南海インベーダーズ




突発的夏季休暇



 懐かしく、嫌な記憶が過ぎった。
 ぎゃあぎゃあと大泣きしながら、誰かを追い掛けようとするが、追いつけずにその場で転ぶ。膝や顔の痛みで 更に大泣きするが、今度は後頭部を強く叩かれる。いい加減にしなさい、あんたが帰るのはこっちでしょうが、あんた みたいな汚い子供に家族なんているわけないじゃない、いいから黙れって言ってるでしょ、ほら、また殴るよ、殴るって 言ってんでしょう、ほうらまた殴られた、泣くから殴られるの、そろそろ学習したらどうなの、なんて馬鹿な子。

「う……」

 頭が痛い、背中が痛い、喉が詰まる。また殴られたのか、と霞掛かった意識で考えていた呂号は、何度追っても 追いつけない相手を求めて手を伸ばした。

「おねえちゃん」

「あ、良かった、起きたんだね」

 すると、聞き覚えのない声が水の入った耳に届き、呂号は起き上がろうとしたが噎せ返った。

「だ……誰だお前は」

「え、あ、うんと……」

 声の主が身動きしたのか、もそもそと重たい音が擦れた。耳に海水が入って音が籠もったせいなのか、それとも 相手の声がひどく籠もりがちなのか、近いはずなのに遠く聞こえた。呂号は舌打ちし、側頭部を叩くが、音の濁りは 取れなかった。それどころか、頭蓋骨から脳内に震動が響いて頭痛が起き、起こしかけた体を倒した。

「あ、えと、まだ無理しない方がいいっていうか……。すぐに引き上げたけど、結構水を飲んでいたみたいだから」

 声の主は若い男のようだったが、語気に力がなく、曖昧だった。 

「それぐらい自覚している」

 呂号は己の声で位置を特定しようとしたが、耳に水が入ったせいで何も解らなかった。ただ一つ感じ取れたのは、 反響したことぐらいだった。となると、島の岩場にある洞窟の中なのだろう。全身隈無く海水に濡れているが、肌を 刺す直射日光はなく、程良く涼しかった。深呼吸して脳内酸素濃度を上げ、神経も落ち着けてから、呂号は上体を 起こした。条件反射でエレキギターを取ろうとしたが、砂浜に放り投げたことを思い出して手を下げた。あれがないと、 どうにも落ち着かない。ずきずきする頭を押さえながら慎重に起き上がると、背中に大きな手が添えられた。

「あ、その、まだ起きない方がいいっていうか」

「触るな!」

 呂号は途端にいきり立って男の手を振り払い、後退った。

「僕に触るな。僕に触っていいのは局長だけだ。それ以外は殺す。絶対に殺す。僕の音で殺す」

「あ、でも、その、足が」

 男は呂号の右足首を指したのか、男の指先から滴った水滴が腫れ上がった足首に落ちた。息苦しさのあまりに 忘れかけていたが、海に落ちる前に右足首を豪快に捻ってしまった。海水を浴びたために体が冷えていたせいか、 腫れの熱が神経に届かなかったらしい。だが、自覚すると、熱く重たい痛みが右足全体に広がった。

「僕の足はどうなっている」

 呂号は自分の右足首に手を伸ばしかけたが、触れるのが怖くて引っ込めた。

「あ、え、でも、それは自分で直接見た方が」

「僕は目が見えない」 

「え、あ、でも、さっきは砂浜を普通に歩いていたような」

「見えなくても音で解る。僕を誰だと思っている。僕は甲型生体兵器だ。中途半端な変異体のお前らとは比べるのも おこがましいほど優れた存在だ。馬鹿にするな」

「あ、そう、君が呂号なのか。まあ、僕は知らないわけではないけど知っているわけでもないっていうか……」

 男はぶつぶつと独り言を漏らしていたが、呂号の足首を見回してから答えた。

「えと、僕の見立てだから不確かだけど、その、大分ひどいよ。倍ぐらい腫れているから、歩けなさそうっていうか」

「僕は自分で歩く。お前の手など借りない。触られたくもない」

 呂号は毒突きながら立ち上がるが、右足に少し体重を掛けた瞬間に激痛が背骨を貫き、悲鳴を上げかけた。

「あの、えと、良かったら途中まで連れて帰ろうか?」

 男は恐る恐る手を差し出してきたが、呂号は意地で直立した。

「黙れ。お前なんか嫌いだ。乙型一号と同等に嫌いだ。大体なんだその喋り方は。苛々する」

「ああ、うう……」

 男は情けなく呻いて、呂号に手を伸ばすか伸ばすまいか迷っているようだった。呂号は磯臭い匂いを振りまく男に 腹の底から苛立ちながら岩に手を付いて歩き出したが、右足は一切役に立たなかった。ただの熱を持った棒でしか なく、グラディエーターサンダルのヒールもへし折れている。少し歩いて足音の反響を確かめ、洞窟と思しき空間の 内部構造を把握しようとしたが、肝心の耳から水が抜けていない。ぼわんと籠もった震動が鼓膜を力なく叩き、まだ 水の中に沈んでいるかのようだ。これでは、洞窟の出口がどちらかすらも解らない。

「おい」

「あ、え、あ」

「おい。そこのお前。僕を連れて外に出ろ。僕は帰る。お前みたいな気持ち悪いのと空間を共有するだけで嫌だ」

「うぅ……」

「おい! 僕の命令が聞こえないのか!」

 呂号は男に向けて声を荒げるが、逆効果だったらしく、男は弱々しく呻いて動かなくなってしまった。泣きたいのは こっちだ、と呂号は唇を歪めながら、冷たい岩に背を預けて座り込んだ。少し痛い思いをしたぐらいで、昔のことを 夢に見てしまうなんて最悪だ。今の自分は甲型生体兵器二号・呂号であり、義理の両親に虐げられるばかりだった 小娘ではない。児童相談所で竜ヶ崎に見初められて、改造手術と訓練を受けて才能を引き出されてからは、完全な 兵器に生まれ変わったのだから。だから、姉のことなど思い出すわけがない。大体、自分には姉なんかいるわけが ない。実の両親の元でぬくぬくと暮らしている、疎ましく憎たらしい生き物のことなんて考えるわけがない。

「あ、あの」

 尻尾を引き摺りながら立ち上がった男は、よたよたと歩いて呂号に近付いてきた。

「これだから他人は嫌いなんだ。助けるならさっさと助けろ。僕を倒すするつもりなら覚悟しろ。足の一本が動かなくとも 関係ない。耳が良く聞こえなくても関係ない。僕の音でお前を殺してやる」

 呂号は精一杯の意地を張るが、唇は引きつった。真夏の南国なのに、全身に海水を浴びて洞窟の中にいるからか、 足元から寒気が這い上がってくる。それなのに、右足首はおぞましく熱を持っている。このまま動けなかったら、 きっとこのミュータントに殺される。どこの誰かは知らないが、変異体管理局に配備されている生体兵器に対しては 敵意を抱いているだろう。これまでの実戦で、それぐらいのことをしたという自覚はある。殺されるのは仕方ない、とは 思えても、怖いものは怖かった。デスメタルの歌詞にある通りだ。

「あ、えと、僕は君を殺すつもりなんてないっていうか、そもそも戦うつもりすらないっていうか」

 男は呂号から少し離れた位置に腰を下ろしたのか、ずり、と尻尾が擦れる音がした。

「だったら何をしに来たんだ。ここは変異体管理局の保養所のある島だ。つまり政府の領海内だ。お前らにとっては 危険区域だ。出頭しに来たわけでもないだろう」

「あ、うん。違うよ。僕の目的は、フィールドワークっていうか」

「なんだそれは」

「あ、それは、ちょっと長い話になるんだけど、いいかな」

「どうせ僕は動けない。お前も攻撃出来ない。聞くしかない。だが簡潔に明瞭に話せ。苛々するんだお前は」

「あ、うん。努力するよ」

 男は膝を抱えたのか、ぐしゅり、と濡れた布地と硬い肌が擦れた。

「あ、えと、僕はその、ミュータントになってから逃げ出して忌部島に辿り着いたんだけど、そこで、忌部島の郷土史 みたいな本を何冊も見つけたんだ。図書室で。旧仮名遣いだったし、カタカナばっかりだし、読み始めたのが近代史 からだったから、ちょっと解りづらかったんだけど、取っ掛かりさえ見つけちゃえば結構面白かったんだ。僕は、数学 とか英語とか物理とか、そういうのは苦手なんだけどさ、歴史は結構好きな部類っていうかでさ。どんな出来事にも 経緯があって、理由があって、結果がある、ってことだから。もちろん、僕が知られるのは本物の歴史の端っこだけ だろうけど、それでも面白いから好きなんだ」

「早く本題に入れ」

「あ、うん、ごめん」

 男は気まずげに声をくぐもらせ、服の裾から滴る海水を絞った。

「え、だから、僕は忌部島の郷土史を読んで、あの島がどうやって成り立ったのかを大筋で知ったんだ。忌部島は、 君は甲型生体兵器だから知っているだろうけど、本土から一千五百キロも南下した位置にある絶海の孤島で、沖縄 からも何百キロも離れているから、普通だったらまず人間なんて住み着かない島なんだよ。同じように本土から 離れている島はいくらでもあるけど、そこまで離れていると本土からの移民なんて来られなくて、むしろ大陸側から の移民が根付いて土着の文化を発展させていたりするんだ。だけど、忌部島に最初に住み着いた人間の名前は、 琉球民族でも幕府に改正された名前でもなくて、なんていうか、普通なんだ」

「普通とはどういうことだ」

「ええと、近代的すぎる、とでも言うのかな。だから、なんかこう、不自然で」

「回りくどい。その名字とはなんだ」

「あ、う。まずは島の名前になっていて、元々島を支配していた一族の名字である忌部。僕が知っている限りでは、 琉球民族でもなければ沖縄でもない名前だよ。徳島辺りだったかな。まあ、遠すぎるわけでもないけど近いわけでも ないから、なんかこう、引っ掛かるんだ。で、もう一つ名字があって。近代的すぎて違和感がある名前なの。竜ヶ崎、 っていう名字。忌部一族から派生した一族で、島の西側の集落に住み着いていたみたい」

「竜ヶ崎?」

 知りすぎている名前に呂号が反応すると、男は頷いた。

「あ、うん。竜ヶ崎。それで、その竜ヶ崎って一族はね、ある日突然生まれているんだよ。ええと、なんだったっけな、 うん、そうそう。天ヨリ來タリシ龍ノ御子 、とか書いてあったんだけど、それらしすぎて、それも変に違和感があって。 龍ノ御子とやらは順当に考えればゾゾなんだろうけど、それにしては島の歴史が普通すぎるっていうか、まあ、常識 で考えれば充分に妙なんだけど……」

「どんなふうに妙なんだ」

「えとね、忌部一族と竜ヶ崎一族は、漁業と農業で細々と暮らしていたんだそうだよ。島の環境からすれば、そりゃ、 当然なんだろうけど、漁業と農業にだけ従事していた人間がある日突然学校を建てるんだろうか? うんと、僕らが 住み着いている廃校は、あれも結構歴史が古くって、明治の始めに建てられたっぽいんだ。それが、当時の政府から 勅令が出てすぐに建てられていて、驚いたことに教師までいるんだ。今の時代も離島に行く教員の数は限られて いるのに、教育者の絶対数も少ない時代にそんなことが有り得るんだろうか、って思っちゃってさ。とすると、その時 既に島の中に教育者になり得る識者がいた、ってことになるんだけど、その前の歴史を辿ると辻褄が合わないの。 忌部一族にも竜ヶ崎一族にも、本土に渡って教員になれるぐらいの教育を受けた人間が見当たらないっていうか。 記録とかを見ると、たまに島の外に出ていった人間はいるんだけど、戻ってきてもそんなことはしていないんだよ。 だから、なんかこう、もぞもぞして。細かいところが変なのが気になっちゃって気になっちゃって」

「そんなことはどうでもいい。というかそれとこの島と一体何の関係があるんだ」

「あ、うん。それがね、その、龍ノ御子とやらが生まれたのが、この島らしいんだよ。だから、その辺の真偽を調べて おこうって思って。納得出来ることがあれば、細かいところの辻褄が合うようになるんじゃないかなぁっていうか」

「それもまた変だ。どうして異星体一号に直接聞かないんだ。そうすれば調べるまでもないだろう」

「あ、うんと、それは、なんか気が引けるって言うか、今のゾゾには関係ないような気がするっていうかで」

「下らない」

 呂号は男の気配を感じるのも嫌で、顔を背けた。昔のことをほじくり返して調べたところで、一体何になるという のだろう。大事なのは、目の前の敵を倒して危機を打破して竜ヶ崎に褒めてもらうことだ。だが、この男を殺してしまう と、竜ヶ崎と関わりのあるものに触れられる機会がなくなってしまう。この男が捜しているものがどんなものかは見当 も付かないが、竜ヶ崎と少しでも通じているものなら、伊号と波号よりも先に触れてみたい。

「連れて行け」

 この男はとてつもなく嫌いだが、竜ヶ崎に関わりたい。呂号が言い切ると、男は驚いた。

「え、あ、でも、下らないって……」

「それはそれでこれはこれだ。僕を連れて行け。僕に逆らうつもりか」

「あ、まぁ、びしょ濡れでケガしている女の子を放っていけるほど冷血じゃないっていうか、まぁ、そのつもりでは いたけど、そう言われるとは思っていなかったから。じゃあ、その、触るけど、文句は言わないでね」

「自分の足で歩けないのだから仕方ない。今回だけだ」

「あ、じゃあ……」

 男は呂号の前に近寄ると、恐る恐る手を伸ばして呂号の肩に触れてきた。ざらりとした皮膚で出来ている水掻きが 張った太い指がレザージャケット越しに肩を掴んでくると、呂号は不気味さで背筋が逆立った。竜ヶ崎の手も少し 冷たいが、この男はそれ以上だ。呂号の肩に腕を回して片足立ちで歩かせるか、いっそのこと抱き上げるか迷って いたようだったが、最終的に呂号は男に抱え上げられた。硬く厚い肌と太い筋肉が濡れた太股を支え、岩の冷たさが 遠のいた。頭のすぐ上では呼吸音がし、薄いものが開閉している。エラなのだろうか。

「ん」

 呂号が開閉する部分をおもむろに手で塞ぐと、男は咳き込んだ。

「ぐぇあっは!」

「やっぱりエラか。納得した。お前は魚なのか」

「あ、いや、違う、サメ、サメ人間。だから、そこ、塞がないで。窒息しちゃうから」

「サメか。だとすればお前は突然変異体三十九号か」

「あ、う、そっちじゃそうなんだろうけど、僕はそこまで立派じゃないっていうか。鮫島甚平って言うの」

「三十九号だ」

 呂号が突っぱねると、頭上で鮫島甚平は曖昧な言葉をぶつ切りに漏らした。だが、言い返すことはなく、大股だが 力のない足取りでぺたぺたと歩き出した。甚平の歩調に合わせて上下に揺られながら、呂号は側頭部を叩いて耳に 溜まった水を出そうとしたが、無駄な努力に終わった。甚平は呂号に話し掛けるかどうか迷っているらしく、エラを 開閉する音が乱れていた。どうせ話題などないのだから会話するだけ無意味だ、と、呂号は唇を引き締め、籠もり がちな音を分析して洞窟の奥へと進んでいるのだと察した。呂号の体重を伴って重みを増した甚平の足音は岩壁 に反響していて、前にも後ろにも音波が逃げていかないからだ。一本道しかないようで、甚平は迷わず進んでいく。 ここで甚平に殺されては誰にも見つけられないな、と、呂号は頭の片隅で考えた。
 それはそれで、悪くない結末かもしれない。





 


10 8/21