純情戦士ミラキュルン




ペンは剣よりも強し! 先代暗黒総統ヴェアヴォルフ!



 翌日。散歩に連れ出すには打って付けの快晴だった。
 それとは逆に、斬彦の頭は冴えなかった。手紙を送ると決めた後、文面を練ってみたが思うように書けなかった。 夜更かしするつもりはなかったのだが、考え込むうちに時計の針は回り続け、午前三時を過ぎてしまった。それでも 納得するものが仕上がらず、ベッドに入ってからも寝付けず、浅い眠りを繰り返しただけだった。しかし、あまり時間 を置くとせっかくの決心が鈍ってしまうので、上手く出来たと思う部分を寄せ集めて再構成した。けれど、いざそれを 便箋にしたためてみると、やはり疑念が生じる。今すぐ書斎に戻って、書き直してしまいたくなる。試行錯誤の末に それなりの形になった手紙を入れた封筒は胸ポケットに入れてあるが、破り捨てたい衝動に駆られた。だが、ここまで 来ては引っ込みが付かない。斬彦は欠伸を噛み殺しつつ、少し前を歩く妻の後ろ姿を見下ろした。
 ただの散歩だと言ったのに鞘香は着物姿だった。柔らかな栗色の体毛に似合う、落ち着いた黄色の留め袖だ。 帯は黒地にスイセンの模様が入ったものを太鼓結びにしていて、その上に襟を付けた厚いマントを羽織っている。 防寒のためつま先にカバーを付けた草履を履いて、しゃんと背筋を伸ばして歩く姿はいつも以上に凛々しかった。 帯の下から出た尻尾が歩調に合わせて揺れている様子も、きっちりと結い上げた頭部の体毛にも、目を惹かれる。 それなのに、斬彦は寒さと後ろめたさで広い背を丸めて、丈の長いコートのポケットに手を突っ込んで歩いていた。 自分でも情けなさが身に染みていたが、そう思えば思うほど背が丸まり、大柄な体格が縮まっていった。

「散歩と言っても、どこに行くつもりなの?」

 横断歩道で立ち止まった際に鞘香に尋ねられ、斬彦は言葉に詰まった。

「うん、とねぇ」

 正直、何も考えていなかった。手紙を書くことで疲れすぎてしまい、散歩の行く先にまでは気を回せなかった。近所 の公園では、せっかくの鞘香の着物姿が勿体ない。だが、遠出に足りるほどの現金は財布に入っていない。鞘香が 下げている和装に似合うハンドバッグには入っているだろうが、そこまで妻に甘えるのはさすがに嫌だ。だが、ここで 鞘香に行き先を任せては不甲斐なさすぎて余計に怒られる。そう思った斬彦は、辺りを見回した。

「あっち、行こう」

 斬彦が川沿いの遊歩道を指すと、鞘香は素直に従った。

「まあ、無難なところね」

 実際、斬彦もそう思ったから選んだのだから。街路樹が植えられた遊歩道は、土手に沿って長く伸びている。 足場も良く、道程も平坦で、景観もそれなりだ。着物姿の鞘香が一緒に歩いても、なんら問題はない道だろう。
 横断歩道を渡った斬彦は少しだけ鞘香の前に出て歩き出したが、鞘香は歩調を速めて斬彦の隣に並んだ。何が 何でもエスコートされたくないのか、と感じ、斬彦はますます情けなくなって尻尾をだらんと垂らしてしまった。手紙を 渡すためには不可欠な勇気を出すために自信のある行動を取ってみようとしたが、出鼻から挫かれた。これでは、 手紙を渡せるかどうかも解らない。斬彦は太い尻尾を丸めそうになったが、辛うじて真っ直ぐ保った。
 二月初旬とあっては、街路樹の木々は寂しい。葉は一枚残らず落ちていて、歩道にもほとんど残っていない。土手 に敷き詰められた芝生も茶色く枯れていて、緑はない。そのせいか、一層鞘香の着物の色が目に付いた。菜の花 の色だ、と斬彦は思ったが、早すぎないかとも思った。少なくとも、冬物の色ではない。似合っているし、頻繁に着て いるから彼女のお気に入りだとも知っているが、なんとなく引っ掛かってしまった。

「ねえ、鞘香」

 斬彦がそれを問おうと傍らの妻に向くと、鞘香は丸まった尻尾を少し上向けた。

「何よ」

 あ、今日はなんだか機嫌が良い、と斬彦は意外に思った。この調子ならば、手紙を渡しても大丈夫かもしれない。 爪の先程だが勇気が湧いた斬彦がコートの胸ポケットを探った時、土手の向こうから異音が聞こえた。イヌ獣人故 に聴覚の良い鞘香も察して耳を立てたが、彼女が反応する前に斬彦は体が動き、彼女を抱き上げた。

「えっ、あぁっ!?」

 予想もしていなかった事態に鞘香が目を丸めたが、斬彦は一息に跳ねて街路樹の傍の電柱に乗った。とたん、と 革靴のつま先で電柱の頂点を踏み締めてから両膝を曲げて衝撃を和らげ、重心を据えた。軍靴に比べれば靴底 の滑りが良すぎる上に鞘香の体重がある分、加減が違うが、充分どうにか出来る範疇だ。
 次の瞬間、膨大な量の水が土手を乗り越えて出現し、二人の立っていた場所目掛けて襲い掛かってきた。街路樹 の下に堆積した枯れ葉や細かな芝生の枯れ葉を一気に押し流し、アスファルトを豪快に濡らしていった。川の水量 としては有り得ない量で、まるで海の高波だった。斬彦は鞘香を抱え直し、波の発生源に目を凝らした。

「誰だろう」

「ちょ、ちょっと……」

 横抱きにされて戸惑った鞘香が体毛の下で赤面すると、斬彦は大きな手で鞘香の頭を支えた。

「じっとしていて。追撃が来る」

 こんなに怪人らしい行動を取ったのは、何年振りになるだろうか。先日の戦いでも、ナイトメアから守られていた。 跳ね回ったり駆け回るのは得意ではないから、暗黒総統時代でも最前線は怪人に任せて後方支援に徹していた。 翻訳家だからデスクワークが基本だし、自邸にいる時もほとんど動かず、ひどい時には書斎からは一歩も出ない。 そんな生活をしている自分がどこまで戦えるだろうか。鞘香を抱える腕に自然と力が入り、神経が高ぶる。ヴォルフ ガングとレピデュルスから叩き込まれた戦闘技術を懸命に思い出しながら、斬彦は川面を睨み付けた。

「さすがは暗黒総統ヴェアヴォルフ! 俺の攻撃を避けるとな!」

 威勢の良い掛け声を挙げて川面に仁王立ちしたのは、海竜モチーフのヒーロー、豪海神リガンリューだった。

「だが、次はどうかな! この俺が繰り出す波は、俺の心から迸る正義そのものなのだ!」

「……え?」 

 鞘香はきょとんとしてリガンリューを見下ろし、手を横に振った。

「違うわよ、これは先代よ。あなたが戦ったのは、うちの長男よ」

「そうそう。僕はね、二代目。今のは三代目。あ、君はあれか、この前ジャールと戦って負けた……」

 斬彦は説明した後、彼の素性を思い出したので口にすると、リガンリューは身の丈よりも長い三叉槍を構えた。

「問答無用! 必殺、トライデントスプラァアアアアアッシュ!」

 竜を模した黒味掛かった青の鎧を身に付けたリガンリューは、竜が絡み付いたデザインの三叉槍を突き出した。 途端に、リガンリューの周囲が爆発したかのように水柱が立ち上がり、斬彦と鞘香を狙い澄まして放たれた。先程の 技もこれに違いない。斬彦は電柱を蹴ってもう一段高く跳ね上がり、空中で袖口からメモ用紙を出した。

「書きにくいんだよっ、もう!」

 そのメモ用紙をクリップ部分に挟んである万年筆を抜いた斬彦は、手早く書き、その紙を水の奔流に投げた。 さながら竜の如くうねる水流に小さなメモ用紙が没したかと思うと、水は全て消失し、細かな霧となって四散した。

「なぁっ!?」

 リガンリューが驚くと、別の電柱に飛び降りた斬彦は万年筆を口に挟み、用いた言葉を説明した。

「霧の街ロンドン。詩でもなければ文学でもないけど、僕としては名文だと思うんだ」

「あなた、結構器用ね」

 鞘香に感心され、斬彦は嬉しくなって口元を緩めた。

「まあね。一応、総統だったから」

「いっ、今のは俺の集中力が削げただけだ! 断じて貴様の技に屈したわけではない! いいか、見ていろ!」

 リガンリューは三叉槍で川面を切り裂くと、またもや大量の水を持ち上げたが、今度は螺旋状にうねっていた。

「怒れ、大いなる海よ! アングリーウェエエエエエエエイブッ!」

 巻き貝を彷彿とさせる巨大な水の槍が二人を捉え、砲弾の如く放たれると、牙を剥いて威嚇する竜に変貌した。 気圧されてしまった鞘香が短く悲鳴を上げて斬彦のコートを握ってきたので、斬彦は俄然やる気が湧いた。見た目 は派手だが速度も足りなければ破壊力も足りず、あんな短い一文で散るのだから具現化の力も足りない。僅かな 間でそれらを判断した斬彦は、新しいメモ用紙を一枚千切ると、多少躊躇ってから短い一文を書き付けた。

「僕と君とを隔てるのは、途方もない世界の溝!」

 照れ隠しに朗読しながら斬彦が紙を投げ付けると、リガンリューが放った必殺技の手前の空間に溝が生まれた。 アングリーウェイブは刃物で切り裂かれたような溝に食らい付いたが、破るよりも早く飲み込まれ、消え失せた。

「影を好む僕には日差しは痛みを伴い、光を求める君には暗がりは退屈だ!」

 更に書き付けた紙を投げ付けると、リガンリューの周囲の川面だけが暗くなった。

「こんな子供騙しが何度も通用するとでもっ!」

 と、リガンリューは川面を蹴って飛び上がろうとしたが、三叉槍には水飴のように粘る己の影が絡み付いた。

「えっ、なっ?」 

「影は刃を飲み込み、世界への苛立ちを奪う」

 もう一枚、新たに書いた斬彦は、メモ用紙を川面に投げ落とした。

「光は棘となって目を刺し、世界への恐怖を生む」

「うわ何だこれ、てか何も見えねっ!」

 突然目の前に光源が出現し、リガンリューは竜を模したバトルマスクを押さえて川面に突っ伏した。

「冷たい殻は心を守り、活字の海は魂を育み、本の宇宙は限りなく優しい」

 次々に書いて川面に投げながら、斬彦は考え込みすぎて暗記してしまった詩を口述した。

「文字を、言葉を、物語を得るほどに、内なる宇宙は増殖する」

 川の浅瀬で座り込むリガンリューには、無数の本が現れてどさどさと降り積もり、リガンリューは頭を抱えた。

「痛ぁっ、カドがっ、カドが痛ぇ、地味に辛いしこれ!」

「僕の宇宙は限りなく狭く、どこまでも深く、この上なく穏やかだ」

 斬彦がもう一枚書いて投げ捨てると、リガンリューは本で出来た箱に覆い隠されてしまった。

「うっわ何だこれ、図書室の匂いがするー!」

 本の箱に包まれたリガンリューはそれを破壊しようと殴ったが、紙で出来ているのに鋼鉄のように固かった。硬い 表紙が連なった壁が少し揺れただけで、崩れもしない。斬彦は照れが突き抜けて、淡々と詩を書き連ねた。

「僕の宇宙と外の宇宙の隔たりを壊すのは、君の手だ」

 斬彦の腕の中で、鞘香が切なげに目を伏せた。

「けれど、痛みは伴わない」

 一枚、更に一枚。

「滑らかな破壊、心地良い浸食、優しい刃、柔らかな牙」

「あっ、うおっ、あひぃっ、なん、ひにゃあああああ……」

 曖昧な表現を使ったせいでおかしなことになったのか、本の箱の中からはリガンリューの裏返った悲鳴が響いた。 最後の一文をメモ用紙に書き終えた斬彦は、それを川面へと投げ落とそうとしたが、考え直して鞘香に渡した。

「爽やかな北風であり、春を運ぶ日差し。それが、僕にとっての君だ」

「もうちょっと、具体的に言いなさいよ。それと、ドイツ語は解らないって言ったでしょ」

 ドイツ語の一文が書かれたメモ用紙を受け取った鞘香は、目を瞬かせて込み上がったものを誤魔化した。

「ごめん」

 斬彦は謝ってから遊歩道に着地し、鞘香を下ろして立たせてから、万年筆のキャップを填めてポケットに戻した。 メモ用紙が現存しているせいでリガンリューには責め苦が続いているらしく、上擦った悲鳴が漏れ聞こえる。いつもは 具体的なイメージを固めて書いているが、今回は斬彦にも解らないので何が起きているかは不明だった。自分の 内で渦巻く鞘香への感情を表現しようとしたが、これだという焦点が定まらなかった末の半端な詩なのだ。だから、 詩自体の芯も定まらず、文脈も乱れていて、表現もかなり重複しているという、散々な出来の作品だ。だが、攻撃には 充分使えたようだった。僕なりの愛の詩なんだけど、と斬彦は攻撃力の高い自作品に恥じ入った。斬彦は鞘香に 断った後、水気たっぷりの土手を越え、リガンリューの入った本の箱が置かれた浅瀬に近付いた。

「えー、と……」

 びしょ濡れの石に貼り付いたメモ用紙を一枚一枚確かめ、本の箱を作るための一文が書かれた紙を見つけた。 それを慎重に石から剥ぎ取って手の中で擦り潰すと、本の箱が消え失せてリガンリューが浅瀬に放り出された。

「うおっ!?」

 仰向けに姿勢で倒れたリガンリューは後頭部を石にぶつけたが、バトルマスクのおかげで石の方が砕けた。

「こ、この程度のことで、俺を倒したと」

 リガンリューは立ち上がって身構えたが、斬彦が新たなメモ用紙を出して歩み寄ると、途端に逃げ腰になった。

「あう、嘘嘘嘘嘘、ごめん、ほんっとごめん、てかすっげぇごめんなさい!」

「悪いと思っているなら、まだいいんだけどね」

 鞘香との散歩に水を差されたばかりか、怯えさせるとは。斬彦と言えども、多少の怒りを感じていた。

「君、どうして僕を襲ったんだい?」

「お、俺は……」

 ざぶざぶと冷たい水を掻き分けながら後退したリガンリューは、三叉槍を拾い、へっぴり腰で構えた。

「えっと、この街に、ミラキュルンってのがいますよね? あの、ピンクでハートだけどパワーだけはある……」

「うん。僕の息子とその部下達の宿敵だけど」

「俺、自分のこと、そいつよりも強いって思っていたんです。歳も一個上で高三だし、トライデントスプラッシュだって 上手いこと出せば津波クラスのが出せるし、格闘戦だって自信があったんすけど……」

 三叉槍を下ろしたリガンリューは、怒らせていた肩を落とし、項垂れた。

「ジャールの総統のヴェアヴォルフじゃなくて、四天王に負けたんです。いいところまで追い詰めたんですけど、最後 の最後でやられちゃったんです。地元で調子の良いことを言っちゃったから、帰りづらかったってのもあったんです けど、悔しくて悔しくて頭おかしくなりそうだったから、地元に帰らずにジャールの怪人を探し回っていたんです。そこに 現れたのが、あなた方だったんです」

「なるほどね」

 斬彦は万年筆を出してクリップ部分にメモ用紙を挟んで、胸ポケットに収めた。事情が解ると、怒る気も失せる。 勢い込んでジャールに戦いを挑んでみたはいいものの、総統ではなく四天王に負けてしまっては悔しくなるだろう。 突然三叉槍を放り出したリガンリューは、氷のように冷え切った水の中に這い蹲って土下座した。

「本当に申し訳ありませんでしたぁ!」

「解ったのなら、もういいよ。但し、言っておくことがある」

「はいっ!」

 水を散らしながら顔を上げたリガンリューに、斬彦は言った。

「本を読みたまえ。もちろん、取っつきやすいところから始めることが一番だけど、ジャンルや作者に捕らわれずに 興味を持ったタイトルを手当たり次第に読むといい。世界だなんだと言うのもいいけど、まずは他人の世界を垣間 見ておくべきだ。文章というのは、作者の持つあらゆる感性が駆使された、いわば人格と人生の凝縮物なんだよ。 僕達にはそれらが平等に与えられ、触れる機会があるばかりか、自在に受け止めて吸収することが許されている。 素晴らしいものだよ、名文を綴れるほどの感性を持った人物の目を通してみた世界を感じるというのは」

「頑張ってみます! あ、でも、漫画も読んでもいいですよね?」

 親の顔色を窺うように聞き返してきたリガンリューに、鋭太がオーバーラップしてしまい、斬彦はつい笑った。

「あれも立派なものだよ。僕も好きだし、たまに息子の本棚から拝借することがある。でも、程々にね」

「はい! 本当にすみませんでした!」

 リガンリューはもう一度深く頭を下げてから、三叉槍を拾い、川底を蹴って浮かび上がった。

「後日、お詫びに窺います! 御迷惑を掛けて、申し訳ありませんっしたぁー!」

「じゃあ、息子にもそう言っておくよ」

 斬彦が手を振ると、リガンリューはバトルスーツに付いた水飛沫を雨のように散らしながら飛び去っていった。どう やら、海の力を持つ正義の戦士は、正義に対する情熱が溢れすぎているせいで直情的で単純な少年らしい。その 荒っぽさは、人生経験を積めば改善されていくだろう。ミラキュルンへの対抗心も正義への誇りの高さ故だ。だが、 こんなことは二度とごめんだ。斬彦は少し濡れた頭の体毛を払った後、土手を乗り越えて妻の元に戻った。
 遊歩道で待っていてくれた鞘香は、斬彦が戻ってきた途端に駆け寄って、震えの残る手でその袖を掴んできた。 けれど、手は繋ごうとしない辺りに彼女のプライドが現れているので、斬彦は敢えて手を握ろうとは思わなかった。 先程は非常事態ではあったが、こんなに近付いたのはどのくらいぶりだろうか。手紙を渡すのは今しかない。

「鞘香」

 斬彦は袖を掴む妻の手の強張り具合に、自分まで緊張したが、戦闘の高揚が残っているうちに行動に移った。

「はい、これ。手紙、というか、さっき攻撃に使った詩の全文。日本語訳も付けてある」

 鞘香を横抱きにしたせいで若干歪んだ白い封筒を妻に差し出すと、鞘香は斬彦の袖を離し、手を伸ばした。

「だろうと思ったわよ」

 内容で感付いていたが、いざ受け取るとなると。封筒に伸ばしかけた指を伸ばせず、鞘香は耳を伏せた。

「でも、どうして?」

「えー、と……」

 斬彦はあらぬ方向を見上げ、尻尾を力なく下げ、出来る限り妻から目を逸らした。

「どうせ、レピデュルスに言われたからでしょ。私と仲直りしろって。あの人の言うことはいつも正しいもの」

 手を下げて袖の中に隠した鞘香に、斬彦は慌てた。

「違う、そうじゃないよ、確かに相談してそういう意見を出してくれたけど、決めたのは僕で」

「同じことじゃないの。あなたはいつだってそうよ。確かに私は怪人でも何でもないし、あなた達とは違って何の力も ないけど、だからってどうしていつもあの人なのよ? どうして私に直接言ってこないのよ?」

「君と言い合うと、絶対に負けちゃうし」

 差し出した手紙を下げ、斬彦はしょんぼりと肩を落とした。

「それに、また下手なことを言って怒らせたら……」

「言ってくれなきゃ、解るものも解らないじゃない。それに、私だって年がら年中怒っているわけじゃないのよ」

「でも、怒るじゃないか」

「それはあなたがはっきりしないから!」

 鞘香は心中で燻る不安に煽られて声を荒げそうになったが、身を引いて斬彦との距離を保った。

「何をどうしたいってちゃんと言ってくれたら、私だって苛々しないわよ」

「本当に?」

「当たり前よ。だから、次からはちゃんと言ってね。でないと、本当に怒るわよ」

「うん、解った。努力するよ」

 安堵した斬彦は本題を忘れかけたが、改めて封筒を差し出した。

「じゃ、これ。良かったら、返事をくれないかい?」

「その前に、一つ聞いておきたいことがあるんだけど」

 躊躇いがちにその封筒を受け取った鞘香は、丁寧にシワを伸ばしてから、ハンドバッグの中に入れた。

「あなた、今度のバレンタインに何が食べたい?」

「レアチーズケーキ。ブルーベリーソースが好き」

「やっぱり」

 悩むまでもなかったのだとほっとした鞘香が少し表情を緩めると、今度は斬彦が尋ねてきた。

「それじゃ、僕も聞くけど、なんで二月なのに黄色の着物なんだい?」

「……答えなきゃいけない?」

「うん、出来れば」

 斬彦が頷くと、鞘香は安堵とも落胆とも付かない息を漏らした。

「相変わらずそういうことは覚えていないのね、あなたって。私が着る着物にはちっとも興味を持たないし、色も柄も 気にしてくれたことなかったじゃない。でも、これを着た時に一度だけ褒めてくれたのよ。黄色は似合う、って」

「ああ……」

 そういえば、十何年も前にそんなことを言った気がする。斬彦が納得すると、鞘香は先に歩き出した。

「いいから行くわよ! このまま突っ立っていたら、日が暮れちゃうわ!」

「ああ、待って」

 斬彦は鞘香に追い付き、並んで歩いた。だが、今度は鞘香は斬彦の先に行こうとせず、歩調を合わせてくれた。 そればかりか、斬彦の腕に手を掛けてくれた。そっと腕に添えられた指の仕草の頼りなさに、斬彦は心底照れた。 だが、鞘香は斬彦以上に照れたらしく、一言も口を利いてくれなくなった。吹き付ける風の冷たさも紛れてしまうほど 参ってしまった斬彦は、生まれて初めての感覚に戸惑いながら足を進めた。
 今更ながら、妻に恋をした。




 そして、二月十四日。
 妻ではなく、メイドの芽依子が差し入れてくれた紅茶とブルーベリーソースのレアチーズケーキをじっと見ていた。 食べてしまうのが惜しくて、斬彦は手を出せずにいた。食べてしまいたいのだが、食べれば終わってしまう。そうこう しているうちに紅茶が冷めてきたので、先にそちらに手を付けた。しかし、長時間放っておくとせっかくのレアチーズ ケーキが温くなってしまうので、斬彦はレアチーズケーキの皿を取った。

「あれ?」

 すると、ケーキ皿の下に小さく折られた紙が隠れていた。広げてみると、鞘香からの返事の手紙だった。

「酷評だなぁ……」

 その内容に、斬彦は耳をぺたんと伏せた。手紙として贈った詩に対するものだったが、厳しい意見が並んでいた。 もっと情緒的にするべきだの、具体的な言葉を使いすぎだの、言葉が重複しているだの、リズムが悪いだの。

「やっぱり、僕のこと、好きじゃないのかな」

 泣きたい気持ちになりながら斬彦が短い手紙を畳むと、紙がずれ、ぴったりと重なっていた二枚目が出てきた。

「あ、もう一枚……」

 更なる酷評か、とびくつきながら斬彦が二枚目の手紙を広げると、一枚目とはまるで違う言葉が並んでいた。

「どういたしまして。僕の方こそ、ありがとう、鞘香」

 詩を贈ってくれて嬉しかった、一緒に出掛けられて楽しかった、だからまた散歩に行きましょう、次は買い物にも。 そして、守ってくれてありがとう。一枚目よりもいくらか強張った文字で書かれていて、鞘香の緊張が伝わってきた。 それが無性に微笑ましくて、斬彦は弛緩した。何度となく読み返すと、読み返すたびに笑みが込み上がった。妻から まともに示された好意が嬉しくてどうしようもなく、浮ついた気分になりながらレアチーズケーキを口にした。まろやか に甘酸っぱく、滑らかだが濃厚な、愛すべき妻の味だ。これを食べたいがために、随分と苦労した。だが、副産物も 大きかった。妻から送られた初めての手紙を丁寧に折り畳んだ斬彦は、机の引き出しに入れた。
 次は、どんな手紙を送ろうか。







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