純情戦士ミラキュルン




ペンは剣よりも強し! 先代暗黒総統ヴェアヴォルフ!



 差し当たって、相談出来る相手といえば一人しかいない。
 そして、こういった時に頼れる相手も一人しかいない。なので、斬彦は迷わずレピデュルスを呼び出した。終業前 にジャールに電話を掛けると、レピデュルスは迷惑そうな素振りも見せずに承諾した。斬彦とレピデュルスは、斬彦 がこの世に生まれて以来の付き合いなので、声の具合だけで察してくれているようだった。なのでレピデュルスは、 大神邸に到着すると斬彦のいる書斎に真っ直ぐやってきてくれた。
 それほど来客のない書斎だが、一応設置してある応接セットのソファーに身を沈め、斬彦は話の切り口を探った。 向かい側に腰掛けたレピデュルスは、今し方芽依子が運んできた紅茶にストロー状の口を差し込んで啜った。原稿 用紙に向かって翻訳したドイツ文学を綴っている時は詰まらないくせに、肝心な時は言葉に詰まった。いや、言葉には 常日頃から詰まっている。紙の上に書くことは得意なのに、それを口にするのが訳もなく苦手だ。この妙な沈黙を どうにかするべく、斬彦は普段はあまり吸わないタバコに手を付けたが、事態は何も変わらなかった。

「旦那様」

 先に言葉を発したレピデュルスは、ティーカップを下ろした。

「また奥様と何かおありで?」

「解る?」

 灰皿でタバコを揉み消してから斬彦が苦笑いすると、レピデュルスは頷いた。

「ええ、解りますとも。旦那様は幼い頃から、誰かと行き違いを起こすと決まって私に意見を求めてまいります。それは 使用人冥利に尽きますし、嬉しゅうございますが、今度はどのようなことがおありでございますか?」

「うん、実はね」

 斬彦は芽依子が紅茶と共に運んできてくれたコーヒーを傾け、酸味の効いた苦みを味わった。

「鞘香を怒らせちゃったんだよ」

「同じ言葉を繰り返すようですが、またでございますか。前回は確か、御旅行の行き先を巡って行き違いを起こして おられませんでしたか?」

「うん。あの時は鞘香がどうしても見たい絵があるから美術館に行きたいって言ったんだけど、僕はそうでもないって 言ったら、拗ねられちゃったんだよ。レピデュルスが間に入ってくれなかったら、きっと旅行は中止になっていたね」

「旦那様は奥様の御趣味に対する理解が薄うございます」

「僕はそのつもりはないんだけどなぁ。美術館だって、別に行きたくないわけじゃなかったんだけど」

「何度となく申し上げておりますが、物には言い方というものがございます」

「そうなんだよ」

 斬彦は頬杖を付き、尻尾を力なく振った。

「僕と鞘香は長いこと一緒にいるんだし、どういう言い方をしたら鞘香が怒っちゃうのか解っているはずなんだけど、 なんというか、口が滑っちゃうんだよね。そんなことを言いたいわけじゃないのに」

「でしたら、お手紙をしたためたらいかがでしょうか。旦那様の得意技でございます」

 と、レピデュルスが原稿用紙が重なった机を示すと、斬彦は躊躇した。

「うん、でもね……」

「旦那様があまり饒舌な御方ではないことは、私めは重々承知しております。内に籠もりがちな方であることも承知 しておりますし、そうした御性格であらせられたおかげで、今の旦那様がおありなのでございます。もしも、旦那様が 活発な御方であらせられましたら、学生時代からドイツ文学に傾倒せず、翻訳家にもなられませんでしたでしょう」

「いつも思うけどさ」

「なんでございましょうか」

「鞘香も、よく僕なんかと結婚してくれたよね。お見合いとはいえ」

 斬彦が立派な骨格の肩を縮めると、レピデュルスは少し笑った。

「またそのお話でございますか」

「だって、そうじゃないか。僕が三十後半になっても身を固めようとしなかったから、父さんがいいとこのお嬢さん方との お見合いを見繕ってくれたけど、僕は女性自体が苦手だから、お見合いをしてもろくなことにならなかったじゃないか。 まともに喋れなかったし、相手の女性と目を合わせなかったし、我慢出来なくなって途中で逃げたこともあるし」

「そうでございましたね。旦那様は、昔からそういう御方でございました」

 レピデュルスはしみじみと呟き、複眼を上げた。

「人前に出ることがあると、何かと言い訳をなさって逃げ出そうとなさいました。御自分の卒業式ですら出席を拒むの ですから、筋金入りでございます。大旦那様も最後には呆れてしまわれて……」

「文句も言わなくなったね」

「さしもの大旦那様といえども、返す言葉も思い付かれなくなったのでございます」

 レピデュルスは紅茶をゆっくりと啜ってから、斬彦を見据えた。

「ですが、今の議題は旦那様と奥様の仲を取り持つことであり、大旦那様との思い出話ではございません」

「うん……」

 斬彦は語尾を弱めて、尻尾を丸めた。黒灰色の毛並みと灰色の瞳の大柄なオオカミ怪人らしからぬ格好だった。 広い背中も丸まり、尖った耳も伏せ気味だ。軍服を着て背筋を伸ばせば、父や息子に引けを取らないというのに。 だが、それが斬彦だ。元来の気の弱さのせいで、二十数年間の暗黒総統時代も目立った活動は起こさなかった。 ヴォルフガングのように率先してヒーローに挑むことはなく、挑まれたら応戦したが、ほとんど勝つことはなかった。 体を成す血の半分は人間だが、純血の人狼族であるヴォルフガングの血を濃く引き継ぎ、姿形も屈強だ。だから、 やろうと思えば肉弾戦で充分通用する腕力と身体能力があるが、使うのは文章具現化能力だけだ。レピデュルスで さえもそれを勿体ないと思ってしまうのだから、ヴォルフガングはさぞや不甲斐なかったことだろう。

「手紙かぁ」

 組んだ手の上に長いマズルを載せ、斬彦は思案した。

「そういえば、僕、鞘香に手紙なんて書いたことあったっけ」

「ございません」

「即答されると、ちょっと傷付くな」

「手厳しいことを申し上げるようでございますが、旦那様の取り柄といえば文章を操ることしかございません。戦いに 用いる技もそれでございますし、生業もそれでございます。ですので、奥様との仲直りにそれを使わぬ術はないかと 存じ上げます」

「でも……」

「四の五の言っている場合ではございません、旦那様」

 レピデュルスにきっぱり言い切られてしまい、斬彦は片方の耳を曲げた。だが、レピデュルスの言う通りなのだ。 鞘香と結婚したのはお見合いで、交際期間はない。鞘香が結婚を承諾した後、トントン拍子に事が運んだからだ。 その間、斬彦はヴォルフガングとレピデュルスに煽られるがままに動き、気付くと鞘香と結婚していた。そして、弓子 が産まれ、剣司が産まれ、鋭太が産まれ、夫婦仲は時折行き違いは起こるが穏やかに進んでいた。それも全て、 鞘香のおかげだ。斬彦は優れた父親と秀でた妻と完璧な使用人に逆らわずに生きていただけだ。子供達に対して 父親らしいことが出来ると思わなかったから、嫌われないようにと甘い顔を見せた。斬彦が苦手なことを放り出して 自分の世界に没している間も、鞘香は家族や皆をまとめようと頑張ってくれていた。ヴォルフガングが前触れもなく 連れてきた芽依子に対しても、態度を変えずに、家族に馴染めるようにしてくれた。斬彦は鞘香の邪魔をしないため に遠巻きに眺めるばかりで、自分が手を出さずに済むことだけを確かめていた。
 そんな鞘香に、何をしてあげただろうか。結婚してからの二十六年、斬彦は鞘香にも嫌われないようにしていた。 今日のように怒られることはあっても、最後には斬彦が平身低頭謝り、鞘香が許してもらうまで待つばかりだった。 このままではいけないと思うことはあっても、何をするわけでもなく、鞘香の顔色を窺っては距離を測るだけだった。 恋人時代などなかったから、手紙の一通も出したことはなく、交換したこともなく、愛情を確かめ合ったこともない。 斬彦は確かに鞘香を愛しているが、鞘香はどうだろう。常に逃げ腰で芯のない男を好いているのだろうか。手紙の 一通も出さずにいたのは、本当のことを知るのが怖いから、ということもある。しかし、一度は出すべきだ。
 小一時間も悩んだ末、斬彦はやっと腹を決めた。




 練り上げたクリームチーズの入ったボウルを置き、鞘香は嘆息した。
 どうせ、夫がリクエストする御菓子は決まっている。だから、今年もレアチーズケーキを作ってやろうと準備をした。 フルーツソースだけは変えようと思っていたので、何が良いかと聞くために尋ねに行ったはずだった。それなのに、 些細なことで苛立ったふりをしてしまった。そんなことをしたいわけではない、だが、恥ずかしかった。いい歳をして 情けない、とは常々思うが、性格の根っこだけは、どれほど年齢を重ねようとも変えようがなかった。
 丹念に混ぜ合わせたマスカルポーネチーズとクリームチーズを、ビスケットを砕いた台を入れた型に流し込んだ。 それを冷蔵庫に入れて冷やし始めて、使った道具を洗おうとしたが、すぐに後悔が襲ってきて手が止まった。

「あー、もう……」

 鞘香は濡れた手をエプロンで拭い、シンクに寄り掛かった。 

「馬鹿みたい」

 鞘香は尻尾をくるりと丸め、毛並みが厚い耳を潰すように両手で押さえた。斬彦には言いたいことがあったのに。
着物を買ってほしい、その時は一緒に付き合ってくれ、と。普段、一緒に買い物に行くことなんて滅多にないからだ。 翻訳の仕事のためとはいえ長々と書斎に籠もっているので、たまには外に連れ出さないといけないと思っていた。 ついでに、仕事に斬彦を取られてしまうのが気に食わない。けれど、それを口には出せなかった。小娘のようだし、 何よりプライドが許さない。これまで斬彦に成り代わって家長らしい態度を取ってきたのだから。家督を長男の剣司 に譲った今でも、鞘香の立場はあまり変わらない。だから、家族の前と言えども態度を崩せなかった。けれど、斬彦 の前ではそうもいかない。あの芯の抜けた物腰で話し掛けられると、訳もなく気を許してしまうのだ。
 戦前からの資産家の次女として生まれた鞘香は、跡取り候補からは早々に外されたが、厳しく躾けられていた。 頭も良ければ要領も良かったので両親や周囲から求められたことは出来たが、自分を押さえすぎるようになった。 だから、好意を持った異性にも近付くことも出来ず、婚期を逃しかけていた時にお見合いしたのが斬彦だった。最初 に会った時は、斬彦の外見に見合わない情けなさに苛立ちを感じたが、話してみると知的な怪人だと知った。悪の 秘密結社が家業なのに世界征服への意欲が薄いのも、荒事を避けて静かに暮らしたがっているからだった。それ もまた、鞘香の気を惹いた一因だった。怪人なのに平和主義者であるという落差が、鞘香の琴線に触れた。鞘香が 斬彦とお見合いをしたのは、実家と親戚の資産を巡る内部抗争に嫌気が差していて、少しでも早く家を出たかった からだった。そして、斬彦との結婚を決意したが、押さえがちな自分を曝け出せる相手だったからだというのも理由 の一つだ。だが、好意を示すのは恥ずかしいので、素っ気ない態度を取るふりをしながら斬彦に気を配っていた。
 なのに、またやってしまった。鞘香はつくづく自分が情けなくなりながら、洗い桶に浸しておいたゴムベラを洗った。 水を張ったクリームチーズの残ったボウルを掻き回して汚れを剥がし、一度流してから、新しく水を入れた。

「あの人はいつもそうなのよ」

 洗剤を付けたスポンジでボウルを擦りながら、鞘香は零した。

「何かあると、必ずレピデュルスを呼び出すのよ」

 それが、たまらなく悔しい。

「そりゃ、私が原因なんだし、あの人は愚痴る相手には最適だけど、だからって」

 当て付けのようだ、と思い、鞘香はぐじゃりとスポンジを握り潰した。

「もう……」

 ただ、斬彦に喜んでもらいたいだけだ。御菓子を作って、おいしいと言われて、君は凄いな、と褒めてもらいたい。 それだけなのに、どうして変なところで食い違ってしまうのだろう。何年も同じことを繰り返しているのに進歩がない。 いい加減にしろと自分でも思うのに、ついつい。情けなくてたまらなくて、鞘香は嘆息した。

「お母さーん」

 キッチンに入ってきた弓子に声を掛けられ、鞘香は慌てて取り繕った。

「何、弓子?」

「どうしたの?」

 弓子は母親の尻尾の丸まり具合を訝ったので、鞘香は尻尾を元に戻した。

「なんでもないわよ。あなたこそ、何か用事?」

「大したことじゃないんだけどさ」

 弓子は耳と尻尾を小さく揺らしてから、気恥ずかしげに尋ねてきた。

「お母さん、今年はお父さんに何をプレゼントするの?」

「何よ、いきなり」

 その予行練習をしていたとは言えず、鞘香は洗い物を背中で隠した。

「物の参考だよ。刀一郎さんにあげる膝掛けはもう編み上がったんだけど、それだけじゃって思ったから」

 ほら、と弓子は見事な手編みの膝掛けを広げてみせたので、鞘香は感心した。

「クリスマスの時にセーターを編んだばかりなのに、よくそんなのを編めたわね」

「だって、時間ならいくらでもあるんだもん。でも、これだけじゃ刀一郎さんに悪い気がして。だからって、作る御菓子が 被っちゃったら良くないかなぁって」

「あなたが作れる御菓子はクッキーだけでしょ」

「う……」

 弓子はばつが悪そうに眉を下げ、膝掛けを折り畳んだ。

「心配しなくても大丈夫よ。今年はお父さんの分は作らないから」

 鞘香は洗い物の続きを始めると、弓子はむくれた。

「えぇー? 私もお母さんの御菓子、食べたかったのに」

「子供みたいなことを言わないの」

「なんだぁ、つまんない。それじゃ、芽依子ちゃんの切れっ端でももらおうかな」

 リビングに戻っていく娘の背に、鞘香は言った。

「食べ過ぎると体重が増えるんだから、後で苦労するのはあなたよ」

「それでも食べたくてどうしようもないんだもん!」

 ますますむくれた弓子は、ばたんとリビングのドアを閉めた。

「いつまでも子供なんだから」

 鞘香は苦笑してから、洗い物を再開した。洗い終えた道具を洗いカゴに乗せ、水を切ってから布巾で水気を拭う。 水分が取れたものから順番に棚に戻して片付け終えてから、鞘香は冷蔵庫を開けた。先程入れたばかりなので、 レアチーズケーキはまだ固まっていない。型に触れてみても、まだ少し生温かった。明日になれば固まるだろうが、 それでもまたバレンタインデーの前々日だ。生菓子なのに、急ぎすぎた。当日に作ったのであれば適当な言い訳を して斬彦に渡せたのだろうが、二日も前では言い訳するにも苦しい。だが、一人で食べるには量が多いし、鋭太や 芽依子にお茶菓子として与えたら、今度は斬彦が拗ねるだろう。となれば、処分する方法は一つだけだ。悪の秘密 結社ジャールに差し入れすれば、彼らが綺麗に片付けてくれる。
 ばつが悪いというだけで、せっかく素直になる機会をふいにするのは惜しい。だが、自分が全て悪いのだ。鞘香は 冷蔵庫の奥深くにレアチーズケーキの型を押し込んで保存容器や皿で隠してから、エプロンを外した。
 今年は、気まずいバレンタインになりそうだ。





 


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