純情戦士ミラキュルン




第二十三話 絡み合う陰謀と欲望! 蠱惑のアラーニャ!



 四十五年前。アラーニャは、荒井久仁恵として生まれた。
 久仁恵は地方の山村で生まれ、上にも下にも多くの兄弟がいたが、久仁恵は兄弟達と遊んだことはない。 幼い頃から、久仁恵は兄弟達から引き離されて育てられ、住んでいる場所も違えば食べさせられるものも違った。 親兄弟は大きく広い日本家屋に住んでいたが、久仁恵はいつも薄暗い土蔵に入れられ、外には出されなかった。 外に出るのが許されるのは親兄弟が出払った時だけであり、留守番の人型チョウの小間使いに遊んでもらった。 後から思えば、座敷牢だったのだろう。親戚である天童家の家人に両親がひどく怒鳴られてからは、久仁恵は家族と 家で暮らすようになった。それでも距離を置かれていて、他の兄弟は広い部屋をあてがわれても久仁恵は納戸の ような部屋に入れられた。村の子供達も久仁恵には近付こうともせず、一緒に遊ぼう、と駆け寄っても逃げられた。
 ある程度年齢を重ねると、全ての意味が解った。村には古くから言い伝えがあり、荒井家はその中心にあった。 何百年も大昔、荒井家の祖先である武将が落ち延びたが、武将を恐れた村人達は近付こうともせずに放置した。 武将が戦の傷と疲労で死にかけていると、美しい娘が声を掛けて、村の離れにある小屋に連れて帰ってくれた。 甲斐甲斐しく世話をされたおかげで武将は息を吹き返したが、村人達は武将だけでなく村娘までもを恐れていた。 そして、ある日、恐怖に駆られた村人達は篝火を焚いて娘の小屋を囲み、火を放って小屋もろとも殺そうとした。 武将は娘を連れて逃げようとしたが火の手が回り、最早これまでか、と武将が覚悟した時、娘の形相が変化した。 色褪せてはいたが値打ちものの着物を破って八本の足が伸び、瞳は八つに増えて、巨大なクモへと姿を変えた。 娘の正体は山に巣くうツチグモだったのだ。ツチグモは武将を背負って火の手を逃れ、村人達に呪詛を吐いた。 わらわは御武家様の子を孕んでおる、三ヶ月後には生まれよう、わらわの呪いを逃れたくば我が子を育てろ、と。 それから三ヶ月後、クモとも人間とも付かない赤子が村の外れに置かれ、村人は呪いを逃れるために育てた。 そのツチグモと武将の末裔が荒井家であり、時折ツチグモの呪いが具現化した忌み子が生まれるのだそうだ。
 久仁恵はその忌み子だった。言い伝えがどこまで本当なのかは解らないが、能力を持っていたのは確かだ。 だが、それはツチグモの呪いなどではなく、人外の家系で突然変異のように生まれる怪人に過ぎないのである。 けれど、何百年もツチグモの呪いを信じ込んできた村にとっては、怪人ではなく呪われた忌み子でしかなかった。 祭事の時は祭り上げられるが、それ以外は邪険にされ、学校に通うようになっても教師すらも近寄らなかった。
 閉塞的で排他的な世界だった。だが、子供だった久仁恵は村の外に出ることも出来ず、耐え抜いていた。 そうすることで皆が平和になるのだ、と信じて、どんなに理不尽な言葉を浴びせかけられても石のように黙った。
 高校に進学しても久仁恵は自分自身が何者なのか掴めないままで、息を潜めて気配を殺して生きていた。 村の子供が数多く通っている高校に通ってしまったせいか、村の中にいる時と変わらぬ扱いを受けてしまった。 少し無理をして村から遠い高校に通えば良かったのだが、その頃の久仁恵はそんなことは考えつかなかった。 高校では久仁恵に親しげに話しかけてくれる生徒が何人かいて、普通に接してもらえる喜びを知ることが出来た。 しかし、久仁恵と友達になろうとする生徒がいると、すぐに村の子が久仁恵は妖怪の忌み子だと教えてしまった。 そのせいで、友達になりかけた生徒が久仁恵から離れてしまい、結局久仁恵は孤立して誰にも馴染めなかった。 クラブ活動を始めてもそれは変わらず、卒業するまで久仁恵は一人きりで過ごし、卒業式を終えても一人だった。
 高校を卒業してすぐに、久仁恵は上京した。というより、厄介払いをするために親兄弟から追い出された。 アパートを借りられる程度の金を渡されたが、本当にそれしか出来ず、久仁恵は必死になって仕事を探し回った。 なんとか仕事を見つけるが、所詮は高校卒業したての小娘なので要領が悪く、一ヶ月もしないでクビを切られた。 次の仕事を見つけても、やはり長続きしなかった。頑張ろうとすればするほど空回りして、疲れ果ててしまった。 久仁恵は自分が人間だと思っているのだが、傍目から見れば巨大なクモなので、接客業からは特に敬遠された。 食うや食わずの日が続き、家賃が滞納してアパートを追い出されて、夜逃げ同然に引っ越した時もあったほどだ。
 そして、久仁恵は夜の仕事を始めた。寮のあるパブに目を付け、条件の善し悪しなど気にせずに面接を受けた。 そこでもまた、久仁恵は何度も弾かれた。怪人の女と酒を飲みたがる男がいるわけがないだろう、とも言われた。 けれど、僅かな貯金も尽きて頼れる相手もいなかったので、久仁恵は必死に面接を受け続けてようやく雇われた。 そのパブには人外の女性がホステスとして多く勤めていて、ママもどちらかと言えば怪人寄りの人外だった。 世の中には人間よりも人外を好く男がいるのでそれなりに需要はあるらしく、久仁恵にも固定客が付いてくれた。
 その店で、久仁恵は五年程度勤めた。怪人である久仁恵をまともに扱ってくれたのは、ここが初めてだった。 猛毒を滴らせる牙も蛋白質の範疇を超えた強度の糸も恐れられず、若い女の子らしく振る舞うことを覚えられた。 おかげで、何をするにもぎこちなかった態度も緩むようになり、今までの反動でお喋りで世話好きな性格になった。 親兄弟や友達になりかけた相手にしてほしかったことを叶えるかのように、同僚や客に事細かに世話を焼いた。
 辛いことも多かったが、充実した日々だった。


 けれど、ようやく手にした居場所は、砂上の楼閣よりも脆かった。
 久仁恵はカウンターに突っ伏して足先で汗の浮いたグラスを小突いたが、氷は溶けきっていて鳴らなかった。 泣きたくてたまらなかったが、生憎、クモの目からは涙は出ない。八つの単眼を擦っても、表面が痛むだけだった。 胸が押し潰されそうなほど苦しく、防御力と柔軟性を備えた外骨格は何の役にも立たないのだと思い知っていた。
アパートには戻りたくなかった。あの男の残り香があるような気がするし、店にいられるのも後少しだけだからだ。
 心から惚れた男がいた。妻に逃げられ、順調だった事業も傾いてしまったという、寂しげな横顔が印象的な男だ。 久仁恵は酒を注ぐことよりも話を聞くことが重要な仕事だから、その男が来ると隣に座り、彼の話をじっくり聞いた。 そのうちに、その男の寂しさや空しさを埋めてやりたくなった。店を閉めた後、二人きりで話し込んだこともあった。 次第に久仁恵は、この人には私がいなければダメなんだ、と思うようになり、男をアパートに招いて暮らし始めた。 他人と長い時間を共有するのは生まれて初めてだった久仁恵は、舞い上がって甲斐甲斐しく男の世話を焼いた。 男が朝からギャンブルに出掛けても、外で女を買っていても、久仁恵は男の帰りを待って食事の支度をしていた。 好きだと言われたこともなく、大事にされるどころか邪険に扱われたが、誰かが傍にいてくれるだけで充分だった。 孤独が身に染みる暗く夜を紛らわすために飲んでいた余計な酒も飲まずに済むようになり、眠りも深くなっていた。
 そんな時、男から金を貸してくれと頼まれた。それまでも小遣いをせびられて、生活費を割いてでも渡した。 新しく事業を立ち上げたら倍にして返す、と懇願されたので、久仁恵はその言葉を信じて男に経営資金を渡した。 だが、金を受け取った途端に男は姿を消して、久仁恵の手元に残ったのは借金の連帯保証人契約書だけだった。 いつのまにか久仁恵が大切に積み立てた貯金も使い込まれていて、ささやかな心の平穏の代償には大きすぎた。

「おや」

 軽やかなベルの音が響き、ドアが開いた。

「あらぁん……」

 久仁恵が気怠く身を起こすと、常連客であるオオカミ獣人の老紳士が顔を覗かせた。

「今日はお休みかね?」

「ごめんなさいねぇん、閉めるのを忘れちゃったのよぉ」

 久仁恵はカウンターから立ち上がり、中を示した。

「でもぉ、良かったら飲んでいってぇ。今日はお金も取らないわぁ」

「店を閉めてしまうのかい?」

「えぇ……」

 久仁恵はカウンターに入り、老紳士がいつも頼むバーボンの瓶を棚から取った。

「お金がなくなっちゃったからぁ。知らない間に借金も出来ちゃったしぃ」

「それは大事だな」

「でもぉ、仕方ないことなのよねぇ」

 久仁恵はロックアイスをグラスに重ねてから、バーボンを注いだ。

「だってぇ、私ぃ……」

 それ以上は言えず、八つの目を伏せた。それまで、自分だけは怪人であることを疎ましく思ったことはなかった。 誰も久仁恵を肯定せず、受け入れることもなかったから、久仁恵だけは己を好いてあげようと思っていたからだ。 けれど、久仁恵が人間だったらどうだっただろう。男も久仁恵を利用せず、寂しい女だと好いたかもしれない。 家族も久仁恵を遠巻きにせず、普通に可愛がったかもしれない。同級生も、若い頃の仕事先の人間達もきっと。 そう思ってしまうと、辛うじて保っていた意地が崩れ、久仁恵はグラスを出すことも出来ずに下両足を折り曲げた。

「怪人ってぇ、なんでこうなのかしらねぇ……」

 久仁恵は冷たいカウンターに外骨格に包まれた頭を当て、毒液が滲み出す牙を押さえた。

「私、他の皆と何が違うのかしらねぇん。強い毒を持っているクモなんてぇ、沢山いるわぁ。強くて丈夫な糸を 出せるクモなんてぇ、もっと沢山いるわぁん。二本足で立ってぇ、人間みたいに動くクモなんてぇ、もっともっといるわぁ」

 親も兄弟も、皆が人型クモだった。だが、その中で久仁恵だけが力を持っていた。

「それなのにぃ、なんで私だけがこうなのかしらぁ……」

 他人に優しくすれば、それだけ優しくされるものだと思っていた。誰かを慕えば、それだけ慕われると思っていた。 しかし、それは幻想だった。久仁恵が尽くせば尽くすほど、皆が皆、都合良く利用されてしまう愚かな女と認識した。 寂しくて寂しくて気が狂いそうだったから、金でも酒でも体でも何でもかんでも差し出して、傍にいてくれと懇願した。 それが愛でも恋でもないことは解り切っているが、一人きりで八本の足を縮めているよりは余程いいと思っていた。

「それは君だけではないよ」

 ハットを外した老紳士は頷き、久仁恵の前のカウンター席に腰掛けた。

「だけどぉ、私は怪人にもなりきれないのよぉ。どうしても、こっち側にいたかったのぉ」

 久仁恵は足先を僅かに震わせ、口元を押さえた。悪の組織に就職する、という選択肢もないわけではなかった。 怪人に生まれたからには怪人らしく生きるべきだ、と思ってみたが、世界征服に対して執着も憧れも起きなかった。 むしろ、地に足が着いた生活をしたかっただから、ごく普通の人間のように働き、生きようと普通の仕事を探した。 だが、挫けに挫けて夜の仕事に落ち着いたが、その仕事までも破綻した。悔しくもあったが、それ以上に悲しい。

「ああ、解るとも」

 老紳士は久仁恵の入れた酒を取り、傾けた。

「しかし、この世界は我らには辛辣であり残酷だ。人のみならず、世までもが、我らに悪を望んでいる」

 からり、と氷を揺らし、老紳士は澄んだ琥珀色の液体を見下ろした。

「この世にあまねく生物は、命が与えられた際に器が与えられる。我らは、その器が並外れた力を持っていただけに 過ぎないのだ。そして、その形相が少々厳ついだけだ。それを総称し、怪人と称すことがなんと乱暴なことか」

 老紳士はバーボンを一口含み、牙の並ぶ口元を開いた。

「そしてまた、ヒーローと称される者達も哀れだ。ただ、力を持って生まれたというだけで、正義と悪に線引きされる のだからな。しかし、その線引きが安直であればあるほど正義と悪は際立ってしまう。そして、一般市民を気取る人間達は 守護される身分であることに驕り、悪を蔑むわりに戦いもしない。正義が栄え、悪が滅ぶことが世界の理だと思い込んでいるからだ」

 普段は穏やかな眼差しが強張り、グラスを握る手にも力が籠もっていた。

「守られたいのならば、それ相応の働きをせよ。ヒーローを尊ぶならば、彼らを労って敬うがいい。だが、それすらもない。 ヒーローはヒーローであるというだけで戦いに縛られねばならないというのに、彼らヒーローの生活は保障されていない。我らとの 戦いは慈善事業であり、職業として認められているわけではないのだ。それが世界の理だとは、ふざけた話ではないか」

 老紳士は酒を多く含み、飲み下した。

「平穏、平和、平常、平静、平等を謳うのならば、なぜそのヒーローを平たく扱わん。そして、なぜ怪人と人外の間に線引きを 行うのだ。それこそが諍いの原因だとなぜ解らぬのだ!」

 次第に熱が上がってきたのか、老紳士はジャケットの下から垂れ下がった尻尾を荒く振った。

「怪人とヒーローを正義と悪に分けているのは我らではない、一般大衆と名付けられた集団心理だ! 同種同士であろうとも 差別と嫌悪と侮蔑がまかり通っているくせに、それを正す前に我らに平等を求めている! 正義によって統一された世界!  正義によって平和を得た世界! 正義によって美しく整った世界!」

 カウンターを叩き割りかねないほどの勢いで手のひらを振り下ろした老紳士は、腰を浮かせた。

「だが、いかにヒーローが正義を行使して悪を打ち倒し、平和を成し上げたとしても、人間はその犠牲を忘れて平和に浸りきり、 再び愚にも付かぬ諍いを起こすだろう! そして、社会は歪み、怪人と称される一団が造り上げられてしまう! この数百年の間に、 何度そのような出来事が起きたことか! 見てきたことか!」

 勢い余ったのか、だぁん、と老紳士はカウンターに片足を載せて拳を振り上げ、演説のように叫んだ。

「故に、世界は征服されねばならん! この私、暗黒総統ヴェアヴォルフの手で、そして、悪の秘密結社ジャールに属する 同胞達の力によって! それこそが、真の平等への近道なのだ!」

「……あらぁ」

 あまりの熱の入りように圧倒されてしまい、久仁恵は泣きたい気持ちが引っ込んだ。

「我が名は暗黒総統ヴェアヴォルフ! 悪の秘密結社ジャールを率いる総統にして世界に選ばれし指導者である!  我が信念が悪だと言うのなら、喜んで悪を名乗ろうぞ! ヒーローに縋らねば生きられぬ愚かなる人間共よ、真の安寧を望むならば 我が膝下に下るがいい!」

 大きく両手を広げて宣言した老紳士に、久仁恵は訳も解らずに足先を打ち合わせて拍手の真似事をした。

「御立派だわぁん」

「……つまりは、そういうことだ」

 言い終えてから少し羞恥心が襲ってきたのか、老紳士はカウンターから足を下ろして足跡を拭った。

「でも、そうなったらぁ、素敵よねぇん」

 少し気分が持ち直した久仁恵は、氷が溶けてしまった自分の酒を傾けた。

「そうだ。だからこそ、我らは世界征服を求めてやまないのだ」

 老紳士は口調を元に戻してから、溶けた氷が混じり始めたバーボンを回した。

「そういえばぁ、旦那さんの御仕事って聞いたことがなかったわねぇ。悪の秘密結社の総統さんだったのねぇん」

 久仁恵は味の薄くなった酒を飲み干してから、新しく水割りを作った。

「今は息子が経営しているがね。私は楽隠居だ」

 老紳士は仕立ての良いジャケットの内側から名刺入れを取り出し、一枚抜いてカウンターに置いた。

「これがジャールの連絡先と、私の名だ。君は見るからに力の強い怪人であるから、突っぱねられはせんと思うが、私の名を 出しておくといい。息子も君を無下には扱わんだろう」

「英語……じゃあないわねぇ?」

 名刺を取った久仁恵は老紳士の名を読もうとしたが、読めないので首を傾げた。

「ドイツ語だ。ほれ、君の後ろの棚にあるボトルにも、ドイツ語の札が掛かっているだろう」

 老紳士は久仁恵の背後を見やり、札の掛けられたキープボトルの一本をグラスで示した。

「ティーゲル・アイン」

「あれってぇ、そう読むのぉ? でもぉ、確か、あのボトルを入れて下さったのはぁ、旦那さんのお友達の方でぇ、違う名前 じゃありませんでしたっけぇ?」

「そうとも、パンツァーだ。あっちが本名で、パンツァーというのは言ってしまえば源氏名のようなものだ。彼とはある意味では 同郷でな、息子に総統の座を譲る前は部下だったのだよ」

「それじゃあ、パンツァーさんは今もジャールにお勤めなのねぇ?」

「そうだ。大戦中の昔話が通じる相手は兄弟以外では彼だけでね、なかなか重宝しているのだよ」

 老紳士はグラスの中身を飲み干すと、カウンターに置いてから立ち上がるとハットを被った。

「私の名はヴォルフガング・ヴォルケンシュタイン。世界征服に興味がおありなら、是非とも連絡してくれたまえ」

「ありがとう、ヴォルフガングさぁん」

 久仁恵が見送ると、老紳士、ヴォルフガングは笑みを向けてから店を後にした。

「そう、悪の秘密結社ねぇん……」

 名刺を見つめ、久仁恵は八つの目を瞬かせた。普通に生きていけないのならば、普通を作り出せばいい。 だが、考えるほど上手くいくものでもない。悪の秘密結社を名乗るからには、ヒーローと敵対しなければならない。 久仁恵が過去に知った悪の組織は、人間を傷付けることを目的とした戦いをしていたが、彼の場合は違うようだ。 怪人と人間の間に横たわる壁を取り払わんがための戦いであり、その中にはヒーローも含まれているようだ。 しかし、暴力と権力による純粋な世界征服を望む怪人や悪の組織に理解されることではない、と思ってしまった。 端から見ればただの夢物語で妄想に近い理想だが、久仁恵はヴォルフガングの力強い演説が忘れがたかった。
 怪人は怪人に過ぎないのではなく、怪人は怪人であるというアイデンティティを認めた上での持論だったからだ。 怪人イコール悪、というわけでもなく、怪人だからこそ悪にならざるを得ない、という考え方を聞いたのは初めてだ。 そして、ヒーローが正義で怪人が悪になるという環境を造っているのは無害を気取っている人間、という理論も意外だ。 ヴォルフガングは、怪人の存在を正当化しているのだ。それだけでなんだか嬉しくなって、久仁恵は笑った。

「うふふふふ」

 もう少しだけ、頑張って生きてみよう。男のことも金のことも忘れれば、やり直せるかもしれない。

「あらぁん」

 からんころん、とベルが鳴ったのでヴォルフガングが戻ってきたのかと思ったが、人型戦車が入ってきた。

「いらっしゃあい。でも、この店、もうちょっとしたら閉店するのよぉ」

「ああ、知ってらぁ。今、そこで大旦那様から聞いたんでな」

 戦車怪人、パンツァーは久仁恵の背後の棚を指した。

「俺が入れたの、あるだろう」

「はぁい、これねぇん」

 久仁恵が名札の付いたボトルを手渡すと、パンツァーはそのまま口に付けて一気に飲んだ。

「いいわよぉ、持って帰ってくれてもぉ。蒸発させちゃうよりはマシだわぁん」

 久仁恵が微笑むと、パンツァーはボトルを口から外し、底に一センチほど残してカウンターに置いた。

「取っておけ。また後で来らぁ」

「はぁい、またいらしてねぇん」

 ドアを開けて出ていったパンツァーの背を見送った後、久仁恵は彼の名札が掛かったボトルを棚に戻した。 どんな意図で酒を残したのかは解らないが想像するだけで気分が良くなるので、久仁恵はそのボトルを眺めた。 鋼鉄製の口で噛んだからか、ボトルの口にはざっくりと深い傷が付いていて、キャップの締まりが悪くなっていた。 ようやく読みが解った名札をついっと足先でなぞってから、久仁恵は氷が溶けつつある水割りをゆっくりと傾けた。
 久し振りに、気持ち良く酔えそうだ。





 


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