純情戦士ミラキュルン




悪事には愛を添えて



 命ある者は、総じて水気を多く含んでいる。
 外骨格に覆われているために乾いたように見える人型昆虫や虫系怪人も、身の内には内臓と体液を宿している。 パンツァーもそれを知らないわけではない。神聖騎士セイントセイバーとの戦いでは、一度彼女の体液を目にした。 芽依子が変身したセイントセイバーの手で、アラーニャは足を一本千切られ、一本を千切られかけていたからだ。 紫と赤と黒が毒々しい外骨格とは違い、彼女の体液は空より清浄な青で、その心の清さが現れた色だった。
 今、パンツァーは、その色を目にしていた。アラーニャが横たわっていた布団のシーツには、体液が染みていた。 医者の腕が悪いわけではなく、まだ脱皮していないから外骨格が再生しきっていないせいだ、と彼女は言った。それ が嘘ではないと解っても、痛々しいことには変わりはない。パンツァーは青い染みに触れたが、乾いていた。時間の 経過が解ると、腹立たしくなった。愛する女が医者に行く事態だったというのに、何もしなかったのだから。

「どうして、何も言わなかった?」

 シーツに付いた体液を隠すようにパンツァーが握り締めると、アラーニャはしどけなく襖に寄り掛かった。

「言えるわけ、ないじゃないのよぉ」

「腹ぁ開くんだから、大事じゃねぇか。若旦那は御存知なのか」

「当たり前よぉ。上司だしぃ、命を預けた御方だものぉ。でも、関わらないでいてくれるわぁ」

「なんでだ」

「だってぇ、気持ちのいい話じゃないものぉ」

「だからって、俺にまで黙っているようなことじゃねぇだろう。それともなんだ、そんなに俺が頼りねぇか!?」

 エンジンどころか全身の部品が焼け付くような悔しさに、パンツァーは過熱して関節から蒸気を噴出した。

「違うわぁ。あなただからぁ、余計に知られたくなかったのよぉ」

 パンツァーの吹き出した蒸気に混じる機械油臭さに、アラーニャは泣き出したいほど安心した。

「だってぇ、私のしていることはぁ、世界征服よりもずうっとずうっと悪いことよぉ。皆、していることだけどぉ、気楽に やり過ごせるようなことじゃないわぁ。だけどぉ、私だけの問題だしぃ、終わってしまえば普通の暮らしに戻れること だからぁ、言わなくてもいいって思ったのぉ」

 この部屋に来るたびにパンツァーの吸うタバコの渋みが付いた襖に、アラーニャは頭を預けた。

「それにぃ、小娘みたいなことを言うようだけどぉ、嫌われたくなかったしぃ……」

「馬鹿野郎。俺もお前さんも、今更何を嫌おうってんだ」

 パンツァーはシーツを離してから振り返り、明かりも付けずにいる部屋の主に向き直った。

「そうだろう、久仁恵」

「やだぁ、もう……。そういうの、反則よぉ……」

 弱っている時に本名で呼ばれては、尚更甘えたくなる。アラーニャ、もとい、久仁恵は肩を震わせた。

「来いよ。過熱しすぎてるかもしれねぇが、寒いよりはマシだろう」

 パンツァー、もとい、ティーゲルに誘われ、久仁恵はその硬い腕の中に体を滑り込ませた。

「ええ、そうねぇ、ちょっと熱いかもしれないわぁ……」

 赤い単眼と赤い八つの目が付いた頭を寄せ合い、外骨格の肌と鋼鉄製の肌を接し、細い足と太い腕を絡める。 彼女が出勤しなかった二日間顔を合わせなかっただけなのに、長く離れていたような錯覚に陥るほど感じ入った。 抱き締めていると、もっと力を込めてやりたくなる。その肢体を包む外骨格が割れかねない腕力で、捕らえたくなる。 だが、実際にはその心身の傷を増やすのが怖くてたまらないから、いつも以上に気を遣って太い腕を回していた。 怪人同士であっても、戦車とクモだ。ティーゲルにはなんでもないことでも、久仁恵には負担が掛かる。
 呼び名を変えたところで、何が変わるというものでもない。日々、怪人として保っている体面が剥がれるぐらいだ。 人ならざる者として生まれ、怪人として生きることを決めて、世界征服という途方もない目標のために戦い続ける。 戦いこそが日常だから疲れることはなかったが、時として、怪人でも誰でもない自分に戻りたいと思う瞬間がある。 怪人なら誰しも抱いているであろう思いを、ティーゲルも久仁恵も抱いていた。だから、小さな取り決めを交わした。 仕事も野望も忘れて恋人になる時は本名で呼び合おうと。他愛もないことだが、初めての大切な約束だった。

「ティーゲルぅ……」

 少女のように細い声を絞り出し、久仁恵はティーゲルに縋った。

「ああ、なんだ」

 ティーゲルは手を伸ばし、久仁恵の八本の足の根本でもある背を優しくさすった。

「私ぃ、私ねぇっ……」

 一息では言えず、久仁恵はティーゲルの硬い胸に牙を立てて顎の強張りを堪え、胸郭を切なく震わせた。

「昨日もだけどぉ、これまでにもずうっと、一杯、一杯ぃ、卵を殺してきたのよぉ」

「それは辛いな」

 久仁恵の牙から分泌される毒液で外装を溶かされながらも、ティーゲルは穏やかに返した。

「百や二百じゃ足りないわぁ。若い頃から、何年も、何十年も、卵が出来るたびに切って出していたのよぉ」

 ティーゲルの外装にずぶりと牙を埋めた久仁恵は、じゅわじゅわと鉄が泡立つほどの毒液を滲み出させた。

「同じクモから一度も精をもらわなかったからぁ、受精卵なんて一つもないって解っているけどぉ、卵の中には生きて いた子もいたかもしれないしぃ、最初から死んでいたかもしれないけどぉ、それでもやっぱりぃ、苦しいのぉ……」

「悪い」

「あなたが謝ることなんてないのぉ、全部私がいけないのぉ……」

「俺の体がこんなんじゃなかったら、きっちり受精させて産ませてやれたかもしれねぇんだ。悪いに決まってらぁ」

「いいの、いいのよぉ」

 久仁恵は太い骨をも一息で断ち切れる顎でティーゲルの溶けた外装を噛み、いびつに歪ませた。

「わ、私だってぇ、もっと若くてぇ、お金もあったらぁ、あなたの子供に出来そうな卵を産みたかったわぁ」

「お前さんは充分若いさ」

「こんな時にぃ、冗談言わないでぇ」

「俺は至って本気だがな」

 ティーゲルは自分の外装に力一杯喰らい付いている久仁恵を撫で、単眼の光を緩めた。

「俺の可愛いお嬢さん。俺はどこをどうやられようが、痛くも痒くもねぇ。だから、好きにしてくれ」

「嫌よぉ、私、こんな……」

 久仁恵はティーゲルの外装から牙を抜き、俯いた際に毒液の雫が外骨格に落ちたが、少しも溶けなかった。

「謝るのは私の方よぉ。ごめんなさい。あなたと一緒になってから初めてのバレンタインだからぁ、凄く楽しみにして いてぇ、色々なことをしようってぇ、思っていたのよぉ。クリスマスの時ぃ、凄く嬉しくて楽しかったからぁ、今度もまた そうしようって思ってぇ、若い女の子みたいにぃ、舞い上がっちゃってぇ。だけどぉ、いつのまにかぁ、今年の分の卵 が出来ちゃってたのよぉ……」

「いいってことよ。俺は、久仁恵さえいてくれりゃ」

「私が良くないのよぉ。今までずっとぉ、憧れていたけど出来なかったことがぁ、一杯あるんだからぁ」

「そりゃなんだ?」

「んんっとぉ、ええっとねぇん……」

 久仁恵は身を捩り、恥じらっていたが、胸郭から発する声量を小さくした。

「デートとかぁ、したいなぁって思っていたのよぉ。だってぇ、私とティーゲルってぇ、一緒に出掛けたことなかったじゃ なぁい? それでねぇ、いかにもって場所に行きたいのよぉ」

「たとえば、どんなだ?」

「それがねぇ、まだ決まってないのよぉ。行きたいところがぁ、一杯ありすぎてぇ」

「んじゃ、一緒に決めようじゃねぇか。その方がいい」

「でもぉ、ティーゲルはぁ、そういうのは得意じゃないでしょ?」

「そりゃまぁな。だが、踏ん張りどころぐらいは解ってらぁな」

 ティーゲルは久仁恵の顎を上げさせ、毒液の残る顎と単眼の下にある口に似た開閉部分を重ね、焼け焦がした。 毒液が作り出した薄い煙が晴れても、ティーゲルは久仁恵を離さなかった。どうせ、どちらも息は詰まらないのだ。 ティーゲルの外装をこれ以上傷めたくないらしく、久仁恵はもがいたが、ティーゲルは力を入れて押さえた。そのうち に久仁恵はティーゲルに抵抗することを諦め、上六本の足を柔らかく伸ばしてティーゲルを包み込んだ。

「次からは、ちゃんと俺に言え。お前さんが落ち着くまで、付き合ってやらぁ」

 愛する女を模したクモのマーキングが付いた砲塔を畳に預けたティーゲルは、仰向けに寝転がった。

「ええ……」

 ティーゲルに覆い被さった久仁恵は、毒液による派手なキスマークが付いた彼の顔を撫でた。

「今までの卵の分もぉ、今年の卵の分もぉ、その次の卵の分もぉ、一緒に悲しんでくれるぅ?」

「俺の感情は、どこかの兵士の意識が金属にこびり付いただけの偽物だ。それでもいいのなら」

 ティーゲルは久仁恵の丸い腹部を縦に裂いた傷跡を、慈しむように何度となくなぞった。

「それに、殺した数だったら俺の方が上だと思うがな。久仁恵と違って、俺が殺してきたのはちゃんと意識を持って 成長しきった人間や人外や怪人だったんだ。そいつらが戦場にいたからってのは、単なる言い訳だ。俺は死にたく なかったってだけで、他の連中を踏み躙って生き延びてきたんだ。だから、これからは俺が卵を殺したと思え。俺の 手は元々鉄臭いし、どれだけ洗ったって今更綺麗になりゃしねぇんだ。つうわけだから、それぐらいのこと、どうって こたぁねぇんだよ。なあ、久仁恵」

「優しい人ねぇ……」

 ティーゲルの単眼に八つの目の付いた額を擦り寄せ、久仁恵は八本の足で戦車の男を抱き締めた。

「でも、そんなに悲しいことは言わないでぇ」

「優しいのはお前さんだ、久仁恵。だから、俺も久仁恵に優しくなれるんだ」

 ティーゲルも久仁恵を抱き締め、金属板を震わせて発する声で出せる限り柔らかな声色を出した。

「怪人にしておくのが勿体ないくらいだ」

 久仁恵がキスを求めてきたので、ティーゲルは互いの口元を軽く触れ合わせてから笑った。

「俺がこんな体でこの世に生まれた理由が、ようやく解ったぜ。お前さんと思う存分愛し合うためだ。これが蛋白質と カルシウムで出来た体だったら、目も当てられねぇことになっちまう。だが、俺は見ての通り鉄の固まりだ。久仁恵の 毒液で外装がダメになったら取り替えりゃいいし、噛まれても痛くもなんともねぇんだから、最高じゃねぇか」

「うふふ、そうかもしれないわねぇ」

「ついでに言えば、味覚らしい味覚もねぇから、久仁恵が作るジャングル行軍みてぇな料理も平らげられる」

「あらぁ、失礼ねぇ。成虫もサナギも幼虫も味が良いしぃ、蛋白源としては最適なんだからぁ」

「つうわけだ。夕飯、なんか拵えてくれや」

「ええ、いいわよぉ。病院帰りに買ってきたぁ、とっておきの虫が冷蔵庫に入っているんだからぁ」

 久仁恵はティーゲルの外装に全ての足先をするすると這わせてから、身を起こした。

「そういえばぁ、先に皆の机に置いておいたチョコレートぉ、食べてくれたぁ?」

「いや、まだだ。奥様から頂いたのがナマモノだったから、それから先に手を付けたんだよ」

「それは残念ねぇ。あなたのはぁ、特に手を掛けたのにぃ」

 さあさあ支度しなきゃぁ、と久仁恵が台所に向かうのを見、ティーゲルは起き上がった。

「まさかたぁ思うが、虫でも入れたのか?」

「それは食べてのお楽しみよぉ、ティーゲルぅ」

 四つの目を閉じてウィンクしてみせてから、久仁恵は冷蔵庫を開け、虫がびっしりと詰まった虫カゴを取り出した。 大人の手のひらほどの大きさがあるバッタが元気良く跳ね回り、その度にばちばちと虫カゴが鳴っていた。先日は 揚げ物だったから、今度は炒めるのだろう。久仁恵はフライパンを出し、軽く洗ってから火に掛けていた。
 ティーゲルは久仁恵の牙と毒で穴が空いて歪んだ外装を、腕力に物を言わせてねじ曲げ、無理矢理元に戻した。 だが、さすがに穴までは元に戻らなかった。自宅アパートに帰ればスペアパーツがいくらでもあるが、この部屋には ない。蛍光灯のスイッチを入れて洗面台を見やると、単眼の下に久仁恵の顎の形そのままの溶けた跡があった。
 愛の証だが、さすがに派手すぎた。




 翌日。久仁恵、もとい、アラーニャは何事もなかったかのように出勤してきた。
 ティーゲル、もとい、パンツァーもアラーニャの部屋から自宅アパートに帰って大急ぎで破損した外装を交換した。 急ぎすぎたので若干ビス止めが緩いような気がしたが、顔と胸に毒液で溶けた跡が付いたままでいるよりはいい。 社内でもアラーニャの休みについて問い詰める者もなく、誰にとってもいつものことなのだとパンツァーは痛感した。 パソコンに向かうアラーニャは、休んでいる間に溜まった経理の仕事を片付けるべく、足を動かしている。その横顔 もいつも通りで、昨日見せた弱さや苦しみは窺えない。彼女なりに、怪人らしい体面を保っているのだ。いつもと違う のは昨日に引き続いてたっぷりあるバレンタインの差し入れで、今日は美花のガトーショコラが出た。
 営業先にこれから訪問する旨を伝える電話を入れた後、パンツァーは美花のガトーショコラを一口で食べた。味が 解らないのはいつものことだが、そう悪くはない気がする。他の面々も普通の味だと感想を述べた。次はアラーニャ のチョコレートだ、とパンツァーは引き出しの中からチョコレートの入った小さな包みを取り出した。手にしてみると、 やけに重たかった。それを不思議に思いながら、パンツァーは包みを解き、チョコレートを囓った。

「んがっ?」

 途端に、がぎん、と物凄い音がしてパンツァーの顎にチョコレート色の異物が挟まった。

「何だ、その音?」

 美花のガトーショコラを大切に食べていたヴェアヴォルフが両耳を立てると、ファルコが首を捻った。

「石でも入ってたんですかい?」

「ええ、そりゃないでしょ? 俺らのは普通のチョコだったし、ねぇ姐さん?」

 カメリーが両目をぎょろつかせてアラーニャに向くと、アラーニャはにんまりした。

「そりゃ、皆のは普通よぉ」

「だったら良かったよ。というか、そうでないと困るしね」

 名護が眉を下げると、レピデュルスがパンツァーに向いた。

「して、その中身は?」

「ん……」

 パンツァーは顎を開いて異物を取り出し、砕けたチョコレートの隙間から覗いた黒い物体を確かめた。

「こいつぁコールじゃねぇか」

「ああ、石炭か」

 道理で、とヴェアヴォルフが納得するが、名護は不可解そうだった。

「相手が相手だから大丈夫かもしれないけど、普通はさぁ、ねえ?」

「うふふふふ、良い考えでしょお? どう、おいしい?」

 アラーニャに期待混じりに問い掛けられ、パンツァーはごきごきと噛み砕いて破片を飲み下した。

「味なんざ解らねぇっつってんじゃねぇか。燃焼効率は悪かねぇけどよ」

「残りも全部石炭だからぁ、大事に食べてねぇん」

 満足げに頷いたアラーニャは、またパソコンに向かった。パンツァーは毒突き、二つめの石炭チョコを囓った。

「言われなくても喰うさ。俺以外に誰が喰えるってんだ、こんなゲテモノ」

「意味のない文句なんて言っちゃって。ねぇん?」

 カメリーが尖った口元を押さえてくすくす笑うと、レピデュルスがストロー状の口を押さえて肩を震わせた。

「ああ、全く」

「ホワイトデーにはどうなることやら、楽しみでやんすなぁ」

 ねえ若旦那、とファルコに話を振られ、ヴェアヴォルフは頬を緩ませた。

「そうだなぁ。俺達も人のことは言えないけどな」

「いいじゃないの、平和でさ」

 アラーニャから気を逸らしているふりをしているパンツァーの後ろ姿に、名護もにやけていた。パンツァーは他の 面々の言い草が気に障ったが、反応すればもっとからかわれるので、聞かなかったことにした。アラーニャはそれ が面白くて仕方ないらしく、声を殺して密やかに笑っている。昨日の落ち込みようが嘘のようだ。一ヶ月後に控える ホワイトデーに何を返すべきかは見当も付かなかったが、その時に考えればいい。どうしても思い付かなかったら、 アラーニャがしたがっているデートをしてやり、出来る限り望みを叶えてやればいい。悲しみを分け合う間柄なのだ から、喜びも分け合うべきだ。そして、いつの日か、同じ人生を歩もうと申し出よう。
 結婚を切り出す勇気が出たら、だが。







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