなたも体を差し出しなさい。それが一番の近道よ」 また後でね、と言い残し、薫子は去った。ねねは怪訝な顔をしていたが、報告書を書いている城岡に向いた。 「てか、それマジ? そういうの、有り得なくね?」 「事実です、蜂須賀二尉。女王の体液がもたらす効果については、科学的にも証明されています」 平坦に返した城岡に、ねねはすんなりと納得した。内容は同じなのに、彼が言うと薫子よりもそれらしく感じる。 「あんたが言うなら、マジそうかもしんない」 「では、クイーン! どうか、どうか私に御慈悲を!」 強化ガラスを破りそうな勢いで迫ってきたベスパに、ねねは乱暴に叫んだ。 「っざけんな! つか、マジ金払えよな! あたしはマジ安くねーし!」 「戦術外骨格という身の上、手持ちの現金はありませんが、この体でお支払いしましょう! クイーンのお気に召すまで、このベスパ、誠心誠意御奉仕します!」 「ウザすぎんだよお前! てか、マジ意味不明だし!」 強化ガラス越しに言い合う二人を見ることもせず、城岡はコンピューターに今日の訓練データを打ち込んでいた。 ケンカのようでケンカではなく、全く噛み合っていない。ねねはひたすら拒絶して、ベスパはしつこく要求している。 ねねは拒絶するばかりで、言い負かすほどの力はない。だが、ベスパが食い下がってくるので言い返す他はない。 タオルを投げ付けようが、強化ガラスを蹴ろうが、思い切り汚い言葉で罵ろうが、ベスパは引くどころか迫ってくる。 それどころか、喜んでいる。スズメバチの本能が、女王の関心を一心に受けたことを幸福だと感じているのだろう。 「蜂須賀二尉」 ベスパを罵倒しているねねに城岡が声を掛けると、ねねはケンカ腰で振り向いた。 「んだよマジウゼェし!」 「兜森繭の現在位置が割れました」 「なんで? てか、あの女、まだ割れてないっつってなかった?」 「今し方、情報が回ってきたのです」 城岡は手元のコンピューターを操作し、衛星写真を表示させ、拡大して液晶画面に映し出した。 「出撃許可も下りてきましたので、三十分以内にベスパと共に出撃して下さい」 「んで、それどこ?」 「渋谷駅周辺です」 「マジ!? うわそれマジ面白すぎんだけど!」 渋谷と聞いた途端に、ねねの苛立ちは吹き飛んだ。城岡が細々と状況を説明してきたが、耳に届かなかった。 渋谷は、ずっと遊び歩いていた場所だ。研究所での生活に不自由はないが、窮屈で退屈で外に出かけたかった。 それが渋谷なら最高だ。遊ぶ場所も買い物をする場所もいくらでもある。任務のことなど忘れて、遊んでやろう。 徹底的に遊び回った後に、兜森繭とカンタロスを殺せばいい。殺した後は、死体だらけで遊べなくなるだろうから。 ねねはにたにたと笑いながら訓練施設を後にし、併設されているシャワールームで汚れた全身を綺麗に洗った。 誰がなんと言おうと、今日は遊んでやる。生乾きの髪をタオルで拭いながら、ねねはやたらと意気込んでいた。 まずあの店に行って、次はどこで遊んで、と考えるうちにエネルギーが有り余り、意味もなく駆け出してしまった。 人通りの少ない廊下を駆け抜けたねねは、研究棟と宿舎を繋ぐ渡り廊下を通り抜けようとして、ふと足を止めた。 鉄格子に覆われた空に見下ろされた中庭の隅、宿舎の壁際に薫子が立っていたが、いつもとは雰囲気が違った。 事務員のような淡泊な表情しか浮かべない顔が緩み切り、恍惚と目を細めて、何かに語り掛けているようだった。 だが、人の姿はなく、携帯電話で話している様子でもない。妙に気になったねねは、渡り廊下前の階段を上った。 二階の渡り廊下から見下ろすと、薫子の手元が見えた。ねねは目を凝らし、その手の中のパスケースを覗いた。 勉強も不得手なら読書もしないため、ねねは視力だけは良い。薫子の持ったパスケースには、薫子が映っていた。 学生時代と思しき制服姿で、薫子の傍にはもう一人の薫子がおり、こちらの薫子は柔らかな笑顔を浮かべていた。 「双子、っつーこと?」 独り言を漏らしたねねは、好奇心を満たしたので満足し、歩き出そうとすると薫子に動きがあった。 「…ん」 薫子はパスケースに入った写真に口紅が付くほど強くキスをしたばかりか、タイトスカートの裾に手を差し込んだ。 ぎくりとしたねねは思わず座り込み、姿を隠したが、続きが気になって恐る恐る顔を出すと、薫子は弛緩していた。 チークとは違う色で頬を紅潮させ、タイトスカートの裾をずり上げてストッキングに包まれた太股を露わにしている。 明らかに、自慰行為だった。それが解った途端、ねねは興奮するよりも先に気分が悪くなってきて、顔を歪めた。 性欲の固まりである中高生であっても、人目の付く場所でいきなり自慰を始めるような恥知らずは少ないだろう。 男だったらまだ少しは解る気がするが、薫子は女だ。筋金入りの変態だ、と結論付けたねねは足早に立ち去った。 準備を整えて、変態だらけの研究所から脱出しなければ。 09 2/20 |