豪烈甲者カンタロス




第八話 造られた怪物



 女王出現事件の後、渋谷駅周辺は立ち入り禁止区域となった。
 渋谷駅は機能を失い、線路は冷たく静まっている。道路もあらゆるルートが封鎖されて、人の気配は失せた。
ついこの間までは賑わっていた複合商業施設や駅前もがらんとしていて、以前の渋谷とは懸け離れた光景だ。
人間の死体は回収されたものの、人型昆虫の死体は放置され、内臓が腐って空になったものが散らばっている。
ビルから吹き下ろされた風が通り抜け、外骨格を覆う体毛を揺らしていった。渋谷だけが、異世界のようだった。
複合商業施設に掛けられた垂れ幕にはテレビドラマの告知があり、人気女優が無意味に笑みを振りまいていた。
 ベスパは渋谷駅の屋上に足を付け、羽を降ろした。振り返って、巨体の人型昆虫、ヘラクレスの姿を確認した。
ぶいいいい、とカンタロスのそれよりも数段鈍い羽音を響かせて重たく飛んできたヘラクレスは、屋上に着地した。
途端に屋上のコンクリートがひび割れ、爪が食い込んだ。羽を畳み、姿勢を戻すが、動作の一つ一つが重たい。
それが無性に鼻に突いて、ベスパは複眼からヘラクレスの姿を外した。なぜ、あれを同行させるのかが解らない。

「つか、あたし一人でマジいけるんだけど」

 ねねが吐き捨てると、脳内にベスパが返してきた。

『これも作戦のうちです、クイーン』

「てか、あいつマジいらなくね? でかいだけで、マジトロすぎなんだけど」

『それは仕方ないことです、クイーン。カブトムシは私のようなスズメバチとは違って飛行能力に長けておりませんし、その身を守る外骨格の分厚さ故に重量も相当なものです。ですから、ヘラクレスにスピードを求めるのは間違いなのです。カンタロスと同様に、彼もパワーファイターなのですから』

「つか、それぐらいガキでも解るし。ベスパ、あたしのこと馬鹿にしてんの?」

『いえ、そういうわけではございません!』

 弁明しながらも、ベスパの声色はお仕置きに対する期待が宿っていたので、ねねはぐいっと神経糸を噛んだ。
思い切り歯を立てて噛み締めると、ねねの胎内に差し込まれているベスパの神経糸がびくんと大きく痙攣した。
神経糸を通じて流れ込んでくるベスパの感覚に辟易し、ねねはすぐに神経糸から歯を離し、意識を外に向けた。
ヘラクレスの遙か後方のビルに目を向け、凝らす。立ち入り禁止区域内の雑居ビルの最上階に、人影がある。
それは、水橋薫子を始めとしたヘラクレスのサポートチームだった。ベスパではないというのが少々癪に障るが。
彼らはヘラクレスに搭載された各種センサー機器を通じて戦況を見、状況に応じた作戦を下すためにやってきた。
 生身とはいえ、ヘラクレスはロボットも同然だ。脳は大半が切除され、電子頭脳を搭載された、逆サイボーグだ。
指示を与えられなければ、行動するどころか思考することも許されない。それが、ねねにとっては面白くなかった。
ねねは人型昆虫など大嫌いだが、生物としての尊厳が全て奪われたヘラクレスに過去の自分を重ねてしまった。
他人の手で強引に体を開かれ、反抗することすら出来ないのだから。境遇も種族も違う相手に少しだけ同情した。
だが、それを感じたところで何がどうなるわけでもない。ねねは思考を切り替えて、感覚に集中して気配を感じた。
 現在、渋谷周辺に人型昆虫の気配はない。闇の中で蠢いていることは解るが、表に出てくる雰囲気ではない。
そして、倒すべき相手、カンタロスの気配もなかった。そうそう都合良く事が運ぶわけがない、とねねは思った。
ヘラクレスを渋谷駅前に出したからと言って、カンタロスの縄張りに引っ掛かっているかどうかすら解らないのだ。
新兵器を携えてカンタロスを迎撃する、という作戦は有効かもしれないが、ねねの頭でも手抜かりが多く感じる。
まず、カンタロスを誘き出すことが成功するのか。ヘラクレスをいきなり初戦でカンタロスにぶつけるべきなのか。
カンタロス自身の知能は低そうだが、その中の繭が厄介なのだ。頭の回る彼女なら、戦闘を避けるかもしれない。

『クイーン』

 ベスパが呟いたので、ねねは鬱陶しがりながらも答えた。

「んだよウゼぇな」

『女王の匂いです』

「あたしの? それとも、キチガイ女の? じゃなかったら、こないだのクモのやつ?」

『いえ、そのいずれでもありません』

 ベスパの言葉の意味が、すぐに解らなかった。ベスパと化しているねねは、彼の意識の向いた先を見据えた。
封鎖されている地下鉄の出入り口が、突然砕けた。前触れなく発生した異音を聞き付け、ヘラクレスも向いた。
複眼に映る闇夜の片隅に異様な色が現れた。渋谷を取り囲んで光り輝く都会の夜光にも勝る、膨大な光量だ。
幻想的なエメラルドグリーンの光は地下から溢れ出し、化学物質を合成させて作り出した光が星のように瞬いた。
地下鉄の入り口から這い出したそれは、重たく膨らんだ白い腹部を引き摺りながら、きいきいきいと鳴いていた。
みぢみぢと腹部はひび割れていき、青い体液が零れる。その様に、ねねは否が応でも前回の戦闘を思い出した。

「なあ、あれってマジヤバくね?」

『そのようで』

「つか、なんで? 女王って、そんなに多いのかよ?」

 なぜ、また同じことが起きるのだ。ベスパは無意識のうちに女王の卵の収まった腹部を上右足で押さえていた。
ぎちぎちぎちぎちぎち、とヘラクレスは顎を鳴らしている。ベスパは全身に駆け巡る本能的な衝動と、戦っていた。
ああ、殺したい。殺さなければ。女王を潰さなければ。ねねの意志ともベスパの意志とも無関係に体が疼き出す。
そして、ねねは理解した。なぜ、再び女王が現れたのか。なぜ、素人目にも穴だらけの作戦が実行されたのか。
 女王の卵が人型昆虫を呼ぶように、女王の卵もまた女王を呼ぶのだ。




 ずくん。どくん。ごぶん。
 血が熱い。体が熱い。心臓が熱い。子宮が、卵が、胸が熱い。熱くて熱くて、体の芯から溶けてしまいそうだ。
全身を火照らせる熱に浮かされて、繭はカンタロスと化して飛んでいた。今までは、こんなことはなかったのに。
どこへ行くべきかも、何をするべきかも手に取るように解る。繭が女王たり得るために、卵が教えてくれるからだ。
 六本木を通り越したカンタロスは、渋谷へと向かった。本能と衝動が凝縮した体は、生温い夜風では冷えない。
戦って戦って戦い抜かなければ、発散出来ない。夜風に混じって触角を撫でる女王の匂いが、更に熱を呼んだ。
渋谷を抜けてきた生臭い夜風には、覚えのある女王の匂いと共に、覚えのない人型昆虫の匂いも混じっていた。
だが、どんな相手が現れようと二人の敵ではない。繭の熱はカンタロスにも流れ込み、彼の本能も滾らせていた。

「カンタロス、私、頑張るね」

 繭が呟くと、カンタロスは脳内で毒突いた。

『つまらねぇこと言ってないで、さっさと前に進め。お前と喋るだけ、体力の無駄遣いだ』

「うん」

 カンタロスは頷き、羽ばたきを強めた。吹き付けた風に上手く乗せて、渋谷上空を大きく弧を描いて旋回した。
渋谷駅周辺は一つも明かりがないので、腹部から緑色の光を放っている女王は一等星のように目立っていた。
点滅する光が増え、女王の腹部だけでなく頭部をも輝かせ、白い巨体は腹が裂ける苦痛に悶え苦しんでいた。

「今日の敵は、ホタルかな」

 カンタロスは女王から生まれる人型昆虫を察し、降下しようとした。すると、異様な物体が視界の隅に入った。
カンタロスに似ている体型だが形状がまるで違うツノを生やした巨体の人型昆虫が、ビルから飛び立ってきた。
屋上を爪の生えた下両足で蹴り砕きながら上昇したその物体は、ぶいいいい、と薄い羽を鳴らして接近してきた。
接近されると、ますますその異様さが解る。人型ヘラクレスオオカブトは、カンタロスの倍近い体躯を持っていた。

「何、この子」

 カンタロスが身構えると、別の羽音が背後に降りてきた。

「ヘラクレスっつーんだってさ。ま、マジどうでもいいんだけど!」

 ベスパだった。カンタロスが振り返るよりも早く、ベスパはカンタロスの頭目掛けて上両足の爪を振り下ろした。
一瞬羽ばたきを止めて降下したカンタロスの頭上を、三本の爪が通り過ぎた。が、応戦することは出来なかった。

「ぐぇっ!?」

 カンタロスの背に、膨大な質量を持った衝撃が襲い掛かったからだ。複眼の端では、巨体が拳を振るっていた。
弾丸さえも跳ね返す外骨格に三本の爪を固めた拳が埋まり、軋む。当然、羽は完全に動きを止め、力を失った。
もう一撃喰らえば、外骨格が割れてしまう。そう判断したカンタロスは手近なビルに着地してから、地上に降りた。
砲弾を落としたような落下音と共にアスファルトに下両足を埋めたカンタロスは、衝撃と痛みの残る体を立たせた。
すると、視界が塞がれた。都心部から零れる光を僅かに帯びた巨体、ヘラクレスが、カンタロスの頭上を砕いた。

「え、何?」

 カンタロスは身を引いてヘラクレスの拳の下から脱するが、すかさずヘラクレスはカンタロスを追い縋っていった。
ビルの壁を発泡スチロールのように容易く砕いた拳に引っ掛かった看板を捨て、唸りを上げながら上両足を振る。
拳が振られるたびに暴風が起き、カンタロスの体表面の毛はほとんど薙ぎ払われてしまい、感覚が鈍るほどだ。
手近に自動車でもないか、と視線を巡らすが投げられそうなものはなかった。後退っていくだけで、精一杯だった。

「あたしのこと忘れてんじゃねーよ!」

 カンタロスの背後に飛び降りたベスパは、カンタロスの後頭部に生えたツノを掴み、力任せに首を反らせた。

「つか、あたしはあんたに負けたわけじゃねーし! ゴキブリ男が邪魔しなきゃマジ勝てたし!」

「この忙しい時にっ!」

 ぐんっ、とカンタロスは勢い良く首を前に曲げ、ベスパの足元が緩んだ瞬間に下足を払うと上左足で首を薙いだ。
カンタロスの打撃を首に受けたベスパは、強かに頭部を地面に打ち付けた。桐子の行っていた格闘術の応用だ。
人型昆虫は二本足で歩いているが、足腰は人間よりも弱く、体格がアンバランスなのでバランスを崩せば一発だ。
 ベスパが起き上がる前に距離を取らなくては、とカンタロスは駆け出すが、ヘラクレスはビルの外壁を剥がした。
カンタロスでは到底持ち上げられず、それ以前に引き抜けない外壁を手にしたヘラクレスは、投げ飛ばしてきた。

「嘘ぉ!?」

 カンタロスは全力疾走するが、唸りを上げて外壁が迫ってくる。確かにカブトムシは怪力だが、これは桁外れだ。
途中で方向転換して脇道に逸れると、重力に従って落下した外壁が回転しながらアスファルトに着地し、砕けた。
凄まじい轟音を放ちながら転げた外壁は粉々になり、ねじ曲がった鉄骨が露わになり、砂埃が白く舞い上がった。
その煙の向こうでは、ヘラクレスが息を荒げている。そして、叩かれた首を押さえながら、ベスパも立ち上がった。

「つか、マジ状況理解してる? してなくね?」

 ベスパはごきりと首を鳴らし、歩み寄ってきた。

「あたしはあんたより速いし、こいつはあんたより力がある。てか、マジ勝ち目ねーし」

「うぅ…」

 これは分が悪すぎる。カンタロスは後退しようとするが、ヘラクレスが放り投げた鉄骨が背後に突き刺さった。

「任務とかさー、マジダルいんだよね。だから、さっさと殺されてくんね?」

 ベスパは上両足の爪を擦り合わせ、涼やかに鳴らしていたが、薄い羽を広げて飛び出した。

「つかマジ死ねっ!」

 拙い語彙の罵倒が聴覚を叩いた直後、ベスパの爪が全ての複眼に入り、カンタロスは身を引いたが遅かった。
上右足、上左足、中左足、中右足、下右足、下左足、と六本足を駆使してくるベスパは確実に腕が上がっていた。
前回はねねはベスパに振り回されていたが、その後も訓練を重ねたのだろう、攻撃の速度と精度が向上している。
そして、隙も減っていた。背中を向けたかと思えば太い毒針が伸びてきて、危うく胸部を掠りそうになってしまった。
攻撃されるたびに一歩下がっているが、カンタロスの外骨格にはいくつも切り傷が出来、表面が浅く削れていた。
今のところ、決定打となるダメージは受けていないが、後ろにはヘラクレスが控えている。だから、時間の問題だ。
 そう思った瞬間、また新たな物体が降ってきた。千切れた電線をしならせて、電柱が槍のように突き刺さった。
カンタロスの頭上を抜けた電柱はビルの一階と二階の間を弾丸のように貫き、細かなガラスの破片を降らせた。
ごぎっ、とツノが押され、後頭部が外壁にめり込んだ。ベスパの上右足の爪が、カンタロスのツノを押さえていた。

「てか、逃げんな。マジ死ね」

 ベスパの爪先がカンタロスの頭部に据えられ、刺さるかと思われた時、渋谷の片隅から光の奔流が生まれた。
発生源は、女王だった。緑色の光が出ると同時に鳴り始めた無数の羽音と顎の音に、ベスパの爪が止まった。
素早くベスパの爪を払って脱したカンタロスは、異常事態に呆けているヘラクレスの頭上も越えて、羽ばたいた。

「うわぁ…」

 こんな時でなかったら、見取れていたかもしれない。カンタロスは複眼を照らす美しい光の粒に、圧倒された。
女王の青い体液にまみれた、黒い外骨格、赤い胸部、光を放つ腹部の末端。皆が皆、己の存在を示していた。
その数は、十や二十では足りない。人型クモの例から考えると、きっと数百匹もの個体が生まれたに違いない。
同胞の死体が散る路地やアスファルトやビルに貼り付いた生まれたての人型昆虫は、夜景のように輝いていた。
湿っていた羽を広げて乾かした人型ホタルは、緑色の光を点滅させながら、きちきちと顎を鳴らして顔を上げた。
 気が付くと、全身を熱させていた戦闘衝動が落ち着いていた。カンタロスの体内で、繭は少しばかり安堵した。
女王が死んだことを知って、女王の卵も平静を取り戻したのだろう。ずっとあのままでは、心身が疲れてしまう。
これで、ヘラクレスとベスパに集中出来る。カンタロスが地上を見下ろすと、ヘラクレスはこちらを凝視していた。
夜の暗さを吸い込んだように黒い複眼はカンタロスを睨め回していたが、ヘラクレスは自身の腹部に爪を立てた。

「…ちが、う」

「え? 何、こいつ喋れんの?」

 ヘラクレスが言葉を発したことにベスパが驚くと、ヘラクレスはベスパに向いた。

「これも、ちがう!」

『いけません、クイーン!』

 脳内に響いたベスパの注意も空しく、ヘラクレスの放った拳はベスパの胸部に埋まって紙屑のように弾いた。
胸部への衝撃の後に背後にも衝撃が訪れ、壁に当たったのだと解る。ベスパはずるりと滑り落ち、咳き込んだ。

「つか、あいつ、脳みそなかったはずじゃ…」

 混乱しつつもねねが訝ると、脳内ではベスパも混乱した言葉を返してきた。

『私もそう認識しているのですが、ああ、何がどうなっているのか…』

 ヘラクレスは、完全に制御されているのではなかったのか。ベスパは非殺傷対象に設定されているはずでは。
だが、現にヘラクレスはベスパを殴ってきた。理不尽な出来事に怒りが湧いてきたが、まだ体に力が戻らない。
二度の激しい衝撃は、神経だけでなく二つの脳にもショックを与え、それがねねの脳内にも流れ込んでいたのだ。
フィードバックされたダメージのせいで、脳震盪に近い状態に陥っているねねは、次第に意識が暗くなっていった。
 ヘラクレスは意識を失ったベスパを眺めていたが、カンタロスを見上げてきた。カンタロスは警戒し、身構えた。
だが、ヘラクレスは攻撃してこなかった。顎を激しく鳴らしていたが、手近な瓦礫を拾ってあらぬ方向へと投げた。
数秒の間の後、渋谷の一角の雑居ビルに瓦礫が突き刺さった。破損音に混じって、人間の悲鳴が漏れ聞こえた。

「これ、で、しずか、に、なっ、た」

 ごき、とヘラクレスは首を鳴らし、カンタロスを見据えた。

「おまえ、は、おれの、じょ、おう、だ」

「…へ」

 カンタロスが自分を指すと、ヘラクレスはごりごりと顎を擦り合わせた。

「ちが、う。おまえの、なかの、じょ、おう、だ」

「え、でも…」

 カンタロスは、触角に触れる空気に混じるフェロモンを感じ取った。ヘラクレスからは女王の匂いが零れている。
それも、桐子の匂いだ。恐らく、首を切られて死んだ桐子の胴体から摘出した女王の卵でも入れてあるのだろう。
だから、桐子の卵が放つフェロモンに魅了されていて、ヘラクレスは繭に対しては反応しないはずではないのか。
だが、現にヘラクレスは繭を女王と呼んだ。カンタロスの操縦を一瞬忘れた繭は、ヘラクレスの複眼を見つめた。
カンタロスのそれとは違った、独特の光沢がある黒。巨躯を揺らしながら上体を反らした甲虫は、咆哮を放った。
 肉食獣のそれとも、草食獣のそれとも、人間のそれとも懸け離れた、虫の放つ声。胸郭を揺さぶって放った声。
鳴かないはずのカブトムシが作り出した叫びはびりびりと空気を痺れさせ、無数の人型ホタルの動きすら止めた。
カンタロスですらも動きを止めていた。繭が我に返って攻撃に移ろうとした時、ヘラクレスの巨体は飛び上がった。

「おれ、の!」

 頭を下げて突っ込んできたヘラクレスのツノが、寸でのところで体の軸をずらしたカンタロスの脇を貫いた。

「じょ、おう、だ!」

 ぎちぎちっ、と中左足の根元の膜を引き裂いた胸部のツノは、カンタロスの体液を雨粒のように飛び散らした。
ヘラクレスの頭部に押し出される形で突き上げられたカンタロスは、舞い上がり、羽を広げる余裕などなかった。
零れ出す体液と抜けきらない打撃の重みに負け、落下していくカンタロスに、ヘラクレスは更なる追撃を加えた。
組み合わさった二つの拳がカンタロスの胸部を思い切り抉ると、加速の勢いが数百倍に増し、黒い流星と化した。
砕けたアスファルトにカブトムシ型の大穴を作り、後ろ半分の体を埋めたカンタロスの上に、ヘラクレスは跨った。

「よこ、せ」

 度重なる打撃で無意識に開いてしまった胸部の外骨格の隙間に、ヘラクレスの分厚く太い爪が押し込まれた。
びぢびぢ、と傷が塞がったばかりの膜が切り裂かれ、体液が散る。カンタロスは声を出そうとするが、出なかった。
自分の能力を遙かに超えたヘラクレスの力に、生まれて初めて畏怖していた。体の芯が凍えるような感情だった。
そして、逆らえぬまま、胸部の外骨格が強引に開かれ、内臓の隙間から気を失いかけている繭を引き摺り出した。

「おれの、じょ、おう、だ!」

 ヘラクレスは誇らしげに繭を掲げ、猛った。そして、大きく顎を開くと、その中に体液に濡れた繭を滑り込ませた。
カンタロスの顎の数倍はあろうかという顎の奥に、青い体液を滴らせた小柄な少女が入り、どぶん、と落下した。
その水音に、カンタロスは触角をびんといきり立てた。食道の真下は当然胃だ、そんな中に繭を入れてしまえば。
人型昆虫の胃液は強力だ、人間を消化するために必要な時間は一時間もない。小柄な繭なら、もっと早いだろう。
なぜ腹を開いて入れないんだ、と驚愕と戸惑いでヘラクレスの胸部の外骨格を窺ったが、切開された痕跡はない。
ヘラクレスは女王の卵を宿した少女を手に入れたはいいが、女王を我がものにする方法を知らなかったのだろう。
体は巨大、力は強靱だが、知能があまりにも低すぎる。改造されていない人型昆虫でもそれぐらいは解るはずだ。
だが、カンタロスにはヘラクレスを罵る余裕はなかった。訳の解らない感情の揺れが、全ての足から力を抜いた。

「女王」

 いや、違う。

「繭」

 ここまで来て、彼女を失うのか。繭はカンタロスの女王だ。カンタロスが繁栄するためには、不可欠な存在だ。
彼女が死んでは、その胎内の卵までもが死んでしまう。いや、違う。卵が死ねば、繭までもが死んでしまうのだ。
 ヘラクレスに対して感じた畏怖とは違う、冷たいものが心中を満たした。氷のように厳しく、鉛のように重たい。
繋ぐ先を失った神経糸が腹の中で遊び、揺れる。本能とも、疑似感情とも異なる別のものが、カンタロスを襲う。
ただでさえ暗い視界が暗転し、背中に触れるアスファルトの感触が消える。全身の痛みすらも、鈍っていった。
 戦わねばならない。繭のために。立ち上がらねばならない。女王のために。誰よりも強くなければならない。
他でもない、己の遺伝子のために。だが、そのどれもがカンタロスを奮い立てるほどの力は持っていなかった。
 女王を喰った巨体の勇者が、夜空に吼えていた。





 


09 2/25