南海インベーダーズ




ノー・リモース



 乾いた破裂音と共に、メガネが飛んだ。
 頬を張られた衝撃で、長時間の運転による疲労とは異なる目眩に襲われて真波はよろけた。たたらを踏んだ 拍子に外れかけていたヒールが折れ、空しく転がる。ガス欠寸前のメルセデス・ベンツに寄り掛かると、バックミラー には疲れ果てて化粧も剥がれた女の顔が映る。後部座席に横たわっている伊号は未だ目覚めてはおらず、真波が 掛けてやった毛布もずれていなかった。真波を平手で殴った女性は肩を大きく上下させ、吐き捨てた。

「……あなたには、言いたいことはいくらでもあるけど」

 忌部かすがは赤らんだ手を下げると、真波を睨み付けた。

「あの男の元から、いづるを助けてくれたことだけは感謝します」

 真波は頬を押さえてボンネットに寄り掛かり、俯いた。自宅から逃げ出したままの格好なのか、色褪せた服を身に 付けているかすがは、後部座席に近付いた。最初に伊号の足に触れ、腕に触れ、本物であることを確かめてから、 伊号の顔を穴が開くほど眺めた後、かすがは声を殺して泣き出した。かすがの娘への愛情に溢れた様子を背中で 感じ取りながら、真波はメガネを拾って掛け、ストッキングに走った伝線と引っ掻き傷をさすった。
 民間人の避難所として解放されているスポーツ施設は、どこもかしこも人間で溢れていた。本来は様々なスポーツを 行うために作られたアリーナ内の芝生には数百のテントが張られ、駐車場には車中泊する人々が詰め込まれ、 災害支援のために派遣された自衛官や車両が並び、ボランティアも忙しく働いていた。政府の人間も少なくはなく、 避難してきた住民達に根掘り葉掘り事情を聞こうとする報道関係者をあしらったり、説明を求める民間人の相手を していた。変異体管理局臨時本部であった竜ヶ崎邸が大破した影響で、この避難所に作られた支部に各方面から の問い合わせがひっきりなしに届いているらしく、政府関係者への電話が途切れる瞬間はなかった。膨張した不安が 避難所全体に蔓延し、晩夏の蒸し暑い空気は一層重苦しくなっていた。

「かすがさん。ここにいたのね」

 生気のない平坦な声に真波が目を上げると、声色と違わぬ印象の薄い顔立ちの女が立っていた。

「珪子さん……。いづるが、いづるが」

 感涙に咽ぶかすがが伊号を抱き締めながら振り返ると、女は平坦に言った。

「そう、それは良いことだわ」

「あなたは、鮫島珪子さんですね」

 真波が女の顔と個人情報を頭の中で照合すると、女、鮫島珪子は濁った目を真波に向けてきた。

「ええ、そうです。お久し振りね、一ノ瀬真波さん。あなたから宮本都子さんの寄生虫を渡されて、我利さんの合法的 な殺害を依頼されて以来ですね。もう二度と、お会いすることもないと思っていましたが」

「……ええ、私もそう思っていました」

 真波は珪子を正視出来ず、足元を見つめた。

「あなたが私に命じた通り、私は我利さんに寄生虫を罹患させ、死なせました。その報酬として、次男の受験の必要 経費を賄ってもらいました。私はあなた方の言う通りにしました。なのに、なぜ、長男まで奪ったのですか」

 珪子は踏み込み、真波に近寄る。張り詰めた威圧感に、真波は目を背けた。

「甚平君のことについては、私は関知していません。全て、本家の御前様の独断です」

「私はあの子を愛せはしませんでしたが、憎んではいないんです。まともに育ってくれれば、それで良かったんです。 次男とは違って、私の思う通りにはいきませんでしたけどね」

 珪子は頬が腫れた真波を見、淡々と言葉を連ねていく。

「私は甚平には関心を持てませんでしたし、甚平も私や夫に関心を持ってくれませんでした。それは当たり前です、 私と夫が親らしいことをほとんどしてやらなかったから。けれど、それでいいんです。そんな私達に見切りを付けて、 一日でも早く独り立ちすれば、甚平は自分の思ったように生きられるからです。そうあるべきだったんです。そうする つもりでいたんです。愛せませんでしたけど、生きていてほしいとは思いましたから」

 伊号に声を掛けているかすがを見、珪子の生気のない目はほんの少し光を帯びた。

「かすがさん。あなたには、私は謝る資格もないでしょうね。けれど、私は我利さんが憎らしくて寄生虫を罹患させた わけじゃないんです。私も、あなたと同じように本家の御前様を恐れていたからです。もう一度、あの男の種の子供を 産まされるくらいならいっそ、と、思ってしまったんです。我利さんは私が近付いた理由を悟っていたようでしたが、 抵抗もしませんでした」

「お父さんったら、困った人ね。そんなことをしなくても、帰ってきてくれたら喜んで出迎えたのに」

 かすがが泣き笑いの顔になると、珪子はやや声色を落とした。

「私達の世代で本家の御前様に抗えていたら、こんなことにはなりませんでした。どうして、誰一人、あの男の子供を 堕胎するという発想に至らなかったのでしょうね。それが、不思議でならないんです」

「それは本家の御前様の生体操作が原因です。受胎と同時にホルモンバランスを調節されてしまえば、出産以外の 手段は思い付かなくなるんです。腹の中の子についても同じことが言えます。私達は、単なる器でしかありません。 本家の御前様にとっては、人間でもなんでもないんです」

 真波が苦悩を交えて述べると、かすがは涙を拭ってから真波に向いた。

「だったら、なぜ、今頃になって真波さんは本家の御前様から逃げ出してきたんですか?」

「お恥ずかしい話ですが、私は自分が本家の御前様を恐れていることにようやく気付いたんです。気に入られようと していたのも、娘を……紗波を過剰に憎んだのも、私の母親を疎んだのも、恐怖が根幹にあったんです。なのに、 今の今まで、私はそれに気付こうとしていませんでした。愚かしいことですが、私だけは特別で、本家の御前様から 本当に愛されているって思い込んでいたんです。そんなこと、あるわけもないのに」

 自虐で頬を引きつらせ、真波は寒気が這い上がる二の腕を握り締めた。

「では、真波さんの娘さんは、どうしたんですか」

 かすがに問われ、真波は緩やかに首を横に振った。

「紗波は、御前様に生体部品にされました。あの子は私に助けを求めていたのに」

「あなたは、それを後悔しているのですか?」

 珪子の言葉に、真波は嗚咽を殺して頷いた。そんなこと、ついこの前まで考えたこともなかった。波号を、紗波を、 いかにして愛さないかということばかりを考えていた。我が子を愛すれば自分の中が腐ってしまうような、ある種の 強迫観念に駆られていた。柔らかい部分を見せれば、そこから付け込まれて喰い殺されるような気すらしていた。 子供の頃の自分がそうだったからだ。何が何でも母親を出し抜いて、竜ヶ崎全司郎の妾の地位を勝ち取ろうとして いた。竜ヶ崎全司郎が気に入りそうな生き方をして、竜ヶ崎全司郎が示した通りの学校に進学し、変異体管理局に 入って、竜ヶ崎全司郎の役に立とうと思っていた。本家の御前様に全てを捧げることが、妾の一族に生まれ付いた 自分の美徳だとでも言わんばかりに。だが、そんなことはない。妾だったのは曾祖母で、祖母も母親も真波自身も、 竜ヶ崎全司郎と交わる必要などどこにもなかったのだ。それなのに、自分自身を見失い、道を違えた。
 膝を折った真波は、ひたすらに泣いた。




 都心から出ると、街並みに人の気配が垣間見えた。
 ワンボックスカーの運転席の窓を開け、頭を出した甚平は周囲を見回した。あまり熱心に見ると、付近住民を全員 避難させるために気を割いている自衛官や警察官に見つかりかねないので、すぐに頭を引っ込めて窓を閉めた。 本当は違法だが事が事なので、フロントガラスと運転席と助手席の窓ガラスにもスモークシートを貼り付けている。 おかげで四方が薄暗くて視界は今一つだったが、ほとんど光の差さない深海でも自在に歩き回れる甚平の目には 何の問題もない。問題があるとすれば、視力の方である。水を通してものを見ることが大前提のサメの目は、地上 では近眼気味だ。人間だった頃も近眼だったので勝手は同じなのだが、生憎、サメの顔に合う形のメガネは一つも ない。海中なら水流や音の反射で気配も探れるのだが、地上ではそうもいかない。おかげで運転している間は目を 凝らさなければならず、慣れない運転も相まって神経がすり減ってしまった。

「ええと……」

 交差点の傍にあるコンビニの駐車場に車を入れた甚平は、竜ヶ崎の自室から持ち出した地図と道中の書店から 拝借した地図を広げて見比べた。解りやすい幹線道路や大通りを選んで進んできたが、そろそろ限界だった。細い 裏道に入らないと、目的地である忌部家の分家には辿り着けそうにない。車通りが一切ないので、初心者丸出しの ふらふらした運転でも、煽られたり追い抜かれたりせずに進めていたが、この先は車が通らないという保証はない。 カーラジオからのニュースや家電店の店頭で付けっぱなしのテレビを見て避難区域の範囲も調べてみたが、それは 都心部だけらしく、埼玉県に入ってしまえば避難警報の範囲外だ。だから、一般市民も行き交っているし、自衛隊や 警察が検問を設けているだろう。かといって、歩いていくのはもっと危険だ。検問がなさそうな裏道を探すべく、甚平が 地図と睨み合っていると、後部座席からレザーが軋む音が聞こえてきた。

「あ、起きた?」

 甚平が振り向くと、気怠げに呂号が身を起こした。

「見れば解るだろう。起きた」

「あ、えと、その、運転はなるべく大人しくしてきたつもりっていうかだけど、その、酔っちゃったのなら、ごめん」

「僕は三半規管は強い。だから問題はない。だが喉が渇いた」

 乱れた髪を撫で付けてから、呂号はファスナーを上げてレザーベストの前を締めた。汚いスラングが書かれている タンクトップが見えなくなったので、甚平は安堵した。ドライブの道中に寝入った呂号の様子を窺うために必要以上 にバックミラーを見ていたのだが、その際、車体の振動に合わせて呂号のタンクトップがずれていたのだ。女っ気と いうものを寄せ付けようとしない呂号は十五歳の少女らしからぬ無頓着さで、ブラジャーを付けていない。忌部島 にいた頃は紀乃が付けさせていたのだが、それはその時だけで、素肌の上にタンクトップを着るだけになった。メタル ファッションに合わせた色の濃さなので地肌は透けないし、レザーベストをその上に着ているので多少は隠れているの だが、レザーベストの前を開けてしまえば見えるものが見えてしまう。気にならないと言えば嘘になるが、率先して 見たいとは思えない。呂号に悪いからだ。

「ん」

 スライドドアを開けた呂号は、甚平の尾ヒレを掴んだ。

「あ、あ、ああ、うん、そうだね。うん、僕も付き合うよ」

 動揺した甚平は慌てて地図を折り畳み、作業着の胸ポケットにねじ込んでから、ワンボックスカーから降りた。

「基地内の売店には行ったことがあるがコンビニには行ったことがない。だからどこに何があるのか解らないんだ」

 呂号は甚平の少し前を歩き、ピンヒールの足音を響かせる。だが、その足取りは、以前よりも臆している。それに 気付いた甚平は呂号に追い付くと、呂号は作業着を掴んできた。採光ゴーグルは被っているがヘッドギアを外した 状態の呂号は、音波操作能力の衰えを自覚している。だから、以前は周囲の雑音を遮るために被った上に大音量の メタルを流していたヘッドフォンは外し、カーラジオすらも休憩時間以外は付けさせようとしなかった。インベーダー として戦いに関わるのが遅めだったため、甚平は最盛期の呂号を知らない。だが、日に日にその能力が落ちていく のは、一番傍にいるからよく解る。ベーチェット病に起因した炎症もひどくなり、手足に巻く包帯も数も増えている。

「あのさ、露乃ちゃん」

 来客がいなくとも作動している自動ドアを通り抜けた甚平が声を掛けると、呂号は足を止めた。

「なんだ」

「あ、えと、ついでに包帯とガーゼも、換えた方がいいんじゃないかな。汗も掻いただろうし」

「甚平がそう言うのなら」

 呂号は甚平の作業着を離して、両手を下げた。呂号らしからぬ言葉に甚平は物凄く驚いたが、そういった反応を 示すと機嫌を損ねかねないので、甚平はどぎまぎしながら包帯とガーゼを調達した。陳列棚の値札に書かれている 値段を海上基地内から持ち出した電卓に打ち込んで計算しながら、必要物資を掻き集め、レジに代金を置いた後、 甚平は店内のイートインスペースに呂号を連れていった。ベンチに座らせた呂号の前に膝を付いた甚平は、彼女の 細い足を守っているピンヒールのロングブーツを脱がす。左足の脹ら脛と足首の少し上に巻いた包帯を巻き取り、 ガーゼを剥がそうとすると、炎症の部分から滲み出たリンパ液が染み込んで固まり、肌に貼り付いていた。

「あ、えと、ごめん、痛いかもしれない」

 太い指の尖端でガーゼを抓んだ甚平が先に謝ると、呂号は顔を背けた。

「構わない」

 本当に大丈夫かな、と若干不安になりながら、甚平は呂号の足に貼り付いたガーゼを剥がす。汗混じりのリンパ 液は強張っていて、炎症から引き剥がした途端に赤らんだ真皮が現れた。剥がした瞬間、呂号は唇を噛んでびくっと したが、文句は言わなかった。もう一方のブーツも脱がし、両足の炎症を綺麗に拭いてからガーゼを貼って包帯を 巻き、その次は脇腹、その次は背中、その次は両腕と終えていった。炎症の部分は目に見えて増えていて、呂号の 病状は能力の低下と共に悪化している。汚れたガーゼや包帯をまとめながら、甚平は脂汗を全身に掻いてしまった 呂号にタオルを渡した。呂号は余程我慢していたのか、力を抜くように嘆息してからタオルで顔や首を拭いた。

「辛いのなら、言えばいいのに」

「……辛くない」

 呂号は採光ゴーグルを上げて目元も拭いてから、甚平の影を頼りに視認したらしく、顔を上げた。

「そっか」

 甚平は呂号の傍に腰を下ろすと、ガーゼと包帯と一緒に拝借してきたスポーツドリンクを差し出した。

「手間を掛けさせたな」

 呂号はキャップを開け、スポーツドリンクを一口飲んでから、換えたばかりの太股の包帯に触れた。

「あ、いや、別に大したことじゃないから」

 甚平も同じものを飲みながら、少し笑った。

「嘘を吐け」

「ああ、うう、嘘じゃないのに。露乃ちゃんの方こそ、僕なんかと一緒にいてどうなの? 楽しくは、ないだろうけど」

「楽ではある」

 呂号はスポーツドリンクを少し飲んでから、ベンチに置いた。

「だが甚平にとって僕は紀乃と同じなのか? 違うのか?」

 甚平は早々に飲み終えたスポーツドリンクのペットボトルを、サメ人間故の怪力で握り潰した。

「ああ、ええと、うん、その、あ、う、ん、なんて……いうのかなぁ。同じようだけど、違うっていうか」

 従姉妹相手に抱く身内意識とも、妹のように思っているのとも、根幹が違う。一言で言えば、好きなのだろう。呂号は これまで甚平が接してきた女性達とは違い、甚平を気持ち悪がらないし、嘲笑ったりもしないし、人格そのものを ちゃんと見てくれている。出会った切っ掛けが切っ掛けなだけに、単純に共通点を得られたと思い込んでいるのかも しれない。些細なことでも頼られるのも、呂号が他の面々に弱みを見せたくないだけかもしれない。いちいち名前を 呼ばれるのも、ただ気安いというだけなのかもしれない。忌部島にいた頃はほとんど一緒に過ごしていたのも、視力 の代わりにされていただけかもしれない。恐ろしく上手い演奏を聴かされるのも、甚平が感想も言わなければ文句も 言わないからかもしれない。呂号にとって、単純に都合の良い相手なのかもしれない。そうに違いない、と思おうと すると、分不相応な希望が頭をもたげてくる。呂号は甚平の好意を抱いてくれているのでは、と。

「僕にとって甚平は違う。甚平がいるから戦いたくない」

 呂号は少し汗ばんだ両手を握り締め、唇の端を歪めた。

「局長とも戦いたくない。お前達とも戦いたくない。誰とも戦いたくない。そんなことを思うのは初めてなんだ。だから 僕は甚平に付いてきた。他の連中の生き死には全然気にならないのに甚平がどうにかなったら嫌だと思ったんだ。 今の僕はろくに戦えない。エレキギターは弾けても指向性の音波は発生出来ない。だから僕の力では何か起きたら 甚平を守るどころか自分の身も守れない。戦いたいのに戦えない。だから戦いたくない。……怖いんだ」

 呂号は手探りで甚平の手を見つけると、爪が食い込むほど強く握り締めてきた。

「僕は兵器だ。それなのに今は役に立たない。本当は僕も前線に出て局長と戦うべきだったんだ。それなのに僕は エレキギターを弾いても以前のように音波を操れない。僕はただの人間に成り下がってしまった」

「あ、うん。それでいいんだよ。露乃ちゃんは、これまでずっと戦ってきたんだから。しばらく休むべきっていうか」

「良くない!」

 呂号は突然声を張って甚平に詰め寄ったが、顔を歪めた。

「僕は地上最強の大量破壊兵器だ! 戦わなきゃいけないんだ!」

「大丈夫、大丈夫」

 甚平は背を丸め、呂号を守るように尻尾を寄せる。呂号は甚平の手から自分の手を外し、分厚くざらついた肌に エレキギターの弦の痕が残る両手を這わせてきた。甚平はそれに抗わず、されるがままになる。その手は小さく、 手付きはぎこちなく、呂号の面差しは不安と恐怖で引きつっている。採光ゴーグルを指でそっと押し上げてやると、 その下で大きく見開かれた目は一瞬彷徨ったが、甚平を真っ直ぐに捉えていた。呂号の素顔を目にするのはこれが 初めてではないし、むしろ素顔の呂号と接していた時間の方が長いが、素の表情をしている呂号と向き合うのは 本当に初めてだった。普段は表情も感情も打ち消していて、自尊心の固まりのような言動を取ってばかりで、それで いて内面は寂しがり屋で繊細な、十五歳の女の子。それが呂号であり、斎子露乃なのだ。
 希望が願望に、願望が欲望になってしまう。甚平は自制心と衝動の狭間で揺らいでいたが、呂号の肉の薄い背中 に腕を回した。腕が届いた瞬間、呂号は僅かに身を固くしたが抵抗はしなかった。甚平がぎこちなく引き寄せると、 呂号は甚平の胸ビレから進化したであろう腕の根本に頭を乗せてきた。探っていただけの彼女の手が甚平の牙の 生え揃った口元を探り当てると、呂号は前のめりになって迫ってきた。

「あぁ、えと……」

 呂号の意図を察した甚平が後退りかけると、呂号は唇を尖らせた。

「甚平が不甲斐ないのが悪いんだ」

「あ、ああ、う……」

 それについては一切反論出来ない。甚平はいつも以上にしどろもどろしていたが、恐ろしく長い時間を掛けて言葉 を選び、むくれている呂号の顔を上げさせて目を合わせた。呂号は目の焦点を甚平に合わせようと、尽力していた ようだったが、結局合わなかった。そのいじらしさに甚平は胸が詰まったが、必死で考え抜いた言葉を忘れてしまわ ないうちに決着を付けようと、一度深呼吸した。少々の間の後、意を決し、呂号の頬を水掻きの付いた手で包む。

「僕は、露乃ちゃんが、好きだ」

 考え抜いたわりに普通すぎて情けない。甚平が内心で身悶えしていると、呂号が平然とした口調で返した。

「認めたくはないが僕も甚平が嫌いじゃない。むしろ好きだと思う。もっと早く気付いてくれてもいいものを」

「あー……なんか、えと、ごめん」

 甚平が恐縮して謝ると、呂号は眉根をしかめた。

「全くだ」

「で、その、えと」

 甚平は色の白い頬を火照らせている呂号に尋ねると、呂号は腰を浮かせた。

「あまりまどろっこしくしないでくれ。僕だって恥ずかしいんだ」

「こっ、後悔しない!? だ、だってその、僕、ほら、サメだし! 自分でも顔が怖いと思うっていうか、うん、あ、えと、 エラとかヒレとか牙とかあるから危ないっていうか、せ、性格とかアレっていうか、だから、えと、その……」

 狼狽しながら甚平が壁まで後退ると、呂号は照れ隠しなのか声を荒げて迫ってきた。

「しない! するわけがない! したいしされたい! 局長の時はそう思わなかったのに甚平だとそうなんだ!」

「あ、ああ……」

 そういえば、呂号は竜ヶ崎の手元にいたのだ。甚平が納得と同時に同情心に襲われると、呂号は弾かれるように 身を引いてベンチからも降りてしまった。見開かれてはいるが焦点が定まっていない目は徐々に濡れ始め、呂号は 口元を押さえて震え出した。声を殺して落涙する呂号に、甚平は立ち上がり、抱き寄せてやった。

「あ、うん、大丈夫。僕はね、そういうの、気にしないから」

「でも……でも……嫌だぁああっ!」

 呂号はがくがくと震えながら、甚平に縋り付いた。

「僕は局長のことは好きじゃなかったんだ! 誰かに大事にしてほしかっただけなんだ! お姉ちゃんもお父さんも お母さんもいなかったからだ! だけど違うんだ甚平は違うんだ本当に違うんだ! なのに……僕は……」

 声が嗄れるのも構わずに、呂号は叫び散らした。甚平は呂号を抱き締めたまま、苦しくならないようにとその背中を 優しく撫でてやった。誰から触れられていようと、何をされていようと、呂号は呂号なのに。その思いを伝えたくて、 甚平は呂号の濡れた唇に自分の硬い口元を重ねた。甚平が離れると、呂号は臆した。

「ご……ごめんなさい」

「露乃ちゃんが謝ることなんて、ない」

 甚平が呂号の涙を拭ってやると、呂号は甚平の胸に顔を埋めた。

「嬉しいんだ。だけど嫌なんだ。甚平が初めてじゃないのが。辛くないなんて嘘だ。凄く辛いし……苦しい」

「でも、そんなふうに思うのは、僕が初めてなんだね」

「……うん」

 呂号が恥じらいながら頷くと、甚平は笑みを浮かべた。

「だったら、それだけで充分だよ」

 その言葉で余程安堵したのだろう、呂号は甚平の作業着を引き千切らんばかりに握って泣き出した。その様に、 初めて呂号が年相応に見え、甚平は息が詰まるほど悲しくなってしまった。竜ヶ崎全司郎は、御三家に連なる者達を どれほど傷付ければ気が済むのだろう。虎鉄と芙蓉から自分の父親が竜ヶ崎全司郎だと知らされた時は、薄々 感付いてはいたが辛かった。両親から愛されずに育った理由に納得が行くと同時に、今までは単純に敵としか認識 していなかった竜ヶ崎に生々しい憎悪を覚えた。だが、甚平には紀乃らのような即物的な戦闘能力はない。だから、 御三家に関わる歴史を紐解いて情報を収集し、竜ヶ崎の隙を探り出すしかない。
 忌部島の歴史に興味を持ったのは誰にも知られずに埋没していく過去を知りたかったからであり、暇潰しの手段 でしかなかった。だが、今はそうではない。これは甚平の戦いだ。忌部島にまつわる歴史を紐解き、真実を見定めて 解き明かすのは竜ヶ崎全司郎に立ち向かうための手段となる。それが、生まれて初めて恋をした少女のためにも なるのだから。甚平は泣きじゃくる呂号の顔を上げさせると、今一度、その唇を塞いだ。唇らしいものがない生き物 であるサメなので、牙が触れて呂号の唇が切れてはならないと考えた末、甚平は顎を開いて分厚い舌を伸ばした。 呂号の唇に濡れた尖端が触れると、呂号は電流が走ったかのように硬直した。瞳孔が開きっぱなしの眼球は左右 に揺れていたが、瞼を下げると、呂号は恐る恐る顎を上げて唇を開いた。緊張がそうさせるのか、浅く速めの吐息が 甚平の鼻先に掛かる。甚平はやりすぎじゃないかと危惧したが、呂号の気持ちを無駄にしてはならないと、己の 舌を伸ばして呂号の小さな小さな舌に触れさせた。呂号は甚平の思いを察したのか、唇を少しだけ閉じ、サメ人間 の厚い舌に吸い付いてきた。それは竜ヶ崎に教えられたのか、それとも自分で考えたのだろうか。一瞬、嫌な想像が 脳裏を駆け巡ったが、それを問うのは酷だ。甚平は瞬膜を閉じ、呂号のいじらしい愛撫に身を委ねた。
 愛されるのは、こんなにも心地良いのか。





 


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